丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

学校の怪談

2008年08月31日 | じつは
転勤した年のことだから1983年。ちょうど今から25年前。もう四半世紀前のことになります。
1年生が11期生でしたから、創立11年目になります。大阪万博で急増した住民のためにできた中学校で、小高い山の西南斜面を削ってできた学校だから、そちら方向には開けてはいましたが、反対側はまだ山の斜面が残っていました。

校舎の配置が重要になるので詳しく述べますと、北側に校舎が2棟平行に並んで建てられており、間に中庭がある。北館と南館はそれぞれ4階建て。東端と中央やや西寄りに渡り廊下が各階につけられていました。南館の前の広い通路から階段が降りて南に面した運動場があり、その西端には体育館が校舎と直角に、1段低く建てられています。
南館からは運動場をはさんで大阪平野がよく見え、天気の良い日には4階からは大阪湾も見えたかもしれません。
一方北館の北側は山の斜面があり、北西にある正門から外周道路が北側は校舎と平行にあって、急な坂を上り、道路の東端になると校舎の3階とほぼ同じ高さになるほど。従って、北館の1・2階は光が遮られて、夕刻からは薄暗くて、特に西端の教室では午後の授業では灯りをつけないと授業ができないほどでした。

転勤して最初の年で、1年の副担になりました。この1年生は9クラスまであります。前にいた学校が多いときで1学年12クラスあったので、それよりは少ないクラス数ですが、マンモス校には違いない。学年の教師も15人はいたでしょうか。

さて、この学校では毎年恒例で、1年生は夏に2泊3日の校内キャンプを行うことになっていました。各自寝袋を持参で、運動場にテントを張り、男女入れ替えでテントに1泊、教室で1泊を行います。中庭にかまどを作って、食事はすべて自炊というキャンプ。
後日談ながら、後に教育委員会から「学校は宿泊施設ではない」という指導が入って、この行事は行えなくなったのですが、この頃はまだ自由に行えた時代でした。ちなみに、この学校ではクラブ合宿も学校内で行っていて、クラブ生徒が合同で宿泊を行いながら部活を行ってもいました。

さて、9クラスもあると人数も多すぎるので、この年は学年を3分割して、1~3組を1次隊、4~6組を2次隊、7~9組を3次隊とし、2泊3日を3回連続して行う形態にしました。すなわち、1次隊最終日の昼食を取っている時に2次隊が集合し、2泊の後同じく最終日の昼食時に3次隊が集合するという形式で、都合合わせて6泊7日の連続したキャンプを行うことにしました。
もっとも教師が連続7日参加するのはきついので、3回のキャンプの2回に出ればいいということにしました。僕は2次隊からの参加ということにしました。

プログラムは、食事作りがメインですが、昼間はプールや運動場でのレクリエーション。夜は1日目が体育館でレクリエーション、2日目はキャンプ恒例の肝試しという内容。

1次隊には参加しなかったので詳細はわかりませんが、お楽しみの肝試しはあまり盛り上がらなかったようです。ふだん怒鳴り散らしてばかりの某教師が別の意味で怖がらすだけだったとか。

これではいけないということで、2次隊からはかなり趣向をこらすことになりました。

肝試しでは、最初に生徒を体育館に集めて怖い話を聞かせる間に脅かし役の教師が準備。体育館から2人ずつ出発して南館から北館に回り、北館4階西端にある図書室まで行って到着の印の札を持って帰るというもの。特に北館はまっくらでただでさえ不気味なのに加えて、お経のテープを購入してエンドレステープで流し続けることに。そしてゴールの図書室に急増の仏壇を作って、そこに細見の若い国語教師、仮にA子先生としますが、長い髪の毛を垂らして座っていてもらおうということにしました。教師の配置は何かがあっても困るので必ず2人で一緒にいることになっています。

さて、事件が起きたのは2次隊の肝試しのことでした。

北館1階に放送室があって、都合が良いのでそこを教師の控え室にしていました。
2次隊の生徒全員を体育館に集め、いろいろ怖い話を知っている僕が怖い話をすることになっています。当時は今と違って実話ネタの怖い話もそんなに出ていなくて怖がらせるための作り話しか出ていない頃でしたので、まあ小泉八雲の「怪談」が主なネタ本でしたが、最後には例の幽霊の写真もあるので、それを最後の武器として話をしていました。作り話でも十分怖がる生徒は多かったです。

この間、何が起こったのかはその時はわかりませんでした。わかったのは、生徒が寝た後の、教師だけのその日の反省と翌日の打合せを行っている時でした。

北館一階端の教室に隠れて生徒が来るのを待って驚かす準備をしている二人の先生の耳に、隣の教室のスピーカーからA子先生の声が聞こえてきたそうです。A子先生は放送部の顧問をしていて、一番良く放送にかかわる先生でしたが、この時は何を言ってるのかよくわからなかったそうです。おまけにこれから肝試しを始めるのに放送は止めておかないといけないので、放送室まで、放送を止めるように言いに行ったそうです。しかし、放送室の電気は消えていて、すでに誰もいなく、スイッチも切れていたそうです。
まあ、事情は後で聞こうと言うことでその場はそのままになったのでした。持ち場に戻るとすでにスピーカーからの声は聞こえなくなっていました。
ということで、「あの時、何を放送していたの?」と聞いた所、A子先生はびっくりして、「私、放送なんかしてません」という答え。放送室にはよらずに直接図書室に行ったことはもう一人の先生も証言しています。
とすると、あの声はいったい何だったのか?
うわさ話では、昔から北館では時々女性の声が聞かれるという話があったとか。
空耳ではなく、確かに女性の声が流れていたそうです。

おかしなことは3次隊でも起きました。

3次隊の指揮を行ったのは、8組担任のA子先生でした。
このキャンプでは生徒の自主性を養うことも目的にしていたので、不必要な放送はかけないようにしていました。いつでも注意をむける訓練で、生徒を係等で集合させるときには前もって北館中央に掲示板を出して、「次のチャイムで○○係は集合」というように書いておき、30分後くらいにチャイムだけをならします。それだけで生徒を集めるのですが、素直な1年生のことだからそれでもちゃんと集合はします。もちろん一部生徒で遅れることはありますが。

さて、3次隊の2日目の昼食前、食事係を集合させるように掲示も行って、チャイムを鳴らしました。生徒が集合します。ところが、8組の女子、A子先生のクラスの女子だけが一人もやってきません。待っても来ないのでそのクラスを除いて説明を始めます。気になったので僕が教室まで見に行きました。行けば、生徒はみな教室にいます。別に騒いでいるのでもなく。スピーカーのスイッチを見ましたがちゃんとONになっていて異常はありません。何している、外を見てみろ、と言ったのですが生徒はきょとんとしています。チャイムは聞いていないとみんな言います。嘘でもなさそうでした。
他の生徒はみんな来ているのだからチャイムが聞こえなかったはずもない、ということで、そのクラスの女子はこの後、食事は必ず正座という罰を行うことになりました。

奇妙なことは翌日です。
また生徒を集めるために掲示板に書いて、そろそろ集めようかとチャイムをならしにA子先生が放送室に行きかけると、8組の女子がダダダダっと階段を駆け下りてきました。どうしたの、と聞くと、チャイムがなったので急いで来ました、という返事。まだ鳴らしていない、これから鳴らす所だったのに、チャイムの音に過敏になったこのクラスの生徒にはまだ鳴らしていないチャイムが聞こえたのでした。

鳴らしたはずのチャイムがスピーカーから聞こえなくて、1日たって、そのチャイムが鳴らす前のスピーカーから流れてきたのでした。

さすがに気持ち悪くなったA子先生はキャンプが終わった後、お払いに行ったそうです。


不可思議なキャンプを終えて、その後日を改めて打ち上げの会を持ちましたが、この学校には過去にもいろいろな不思議な話があることがわかりました。いわゆる学校の七不思議という奴で、前述の「夜な夜な女性の声が聞かれる」というのもそれですが、それ以外にも奇妙な実話もありました。

この学年が11期生で、多くの教師は前年には8期生を持っていて、ある先生は昨年の修学旅行のクラス単位の分宿で、夜中に女生徒に騒がれて困ったと言います。
何でも、夜中にこっそり友だちを話をしていると、窓の外を人影が通り過ぎたとか。2階の部屋で誰かが外を通るはずもなく、怖がった生徒は担任の部屋に押しかけて、昼に座禅を組みに行ったお寺でお払いをしてもらいたいと騒いだとか。
さすがにそれは気のせいだろうと、担任も早く寝るように言うしかありませんでしたが。そういうのは、まあよくある話。

あまり良くある話でないのが、その3年前、5期生で一人自殺者が出たという。

その席で聞いた話なので実際のことはよく知りませんが、3年生の女生徒がノイローゼになったとか。精神状態がだんだんおかしくなり、授業中でもおかしな言動が目立ち始めたとか。
親もさすがに心配になり、自殺するかもしれないということで気をつけるようにし、夜中に部屋から出て行くことのないように目を配っていたそうですが、ある夜、自分の部屋の窓から抜け出して消えていってしまったそうです。
親はいろいろ探し回ったのですが見つからず、帰ってこず、そのことは学校にも連絡が入り、職員で相談の結果、ふだんの様子から緊急を要することでもあるので、細かいことは言わずに生徒に協力を求めようと言うことになったそうです。そこでHRで担任が、事情を言って見かけたらすぐに知らせて欲しいと言った所、生徒の誰かが、○○さんなら朝、教室にいましたよ、という返事。この発言で学校内は大騒ぎ。どこかの教室、使用していないトイレとかにいるのではないかと、校内をくまなく探したそうです。けれども彼女はそこにも見あたりません。

当然警察にも知らされ、町中にポスターも貼られたそうです。そうすると数件の電話が入ります。近くの駅、センタービルで見かけたとか。あるいは離れた市の中心部の駅近くのバス停で見かけたとか。そのたびにそこまで行っても見つからなかったとか。
周囲が必死で探しまくっている間、彼女の父親は異常な行動をとっていました。家近くにある池を毎日棒でつついていたそうです。うちの娘は絶対ここにいる、と言って。駅とかで見かけたという人もいるから生きていると言っても聞かずに。

そして数日後、やはりその池から彼女の死体が浮かび上がってきたそうです。家を飛び出したそのままの服装で。
不思議なのは、検死の結果、どう見ても彼女は家を飛び出したその足で池に飛び込んだとしか考えられないということでした。

とすると……

学校で見かけたというのは何だったのでしょうか。駅にいたのは誰だったのでしょうか。


大きな不思議な出来事はこれくらいでしょうか。
別件で、数年後に学校で授業中に、移動教室で誰もいない教室が燃えました。その時僕はちょうど真上の教室で授業をしていました。火事だと生徒の声で訓練通り生徒を運動場に批難させましたが、一部の先生は火を消し止めようとして、煙を吸って目や鼻を痛めてしまったり。

公の発表では、発見したのは隣の教室で授業をしていた教師ということになっていますが、本当は、当時授業を抜け出す生徒が多数いて、その時間もあるクラスで休み時間を過ぎても生徒が教室に戻ってこなくて、クラスみんなで探していたのですが、校外まで出て行ったかもしれないと、数人の生徒が校門外まで見に行こうとして、振り返って教室から火の手があがっているのを発見したそうです。さすがにどうして生徒が校門付近から発見したのか、その理由を明らかにできないので隣のクラスの教師ということにしたのですが、もう時効でしょう。この教室を使っていた生徒が何期生かは忘れました。

他、僕が転勤した後の話になりますが、自殺した生徒がいたとかいないとか。
事情等は知りませんがまあいろいろです。

れいの話

2008年08月17日 | じつは
夏なので、涼しめの話を一つ。

あれは昭和25年のことだから、もう58年も前の話になります。

 当時僕の家と、母の実家は隣にあって、よく庭を通って出入りもしていたとか。 僕がまだ産まれていない時のことだから聞いた話でしかないけれど。
2番目の兄が産まれたのが昭和24年の11月。母の妹、叔母さんに長女が産まれたのが同じ年の12月。母にまだ祖母(僕にすれば曾祖母)が生きていたときのことで、そのおばあさんにとっては3人目の孫になります。4代目まで顔を見られれば、戦後まもなく頃なので幸せ者。近所の人が祖母に、これでいつ死んでもいいですね、などと言う物なら偉い剣幕でどなられたとか。まだまだ長生きするつもりだった。

ところが、人の人生などはわからないもの。

年が明けた昭和25年の1月2日。おせちも食べて気分良くお風呂に入った祖母がいつまでたっても上がってこなかったという。
心配になって見に行くと、すでに息を引き取っていたとか。叔父が医者をやっていたので専門家の立場で検視して、間違いなく死んでいたそうな。あれほど生に執着していたのに人の寿命はわからないもの。正月早々葬式を出すことに。

しかし、急死だった物だから、当人に死の自覚がなかった模様。その日から変なことが日常的に起こり始める。

まず、母の夢の中に毎日姿を現していたとか。
 映画を見に行く夢を見ると、隣に黙って座っていたり、買い物に行く夢では一緒に買い物をしていたり。ほとんど毎日のように夢に出てきていたとか。

おかしなことは実家にも起こっていた。

母の母、祖母の夢の中にある晩出てきて、「暗い、暗い」とつぶやいていたとか。
気になって仏壇を見に行くと、四十九日の間、つけっぱなしにしていなくてはいけないお灯明が消えていたとか。

そんなこんなが起こり続けて春になる。

滋賀の嫁入り先から叔母が娘を連れて里帰りをしてくる。
暖かくなった頃ということで、二人の赤ちゃんを並べて我が家の縁側で写真を撮ろうと言うことになる。

そして撮ったのがこの写真

なぜか写真の中心が変にずれていて、妙な物が写っている。
ごみだろうかと思ったそうだが、じっと見ていると人の姿に見えてくる。しかも和服を着たその姿は、亡くなったおばあさんにしか見えない。着物の着方も生前の姿とそっくりの様子。

これまでの奇妙なことと思い合わせて心当たりがある。

本人は急死だからこの世に未練一杯で死にきれなかったのかもしれない。

ということで父方の祖母の知り合いに祈祷師がいたということで、頼んでおがんでもらったとか。
すると数日後、母の夢枕に現れて一言。「おかげで良い所に行けました」
そしてその日からぷっつりと夢にも現れなくなったという。

この写真は気持ち悪いので母だけが持っているとか。

二人の赤ちゃんの反対側の隣には叔母がいるのだが、叔母の家ではやはり気持ちが悪いからと、上部を切り取った写真しか残していない。写真も古くなったので、原盤を元に焼き増しして貰ったもので、母が亡くなってからは原盤も無くなって、この写真しか残っていない。