先日参加した《アジアの現代サーカスの今》
だいたいのことは昨日書いたので,あとちょこっとだけ,最近語られるサーカスについて思うことをさらりと書きたいと思います.
・芸術
そもそも芸術とはなんぞや。。。
例えば大辞泉によると
「特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動」
とあります.
じゃあ美しいとはなんぞや
これもまた大辞泉によると
「色・形・音などの調和がとれていて快く感じられるさま」
「きれいだ」
「りっぱである。見事だ。」
などいろいろある.ようはきれい!とかすごい!って思われるのは「美しい」わけで
それを追求して表現すると芸術.
じゃあもっと分かりやすく
すごい!とか
めっちゃ綺麗で,見とれてしまって,まったく他のものが目に入らなかった
とかもっと分かりやすく言えばいいんじゃ。。。なんて思うわけです.
どこかに《芸術》という言葉に格式みたいなものがあって,サーカスを立派に見せようとして
芸術って言葉が便利に使われてるんじゃないの?なんてひねくれものの私は時々思うんです.
便利で危険な言葉の代表が《芸術》とか思ってます.
なんで危険かっていうとですね,中国では芸術的じゃないって名目で雑技として求められなかった演目ってのも
存在するんです.残忍で悪趣味みたいな感じに言われ,芸術性がないって.
芸術って言葉がよくも悪くも免罪符というか,あいまいでありながらも,一種の宝刀のように使われてて。。。
例えばですね
「これが昔ながらのサーカスで~」って説明のあとに別のものを示しながら
「こういう芸術的なサーカス~」なんて言うと,遠回しに前者の芸術じゃない!ってある意味切り捨ててるんですよね.
私自身「芸術」なんて勉強をしてないのでついていけてないだけだとは思うんですが
そもそもどこぞのえらい人たちが定義したものにはてはまるものが素晴らしい!なんてのは
面白いんかな.
・なんちゃらサーカス
伝統的なサーカス,現代サーカス,近代サーカス,近大マグロ。。。
これもよう分からんし,伝統的とか現代とか
あとヌーヴォーシルク 新サーカスって言葉もよく分からんのですよね~
土曜日のイベントでは木下大サーカスのようなサーカスが伝統的サーカスで~って説明がありましたが
私は思いっきり首をひねってました.
というのもそもそも木下大サーカスだってやってることは今と昔じゃ違うわけです.
どれぐらいこの方が木下大サーカス追いかけてるかは知らないし,さすがに客席の立場でそんなことは聞けませんけどね.
サーカスショーを分類する時に
新とか伝統とかって分け方もあんまり好きじゃなくて。。。と書きながら私も伝統的な雑技とかよく書いちゃうんですけどね.
ただ思うのは
新とか昔ながら ってのは所詮は《今》という基準があっての表現で
100年後には今の新は新じゃないわけです.
今の新が100年後もバリバリ最前線で最新的なポジションでもそれは
いうなれば何年も続く秘伝のたれみたいなものになってるわけで.
こういうのも
「サーカス?あ~子供のころに見たかな~」
みたいな人に振り向てもらうための言葉じゃね?なんてどこかで思うわけです.
なお,雑技でも新雑技って言葉はよく目にします.
新もいいんだけどさ~昔の写真で残ってる技をしっかりと伝承してからにしてくれ~なんて思ってるんです.
・動物
これも土曜日に話題になったものです.
雑技も時代や王朝の方針など様々な理由で持ち上げられたり,抑圧されたりしてきた歴史があります.
なので《野生動物の公演がやりにくい》これだけならなんとも思わないんです.
ただ,今うごく思っているのは
王朝など絶対的な権力者に抑えつけられたなら,反骨精神で細々とでも生き残ろうという気力もでると思います.
単純に誰も見ないから廃れていくってのも,これはこれでしゃあないことかなって思うんです.
ただ今世界で起きているのは全く異質なこと.いうなれば民主主義という世界を覆う悪魔の仕業という背景があると思うんです.
めっちゃ単純化して書くと
世界に100人の観客がいて,うち10人がめっちゃ好き!見たい!!と思ってサポートして
それが独自で生き残れる実力を持っていたとしても,
90人がそれを嫌いで消したい!と思ったら,今の世の中では持続可能な技術でも消されてしまうんです.
そしてそれは《民意》とか《総意》のような圧力でのしかかってくるわけで
それは特定の王朝や個人からされるのとはダメージに雲泥の差があると思うんです.
結果,生き残るものの絶対条件は《嫌う人が過半数に達しないこと》が最低条件になる.
つまんなくない?
と,そんなことをごちゃごちゃ思ってたのでした.
まっただの雑技ファンの独り言ですが,こんな機会でもないと文字にしないのと
書いてると自分の中でも,ここはもうちょい考えてみようとか思えてくるのでいいですね.
だいたいのことは昨日書いたので,あとちょこっとだけ,最近語られるサーカスについて思うことをさらりと書きたいと思います.
・芸術
そもそも芸術とはなんぞや。。。
例えば大辞泉によると
「特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動」
とあります.
じゃあ美しいとはなんぞや
これもまた大辞泉によると
「色・形・音などの調和がとれていて快く感じられるさま」
「きれいだ」
「りっぱである。見事だ。」
などいろいろある.ようはきれい!とかすごい!って思われるのは「美しい」わけで
それを追求して表現すると芸術.
じゃあもっと分かりやすく
すごい!とか
めっちゃ綺麗で,見とれてしまって,まったく他のものが目に入らなかった
とかもっと分かりやすく言えばいいんじゃ。。。なんて思うわけです.
どこかに《芸術》という言葉に格式みたいなものがあって,サーカスを立派に見せようとして
芸術って言葉が便利に使われてるんじゃないの?なんてひねくれものの私は時々思うんです.
便利で危険な言葉の代表が《芸術》とか思ってます.
なんで危険かっていうとですね,中国では芸術的じゃないって名目で雑技として求められなかった演目ってのも
存在するんです.残忍で悪趣味みたいな感じに言われ,芸術性がないって.
芸術って言葉がよくも悪くも免罪符というか,あいまいでありながらも,一種の宝刀のように使われてて。。。
例えばですね
「これが昔ながらのサーカスで~」って説明のあとに別のものを示しながら
「こういう芸術的なサーカス~」なんて言うと,遠回しに前者の芸術じゃない!ってある意味切り捨ててるんですよね.
私自身「芸術」なんて勉強をしてないのでついていけてないだけだとは思うんですが
そもそもどこぞのえらい人たちが定義したものにはてはまるものが素晴らしい!なんてのは
面白いんかな.
・なんちゃらサーカス
伝統的なサーカス,現代サーカス,近代サーカス,近大マグロ。。。
これもよう分からんし,伝統的とか現代とか
あとヌーヴォーシルク 新サーカスって言葉もよく分からんのですよね~
土曜日のイベントでは木下大サーカスのようなサーカスが伝統的サーカスで~って説明がありましたが
私は思いっきり首をひねってました.
というのもそもそも木下大サーカスだってやってることは今と昔じゃ違うわけです.
どれぐらいこの方が木下大サーカス追いかけてるかは知らないし,さすがに客席の立場でそんなことは聞けませんけどね.
サーカスショーを分類する時に
新とか伝統とかって分け方もあんまり好きじゃなくて。。。と書きながら私も伝統的な雑技とかよく書いちゃうんですけどね.
ただ思うのは
新とか昔ながら ってのは所詮は《今》という基準があっての表現で
100年後には今の新は新じゃないわけです.
今の新が100年後もバリバリ最前線で最新的なポジションでもそれは
いうなれば何年も続く秘伝のたれみたいなものになってるわけで.
こういうのも
「サーカス?あ~子供のころに見たかな~」
みたいな人に振り向てもらうための言葉じゃね?なんてどこかで思うわけです.
なお,雑技でも新雑技って言葉はよく目にします.
新もいいんだけどさ~昔の写真で残ってる技をしっかりと伝承してからにしてくれ~なんて思ってるんです.
・動物
これも土曜日に話題になったものです.
雑技も時代や王朝の方針など様々な理由で持ち上げられたり,抑圧されたりしてきた歴史があります.
なので《野生動物の公演がやりにくい》これだけならなんとも思わないんです.
ただ,今うごく思っているのは
王朝など絶対的な権力者に抑えつけられたなら,反骨精神で細々とでも生き残ろうという気力もでると思います.
単純に誰も見ないから廃れていくってのも,これはこれでしゃあないことかなって思うんです.
ただ今世界で起きているのは全く異質なこと.いうなれば民主主義という世界を覆う悪魔の仕業という背景があると思うんです.
めっちゃ単純化して書くと
世界に100人の観客がいて,うち10人がめっちゃ好き!見たい!!と思ってサポートして
それが独自で生き残れる実力を持っていたとしても,
90人がそれを嫌いで消したい!と思ったら,今の世の中では持続可能な技術でも消されてしまうんです.
そしてそれは《民意》とか《総意》のような圧力でのしかかってくるわけで
それは特定の王朝や個人からされるのとはダメージに雲泥の差があると思うんです.
結果,生き残るものの絶対条件は《嫌う人が過半数に達しないこと》が最低条件になる.
つまんなくない?
と,そんなことをごちゃごちゃ思ってたのでした.
まっただの雑技ファンの独り言ですが,こんな機会でもないと文字にしないのと
書いてると自分の中でも,ここはもうちょい考えてみようとか思えてくるのでいいですね.