父は頑固で怖くて、遊んだ記憶があまりない。堅物で曲がったことは嫌い。仕事でも社内でトラブルが起きたりすると嫌気がさして辞めてしまったりするので、いくつの職種についたのか誰も数え切れない。ある時は社内の同僚がミスをしたのを父に責任をかぶせて知らん顔をしたのに嫌気がさして、弁解も何もせずに退職、他の会社に移ったが、後にその同僚が再び同じ失敗をして前回のことも濡れ衣を着せたことがばれて父に謝りに来たことがあったとか。それでも気分良く仕事が出来ない会社にいる気がしないとか。
頑固で言い出したら聞かないし、自分の言い分が常に一番正しいと信じ込んでいる。もっとも戦中派のとことん保守でありながら、終戦後戦争責任を取らなかった天皇を批判していた珍しいところもある。
融通が利かない父ではあったが、今でも一つよく覚えているのが、そんな父が初夏のある日にこんな質問をしてきた。
「鯉のぼりの真鯉と緋鯉はどちらが上か?」
わからないと言うと答が、
「コイに上下の区別はない」
いやぁ、粋な答だね。
そんな父は母とはたまたま隣に住んでいただけの成り行き結婚ではあったが、実は最初の奥さんとは大恋愛だったとか。戦時中に娘まで生まれていたが、戦争で奥さんと娘のどちらも亡くしてしまった。
祖母が亡くなったときに仏壇を新調したが、その時に過去帳も作り替えた。以前の過去帳がめちゃくちゃ古くからの物で、父でさえ知らない人物が書かれていて、それを父がわかる代から後を残すようにした。その古い過去帳に戦時中に亡くなった菊枝という名の父の最初の奥さんと恊子(やすこ)という父の娘の名前が書かれていた。(もちろん父の兄と早くに亡くなった父の兄の娘の名前もあった)
「やすからぬ子だった」と父はぽつりとつぶやいて、新しい過去帳には二人の名前は消してしまった。母に対する遠慮もあったのだろうが、自分の思い出の中だけにしまい込んでしまった。
兄の息子二人を自分の養子にし、さらに3人の息子が生まれて5人の息子の父親となった父には、昔から一つの夢があった。それは、息子達がみな結婚した後、それぞれの嫁さんの父親を一同に集めてお酒を酌み交わすことだった。皮肉なことに、それぞれの嫁の父親は全員お酒を飲まなかった。ちなみに息子達の嫁は全員長女という偶然もあったりするが。
父は酒が大好きだが、酒でつぶれたことは一生のうちでほんの数回しかない。いつも晩酌に日本酒を2合と決めて飲んでいた。冬はもちろん夏でも日本酒が主で、たまにビールを1本飲むこともあるが、そのときも必ずキリンビールで、他のメーカーのビールはまったく飲まなかった。一度ビールを飲んだならその後に日本酒を飲むこともなかった。ちゃんぽんは絶対行わない主義で、だから悪酔いすることがない。だから一般的によく言う「酒飲み」という概念を知らなかった。たまにお客を連れてきてめちゃくちゃな酔っぱらいだったときに、これがいわゆる酒癖の悪い人なんだと思ったくらい。
父は早くに運転免許を取得していたので、車を使った仕事を主にやっていた。僕が免許を取るまで自家用車こそ持っていなかったが、会社の車を持って帰った時などに、時々休日ドライブを行ったりもした。ある時は奈良の若草山に行って、オーバーヒートして山中で車を冷やしたり、鈴鹿に行ったときには峠の交差点に入ったところでエンストを起こして回りに迷惑をかけたり。ゴールデンウィークの初日の夜中に突然出かけようと言い出したり。滋賀にいる叔母の家に急に押しかけて止めさせてもらって、そこから出発したり。思いつきがけっこう多かった。
まとまったお金はいつも持っていなかったので、欲しい物はいつも月賦で買っていた。一つ払い終えると次の物をまた月賦で購入するという繰り返し。覚えている一番最初の買い物は、昭和30年代にTVを買ったこと。しかし数週間ほどでTVは電器屋に戻っていった。月賦を祓いきれなかったようだった。僕も最初は月賦を行っていたが、すぐに一括払いの方がずっと得だとわかって月賦は行わないことにしたが。
父は母としょっちゅう喧嘩ばかりしていたが、隠居してからは二人でよく旅行に出かけたり、一緒にゲートボールをしたり(ゲートボールの審判の資格も取った)、けっこう平穏に余生を送ったようだ。まあ喧嘩もよくあったが。そんな父も2度の癌の手術を行って、大震災の前年に亡くなった。3月9日に、病院の看護士たちやらみんなにサンキューと言って。
頑固で言い出したら聞かないし、自分の言い分が常に一番正しいと信じ込んでいる。もっとも戦中派のとことん保守でありながら、終戦後戦争責任を取らなかった天皇を批判していた珍しいところもある。
融通が利かない父ではあったが、今でも一つよく覚えているのが、そんな父が初夏のある日にこんな質問をしてきた。
「鯉のぼりの真鯉と緋鯉はどちらが上か?」
わからないと言うと答が、
「コイに上下の区別はない」
いやぁ、粋な答だね。
そんな父は母とはたまたま隣に住んでいただけの成り行き結婚ではあったが、実は最初の奥さんとは大恋愛だったとか。戦時中に娘まで生まれていたが、戦争で奥さんと娘のどちらも亡くしてしまった。
祖母が亡くなったときに仏壇を新調したが、その時に過去帳も作り替えた。以前の過去帳がめちゃくちゃ古くからの物で、父でさえ知らない人物が書かれていて、それを父がわかる代から後を残すようにした。その古い過去帳に戦時中に亡くなった菊枝という名の父の最初の奥さんと恊子(やすこ)という父の娘の名前が書かれていた。(もちろん父の兄と早くに亡くなった父の兄の娘の名前もあった)
「やすからぬ子だった」と父はぽつりとつぶやいて、新しい過去帳には二人の名前は消してしまった。母に対する遠慮もあったのだろうが、自分の思い出の中だけにしまい込んでしまった。
兄の息子二人を自分の養子にし、さらに3人の息子が生まれて5人の息子の父親となった父には、昔から一つの夢があった。それは、息子達がみな結婚した後、それぞれの嫁さんの父親を一同に集めてお酒を酌み交わすことだった。皮肉なことに、それぞれの嫁の父親は全員お酒を飲まなかった。ちなみに息子達の嫁は全員長女という偶然もあったりするが。
父は酒が大好きだが、酒でつぶれたことは一生のうちでほんの数回しかない。いつも晩酌に日本酒を2合と決めて飲んでいた。冬はもちろん夏でも日本酒が主で、たまにビールを1本飲むこともあるが、そのときも必ずキリンビールで、他のメーカーのビールはまったく飲まなかった。一度ビールを飲んだならその後に日本酒を飲むこともなかった。ちゃんぽんは絶対行わない主義で、だから悪酔いすることがない。だから一般的によく言う「酒飲み」という概念を知らなかった。たまにお客を連れてきてめちゃくちゃな酔っぱらいだったときに、これがいわゆる酒癖の悪い人なんだと思ったくらい。
父は早くに運転免許を取得していたので、車を使った仕事を主にやっていた。僕が免許を取るまで自家用車こそ持っていなかったが、会社の車を持って帰った時などに、時々休日ドライブを行ったりもした。ある時は奈良の若草山に行って、オーバーヒートして山中で車を冷やしたり、鈴鹿に行ったときには峠の交差点に入ったところでエンストを起こして回りに迷惑をかけたり。ゴールデンウィークの初日の夜中に突然出かけようと言い出したり。滋賀にいる叔母の家に急に押しかけて止めさせてもらって、そこから出発したり。思いつきがけっこう多かった。
まとまったお金はいつも持っていなかったので、欲しい物はいつも月賦で買っていた。一つ払い終えると次の物をまた月賦で購入するという繰り返し。覚えている一番最初の買い物は、昭和30年代にTVを買ったこと。しかし数週間ほどでTVは電器屋に戻っていった。月賦を祓いきれなかったようだった。僕も最初は月賦を行っていたが、すぐに一括払いの方がずっと得だとわかって月賦は行わないことにしたが。
父は母としょっちゅう喧嘩ばかりしていたが、隠居してからは二人でよく旅行に出かけたり、一緒にゲートボールをしたり(ゲートボールの審判の資格も取った)、けっこう平穏に余生を送ったようだ。まあ喧嘩もよくあったが。そんな父も2度の癌の手術を行って、大震災の前年に亡くなった。3月9日に、病院の看護士たちやらみんなにサンキューと言って。