Truth Diary

風呂の想い出

  ボタンひとつで浴槽にお湯が張れる現代だがが、福島の田舎で育った私の少年時代は風呂を沸かす燃料は山から伐ってきた木を乾燥させ薪として燃やして湯を沸かす薪風呂焚きが手伝いのひとつだった。
 隣町の相馬の民謡 新相馬節の ♪ほろり涙で風呂焚く嫁ごよ〜ナンダコリャヨー 煙いばかりじゃないらしいー♪ を口ずさみながら焚き口から逆流する煙にボロボロ涙をこぼしながら風呂を焚き手伝いした小学生のだった。この哀調溢れる歌詞は子供心にも、姑に辛くされて泣く若い嫁さんの苦労が子供心にもは分かったませた子だった、今の時代とは違い嫁さんには忍の次代だった。

 今は亡くなった祖父が当時田舎には珍しいモダンな風呂を作ってくれた。テッポウと呼ばれる鋳鉄楕円筒形の延焼部に直結した五右衛門風呂しか無いの時代に、我が家の浴槽は四角形で温泉のようにきれいなタイルが張りめぐらされた風呂を作ってくれ自慢の風呂だった。
 思い出は当時80代だった曾祖父から両掌を組み合わせて絞りこみポンプのように湯を飛ばす遊びだった。水テッポウもなにもない昔の子供の遊びだったのだろう
 薪で焚く風呂は 最初のうちは丁度良い湯加減でも炉内の熾火がだんだん熱くして熱くて入っていられなくなる、それを薄めるにも水道が無かった当時の我家では井戸水を汲み置きしてそれで薄めていたが、それが無くなると母屋に向かって大きな声で「水を足して」と叫ぶのだったが、家族の誰も手が離せない時は仕方なく裸水汲みにで井戸まで走る。
 祖父は事故で片足を失くし義足だったが片足に杖を使い水を汲んでは入っていた気丈な人だった事を思い出す。冬庭の雪でうすめた風呂の思い出は懐かしいが、寒さに震えながら酷な生活を恨めしく思った田舎だった。
 高校時代は空手部員だった正月明けの寒い時期の寒稽古が恒例になっており、校舎近くを流れる阿武隈川に腰まで浸かって突きや蹴りの基本技を主将のかける号令に合わせて繰り返す寒稽古を1週間続けた。主将だった私は真っ先に河に浸かり歯の根が合わない冷たさに耐えながら裂ぱくの気合で自分や部員達を鼓舞したものだった。
 河から揚って街中を駈ける時、福島名物”吾妻おろし”が濡れた空手衣をバリバリに凍らせ肌に擦れて痛いのを我慢して部室まで戻つた。
 稽古が終わってほっとして家に戻り風呂に入った途端に体中のアカギレに熱い湯がしみて飛び上がるほど痛かった事は生涯忘れられない。高校生ではまだ何処にも空手部なぞ無かった時代だから我こそパイオニアを気取り、死ぬほどの苦しい荒行に耐えられたのだと今にして思う。
 こうした誰もやらなかった事をやり遂げたという自信が今のの生活のバックボーンになって支えてくれていると感じる事がある風呂に関する思い出だ。
 寒中河に入る寒稽古は今でも、いろんな道場でやられており冬の風物詩としてテレビや新聞ニュースの恒例となって続いている。

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