82歳からの旅

私の記録

心に栄養を

2013年10月19日 20時36分18秒 | 随筆
             10月19日 土曜日   
 昭和20年頃の、第二次世界大戦後の中学生の時代は野球少年でした。世の中は殺伐としていて、小倉の繁華街には闇市がありました。そこに行けばほしいものは何でも売っていました。
 
 その当時戦争後の中学校に、夏の甲子園野球が復活しました。その頃の娯楽と言えば、野球のほかには、映画を見ること位でした。又映画を見るのは月に一回位でした。
 
 世の中全体が貧しく、田舎で中学校へも行く人はごくわずかでした。8キロばかり離れたところにある、中学校には、自宅から歩いて通っていました。自転車が買えないし、有ってもタイヤがない「タイやにするごむがなかった」そんな時代でした。
 
 中学・高校生時代の私は、50戸ばかりの集落の子供を集めて、野球のチームを作りました。小学生4年生から高校生までのチームでした。学校帰りには村の小学校のグランドで、毎日の様に遅くまで練習をしました。

 土曜日や日曜日には、近くの村のチームと試合をするのが楽しみでした。又スポーツ店が企画して、3~4カ村のチームに呼びかけて、大会をしていました。

 農繁期の忙しい時に、大会があるときは父母には野球のことは知らせずに、子供たちに集合時間に・集まる場所を申し合わせて、こっそりと出て行きました。

 今考えると選手になった子の家には、大変迷惑を掛けていました。良く何も言わずに、出してくれた事と思います。良く幼い子供を集めて遊んだ子供時代でした。

 よく遊び~良く遊んだ子供時代でした.毎日が身も心も満たされて、疲れていたと思います。心と体はさぞかし強く逞しく育った事と思います。

 へ・へ・へ・へへ・・・・・・・・・80過ぎの不良じいさんの回顧録です へ・へ・へ・へへ・・・・・・・・・

 

 
 

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2 コメント

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チトセ妹へ (門司の兄より)
2013-10-20 19:16:52
洋上から門司や下関野の町を眺めて気がついて見ると。
 下関から長府の間は門司のめかりから田浦・そして白野江あたりと見分けがつきません。関門橋が見えて初めて、門司側と下関側の町が解ったのです。

 少しずつブログも書いて行こうと思う。
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私の記憶は薄い時代 (鹿児島の妹)
2013-10-20 09:11:24
私と10歳違うから、就学前の自分の記憶はあまりないのです。(幼稚園もない田舎でした)
野球やマラソンをしていた兄の事は憶えています。

でも小学校に上がってからは、戦後の大変な時代。食べることにも事欠いて、イモばかりはいった麦ごはんがお弁当でしたね。でもとろろ芋がよく回って、芋ほり名人の今は亡き長男の兄が、掘ってきて、夕方はすり鉢でたっぷり時間をかけて。私はすり鉢を抑えているかかりでした。水と醤油を何度も入れながらすり鉢いっぱい擦りましたね。何せ8人家族だったのですから。

末っ子で何かあると泣いてばかりいた私です。源治兄にいつも頭をたたかれて、「すぐ泣くな」と怒られました。

コメントへの反応が早くなりましたね。
でもずっと前のものへのコメントも下さっているので、どうしたらお返事が入れられるか、ちょっと学習してみてください。(今は一番年下の妹が時々リーダー的なことを言うようになりましたよ。事ブログに関してだけですが) 今日はクルージング、いいですね。源平合戦の昔に思いをはせて、楽しい一日になることでしょう。おいしい海の幸も――とほほ  よだれが出そうです。まさかフグは出ないですよね)
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