丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

秋の遠足と落語会

2011年02月22日 | 個人史
秋の遠足には、僕は大原散策を選んだ。日本史好きだからこういう歴史的な場所に目が離せない。

例によって、遠足場所が数カ所選ばれての選択制なのだが、この遠足日にちょっとしたイベントが舞い込んだ。

この秋に全国的にラジオ局の周波数が変更になって、ラジオ局の朝日放送が、周波数を1010キロヘルツに変更。またたしか開局50周年にあたったのか。そして同時に関西落語協会結成20周年とか(数字はうろ覚えなのだが、意味がある)で、この数字を合計しての「1080分落語寄席」が企画された。これがなんと遠足当日に重なった。

落語好きのジローが中心になって、この落語寄席を遠足コースに加えて欲しいという申し出を行う。本来校外学習なんだから、これも学習の内に入るのではないかと。当日雨天ならどうするという声もあったが、それをなんとか押しきり、意見が通って落語会も遠足コースに加えられる。

僕も参加はしたかったが、やはり遠足なんだから健康的に外を歩きたいと断念した。

落語会に参加した者から(特にジローから)後で報告を聞いた。

一番面白かったのは、今は明石家さんまの師匠として有名な松之助が豪快で面白かったとか。
また笑福亭仁鶴の演目では、うっかりと途中のネタで飛ばした箇所があって、それが実はオチの伏線になっていたので、オチに来たところで気づいてオチることができず、元に戻ってやり直したとか。

当日の模様は後に朝日放送ラジオで何回かに分けて放送されたが。このオチ忘れの部分も注釈付きで紹介された。

まあ行きたくもあったが、僕としては大原散策で満足だった。

兄の結婚

2011年02月20日 | 個人史
すぐ上の兄が結婚したのが僕が高校3年の時。

兄は高校卒業後、大手の繊維メーカーに就職。研修の後、系列の子会社に出向の形で移動する。赤穂浪士で有名な赤穂の支店に勤務。音楽好きな兄はそこで社内の合唱部で活動。ちなみに兄は今でも地域の合唱部に入って、年末は第九を歌っている。
閑話休題
その合唱部で同い年の地元の女性と知り合って交際する。

兄が堺の支店に転勤になっても交際は続いて、両親に結婚の相談をしたのが兄が21歳になったばかりのこと。若すぎるし上の兄がまだなのにという反対もあったが押し切る。

相手の彼女とは偶然に出会う。

いつの時か忘れたが、たぶんまだ川西にいた頃じゃなかったか。
というのも、宝塚ファミリーランドに自転車に乗って遊びに行ったのだから。

宝塚歌劇のある宝塚ファミリーランドは、祖父が宝塚に住んでいたから地裁頃からなじみが深く、当然ながらいつも電車で行っていた。
ある日ふと考えると、宝塚って川西の隣の市で、勾配もあまりないから自転車ですぐに行けるのではないかと。そうすると交通費が浮くし、当時入園料金はうそみたいに安かったから、休日の暇つぶしに出かけるのもいいかなと思ってしまった。

ということで自転車で出かけて、入り口近辺に駐輪、中に入ってブラブラしていると、突然声を掛けられた。兄のカップルがちょうど同じ日にデートしていたのだった。
後に兄嫁になる彼女が、あそこにあなたによく似た少年がいる、と言ったとか。兄が見て、あれは弟だ、と気がついたとか。
全くの偶然。そんなこともあるのだと思った。

夏になって正式な話を相手の家に伺って、僕も両親と一緒についていった。話し合いの席にはつかなかったが。
ちなみに彼女には僕と同い年の弟さんがいる。偶然にも僕と同じ大学に進学するのだが、あちらはストレート合格、僕は一浪ということで学年が違ったこともあったが、ほとんど話をすることもなかった。

結婚式が11月3日に天満で行われる。その時、兄は誕生日が11月14日なのでまだ21歳だったが、彼女の方は9月生まれなので22歳になっていた。ほんのわずかの差で年上になっていた。
披露宴で僕はクラシックギター独奏をする。前述のギター同好会で仕入れてレパートリーに入れていた「小さなロマンス」という小品。
あがっていたせいもあり、おまけにこの日のために弦をすべて張り替えていたこともあってチューニングがゆるんでしまって最悪の出来だった。

その後兄の家にはよく泊まりに行った。兄嫁さんとはウマが合うというか二人目の子どもが生まれてから体調が悪くなるまで、よく会いに行った。まだ子どもが生まれる前にも泊まって夜中にいろいろおしゃべりをし、上の子どもが生まれてからは子守に出かけたりも。
信長じゃないけれども人生50年を迎える前に亡くなってしまって、生駒山の霊園にあるお墓にもよく出かける。


体育館と文化祭と日本シリーズ

2011年02月16日 | 個人史
高校時代はそんなに野球が嫌いではなかった。もちろん巨人は嫌いだったが。
時は川上監督率いる巨人の全盛時代。パリーグで弱小チームの阪急がリーグ制覇して、阪急沿線に住んでいる者としてはなんとなくなじみ深い。
ちなみに宝塚に住んでいた祖父は阪急の監督をしていた西本さんが好きで応援していた。

当時は休日はもっぱらラジオを聞いていて、外に出る時には携帯ラジオで昼のリクエスト番組をよく聴いていた。
今は若者はipodをよく聞いているが、そんなものもなく、ウォークマンさえない時代。携帯ラジオで町を歩く者の少なく、いわゆるそういう世代の走りといえる。

高校3年の時に体育館が竣工された。
それまではぼろぼろの工場跡を利用していて、やけにだだっ広いだけですきま風吹きまくりの場所だけだったが、ようやくまともなのができた。残念ながらほとんど利用させてはもらえなかったが。
この年の文化祭はこの体育館を利用しての舞台発表も行われる。全校生徒が集まっての観劇会。

僕が潰した合唱部が翌年に再建されて、この年にオペレッタを上演する。ちょうどその日が日本シリーズの日だった。

そんなわけで、先までのネタ振りがここの話につながるのだが。

当日、僕は携帯ラジオを持ち込んで、演劇を見ながら野球中継を聴いていた。阪急が1点差で迎えた9回裏、ピッチャーはエースの山田久志、2死でランナーを置いての迎えるバッターは王選手。押さえ込んだと思った瞬間に、劇的な逆転サヨナラホームランが飛び出す。
その瞬間、体育館中にどよめきがとどろく。
笑ってしまいますね。僕と同じようにラジオ中継を聴いていたのが何人もいたようだった。

この年、うちのクラスが何をしたのかは覚えていない。
数学が得意な友人は、当時誰も持っていなかったコンピューターを使って性格占いを発表。ちなみに彼は今はこの母校で数学教師をしている。
別の友人でクラシックギターができる者数名が集まって同好会を結成、教室を借りて発表演奏会をした。(その中には修学旅行で悪評がたったY君もいたな)僕もちょっとはかじっていたので、仲間に加えてもらって、発表こそしなかったが、いろいろ教えてもらった。後述する機会に発表することになるのだが。

うちの学校には吹奏楽部はなかったのだが、中学時代にやっていた者が数名集まって同好会を結成、体育大会でお粗末な登場をしたが、この文化祭ではしっかりステージデビュー、今でも吹奏楽部は立派なクラブとして続いている。

野球(2)

2011年02月11日 | 個人史
ミスターが嫌いな理由がもう一つあった。

彼が偉大な選手であるのは事実だから認めよう。
巨人の監督やって、1年目は大コケしたのは、コーチ経験もなくいきなり監督やってパフォーマンスだらけだったからという理由で認めよう。反省して2年目からはまともに監督をつとめたのも認めよう。
成績不振になって監督を辞めたのはよくある話だから別に彼の責任でもない。

ただ気になるのは、彼が監督を辞めた後、他球団からしきりに誘いの声がかかったこと。しかし彼はかたくなにそれを拒み続けた。理由は分からない。その球団は他の監督を呼んだ後も、彼を待ち続けるという態度を示したが、一向に誘いには乗らなかった。まるで、もう監督業は嫌になったかのような姿勢で。

しかし、再び巨人軍から声がかかった時、二つ返事で監督に返り咲いた。結局彼を待ち続けていた球団はコケにされたわけだが、彼がその球団に行きたくなかった理由は語られない。言えることは、結局彼は巨人しか目には入っていなかったということ。巨人のことしか考えていないと言うこと。
彼を称してミスタープロ野球と呼ぶ人もいるが、とんでもない。プロ野球界発展のことなんかまったく眼中にはない。

彼と並び称されるもう一人の偉大な選手にO選手がいる。彼も引退後は巨人の監督も務めたが、辞めた後、誘われるままに人気のないパリーグの僻地でもある福岡の球団の監督になって、そこで実績を残した。彼こそプロ野球界全体のことを考えた人物だと言える。それに比べてミスターの人間的な小ささは何だろうかと思う。
そんな彼を持ち上げようとする風潮がどうしても我慢できない。
彼が二度目に巨人の監督についたとき、もうプロ野球に何の魅力も感じなくなったと言える。野球のことを無視すればいいんだと思うようになって、それ以来野球には関心がなくなった。

富士・箱根方面旅行

2011年02月07日 | 個人史
高3夏の家族旅行は箱根方面に行く。
写真もあって、デジタル化している最中だが、載せるほどではないので省略する。
兄の会社の保養所が山中湖近辺の山中にあるのでここを利用する。
芦ノ湖や十国峠に登って、いろいろ見物して、保養所にバスで着いた時にはもう真夜中かと思うほど真っ暗。バス停から降りるとあたりに電灯とかほとんどないなか、ひたすら保養所を探しまくる。見つかってよかった。
あたりの雰囲気はトトロでサツキちゃんたちがバスを待っているところのような雰囲気。

まあ保養所は泊まりやすく、後にもっと大人数の家族旅行でもう一度訪れることとなる。この年まではまだ4人で行った。翌年からの家族旅行は人数が増えていくことになるのだが。

特に記憶はない。箱根と言っても、ただ単に行きました程度。

野球

2011年02月05日 | 個人史
現在、プロ野球にまったく興味がない。選手の名前もまったく知らないし、球団名もあやふや。
高橋セネターズに松竹ロビンスに毎日オリオンズに……って自分自身も知らないぞ。せいぜい東映フライヤーズとか大毎オリオンズとか日拓ホームファイターズとか。知ってる人も少なくなったが。

昔は一応は野球のことも知ってはいたが、大のアンチ巨人だった。
これは完全に父の影響。父が大の巨人ファンで、そのために読売新聞を購読していた。まあ確かに巨人は強かったが、それを鼻に掛けて巨人のおかげでプロ野球が成り立っていると言うほどだたからそれが嫌だった。だから僕としては巨人が負けると気分がよかった。金を積めばなんでもやりたい放題という体質が嫌いだった。

よく世間では、アンチ巨人だと阪神ファンかと言われるのだが、そういうのではない。巨人が負けたり優勝できなかったならどのチームが勝っても良いし、優勝しても良い。たとえば阪神ファンの人なら阪神対中日の対戦で阪神が勝てば巨人が優勝してしまうという時に、ひいきのチームを応援するだろう、たとえその結果巨人が優勝しても。こういうのはアンチ巨人ではない。
巨人がどん底だった時に、巨人が強くないと面白くないとのたまった阪神ファンがいたが、これは違う。いつまでもどん底でいてほしいと願うのが真のアンチ巨人なんだと。

ある時に目覚めた。プロ野球を見なければそれでいいんじゃないかと。其れ以来野球には関心なくなった。どうでもいいと。

大嫌いなのがミスターと呼ばれる某選手。
巨人が優勝できなくなって中日の優勝が決まったその翌日のスポーツ新聞の一面見出しは中日優勝ではなかった。彼の引退のニュースがトップだった。完全な嫌がらせ。どうして他球団の優勝を、たとえ悔しくても祝ってやれないのか。しかも優勝祝賀会の翌日の試合が引退試合と急に決まった。中日の主戦のメンバーが休養する時に、引退試合なのにレギュラーが出ないで失礼だと騒ぎまくった。筋違いもいいとこ。急に決めるお前が間違ってるんだと。だからこのミスターと呼ばれる選手が大嫌い。


高校野球もあまり見ることもない。もっとも僕が住んでいた池田市・川西市・豊中市の高校が甲子園に出場した時には見に行ったが。
行ってもその日に負けるから行かない方がいいのかもしれないが。

ある年、朝日新聞の販売店から夏の甲子園の通し券をもらった。高校野球を見に行くことはその時にはなかったのだが、せっかく券があるのだから何日間は見に行こうかと思って出かける。

1日目、数試合を見たけれど、思った以上に日差しがきつく、むき出しの手足や首回りが日焼けで暑くてたまらなかった。
2日目、完全防備で行く。真夏なのに長袖とマフラーをして。それでも日焼けをした。とてもじゃないがそれ以上通えなくてギブアップ。

甲子園に行くのもつらいものがある。