丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

父のこと

2008年09月25日 | 個人史
父は頑固で怖くて、遊んだ記憶があまりない。堅物で曲がったことは嫌い。仕事でも社内でトラブルが起きたりすると嫌気がさして辞めてしまったりするので、いくつの職種についたのか誰も数え切れない。ある時は社内の同僚がミスをしたのを父に責任をかぶせて知らん顔をしたのに嫌気がさして、弁解も何もせずに退職、他の会社に移ったが、後にその同僚が再び同じ失敗をして前回のことも濡れ衣を着せたことがばれて父に謝りに来たことがあったとか。それでも気分良く仕事が出来ない会社にいる気がしないとか。
頑固で言い出したら聞かないし、自分の言い分が常に一番正しいと信じ込んでいる。もっとも戦中派のとことん保守でありながら、終戦後戦争責任を取らなかった天皇を批判していた珍しいところもある。

融通が利かない父ではあったが、今でも一つよく覚えているのが、そんな父が初夏のある日にこんな質問をしてきた。
「鯉のぼりの真鯉と緋鯉はどちらが上か?」
わからないと言うと答が、
「コイに上下の区別はない」
いやぁ、粋な答だね。
そんな父は母とはたまたま隣に住んでいただけの成り行き結婚ではあったが、実は最初の奥さんとは大恋愛だったとか。戦時中に娘まで生まれていたが、戦争で奥さんと娘のどちらも亡くしてしまった。
祖母が亡くなったときに仏壇を新調したが、その時に過去帳も作り替えた。以前の過去帳がめちゃくちゃ古くからの物で、父でさえ知らない人物が書かれていて、それを父がわかる代から後を残すようにした。その古い過去帳に戦時中に亡くなった菊枝という名の父の最初の奥さんと恊子(やすこ)という父の娘の名前が書かれていた。(もちろん父の兄と早くに亡くなった父の兄の娘の名前もあった)
「やすからぬ子だった」と父はぽつりとつぶやいて、新しい過去帳には二人の名前は消してしまった。母に対する遠慮もあったのだろうが、自分の思い出の中だけにしまい込んでしまった。

兄の息子二人を自分の養子にし、さらに3人の息子が生まれて5人の息子の父親となった父には、昔から一つの夢があった。それは、息子達がみな結婚した後、それぞれの嫁さんの父親を一同に集めてお酒を酌み交わすことだった。皮肉なことに、それぞれの嫁の父親は全員お酒を飲まなかった。ちなみに息子達の嫁は全員長女という偶然もあったりするが。

父は酒が大好きだが、酒でつぶれたことは一生のうちでほんの数回しかない。いつも晩酌に日本酒を2合と決めて飲んでいた。冬はもちろん夏でも日本酒が主で、たまにビールを1本飲むこともあるが、そのときも必ずキリンビールで、他のメーカーのビールはまったく飲まなかった。一度ビールを飲んだならその後に日本酒を飲むこともなかった。ちゃんぽんは絶対行わない主義で、だから悪酔いすることがない。だから一般的によく言う「酒飲み」という概念を知らなかった。たまにお客を連れてきてめちゃくちゃな酔っぱらいだったときに、これがいわゆる酒癖の悪い人なんだと思ったくらい。

父は早くに運転免許を取得していたので、車を使った仕事を主にやっていた。僕が免許を取るまで自家用車こそ持っていなかったが、会社の車を持って帰った時などに、時々休日ドライブを行ったりもした。ある時は奈良の若草山に行って、オーバーヒートして山中で車を冷やしたり、鈴鹿に行ったときには峠の交差点に入ったところでエンストを起こして回りに迷惑をかけたり。ゴールデンウィークの初日の夜中に突然出かけようと言い出したり。滋賀にいる叔母の家に急に押しかけて止めさせてもらって、そこから出発したり。思いつきがけっこう多かった。

まとまったお金はいつも持っていなかったので、欲しい物はいつも月賦で買っていた。一つ払い終えると次の物をまた月賦で購入するという繰り返し。覚えている一番最初の買い物は、昭和30年代にTVを買ったこと。しかし数週間ほどでTVは電器屋に戻っていった。月賦を祓いきれなかったようだった。僕も最初は月賦を行っていたが、すぐに一括払いの方がずっと得だとわかって月賦は行わないことにしたが。

父は母としょっちゅう喧嘩ばかりしていたが、隠居してからは二人でよく旅行に出かけたり、一緒にゲートボールをしたり(ゲートボールの審判の資格も取った)、けっこう平穏に余生を送ったようだ。まあ喧嘩もよくあったが。そんな父も2度の癌の手術を行って、大震災の前年に亡くなった。3月9日に、病院の看護士たちやらみんなにサンキューと言って。

生まれた家のこと

2008年09月24日 | 個人史
僕が生まれた池田市石橋の家は、阪急宝塚線石橋駅の近くにあり、小学1年の11月まで住んでいたのだが、いまだに間取りをはっきり覚えている。家の裏は市内を流れる川に面していて、バスが通る表通りから横町に少し下がった路地に面して玄関がある。表通りから下がっていて、川よりけっこう高い土手があるので裏路地に面したどの家も、路地から段々を上がって家の門になる。大雨が降るとその路地は完全に水浸しになるので長靴がかかせない。

和風の玄関を入った所は普通の廊下の2倍ある廊下というか入り口になっていて、何のためにそういう作りになっているのか謎。正面に床の間風の飾り棚がある。夏の暑い日には兄弟そろってその板の間で昼寝をよくした。
家全体は「となりのトトロ」の家に実によく似ていて、あのアニメを見るたびに生家のことを思い出す。板の間を上がって左に三畳の部屋があり、貸家として他人に貸していた時期もあった。玄関と三畳の部屋の間の廊下を入ってトイレになる。板の間から三畳の部屋の右にそって、小さく段を上がった正面が風呂。関西だから埋め込み式で、わりと広めだと思っていた。
風呂の前を右に曲がって、その右側に二階にに上がる階段がある。風呂の横には数段下がって昔風の台所があって、いわゆるへっついさんがあった。その台所が風呂の焚き口でもあり、薪をくべるために薪がつまれている。ちなみに薪割りもよく行ったものだ。台所の反対側一家8人がに食卓を囲む六畳の部屋があった。

玄関の板の間の右側に洋間があって、両親と僕は主にここで寝起きをした。ちなみに生まれたのもこの部屋だという。この洋間の横をぬって廊下が続いているが、例の幽霊の写真を撮った縁側がそこに続く。その正面には温室風の部屋があったようだが、戦時中に部屋ごと無くなったような感じのスペースになっていた。土台はあるのだが床を残して部屋自体がなくなたような。だから廊下からそこに入るドアの跡まであった。トトロ風に言えばお父さんが家で仕事をしていた部屋のような雰囲気。当然ながらそこから庭が眺められた。庭には柿の木などがあり、トウモロコシを植えたりもしていた。
この廊下で食卓のある六畳の反対側に出てきて、その奥に祖母と義兄二人が寝起きする八畳間があった。廊下はその八畳間を回るように続いていて納戸に突き当たるのだが、何かしらその奥が怖くて近づくことができなかった。今でもどこの家でも長い廊下の(特に奥で角を曲がる構造の廊下では)奥には近づけない。あるいは本当に霊がただよっていたのかもしれない。

廊下では祖母がよく内職で最中を作っていた。小豆を電熱器で炊いて、こしあんの時は布でこして、こして残った皮を集めて作ったお菓子がとても美味しくて今でも覚えている。

風呂の前の階段を上がると二階の部屋になる。高所恐怖症ということもあって、この階段を上るのは少し怖かった。上がったところは部屋の出入り口というか、小部屋になっていて、ちょっとした勉強机などはおかれた。その隣に六畳くらいの部屋があって、兄二人はおもにこの部屋にいた。祖父がまだ生きていた頃はここにずっと寝かせられていたそうで、末期癌でかなり臭いがきつかったという。そういったことも聞いていたのでいっそう上がるのが怖かったのかもしれない。

この家は持ち家だったのが、わけあって出ることになり、売りに出して引越をした。後に知ったことだが、実は電熱器で内職をしていた頃に、メーターを通さずに勝手に敗戦をして電気料金をごまかしていたとか。ところがある日に検診に来た電気会社の人が不審な配線に気がついたそうで、とっさに電熱器をこたつの中にほおりこんで隠したのでその分はばれずにすんだが、相当な追徴金を払うことになったとか。8人家族の貧しい生活で(学校では援助家庭の指定を受けていた)結局はそんなこともあって家を売ることになったようだ。家の跡地にはマンションが建ったのだからけっこう敷地面積は広かったと思う。駅から近く電車からも見えたので、今でも電車で通るたびに家の跡地を眺めてしまう。

池田市のこと

2008年09月21日 | 個人史
僕が生まれた大阪府池田市は、大阪府北部、「北摂地域」と呼ばれる場所にある、人口40万人の衛星都市である。北側に「五月山(さつきやま)」という市民憩いの公園がある小高い山がある。京都の嵐山までつながる山系の西の端に位置する。毎年夏には「大文字焼き」が行われ、すぐ近くを流れる県境の猪名川では恒例の花火大会も行われる。近年は川の上を高速道路が走っているが、花火大会が行われる日には通行止めになる。

縄文時代には大阪平野は海の中にあり、五月山が岬になっていたという。海の中には小島が点々とあったということで、この地域には「○○島」という地名が多くあり、あるいは入江を意味する「津」という文字が入った地名も多く見られる。

大和時代には朝鮮半島からの渡来人が多く住み着き、ちなんだ地名もまた多い。
戦国時代には西国街道が京都からつながり、重要な街道の要所であり、城も建てられたという。近年、有志がお金を出し合って、史実にはない天守閣が建てられ城跡公園ができたが、シンボル作りの一貫かもしれない。
落語で「池田の猪買い」というのがあって、大阪の地から猪を買いにやってくる話がある。江戸時代には猪も多くいたようだ。ちなみに名神高速道路の最初の事故は猪がはねられたことだが、北摂地区の茨木または高槻あたりだったとか。

池田市出身の有名人と言えば、兄が中学時代同じ学校にいたという奥村チヨ。正式デビュー前に深夜のTV専門で某有名人の名前をとったある栄養ドリンクのCMソングを歌っていた。その頃封切りされていた洋画とのタイアップで、映画の場面がCMに用いられ、映画のタイトルを歌いこんだCMソングを次々と流し、後に商品名部分を別の歌詞に置き換えた歌で正式デビューした。
他に池田市というとすぐに浮かぶ名前がいしだあゆみ。最近のNHKの朝ドラのモデルにもなったが、当時から池田の駅前商店街にある彼女の実家は池田市民なら誰でも知っていた。
沢田研二の奥さんの田中佑子の家が僕の家から歩いて5分ほどの場所にあったようだ。
政治家では自民党の原田憲というのが大物で、彼のおかげで阪急電車の池田駅は早くに高架になり、そればかりか駅前開発で2回建て替えられた。彼の息子が後を継いだようだが、これも朝ドラの原作に主人公と同じ年の知り合いと言うことで出てきている。ちなみに先年の総選挙ではうちの娘がアルバイトのウグイス嬢で彼の宣伝カーに乗ったが。

歴史と伝統もあり、それでいて近代的でもある池田市は、けっこう住みよい街である。

叔母の七回忌

2008年09月14日 | 個人史
今日は叔母の七回忌。
今は一人暮らしをしている叔父を筆頭に、その2人の娘とその家族全員。上の娘は教育委員会にいる旦那と長女・長男。下の娘は今東京に住んでいるが、旦那と、3人の息子。一番下の息子は、叔母が亡くなった時にはまだお腹の中にいたと思う。そのお兄ちゃん二人は葬儀の時や三回忌の時にはまだ幼くて、僕が手品を見せたりして喜ばせていたものだが、今やしっかり大きくなっていた。男の子3人とはいえ、それぞれ少し年が離れているからうまくいっているのかもしれない。
ふと考えれば、叔父には娘しかいないのに、孫は5人もいながら、女の子は一人だけなんだなと。一番下の従弟をさも自分の子どもみたいに可愛がっていたが。

後は、亡くなった以外の叔父の兄弟が、一番上の叔父だけ不参加だが(ここは夫婦とも少し認知症が入ってきて外出が難しくなっているようだが)後はみんな集まって、足が悪い叔母はこれも耳が遠くなって老いた旦那を下の娘が車で送ってきた。この従妹とはずいぶん久しぶりに会う。下の欄に書いた僕が親しかった従妹が集まったのでけっこう話も盛り上がる。
亡くなった叔父の替わりに長男が、いつもは母親を連れてくるけれど今日は一人だけで。僕の所は上の兄が今外国に出張とかで来れなかったが、下の兄がやってきた。兄のところも今はいろいろ事情が複雑なのだが。

で、20人弱の参加で法事を行う。
お寺さんがやってきたが、酸素吸入器持参でやってくる。大丈夫かなと心配はしたが、何でも、息子が行うはずが急な葬式と重なってしかたなく無理して来たとか。肝臓癌でここ数年の間に何度も手術を行い、また肺も弱ってきていて呼吸困難で、今は三分の一の肺で呼吸をしているとか。それにしては案ずるよりはとかでお経は元気な声でしっかり行われていたが、後でそういう話になって、その時はかなりつらいということだった。職業的にお経を読むときだけは憑依するというか状態がよくなるようだ。

古い人間はいろいろ昔話をなつかしんだり。で若い人は別にやっているけれど、交流はなし。せっかくなので今日はデジカメを持って行って二人に従妹の家族の写真も撮っておいたが、関係はわかっても名前はわからず。上の従妹とは年賀状のやりとりをしているから家族構成とかはわかるけれど、下の従妹とはそういうやりとりをしていないから、この機会しか顔を合わすことも話をすることもない。ましてや東京住まいで会うこともないし。

家系図作りをしないとさっぱりわからない時代になってきているが、それもまた難しい作業になりそう。

叔母・叔父のこと

2008年09月10日 | 個人史
母は6人兄弟の一番上。もっとも、母のすぐ上とすぐ下にそれぞれ女の子がいたそうだが、産まれてすぐにどちらも亡くなったとか。だから母は一応長女にはなっているが、本当は二番目。

すぐ下に叔母がいる。この叔母はいろいろ厳しくて兄弟みんなから煙たがられてはいるが、僕はなんとなく好きだ。薬剤師の免許を持っていて、嫁ぎ先が琵琶湖のほとり、近江八景で有名な浮御堂から歩いて5分の場所に薬局を開いていた。
余談だが、昔TVの深夜ドラマ「亜矢子」という番組が某薬品メーカーがスポンサーで、その薬局を舞台に使いたいという依頼があって一日提供する。店の陳列商品がすべて置き換えられたとか。放送を楽しみに毎週見ていたがほんの一瞬だった。ちなみに主演はこれがデビュー作の中山仁。

家の裏が琵琶湖と言うことで、家から水着のまま琵琶湖に入れたので、夏になるとよく泊まりに行った。この家でのエピソードはいろいろあるが別記にする。
叔母には二人の娘がいて、上は兄と同い年(かの幽霊の写真に一緒に写っていた)、下は僕より3つ下、ということで、僕と一番年が近い従姉妹ということになる。僕より年上のいとこは、この従姉一人だけ。ちなみに母の兄弟はすべて子どもが二人ずついる。
(父方のいとこは兄弟扱いしているので別)

叔父は4人にて、一番上の叔父は病院関係だそうだが、具体的に何をしていたのかは知らない。祖父母の晩年はこの叔父と同居していたので、まだ生きている頃は母がよく会いに行ったのでつきあいで(僕が免許を取ってからはドライバーとして)訪問した。もっとも、正面玄関から入らずに裏口から会いに行けるように家を改造していたので、母があまり顔を合わせたくなかった叔母に会わずに行くことがほとんど。この叔母とは根本的に話が合わなかったようで、僕も苦手。もっともあちらの方では僕に会いたがっているようで、賀状とかその他で家に来るようにしょっちゅう言われるが、個人で訪れたことはない。近年はどうも軽い痴呆症の傾向が見られる。

2番目の叔父はいわゆるひょうきん者。祖父母が宝塚にいる頃は、毎年正月2日に謹賀の集まりをしていたが、昔からムードメーカーで笑わせてばかりいた。
しかしシャレにならないこともあって、ちょうど我が家で祖父母を預かっているときに会社で問題を起こして、相談に叔父夫婦が二人の娘を連れてやってきた。大人の話なので、娘二人は僕の部屋で遊んでいたのだが。結局、降格処分でやり直すということで会社では決着したようだが、団地住まいで元からそれほど裕福ではなかったが生活は厳しくなったようだ。
で、その時についでながら、上の従妹が中学3年生だったこともあって、しばらくの間家庭教師を頼まれて、週末毎にバスで通った。この従妹は後に小学校教師になったこともあって、それ以来いとこの中では一番親しくなった。
二人の子どもも独立し、それぞれ孫も2人ずつでき、ようやく落ち着いて夫婦水入らずということでのんびり過ごそうと言うことにはなったが、叔母はスイミングにも通ってまさに健康そのものだったのに、六年前、検診で癌が発見され、あっという間もなく3ヶ月後には亡くなる。心の準備もできないままの叔父の心境はいかんばかりか。

3番目の叔父は趣味が手品で、玄人はだしの腕前。いつも小道具を用意していて機会があるごとに見せていた。ガンで亡くなってもう数年経つが、葬式の時には手品で棺桶から抜け出してくるのをみんな楽しみにしていた。子ども二人は男の子。昔はやんちゃで暴れまくっていたが、親が亡くなってしっかり家長になった。

一番下の叔父は僕たち兄弟と一番年も近いこともあって、叔父達の中では一番親しい関係だった。若いときは当時としては数少ないギターを弾きこなして、流しをやっていたこともあったとか。今で言うストリート・ミュージシャンか。叔母の結婚相手が3人兄弟の長男で、その下に妹が二人いたのだが、その兄妹ともつきあいが深かったこともあって、自然に下の妹と親しくなって、お互いの兄妹同士で結婚。結婚式には僕も出席した写真が残っている。わずかにその記憶もある。
結婚前からお互い家庭のことをよく知り合っていたこともあって、自然と祖父母と同居。祖父母と一番うち解け合っていたのだが、転勤族で、何度も転勤を伸ばしてもらっていたのが無理も利かなくなって離れることに。その後は教育界ではうるさいことで有名な「西の名古屋」と「東の千葉」をそれぞれ移り住む。
名古屋にいる頃に、娘が学校から難しい問題を出されて教えて欲しい、ということで、車を飛ばして泊まりに行ったことがある。
兄が岐阜にいるので、岐阜と名古屋は近いからよく会っているそうだ。

親族はほとんどが関西圏だから、千葉まで行くとなかなか会うこともないので、いとこたちとも話をすることもほとんどない。この一番下の叔父の子供達も、僕といとこだったことをその時にやっと意識したような。叔母の家族とは夫婦ともが兄妹なので会うことが多いので、いとこと言うとそちらしか意識がないそうだ。

伏せ字としての「K」

2008年09月10日 | 個人史
僕の本名の苗字が「K」。
入園した幼稚園と小学校は同じ敷地にあって同じ名前の「K」幼稚園と「K」小学校。
転居した先が「K」市。小学校3年生で転校して、市内の小学校と中学校を卒業したが、市の名前がそのままついた「K」小学校と「K」中学校。
高校は隣の市にあった「K」附属高校。大学は「K」大学。

母の実家が「K」。叔母が嫁いだ先も「K」。ちなみに、僕と一番年が近い従妹の結婚相手も「K」。僕と一番よく話をする従妹の結婚相手も「K」。当然ながらこの二人は結婚してもイニシャルが変わらなかった。

僕の奥さんの旧姓も「K」。今住んでいる町の番地も「K」。

これだけKだらけだと、名前や学校名を伏せ字にしてもわけがわからなくなる。

母方の祖父母

2008年09月07日 | 個人史
僕が産まれたときには父の父はもう亡くなっていたから、「おじいちゃん」と言うと母方の祖父のことを意味していた。逆に「おばあちゃん」は同居している祖母のことで、母方の祖父母の金婚式祝いでお祝いの言葉を言うのに、言いづらかったことを覚えている。ここでは、この文章以降、祖父母というと母方のことを言うこととする。

祖父母の出身は奈良県の吉野とか。今でも親族がたくさんいるようで、先年祖父母が二人とも亡くなった後、母が訪れたことがある。若いときに大阪市大正区に出てきて、おそらく戦時中に池田市に越してきたのだろう。
我が家とは隣同士で、その縁でうちの両親が結婚するのだが、隣の家に何度か訪れたこともあるのだが、あまり良く覚えていない。早くにテレビがあったことだけ覚えている。

その後、我が家の引越より先に宝塚に引っ越しする。家の裏が川で、そこを少し上った所で毎年花火大会が行われて、よく見に行ったものだ。宝塚劇場には縁はないが、宝塚ファミリーランドに近いことで拠点にもした。

祖父は長年池田市の市役所に勤めていたが、あと1年で恩給がつくという時に、公園の管理事務所に転勤が決まり、冬は寒い場所で体がもたない、ということで退職する。その後は一番下の叔父夫婦と同居。この叔父が一番祖父母になついていて、いつまでも同居したがっていたが、転勤族のため離れることとなる。祖父母は転勤先についていくことも出来ないので、その後は長男の家に同居することとなる。叔父の家を同居のために改造する間、一時我が家で祖父母が同居することになった。他の兄弟にもいろいろ事情があったのだろうが、あれこれ言うのが嫌いな父は快く同居を認めて、狭い我が家に引き取った。我が家より広い家がいくつもあったのだが。
半年ほどの同居の後、叔父の家に移ったが、そこで亡くなるまでいた。もっとも晩年には老人医療施設に入ることにもなったが、そこの環境はかなり劣悪で、亡くなった後に、そこに入所させたことを怒っている者もいたけれど。

祖父はいたって温厚な性格だったが、火葬の後、係の人が骨を見て、この人はそうとう頑固だったでしょうなどと言っていた。誰もそうは思わなかったが。

祖父母が亡くなるまでは叔父の家によく尋ねに行ったものだが、亡くなってからはまったく寄りつかなくなった。もっとも、尋ねに行った時でも裏口から入って、叔母には会わずに帰ることも多かったが。

小説「耳なし芳一異聞」(転載)

2008年09月05日 | 詩・小説
またまた、HPよりの転載です。


 和尚のあせりはいかばかりであろうか。耳を引きちぎられし傷も癒えた芳一が戻ってくることは遅かれ亡者にも知れるところとなろう。

和尚の不手際から招いたことはいえ、一生残る大きな傷を芳一に与えてしまいしことは悔やんでも悔やみきれぬ。一命を取り留めたことのみ幸いと言えよう。和尚にできる償いは、これ以上芳一を傷つけることのないよう最善の手だてをほどこすことのみである。 耳のみを持ち帰った亡者どもがこのまま放っておくはずもない。使いの者がいくら愚かなりとて、主にあたる者のなかには教養も深く、仏の道に心得た者もあまたいる。耳のみが闇に浮かびし訳も知るところとなるに相違ない。養生の身にある芳一の元に現れなかったのは、ただ耳の傷の癒えたるを待つためと思えり。彼らとても悪意を持て芳一の耳を奪いたるわけではなかろう。これまで土産も存分に持たせて帰らせるも彼らの並々ならぬ芳一への肩入れの証に違いない。されど、彼らの好意が、現世に生きる芳一にとって、あの世へ導く手だてとなっておることに一向に頓着をしておらぬ様子に、和尚は限りなき腹立たしさを覚えるばかりである。

 芳一が戻る七日あまり前より滝に打たれ、身を清める和尚の姿があった。芳一が寺に戻りて後は一筆ごとに経を唱え、体の隅々はもとより、ちぎられた傷跡も生々しい耳の周囲にも、まぶたや爪の間にも、およそ書けるところすべてに経文を書きつらね夜を迎えた。隣室で夜を徹して経を読み続ける和尚の心の目に、亡霊が忍び寄る姿が明らかに映し出された。和尚の不安は的中せり。彼らはやはり芳一の帰りを待ちつづけたり。隣室では和尚の業が効をせいし、亡者どものあわてる様子がありありとうかがわれた。亡者の、声にならない心の叫びが和尚の澄んだ耳に聞き取れた。…なぜだ。なぜおらぬのだ。芳一が戻りしは明らかなる事にてこうして参りしが。…和尚は己の勝ちに満足であった。

 されど、これで終わりとは言えぬ。彼らは翌日もそのまた翌日も芳一を求めて来るであろう。七日過ぎらば亡者とて近寄ることはかなわぬ。根比べと言えよう。どちらが先にまいるか、和尚は一命を賭ける所存である。

 和尚のあっけない敗北は、予想よりずっと早く迎えることとなる。翌日も昨日と同様の夜を迎えた。決して勝ちに奢っていたのではない。奢る平家は久しからず。まさにその言葉を心に刻む日々でありながらも、亡者の必死の思いの深さまでは読みとることはかなわじ。わが国には仏に手を合わす者ばかりと思いしが、そうとも言いきれぬことがあるなどと和尚に推察できたであろうか。釈迦の教えを受ける者なれば経文に効き目がありしが、異国の宗教を信じる者には一切関わりのないことであることなど浮かびもおよばず。亡者どもは使いの者として異国より伝わりし景教(キリスト教の一派)に帰依する者を送ってよこせり。景教の伝来は仏教の伝来と頃を同じくし、飛鳥の頃にはすでにわが国に伝わりしは知られたこと。聖徳太子が「厩の王子」と称されたるも景教の祖の産まれ落ちたる様を伝承に取り入れたるとも思われる。彼らの経文は仏の経文と異にするものであった。

 芳一は彼らの手に落ちた。一命こそ取り留めて無事に寺に戻りしとはいえ、またしてもあの亡者屋敷に連れられたるは和尚一生の不覚と言えよう。景教のことは噂に聞き覚えもある。都周辺には縁の地などもあると聞く。和尚は人をやり、かの教えを継ぐ者を求め、その経文をも探させた。その間、ひたすら我と芳一の身を清める日々を送りてただ耐えるばかりであった。

 戦のため、かの教えを継ぎたる者が都を離れ、近くに流れおるのを知りたるは実に幸いなること。経文を手に入れるや和尚は仏の経文を書きたる上にかの経文を重ね、およそ隙間もなく芳一の体を埋め尽くした。そして、かの僧を無理を言って寺に招き入れ、二人して芳一を取り囲むようにして一晩をあかし、それぞれの教を読み続けた。亡者の使いの驚きは手に取るばかりであった。確かな勝利に和尚は安堵した。これが続くことを願うばかりと思いしが、亡者の反攻は四日目にはすでに始まりけり。

 およそこの世に「無宗教」なるものがあろうとは信じられぬ。亡者がよこせしは、己さえ信じずおよそ世をはかなみ、浮かばれることのない魂なり。かの傍若無人を絵にかいたような田舎の荒武者でありとても仏の前には手を合わせずにはおれぬというのに。誰もが何かにすがりて生きる世にありて、それさえ失いし魂に、もはや語る言葉はなかりけり。彼らの心を開く悟りの言葉は和尚とて知る由もなかった。もはやこれまでか…。限りなき絶望感が和尚に迫れり。逃げ出すこともできよう。されどどこに逃げおうせようぞ。戦はここかしこで行われ、巷は亡者の山と言えよう。誰もが芳一の噂を耳にし、慰めを得ようと思いし中、どこに逃がれても同じ事。

 亡者の前にやるすべも無くした和尚に、仏のご加護か一条の光明がさし輝いた。明暗とはお世辞にも言えぬ。が、おぼれる我らにはこれより他に残された道はなかりけり。これは亡者と我らの戦と言えよう。戦なら戦うしか道はない。生身の人間が迷える者どもにまともに勝てる訳があるはずもない。亡者に勝つには亡者の力を借りるより他に手があるとは思えぬ。ならば借りればよいのだ、亡者の力を。易しいことと言えよう。平家の亡霊に打ち勝つには源氏の亡霊を呼びよせればよいのだ。戦乱は平家ばかりを滅ぼしたわけでもない。源氏にあっても木曽義仲をはじめとする多くの武者が無念を抱いて滅した。さらには鎌倉幕府も源氏三代はすでに滅び、その後は平家の血を引く北条氏がまつりごとを行っていると聞く。いくら頼朝と手をたずさえ源氏再興のため戦った北条氏といえど、たどれば平家の血をひく者どもである。源氏の血が絶えた今とあっては、源氏の霊とてその無念さに変わりがあるとは思えぬ。

 和尚の取った手段は実に奇々怪々としたものと言えよう。なんと芳一に「源氏物語」を語らせたなり。源義経と光源氏になんの関わりがあろうか。なあに、都人としての素養がある平家の武者に対して源氏の武者はいずれも田舎武者ぞろいである。その名は聞きかじる者もあろうが、中身まで知りたる亡者はおるまい。居直った和尚は強かった。その日から芳一は「源氏物語」の語り手としても評判が高まり、その名前は異国にまで及ぶ者であった。ふてぶてしいともとれる和尚の浅知恵が、この国を再び戦乱の嵐に巻き込むことになろうと誰が知り得たであろう。生き延びて大陸に渡ったと噂される源義経が異国で起こしたとされる大国とわが国が、芳一が住みし寺からほど遠くへだてておらぬ海上で幕府の屋台骨を揺るがすほどの戦を起こしたのは、和尚も芳一も既に没した後の出来事である。

                   完

伯父とその子供達

2008年09月03日 | 個人史
父の兄である伯父は終戦の年に病死している。何歳で亡くなったのかは知らない。義父にいる兄のところに母が居を移したときに、持って行った仏壇にある過去帳には書いてあるのだが確認は今できない。
伯父はいわゆるインテリであったようで、父が持っていた伯父のアルバムを見たことがあるが、1枚1枚に解説をつけているのだが、自分のことを第三者風に「『彼』が何々をしていたときの……」などと表現していた。父が亡くなったあと、そのアルバムがどこにいったのか誰も知らない。伯父の長男とそっくりの姿をしていたのだが、肝心の伯父の長男がその写真を見ていない。

伯父には4人の子どもがいた。昭和15年に長男、16年に長女、18年に次女、20年に次男。そのうち次女が伯父の後を追うように終戦前後に亡くなる。幼子と乳飲み子を3人残して、伯父の奥さんは大変だっただろうが、祖母は溺愛していた長男が亡くなった後、おりあいの悪かった伯父の奥さんを家から追い出してしまった。
いきさつは知らない。当時を知るものは今はもう誰もいない。追い出された伯父の奥さんは3人の子を残して家を出た。その後のことは誰も知らない。風の噂では再婚して3・4人の子どもが産まれたと聞く。

余談ながら、伯父が亡くなって50年を記念した記念会があって、伯父の3人の子どもの家族とうちの母と父の子どもでは僕だけが出席した。
(それがいつだったか覚えていない。父が亡くなる前だったか後だったか。だから父が出席したかどうかも覚えていない。僕の家族も出席したかどうかも覚えていない)
その席で消息を知らない彼らの母親の話も出たけれど、現在を知る者は誰もいなかった。

育てる者のいなくなった3人の子供達は、家の跡継ぎである長男だけを残して、後を養子に出そうとして、世話になっているお寺さんに頼んだそうだ。2人の子どもはそれぞれ引き取り手はあったのだが、終戦の年の生まれで栄養がまったく足りない次男はその養家になじめず、返されてしまったとか。長女の方はYさんという家に行ったのだが、ちょくちょくと我が家にもやってきて交流は深かった。ただし、いっとき、Y家と我が家でつまらない意地の張り合いで疎遠になった時もあったこともあったが。だから彼女の結婚式には呼ばれなかった。
先日彼女から直接聞いた話では、途中にいったんY家から元の籍に戻ったこともあって、3回籍が変わったそうだ。結婚して籍がまた変わって、複雑な人生を歩んでいる。

家に残された長男の世話をすることを伯父の弟である父に任された。
父は愛する奥さんと一人娘を相次いで亡くしたばかりではあったが、家のために、当時隣の家に住んでいた母と、伯父の子どもを育てることを条件に結婚する。
こうして伯父の子どもは我が家の養子となった。後に下の男の子も戻ってきたので、いきなり二人の子どもの親になった。また間の女の子も家族並みのつきあいをしていたので、実質家族同然だった。昔はこの関係が複雑で、上の二人の義兄のことは僕が幼稚園かな小学校1年の時に戸籍を見る機会があって父の養子であることは知っていたし、祖母に連れられて行った先での世間話から祖母の実の孫、伯父の子どもだと言うことはしっていたが、家によくやってくる「お姉さん」がどういう関係なのかはわからなくて、いつもは耳学問ですべて理解していたのだが、この時だけはある夜、母にどういう関係なのかと正式に尋ねて事情を知った。
それぞれが家庭を持ってからは実質姉弟関係で、戸籍的には5人兄弟だが6人兄弟と名乗っている。
複雑だったのは義姉の子供達だろう。「祖母」という存在が当時3人いたのだから。自分たちの父の母と、母の養母と、うちの母と。おまけにそれに加えて会ったことのない母の母がいたのだから。どう理解しているのかは知らない。