丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

小説「白夜の人」第1章:招待状

2010年06月30日 | 詩・小説
[前書き]
 今から40年以上も前の中高生の頃に書いた小説。
純愛小説としては2作目になるのだが、残念ながら1作目は紛失していて内容もすっかり忘れてしまっているので復活できない。
 この小説も、内容的に問題ある部分があって(気に入らない部分がどうしてもある)そのままでは復できないので、何とか修正を加えてみようと思うのだが、どこまでできるのか。
 本当はこのまま埋もれさせようかと思ったのだが、読み返してみて、けっこう名場面も多く、名場面だけ残してもよかったのだが、どうせなら全文復活させてもいいんじゃないかと思って今回復活させることにする。さて、どこまで修正できるのか。


登城人物

・相沢 圭子:本編の主人公。森本淳に好意を持っている。
・相沢美佐子:圭子の母。なぜか淳を嫌っている。
・相沢 幸造:圭子の父
・相沢 和子:圭子の妹。
・森本  淳:圭子のクラスメイト。
・森本 志津:淳の母。
・森本 洋介:淳の父。
・木下 礼子:圭子の親友。淳が好きである。

その他、登場人物は総勢10名ほど。


生きることが苦しみの始まりであるように
愛することは別れの始まりである
だが
苦しみが喜びの始まりであるように
別れはまた愛することの始まりである

昭和46年3月26日記


目次
[前書き]
第1章:招待状
第2章:クラスメイト
第3章:誕生日
第4章:初恋
第5章:友情
第6章:愛と死と(前編)
第7章:愛と死と(後編)
第8章:別れ
第9章:出発
最終章:結婚式
[後書き]


第1章  招待状

「お圭ーーー、ちょっと待ってよ」
 呼び声で圭子は振り返った。
 下校時の校門からは生徒がつぎつぎとはき出されてくる。その中に礼子の小柄な姿があった。桜は今が盛りであった。
「ひどいわよ、私をおいていっちゃうなんて」
「ごめん、ごめん。忘れたわけじゃないのよ」
「忘れてもらっちゃ困るわ。また淳君と喧嘩したのでしょ、ね、ね」
 礼子が顔をのぞき込むようにして言った。
「仲良くなってまだ1月しかたってないのよ。それなのに8回も喧嘩して……9回だったっけ?まあ「どうでもいいけど、一体どうなってんの。そのくせ翌日にはけろっとしてるんだから、あきれるわ」
 礼子は一息で言うと溜息をついた。肩まで垂らした髪の毛が静かに揺れた。
「彼ったら失礼しちゃうのよ」
 礼子はまたかという顔をした。
「いつもその出だしね。『彼ったら失礼しちゃうのよ、ほんと。今日こそはほんとに頭に来ちゃったんから……』。覚えちゃった」
「ほんとよ、今日こそはほんとに頭に……」
「ストップ。前置きは省略して中身に入ってちょうだい」
 いくぶんうんざりしている様子だった。圭子はゆっくり歩き出した。
「いい、私はもうすぐセブンティーンになるのよ。まだ16なのよ、わかってるでしょ」
「それがどうしたの?」
「彼ったら、どう行ったと思う?君は僕のお袋にすごく感じが似てるんだ、って。そんなに年取って見える?」
 礼子はフーッとまた溜息をついた。
「あーーあ、バカらしい。そんなことで怒ってるの」
「でもさ……」
「いつもこうなんだから」
 さっきままでの元気はどこへやら。圭子はすっかりしょげてしまった。
「彼のお母さんに感じが似ているからって、年取ってるってどうしてなるのよ。第一、彼のお母さんに会ったことあるの?」
 圭子は首を振った。
「きっと素敵な人かもしれないわ、圭子に似ているんだもの。例えば、あんたとこのおばさんみたいに……」
「そうね、きっとそうね」
 圭子の顔に再び笑顔が戻った。
「まあ、調子が良いんだから」
「気にしない、気にしない」
 もうすっかり元の調子に戻っていた。
「そうそう、言付け頼まれてんの淳君に」
 そう言うと礼子は四つに折りたたんだレポート用紙を取り出した。
「お圭がいきなり帰っちゃうもんだから言う暇がなかったんだって」
「だって、あの時は本当に頭に来てたんだから……」
「いいから、いいから。早く読みなさいよ」
 せきたてるように礼子が言った。本当は自分が読みたかったのだ。
「何て書いてあるの?」
「いい、読むわよ。えーと、今度の日曜日は僕の誕生日なので、僕の家で17回目の誕生パーティーを行います。よろしければ来ていただけませんでしょうか。母もぜひにと言っています。だって」
「へぇー、彼、あんたを両親に紹介する気なのかしら」
「冗談じゃないわ。そんな関係じゃないわよ、ねえ」
「まあ、今のところはね。ところで今度の日曜日っていったらいつかな。えーーと。ちょっと待ってよ。19日じゃない!」
「そうね、19日ね」
「のんきなこと言ってる場合じゃないわ。4月19日よ」
「ひょっとして私の誕生日だったかな……」
「ひょっとしてじゃないわよ。偶然ってあるものなのね」
「図々しいったらありゃしないわ」
圭子の頬は割れんばかりにふくれていた。
「何もよりによって私の誕生日に生まれなくってもいいじゃない」
「いいじゃないの日本人は1億人もいるんだから、同じ年齢の人がその100分の1としても100万人でしょ。1年は365日だから100万人を365日で割ったら、いくらになるのかな。えーっと、だいたい3000人の人が同じ日に生まれたってことになるんじゃない?彼がその3000人のうちの一人であっても、別におかしくはないんじゃない?」
 圭子がそういう数字の話を苦手としているのを、礼子はよく知っていた。
「で、どうする?もちろん行くんでしょ」
「どうしよう。礼子はどうする?」
「招待されているのはあんたでしょ。私には関係ない話よ」
「そんなこと言わないでよ。礼子も行くんだったら行ってもいいかな」
「そう?じゃあ一緒に行こうか」
 本当は礼子の方が行きたがっているのを圭子は知っていた。

 その晩、圭子は淳の招待状をいつまでも眺めていた。
 『母もぜひと言ってます』か。彼のお母さんってどんな人なんだろう。彼、私のことを何て言ってるのかしら。きっとお転婆で怒りっぽくて、手の付けられない、なんて言ってるのかも。チクショー、あのヤローめ。
「どうしたの?お姉ちゃん」
 同じ部屋に寝ている妹の和子が尋ねた。
「えっ?何か言った?」
「かなり物騒なこと言ってたわよ。チクショー、あのヤローめって」
「そんなこと言ったかしら」
 あぶない、あぶない。気づかないうちに声に出していたんだ。圭子はしまったとばかりに舌をぺろっと出した。
「嫁入り前の娘がそんなこと口に出すんじゃありませんよ」
「お母さんみたいなこと言って。妹のくせに少々生意気だぞ」
「えへっ。でもどうかしたの?」
「子どもには関係ないの」
「子どもじゃないわ私。ははーーん、さてはまたふられたのかな」
「また、って。私がいつふられたって言うの。第一恋愛話なんて中学生には関係ないでしょ」
「おあいにく様。私はもてて、もてて、困ってるくらいなんだから。なんだったら一人くらいお譲りしましょうか。この前だって下駄箱にラブレター入っていて迷惑してたんだから」
「和子、それほんと?大変なことになってたりしてない?」
 心配そうに尋ねたが和子はいたって平気な顔で言った。
「大丈夫よ、軽くあしらっておいたから。バレーボールをやってるってのも困りものね。ただでさえこの美貌でもてるというのに、エースアタッカーで運動神経抜群なところを見せつけちゃうんだから。それに加えて知性と教養は言うまでもなく、料理も抜群、女らしさに満ちあふれていて、これでもてないはずがないのよね。それに比べて言っちゃなんだけれど、お姉ちゃんは料理も勉強も運動も恋も不器用なんだから。あーーあ、こんな姉を持って私も苦労するわ」
 そこまで言って、さすがに言い過ぎたと和子はあわてて口をふさいだ。
「えーーえー、どうせ私は不器用であんたは優秀ですわよ。あーあ、どっちが姉だかわかんないわ」
「ごめんなさい、お姉ちゃん。そんなつもりで言ったんじゃなく……」
 突然和子の声のトーンが落ちた。
「ごめんなさい、勝手なことばかり言って。ほんとにごめんなさい」
「一体どうしたのよ。ほら、全然気にしてないから。どうしたの、えらく神妙になったりして」
 圭子は突然の妹の神妙な様子に面食らってしまった。和子はそれ以上何も言おうとはしなくなった。
「どうしたのよ、ほんとに。和子らしくないわよ」
 それでも反応はなかった。確かに妹の方が何でも出来て、自分は不器用なんだけれど、こういうのもふざけていつも言い合っていることで、別に妹が自分のことを誇らしげに自慢して言っているのではないことはよくわかっていることなのに、なぜか今日の和子の態度はやけによそよそしく感じてしまった。それ以上聞いてもしかたがないので、圭子はあきらめて寝ることにした。

 朝は寝坊者にとっては一番忙しい時であった。圭子も急いで味噌汁を胃に流し込んでいた。
「なんですか、圭子。落ち着いて食べないと体に毒ですよ」
 母の美佐子が注意した。
「いいから、いいから。ご馳走様でした。さて、今何分かな?」
 圭子は柱時計をながめた。時間はまだまだ十分あった。
「そうそう、お母さん、明後日お友達の誕生パーティーに招待されたんだけど、行ってもいい?」
「ええ、いいけど」
 何の気無しに母は即答した。食事を終えた和子が近寄ってきた。
「それって、お姉ちゃんの彼氏?明後日って言ったらお姉ちゃんの誕生日じゃないの?」
 母には聞こえないくらいの小さな声で耳元でささやきかけた。
「そうなのよね、かなり図々しい奴で、誕生日まで私と同じらしいのよ。今度和子にも紹介してあげるわね、森本淳君って言うんだけれど」
「森本……淳」
 和子が確かめるようにゆっくりつぶやいた。
「さあ、行くわよ」
 そう言って和子の方に目を向けた時、圭子はドキッとした。そこにあったのは和子の突き刺すような瞳だった。
「「どうしかしたの、和子……」
 後の方は声にならなかった。
「えっ?ううん、何でもない」
 正気に返ったように和子が言った。
「あなた、昨日からちょっとおかしいわよ。熱でもあるの?」
「ううん、ちょっと考え事していただけ。さあ行きましょう」
 和子はさっさと玄関に出て行った。圭子はどうにもすっきりしない気分だった。


中学の修学旅行

2010年06月26日 | 個人史
関西の中学校の修学旅行先と言えば、昔は関東方面と相場は決まっていた。
今でこそ信州や長崎など、受け入れ先も民宿などの受け入れ形態もそろってきて、移動手段も新幹線が利用できるようになってきて事情が変わってきているけれど、昔は交通手段は、修学旅行団体専用の特別編成の集約列車で、数校まとめての移動がほとんどだった(おそらくは文部省や教育委員会の指導での制約があったものと思われるが)。

現在でも関東地区の中学校の修学旅行先は京都・奈良が多いようで、ここらに行くとグループ単位の行動など形態は昔と変わっているけれど、かなりの数の修学旅行生が目立つ。逆に関西地区から東京方面への修学旅行は少なくなったかもしれない。もっともTDLへ行くケースもあるからちょっと事情は違ってくるけれど。

兄の学年では同じ東京方面でも一泊目は鎌倉で泊まり、二泊目が東京というパターンだったが、僕の学年では一泊目は富士五湖の河口湖で泊まり、二泊目が東京というケースだった。そんなわけで鎌倉に行けなかったのが実に残念で、後年一人で鎌倉散策に何度も出かけたりもしているのだが。

集約列車で富士山のもよりの駅まで行って、そこから観光バスに乗って河口湖まで。ちなみに、3台以上のバスの場合、1台目がベテランが乗って、次のベテランは最後尾のバスに乗るようだ。修学旅行の場合、ほとんどが新米ガイドで、けっこう軽く見られているというか、案内不安定なガイドばかり。

昔は今と違って関西と関東の交流や事情通などなく、お互いがお互いを知らないケースがほとんど。東京では「皇太子ご成婚」でTVが一般家庭に普及し、東京オリンピックでカラー化が進んだそうだが、関西では皇室は身近ではなく、東京オリンピックでようやくTVが普及し、大阪万博でカラー化が進んだ。そして大阪万博以降にようやく東西の文化交流も進んで、お互いの違いも知るようになってきた。それまでは、主なTV番組が東京で作られているせいもあり、漫画雑誌も東京で製作されていたので、漫画等でのパロディーで、関西ではやっていないCMを扱った物が多かった。セブンイレブンが関西に来たのはつい最近のこと、亀谷万年堂などいまでも関西人は知らない。OIOIもこの2・3年でやっと関西に進出したばかり。だのに40年前のTVや雑誌ではさも当たり前のようにそういったCMを扱ったものを流していて、あたかも日本中のすべての人が当然知っているごとくにやっているという、実におごりたかぶった文化を感じていた。まあもちろん関西しかやっていないCMもあるけれど、関西人はそれを東京まで持ち込もうとは思わない。ある漫才師が関西では有名な薬局チェーン店にひっかけたネタを地方で演じて誰も笑ってくれなかったという話があるが、関西人はそこでローカルネタを知るのだが、関東人は自分自身が東京ローカルだとは決して思いたがらない。
で、バスガイドに戻ると、そういう意識のガイドが多く、東京人なら知っているだろうというネタをあたかも関西から来た中学生も知っているものと思い込んでガイドするのだから、話がチンプンカンプン。まあガイドの話など誰もまともには聞いていないからいいようなものだが。東京に出て、ここが「あの」サンアイ・ビル」と案内されても、それって何?の世界。今ならマルキューやアルタとかよく知っている名前も多いけれど。
恐れ入るのは、おそらく当時の大人でさえ知らない歌の替え歌で富士五湖を紹介するのだから、誰もついては歌えない。この曲、その時は曲名もまったく聞き取れなかったが、元歌がdそういう歌か知った今でも、いまだに元の歌を聞く機会がない。

と余談はおいといて、
バスで富士山のまわりを回る。昼食は白糸の滝で。「滝の白糸」なんて話は中学生が知るわけもないから。その後風穴見学。そして旅館について一泊。夜に何をしたかまったく記憶にない。
翌朝、河口湖の前で記念撮影。天候が少し悪くて、河口湖に逆さ富士はうまく映っていなかった。
バスで一路東京へ。まだ高速道路は完備されていない。東京では皇居前の二重橋で記念撮影。国会議事堂前で1枚。中の見学。そして東京タワーへ。SMAPの歌でお土産品は「努力と根性」と書いたウェイトというのがあるが、本当に売っている。まだ高層ビルもなかったから、皇居が見えるくらいだったか。
夜の東京を走って旅館で一拍。部屋での記念写真がかなりくつろいだ雰囲気の写真で思いで深い。
翌日は羽田空港。川西にはすぐ南に伊丹空港があるのだから別に羽田空港は珍しくも何ともないのだが。まあお土産品を売っている店がそんなにないから寄ったという意味もあるのだろう。ここで僕はお土産として、写真を入れて首に掛けるロケットを買った。当然あこがれのTさんの写真を手に入れて入れるつもりで買ったのだが、とうとう写真は手には入らずじまい。旅行後、写真屋がスナップ写真の販売もやっているのだが、お金もなかったし、ばればれの写真を買うわけにもいかなくて結局手に入れられなかった。I先生が湖の岸辺で彼女の写真を撮っている現場に遭遇して、背景の中に紛れ込むことに成功したのだが、その写真を貰えないかと言いに行ったら変に勘ぐられてしまったのであきらめてしまった。唯一のチャンスではあったのだが。
帰りは品川操車場から集約列車に乗って帰るはずだったが、どういう事態に遭遇したのか一向にわからないが、そこで何時間も足止めされることに。おそらく4時間くらいはいたのではないだろうか。ひょっとしたら予定の列車に遅れて、急遽別の列車の手配をして遅れたのではないかと類推するのだが確証はない。まあとにかくなんとか無事に帰って来れた。

実はこの修学旅行から帰ったその日が英検の受験日だった。
初めての受験で、しかも修学旅行あけということもあって、5級の受験とかなり低めの級を受けたのだが、早朝に帰宅して少しだけ仮眠して受験会場に出かける。けっこう眠たくて途中で一度うつらうつらした時もあった。ちょっと聞き取りにくい問題もあったが、正解だろうと思われる時に全体がざわついたりしたのでそれに○をするという、ちょっと反則技も使ったが。
上の級だと会話とかもあるので、しゃべるのが苦手と言うこともあって上の級は受験しなかったのだが、結果として5級は楽々合格した。その後上のクラスは受験することもなかったが。

中学3年でのできごと

2010年06月16日 | 個人史
修学旅行までの間、中学3年で何をやったのか、授業内容も含め思い出そうとしたがまったく思い出せない。特に変わったことはしなかったし習わなかったのか。

ただまあ、首を痛めたこととか、メガネをかけるようになったのが中3のときだったり。プールは相変わらず見学で通したし。
エレキブームが来ていたが、当時エレキをやっているのは不良というイメージが強く、学校内ではポップスは全面禁止だった。昼休みに校内放送でエレキの曲が流れてきて、放送部の部長だった友人のT君があわてて放送室に駆け込んだこともあった。

寺内タケシの「レッツゴー運命」という、クラシック曲の名曲をエレキギター伴奏に編曲したアルバムが出たのだが、音楽の時間に、授業の一貫としてこのレコードを丸々一時間聴くことが出来た。これが精一杯。学校内校則はかなりゆるい方ではあったが中学生としてふさわしいという原則だけはしっかり守られていた。腕時計とかは何も言われなかった。誰かの時計が紛失して全校生徒で学校中探しまくるという事件はあったが、それで禁止と言うことにはならなかった。

ある夏の日、学年毎の終礼を運動場でやっているときに、突然夕立が降って、あわてて体育館の屋根のあるスペースに避難するということがあった。体育館は二階建てで、二階にあがると、正面の下界に突然雷が落ちた。まともに落雷を目撃する。すごい音がした。見る見るうちに火の手が上がって、しばらくして消防車が走っていく音が聞こえた。学校が山の中腹にあるので見ることの出来た光景だった。

この年に学校として初めての文化祭が開かれることになった。文化クラブだけの発表ではあったが、そのことは別項で詳しく述べる。


中学3年になって

2010年06月14日 | 個人史
中学3年の時の担任は、音楽のH先生という年配の女性の先生だった。僕が音楽が好きだと言うこともあって、ぴったりだったのだが、いろいろ関わることとなる。コーラス部の顧問をされていたのだが、女子ばかりと言うこともあったが、頼まれてコーラス部の手伝いをすることにもなったり。教育関係の出版社S社の本をいろいろ買っていたが、その中にコーラス曲もあったりしたので、H先生にその本を紹介して、その中に載っていた「モルダウの流れ」をコーラス部で扱って、この曲とはとことんつきあうことになるのだが、その件に関しては別項で。

最高学年と言うことにもなるが、あまりサイコー学年でもなかったが。
クラブではようやく下級生が入ってくる。顧問の先生が勧誘した2年生が5名ばかり春に入ってきて、歓迎会をかねて五月山にハイキングに行く。実はこの春休みに3回五月山に行くことになるのだが。クラスで行ったり、地区の子ども会で行ったり、まったく同じコースを3回も行くのは、このハイキングコースがよく親しまれた手軽なコースだと言うこともある。

目標値として「日の丸展望台」というのがあって、当時はまだなかったが、万博会場がそこからよく見えた。建設途中では出来上がっていく様子がしっかり見えたり、今は夢の跡の会場が今でも見える。

Oさんの入院

2010年06月11日 | 個人史
中2の時に文通をしていたOさんが入院したのがスケート教室に通っていたのと同じ2月のこと。内臓の病気なんだろうが詳しいことはわからないが、長期入院をした。池田市は五月山の麓にあるK病院で、日曜はスケートに行くので土曜日にちょくちょくお見舞いに行った。

彼女のクラスの子も何人かお見舞いに来ていた。女子もいたとは思うが、男子も見舞いに来る。男女問わずけっこう気さくな子だったから。
風の噂では、彼女と同じクラスのT君と仲がよいとからかわれているとか聞いたが、そのT君も来ていた。先日小学校のアルバムを見直したらOさんとT君は小学校で同じクラスだったみたい。さらにちなみに、T君は卒業時には僕を差し置いて学年総代として卒業証書を受け取った。I先生の話では、僕を押す声もあったが、実技教科の評価が劣るので、総合的な判断でT君に決まったとか。まあ僕にすればどうでもよい話ではあるのだが。

病院には何度か見舞いに行ったり、そうしょっちゅうではなかったので、ある日思い立って見舞いに行ったらすでに退院した後だった。で、その後なんとなく文通は途絶えてしまった。そうして僕の2年生は終わった。クラスのサッカー熱もいつしか冷めていってた。

「アイススケート」と「ピーナツ」と「落ち葉の物語」

2010年06月08日 | 個人史
以前に書いて、消えてしまってからショックでしばらく書けなかった。ほとんど書き終わるところだったのに。

で、ようやく気を取り直して書き直す。

三題話である。いやいや、本当は同じ時の出来事として「友人の入院」というのも加えるべきなのかもしれないが。とにかく、一つのことを意識すると必ず他の二つの事を思い出さずにはいられないという、たとえば、TVでアイススケートを見るとピーナッツが食べたくなってきたりとか、ピーナッツを食べていると必ず「落ち葉の物語」という歌が頭の中に流れてくる。そんな密接な関係がある。

アイススケートを習いに行ったのが中2の2月のこと。
大阪は梅田にあった屋内型のスケートリンクで、いしだあゆみとその姉の石田治子も通っていたというリンクだが、1ヶ月間毎日曜の早朝にスケート教室が開かれているという、阪急友の会のお知らせがあったので、1ヶ月間通うことにする。日曜の寒い早朝に出かけて、講習が終わるとその後はフリータイムで一日中(と言っても長くはいないが)すべっていられるというもので、まったくの初心者ながら参加する。

しかし、結論から言えば、教えてもらったのは最初の一日だけ。しかも靴紐の結び方と氷上の歩き方のこの二つしか教えてはもらえなかった。

理論的にはアイススケートは重心の移動さえできれば滑られるようになるので、正しい歩き方ができさえすればそれで十分というところがある。
まず片足立ちをする。次に上げた方の足を地についている足の横に置き、静かに重心を移動させてもう片足に完全に重心を移動させれば反対の足を上げる。これの繰り返し。
そして今度は重心を移動させるのと同時に少し前に軽く押し出す。重心の乗った片足で滑り出す。この時、重心の移動が出来ていないままに押し出すと残った方の足が後ろになってしまって、そちらに重心が残ったままなのでこけてしまう。
少し滑り出すと、足を横に置いて重心を移動させるだけで反対の足でも前に進むことができる。
最初は重心の移動だけの練習で氷上を足を交互に上げて歩いて行く。慣れてくると少し押し出して、これでしっかり滑られるようになる。
滑るだけなら一日ですっかりできるようになる。

そして習ったのはこれだけだった。
まあ、小学生の女の子ならこれから先フィギュアをいろいろ覚えていくのに、その後のことも教えて貰っていたのだろうが、中学生男子で滑れたら良い程度の生徒には他に教えることなどなかったのかもしれないが。

そんなわけで1ヶ月4日間の後の3日は何も教わることなくフリーで滑るだけになってしまった。まあそれでも滑られるようになったのだからいいんだけれど。
何度も転んでそのたびに暖炉で暖めたり。その間にテラスに出ているうどん屋できつねうどんを食べていたり。お金があまりないので、スケートリンクに行ってはいつも食べていたのがピーナッツの自動販売機で、小銭を入れると少量のピーナッツが紙のお皿に入って出てきた。豆類は本当はあまり好きではなく、特に落花生は今でも食べられないのだが、柿の種に入っているようなピーナッツだけは今でも好きだ。一時嫌いになった時期もあって食べなくなった頃もあったけれど、中2以来、好きな期間の方が長い。ピーナッツは好きだが落花生は嫌いだと言うことも後にわかったことだが。ちなみにうちの娘もピーナッツは大好きで、家で買っているといつのまにか無くなっていたりする。

スケートには音楽がつきもの。昔はスケートリンクにはレコードがかかっていた。DJのような存在はいなくて、音楽が聴きたければ自分でレコードをかけるしかない。昔は「ジュークボックス」という便利な機械があった。何10枚物レコードがおさめられている機械で、お金を入れて番号を押すと、指定されたレコードが選び出されて自動的にかけるという機械。昔は盛り場等人の多く集まる場所では、今のプリクラ並みにどこでも設置されていた。
このジュークボックスで僕のお気に入りだった曲が、ザ・タイガースの「落ち葉の物語」。彼らが出演していた某チョコレートのCMで使われていた曲の元歌で、タイガースの歌の中では今でも一番好きな歌だった。

だからこの時期、どこのスケートリンクに行っても、ピーナッツを食べながら「落ち葉の物語」を聞いていた。

梅田のスケートリンクはフィギュア専門のリンクで、駅から近かったのだが狭いのが難点で、足を伸ばせば阪神電車淀川駅のそばにラサ・スケートリンクという大きなリンクがあったので、滑りに行きたい時はこちらの方をよく利用した。ちなみにいろんなスポーツセンターでもあって、アーチェリー場もあったので、帰りにはアーチェリーをするのが常だった。もっとも当時のアーチェリーは特別な装置のついた弓ではなく、何もついてない弓を使用していたのだが。
ここのスケートリンクはスピードスケート用とアイスホッケー用の2面のリンクがあった。フィギュア用ではホッケー用のリンクしか使用できず、スピード用では中のリンクは使用できない規則だった。ハーフスピード用の靴もあって、これは中でも使えたかな?僕はここではハーフスピードかホッケー用をいつも借りていた。フィギュア用ではときどき先に付いているエッジでつまづいてこけることが多かったから。つまづく癖は別にエッジのせいだけではなかったことが今ではわかる。今でも何もない場所でつまづくことが多いから。

一人で行くこともあったが、その頃親しかった友人のK君が一緒に行きたいと言うことで二人で行くことにする。すると、スケートに行く話を小耳に挟んだクラスメートのMHさんが私も一緒に行きたいということになって、じゃあ3人で行くことになる。
このMHさん、スケートはまったくの初心者だった。一緒に行ったのはよいけれど、全然滑れずに、端をつかんでぐるぐる歩くだけ。見るに見かねて手をつないで一緒に滑ることに。連れてきて、ほったらかして悪かったなと今でも後悔する。
このMHさんと先日MIXIで再会した。40数年ぶり。スケートに行ったことは覚えていた。こちらが忘れていたことまで覚えておられた。

最近はスケートリンクも少なくなってなかなか行く機会がない。うちの娘とは一緒に滑りに行ったこともあって、娘も一応滑れるが、この数年行ってない。