丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

高一の春

2010年07月28日 | 個人史
クラスにいつ溶け込んだのか、記憶にはない。ほとんどのクラスメートは一貫の中学から上がってきていて、外部から来たのはクラスで片手ほどもいなかったと思うのだが、そういうことはほとんど気にはしていなかった。まあ男女比が5:3というのはかなりこたえたが。女子が余らないからこちらには回ってくることがなかった。

春の校外学習は東条湖にバスで行った。学校は長髪可だったので、中学時代1枚刈だったのを伸ばし始めて、中途半端な長さではあった。帽子も最初の頃はきっちりかぶっていた。当時の写真もアルバムに残っているが、別に孤立することもなく、親しく笑い合っている。まあバス内レクでは、人間ジュークボックスと呼ばれるほどだったから、けっこう目立つ方だったと思う。

勉強の方は落ちこぼれ状態はひどかった。得意な方の英語がまったくわからなくなって散々だった。数学でも極端に難しくなり、数学は2教科あったのだが、一つの方では問題数たった4問、1問25点というテストで、3問まったく答えられず、残り1問でも十分にはできなくて、中間点15点という点数をとった。
これはまだ良い方。苦手な生物では100点満点の5点という自分自身過去に記憶のない点数でショックにもならなかった。
日本育英会の奨学金をもらっていたが、本気で返上しないといけないかと思ったくらい。
二学期末には生まれて初めて親ごと呼び出されて相談をうけることになったが、なんとか進級だけはできて、その後は平穏無事に過ぎたのだが。

まあ1学期に受けたカルチャーショックは大きすぎるくらいではあった。

府警同伴の入学式

2010年07月27日 | 個人史
誤変換ではない。

高校は大学の附属高校と言うことで、当時は2校の校舎に分かれていた。僕が入学したのは池田校舎で、別に天王寺校舎があった。後には平野校舎もできて、現在は3学舎に分かれているが、交流はまったくなかった。

前年までは入学式を合同でやっていたらしいのだが、それもなくなったのは大学紛争のせいだった。当時は学生紛争が活発になっていく過渡期で、附属高校はもろにその波をかぶっていて、入学するまで知らなかったが、高校でまさにその波が押し寄せてきていた。そんなわけで、入学式が荒れて混乱する可能性があったようで、入学式は校舎毎の分離入学式となり、さらには大阪府警が警備を固める厳完態勢で行われた。入学者が少なかったのもそのせいであった。

別に特に混乱はなかったのだが、ものものしい状態に違和感はあった。その時には、この一年、大揺れに揺れる一年になるとは思いもしなかった。

制服は予科練並みのボタンのない服。革靴指定でまあエナメルの靴ではあったが、上履きもあり、体育用の運動靴も必要であり、また体育館シューズも必要という、ちょっと靴には困らされた。
実は、卒業した後に制服自由化運動が起こり、僕の次の学年で制服が廃止になり、3年間きちんと制服で送ったのは僕の学年が最後と言うことになる。
判りやすく言えば、卒業写真を制服で写った最後の学年と言うことになる。

入学者は4クラス161名。転校者と中退者もいたが、上の学年からの留年者もいたりもした。主に高校紛争のあおりでの留年で、1学年上から1名留年してきて、さらにその上からの留年もいたが、僕の学年から留年で降りたのはいなかったと思う。

学園紛争で揺れたのは1年間だけで、次の年にはまるで何もなかったかのように平然としていた。

中学卒業後の春休み

2010年07月25日 | 個人史
中学を卒業して、当時一緒によく遊んでいたグループのみんなで映画を見に行った。学生料金を払おうとしたら、卒業したのだから学生ではないと言われて大人料金を取られた。今から思えば、たとえ卒業式がすんでいても、3月31日までは中学生なんだから中学生料金でよいはず。だまされた。

公立の入試の日、僕はひまで公園で遊んでいた。その日は部分日食の日だった。ガラスにロウソクのすすをつけて眺めた。

高校合格後に宿題を山ほどもらった。今から考えれば、中高一貫の学校に高校から入ったのだから、それなりの準備が必要なはずだった。なのにほとんど手を付けなかった。
入学後、即宿題テストが行われ、散々な成績。落ちこぼれの3年間が始まってしまった。

図書館がよい

2010年07月24日 | 個人史
中学3年から、転居する高校2年の秋まで、市立図書館に通った。

別に本を読みに行ったのではなく、宿題等の勉強の場所として利用していた。だからほとんど本を借りたことはない。
最初は友人に連れられて行ったのだが、静かで広くて勉強しやすい雰囲気だったので、学校から帰るとすぐに図書館に出かけた。
高校が紛争で授業がまともに行われなかった時も、早退して図書館に行ったこともある。

地下に食堂もあって、夕方にはうどん等を食べたこともけっこうある。
間食をしても家では普通に食べていたのではあるが。

大きな思い出は、ある時友人が、面白い小説が載っている、ということで、それまで手に取ることさえなかった中央公論という雑誌を持ってきた。お堅い雑誌というイメージのある雑誌で、一生手に取ることはなかったと思われる雑誌だったのだが、載っていた読み切りの小説のあまりにもの面白さに惹かれてしまった。
その後、その作者が書いた連載小説を読むために、その小説のためだけにその雑誌を購読することになるのだが、それが「赤頭巾ちゃん気をつけて」だった。
それがその年の芥川賞を取ったというニュースを聞いた時はずっこけてしまった。芥川賞なんて小難しい賞が、やにわに身近な存在に思えてきた。
この小説、作家、映画に関しては別項に譲るとして。

転居をしてからは地元の図書館に行くことはなくなった。勉強するような場所ではなかったこともある。自宅以外の勉強をする場所というのは貴重な存在だと思う。

卒業イベント

2010年07月22日 | 個人史
卒業式の前日に、3年生だけが出席する「卒業を喜び合う会」というのが開かれた。各クラスでの出し物や有志による参加もあって、おやつなどを食べながら観劇する催しなのだが。
有志ではエレキバンドが登場した。本来中学校では文部省唱歌など教科書に載っている歌以外は校内で歌うのは禁じられているのだが、この日だけは例外。当時はエレキギターを弾いているのは不良と言われている時代、よくもまあ練習が出来たものだとは思うが、本格的なバンド演奏だった。タイガースやゴールデンカップスなどの流行のGSグループのコピーをやって、レベルは相当高かった。

クラスでの出し物はまったくのクラスオリジナル。僕のクラスでは、僕の脚本によるオリジナルドラマ「ロミオとハムレット」というのを上演した。クラス全生徒が出演するミュージカル。ロミオとハムレットがジュリエットをめぐって熱海の海岸で奪い合いを演じるという物語。実に馬鹿馬鹿しい物語だった。

もう一つ、教師から有志による劇をやらないかと、頼まれたのだが、台本を書いても今ひとつ面白味に欠け、メンバー集めもすべて任されてしまって結局集められなくて、無くなってしまった企画もあったのだが、脚本も含めてすべて生徒に丸投げするなよ、と言いたいですね。

そうして卒業式。どんな卒業式だったかはほとんど覚えてはいない。
ただ、後輩から卒業生に花飾りをつけるようになっているのだが、知っている生徒だったのを覚えていたり。

他のクラスの担任だったI先生が、卒業生を連れて校舎から出る時に、写真撮影用にわざと目頭を押さえて嘘泣きをしていたのを覚えている。

ちなみに、うちの家では両親や兄も出席したが、親が僕の行事で学校に来たのはこの時が初めてだった。進路相談の時にも来なかった。
で、家族みんなが来たのには意味があって、卒業式のその足で映画を見に行った。「メリーポピンズ」を見に行った。字幕の映画を見たのはそれまであまり記憶にない。チャップリンの「独裁者」を見た時以来かも。もっともあの映画はほとんど台詞はなかったのだが。

卒業後、文化祭の時くらいには学校に行った。担任のH先生よりかはI先生にばかり会いに行ったのだが。高校も卒業してからはもう中学校に行くこともなくなった。

電話がついた

2010年07月21日 | 個人史
中学卒業間際に、我が家にもようやく電話がついた。

今の人には信じがたいことだが、昔は電話は順番待ち。申し込んでもすぐに取り付けられることはなく、番号が空かないと回ってこない。おまけに「債権」なるものを買わないといけないのだが、こちらは買い取ってくれる仲介業者があったので、その心配はほとんどいらないが。

電話のない時代、どうしていたのか、想像がつかない。たとえば学校の連絡網などは住所しかないから、連絡ある時は近所の友人から直接家に連絡をしにくるという状況になる。緊急連絡などまず無理。病気欠席の連絡などどうしていたんだろうか?

近所のたばこ屋に公衆電話があって、電話を掛けたい時はその電話機を借りていた。お金を入れるしくみではなく、交換手を呼び出して相手の電話番号を言う。一度切って待つとつながったと連絡が入る。電話が終わった後、交換手から今の通話の時間と両金が知らされて、その両金をたばこ屋に支払うという仕組み。母の勤め先に何度か電話を借りたものだ。

そんなこともあったので、我が家に電話が入っても、いちいち交換手を呼び出していた。実際はそんな必要はなかったのだが、習慣で家庭でもそうするものと思い込んでいた。

卒業名簿に電話番号も載ったので、卒業の後、クラスメイトから電話がかかってきた。親しくもなかった相手ではあったが、卒業してクラスのみんなと会えなくなるので寂しくてみんなにかけていたのだろうか。

その後家庭から電話が消えることはまったくないにも関わらず、自分から誰かに電話をすることは40数年たっても両手で余るくらい、ほとんどかけることがない。

ちなみにうちの母親は記憶の天才で、あらゆる人の電話番号をすべて記憶していた。

入学試験

2010年07月20日 | 個人史
公立高校の入試は卒業式がすんでからなのでかなり遅いが、私立高校はそれよりも先にある。でも、誰がどこを受験したのかは全然知らなかった。
一番早いので12月に大阪府内の某私立高校で入試があり、1月には合格がすでに決まっている生徒もいた。

僕は某国立高校を受験したので、試験日は2月3日で、みんなより早かった。
ちなみに、この学校が家から一番近いというのが受験した理由の一つでもあり、学費が一番安いというのも理由の一つだった。
同じ中学からは3人受験したのだが、一人だけの合格だった。
受験日、小学校で同じクラスで私立中学に進学した子が受験していた。1教科終わった後、けっこう難しかったのに、その彼は同じ中学から来たと思われる仲間と、意外に易しかったと話しているのを聞いてカチンときたものだ。
結果として彼らは不合格だったのだが。

面接で、同じ中学出身で誰か先輩を知っているか、と聞かれて、思い出したのが、兄の友人がここを出ていたのでそれを言ったら面接の先生方も彼を知っていた。ちなみに、数年後教育実習生としてその彼がやってきて、僕のことも気がついてくれた。

合格は同じ学校からは僕だけで、知っている人の誰もいない学校に進学することになるのだが、同じ小学校出身で、中学からこの学校に来ていた生徒も数人いたので、それはちょっとだけ心強かった。

本当は内部進学も含めて180人を取る予定だったのだが、この年、大学紛争の影響で、附属高校でも紛争の火の手が上がっていたこともあって、府立高校に逃げた合格者がたくさん出て、結局入学者は161名、4クラスだから各クラス40名という結果になった。
入学者で一番有名になったのが、同じクラスにはなったことはないが、岡田克也外務大臣がいる。そして、先にも書いたが小学校で同じクラスだったUさん、こと女優の湖条千秋がいる。彼女も同じクラスにはならなかったが、2年で中退して宝塚音楽学校に入り、そのまま歌劇団から女優になっている。卒業生ではないけれど、昨年夏にあった同窓会には参加したようだ。ちなみに外務大臣は昨年夏は多忙で参加していないようだったが、卒業後11年目にあった同窓会には出席していて、その時には衆議院議員をしていると自己紹介していたのを覚えている。
同じクラスになった者では、TV「ビフォーアフター」に「匠」として出たこともあるO君もいたが。

40人のクラスで男子は25人、女子は15人という、男子がしっかりあぶれるクラスで、僕もそのあぶれ組だったのは言うまでもない。

高校の話はまた後で。

高校招致運動と兵庫方式

2010年07月19日 | 個人史
川西市には当時、定時制高校を除いて、市内に私立はおろか公立高校は一つもなかった。
だから、中学卒業生は全員他市か他府県(大阪府)の高校に進学することになっていた。成績優秀者はたいてい県立伊丹高校に進学したり、市立伊丹高校や宝塚の高校に行ったり。私立高校とて近くにはそんなに無く、箕面にある高校とか、池田市にある女子校とかに進学するのが多かった。

そんな不便な環境から、市内にぜひとも公立高校を建設して欲しいという要望が保護者の間から起こり、署名活動などの陳情の結果、僕たちの卒業年に合わせて新設されることが決定した。
市内とは言えど、場所は少し北に入った、新設されるニュータウンの中にできる、「緑台高校」という学校だった。後年、選抜高校野球に出場して知名度があがる学校となるが、当時はまさに海のものとも山のものともつかぬ、まるで白紙の学校だった。

しかし、わざわざ新設したのだから、ということで、公立高校志望の生徒は全員緑台高校を希望するようにとの指導も入る。
おりしも、僕の学年の入試の時から、「兵庫方式」と呼ばれる入試方式が採択されることとなった。これは、地域の学校を数校まとめて学区を作り、受験者は学区名で受験する。志望校として、学区内の数校を順位を付けて志望して、入試の成績上位者は志望校に進学、下位の生徒は学区内の他の高校に人数調整で割り振られるというもの。その時点で、新設校を志望する他市の受験生はほとんど考えられないことから、市内で緑台高校を志望する者は、受験成績さえクリアすれば進学がほぼ100%決まるようになっていた。

入試の内容も新方式に対応して、設問内容がいろいろ変わった新傾向の入試問題になったようだった。模擬試験は全員強制で受けたが(その時点で、僕は進学先がすでに決定していたが)、実際の入試がどのようだったのかは知らない。
友人の多くが新設校である緑台高校に進学していった。1期生で先輩が一人もいない、伝統も何もない学校で、自分たちで一から伝統を作っていったのだが、生徒も教師も意欲は十分あったようだ。
後に、川西市にもう1校県立高校が出来て、そこはプロ野球の古田敦也選手の出身校として有名になるが、そちらの学校には縁がない。
縁と言えば、ふだんは野球を見ない僕も、緑台高校が甲子園に出場した時はわざわざ見に行った。初戦負けだったが。

むち打ち症

2010年07月18日 | 個人史
ある日むち打ち症になった。

朝起きると、首が持ち上がらない。横向きになって、手で体を起こしてやっと起き上がれる状態。原因はあった。

体育の鉄棒の課題が、高鉄棒での蹴上がりから、巴と続けての飛び降り。
蹴上がりというのは、体操選手が、鉄棒に飛びついて軽やかにさっと上に上がる奴。両足を鉄棒に近づけてさっと蹴ると勢いで体が上に上がる。巴というのは、鉄棒にくっついた状態での連続逆上がりの変形で、体を鉄棒につけない状態で回るもの。そのままの勢いで前に飛び出すまでの連続技のテスト。

実はこれが得意だった。
蹴上がりは楽々と出来て、中学生レベルでは高鉄棒にぶら下がった状態で、何度か足を振った後で両足を鉄棒に近づけて上がるのだが、僕のレベルでは足を振るのは2回まで。後には鉄棒に飛びついたそのままの勢いで上に上がれるくらいだった。

余裕綽々でテスト前を迎えていたのだが、テストの1週間前、突然出来なくなった。

いわゆる、コツを忘れる、という奴で、今まで軽くできていたのに、ある日突然できなくなっている。
これにはあせりまくった。もう毎日毎日、休み時間は必死で練習した。何しろ以前には出来ていたのだから、何故できなくなったのか不思議で仕方がないし、コツさえ思い出せばできるはずだと思っているはずだから、必死で練習して、とたんに両手に豆がいくつもできた。数えると、両手で9つ。そして、テスト前日にその9個の豆が全部つぶれた。

テスト当日は悲惨な両手だった。両手にハンカチを巻いて鉄棒に向かうのだが、やっぱりできない。仕方がないので低鉄棒に移ったが、ハンカチがすべるのでうまくいかない。結局、ハンカチを取って、9個のつぶれた豆のあとをそのままに素手で鉄棒を握って、なんとか課題を(低鉄棒でだが)こなした。
さすがにすごい手でやったものだから、良い点をつけてもらえた。

豆の治療には、当時はヨードチンキを塗るのだが、これが傷口にはとてもしみる薬。普通は、片手でつける手の手首を押さえて我慢するのだが、何しろ両手共にめくれているので、押さえる手がない。悲惨な思いで薬を付けた。

そして、翌日、頭が持ち上がらなくなった。

早い話が、鉄棒の練習のやり過ぎで、極端に首を振り続けたものだから、むち打ちとまったく同じ症状になったという。脱臼の時に何度もお世話になった整骨医に行って首を固定してもらう。

産まれた時から首は弱い方だった。赤ん坊の時も首の座りが普通の子どもよりも遅かったそうだが、その時の症状が実はいまだに完治はしていない。肩の懲りもそのせいで怒ることが多いし、数年後に2週間入院した時も、眠れなくて氷枕を使いすぎて、首の骨が歪んでしまって、退院後、脳神経科で首の牽引に通い続けたことも。

むち打ちになると、脳に血が通いにくくなるので、とたんに視力が低下した。
首が悪くなると視力も悪くなるので、首を痛めないように気をつけてはいるが、現在は、裸眼では視力検査表の一番大きな字も読めないくらい。まあ乱視がきついせいもあるのだが。

それ以外にも、いつか忘れたが、首をいわゆるプロレスで言うウエスタン・ラリアートという技のように、腕で首に打ち込まれて、のど仏が引っ込んだままというのもある。

当然ながら、この時からメガネをかけるようになった。

指揮者デビュー

2010年07月16日 | 個人史
コーラス部の指揮をすることになった。
担任教師が音楽の先生で、合唱部の顧問をしていたこともあり、僕の音楽レベルもよく知っていたこともあり、文化祭に向けての合唱部の指揮を頼まれることになる。

合唱部は全員女子。まあ男一匹というのも珍しいことだが。
曲は僕が先生に紹介した歌集の中にあった「モルダウの流れ」。今でも中学校の合唱曲によく歌われる曲だが、この曲に出会ったのはこの時が最初だった。女性三部合唱。現在歌われているのとは若干違っているが。

他に、作曲コンテストみたいなのが校内で行われて、ある歌詞に対して募集曲から、校内での入賞曲2曲もやることに。そのうちの1曲は僕が作曲した2部合唱曲。コーラス部の生徒からは変な歌と言われた方。もう1曲は同じクラスの生徒の作曲で自然な歌いやすい曲。今でも口ずさめる。

文化祭当日は体育館のステージに特設の舞台を付け足した形。ブラスバンド全員が乗れるように増設したものなのだが、コーラス部の指揮をするのに、その特設の張り出した舞台に乗ることになった。
この時、生まれて初めて「足が震える」という体験をした。
特設舞台だから丈夫には作られているが、足が震えると同時に舞台ががたがた大きな音がした。はっきりと舞台が揺れていた。

2回公演だが、2回とも足が震えていた。

新米指揮者だから、指揮棒は先生に借りた。練習中は自作の棒を使っていたが、さすがに本番は本物を使った。指揮と言っても実際には形を作っているだけ。指揮で曲が始まるのではなく、先生が弾くピアノが鳴るのを合図に振るだけ。まあダメ指揮者誕生だが。

文化祭1回で終わったなら余興で済んだが、まだまだ終わらなかった。
その後、市内の連合音楽会が開かれて、そこにもコーラス部が出演することになって、そこにも一緒に出演することになる。多田にある小学校まで出かけた。

どういういきさつか知らないが、阪神間の連合音楽会にも出演することになった。西宮北口近くのコンクールもよく開かれる有名な会場で出演。最後まで足は震えたままだった。

まさか、それから数年後に正式に指揮活動をすることになるとは、思いも寄らなかったが。