丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

転居

2009年02月26日 | 個人史
先に書いたように、小学1年の時に転居することになる。
理由は知らない。大人の事情でしょう。家を売ることになったことから。ちなみに元家があった場所に「平安マンション」という建物が建って、いまでもその場所にそれが建っている。

親戚が不動産屋をやっていたこともあって、そんな関係で日曜日などに連れられていろいろな家を見て回った。ちなみに母はその親戚の店に勤めだしたのをきっかけに(それ以前にもいろいろな職種を転々とはしていたが)別の年配のMさんという女性が経営している不動産屋を手伝うことになって、その後その店が無くなるまで勤め上げることになる。

見て回った家にはいろいろな家があって、今でも覚えているのが、崖の斜面に建っている家。玄関から入って、階段を下りた下にも部屋があるという。今から思えば地震の時は大変だっただろうと思うが、先日近くを行くとまだその家はあった。

結局兵庫県川西市の、Aさんという方が、お婆さんの隠居用に離れを建てていたのを借りることになる。離れで部屋が3室だけで、風呂もトイレも台所もないのを、後から付け足したという格安の賃貸の家。めちゃくちゃ急な坂道の途中に建っている家で、付け足した台所は洋室の窓から乗り越えて入るという奇妙な構造。おまけに風呂とトイレは外に付け足したので、短い渡り廊下というか、一旦外に出て行くような場所にある。一応簡単な玄関というかドアはついているのだが、家の外には変わりない。

この風呂でおかしなことは、二度ばかり泥棒に入られたが、わざわざ風呂の窓をこじ開けて入り込み、鍵をかけ忘れた洋間に入られた。風呂の窓から入らなくても十分忍び込めたのに。

この家に10年間住むことになる。正確に言えば9年と11ヶ月と3週間。この家に転居したのが11月15日で、出て行ったのが11月8日という。小学1年から高校2年までという青春時代を川西市で送ることになる。と言っても、前述のように、兄の学校の関係で、転校するのは小学3年になるときで、1年4ヶ月は電車通学をすることになる。

元の住所は「南丹後脇」という。丹後への道の起点だからとか。「タンゴ」の響きが悪いので祖母はこの地名が嫌いで、もよりの駅だった「花屋敷」を地名として名乗る。後に住居表示変更で正式に花屋敷になったでうれしかった。もっとも由来となるもより駅「花屋敷」は廃止されてしまったが。

夕陽のチャペル

2009年02月25日 | 個人史
昔レコード大賞新人賞を取った永井秀和という歌手のデビュー曲が「夕陽のチャペル」。この曲、個人的な思い出とからんで未だに好きな曲なのだが、新人賞の対象となったのは2曲目の「恋人と呼んでみたい」という曲で、デビュー曲の方は少しも取り上げられない。だから懐かしのアルバムとか古い曲を集めたCD集でも取り上げられることがない。

昨日、どうしても欲しくなって、インターネット検索すると、ちゃんと古いレコードを扱うサイトが見つかって販売もしていた。これはもう絶対、とばかりに注文したら今日もう届いた。
いやぁ、実に懐かしい。この歌詞に個人的な経験がだぶっていて、すごく切なくなる。
ということで知り合いが見ている場所では書けないのでこちらで書くことに。

貸本屋

2009年02月23日 | 個人史
昔「貸本屋」というお店があった。
今ならレンタルCDショップなどもあるけれど、貸本屋がそういうのと大きく違っていたのは、一般書店では並んでいない、貸本屋だけでしか読めない漫画本があったこと。

いろいろな風物史を扱った本に寄れば、貸本屋文化は関西で大きく花開いたと言うことだ。そういえば地域名など関西固有の地名がよく使われていた。
会員登録制で基本は丸一日1冊借りて10円という安価。兄が会員になっていたのでよくお流れで読んでいた。今でも覚えているのが「K.ミズモト」という常連の漫画家がいて、彼の描くタッチやストーリーは面白かった。忍者物やギャング漫画(ギャグではない)が多かったが、拳銃を派手にぶっぱなすストーリーが主体ではあった。

兄についてよくその貸本屋に通ったのでお店の人とは顔見知りだったこともあって、1回だけ自分だけで本を借りたこともあった。全財産が10円しかなかった時で、翌日の昼に返さないといけないのにぎりぎりの時間になってあわてて返しに行った思い出がある。
戦国時代を扱ったお城乗っ取りの時代劇で、忘れられないセリフが、「青葉城を枯葉城にしてしまえ!」という敵方のかけ声があってなつかしい。

最近ではときたま復刻版が出たりもしているが、あの懐かしさは戻ってこない。マニアでは超レアものとして、一般庶民ではとうてい手が届かない金額で売買されているようだ。

発表会

2009年02月22日 | 個人史
どこの小学校でも学習発表会というのは今でもやっているけれど、僕が2年までいたK小学校ではそれ以外でもいろいろやっていた。

たとえば夏休み明けに「読書発表会」というのか、そういう発表も講堂でやっていた。学年で2名選抜で好きな本を紹介するのだが、2年生の時だったか、文字がしっかり読めるという基準で僕が選ばれて発表することになった。同じ時兄も選ばれて発表したのだが、この時、一番上の義兄が就職した後、僕と兄に毎年本を買ってくれた。最初の年には兄にはアンデルセン童話集、僕にはグリム童話集をもらった。ちなみに僕がもらったグリム童話集はどこかに行ってしまったが、兄のアンデルセン童話集は長らく僕が所有していた。
もう少しついでに言えば、その後義兄からもらった本は、「算数の先生」という小学校高学年から中学2年くらいまで読める本で、この本はいまだに僕の本棚に並んでいる愛読書になっている。その他シュバイツアー物語とかけっこういろいろ買ってもらった。

で、話を戻せば、兄はアンデルセン童話集からの1話を選び、僕はグリム童話から1話を選んだ。本当は夏の間に覚えるようなことだったのだろうが、とてもそれは無理なことで、結局当日は本をそのまま読んだ。「ハリネズミの夫婦」の物語を読んだことを覚えている。

学習発表会では、今と違って全員参加ということはなく、演者は学年選抜だった。もっとも一人が一つの役をやり通すことはなく、場面毎に何人かで交替で演じるという形だったが。
1年の時、内容は忘れてしまったが端役で出演した。この時兄は「リンカーン物語」をやって、兄は最後の暗殺される場面のリンカーンを演じた。家でシルクハットを手作りで作っていた。
2年の時、「笠地蔵」をやって、僕は主人公であるおじいさんの最後の場面を演じた。地蔵が家の前に置いていった大きなおみやげを貰って家に運ぶのだが、板で作った家の玄関のセットに荷物の袋引っかかって失笑を呼んだ。この時、おじいさんは寝ているという設定だったのでそういう衣装が必要だったのだが、我が家には普通の寝間着しかなかったため、当日にクラスメートのYさんのお母さんが衣装を用意してくれて着替えさせてくれた。

学習発表会以外に別のイベントもあった。どういう時期だったのかまったく覚えてはいないけれど、たぶん6年生の送別会での各学年からの出し物だったのだろうか、僕が1年の時、学年でこれまた選抜の演芸会をやった。

当時ラジオの人気番組で素人演芸会という番組が助提供であって、素人がいろんなジャンルの園芸をやるというもので、「早口言葉」の出演者ということでクラス代表数名の1名ということで練習に参加する。僕の持ち分は「うりうりがうりうりにきてうりのこし、うりうりかえるうりうりのこえ」という物だったのだが、最初の練習の時、その出演者からはずされて司会役に変更になった。けっこう今でもそうだけれど、まとめ役とか司会進行とかやらされることが多い、出来ないことの方が多いのだが。
当日は他の学年は授業中なのだが、校内放送で講堂から各教室に中継されていたそうだ、兄からだめ出しをくらったが。いろいろ練習は行ったのだが、当日は頭の中が見事に真っ白になった。言うべき台詞がすべて飛んでしまい、プロンプターの先生にすべて言葉を教えてもらった。ちなみに舞台に出て見事にあがる経験はそれからも繰り返すのだが。
おまけに出演者紹介の時に毎回おじぎをしながら言ったので、言葉が途中でマイクから切れる連続で、校内放送ではすべて尻切れに聞こえていたそうだ。

余談ながら、こういった学年文化行事で他のクラスの教室に行った折りに、他のクラスのFさんという女の子のことを知り、ちょっと気になる存在として意識していたようだった。でも、まさかそのFさんが20数年後に同僚教師になっているとは思いも寄らなかった。その先生が同じ小学校に同じ時にいたということは学校の学年親睦会でのちょっとした話からわかったのだが、まさか当時気になっていたFさん本人だということに気づいたのは、その先生のお母さんが亡くなってお通夜に行ったとき、その家の表札にFさんの苗字があったこと。ちょっとした驚きだった。

脱臼

2009年02月16日 | 個人史
池田に住んでいた時に、3回腕を脱臼している。
子どもの関節ってお皿に乗せているだけみたいな感じで、まだしっかり安定していないと説明された。大人になるとしっかりと固定されるようになるけれど子どもだといつはずれてもおかしくないと。

で、ほとんどは腕をねじられてのことなんだが、両腕ともう1回はどちらかの腕の肘をはずしている。まあ痛いのなんのって。神経ってのはまともな状態で正常に働くので、少しでも異常だと悲鳴をあげる。そういう風にできていて警告を発するようになっているんだが、まあ脱臼って超異常状態だから。子ども時代は超泣き虫だからというわけでもなくとにかく泣きじゃくった。

家から10分くらいだろうか、駅を挟んで反対側に行ったところに整骨医があった。柔道もやっているところで、昔から柔道では関節を決めることも多いからよく関節をはずすこともあるのか柔道経験者で整骨医を開設している人は多いようだ。
ということで、この医者に3回お世話になった。はずれる時ってのは大変なんだが、専門家にかかるとあっというまに元に戻る。見事な物だ。3回も見ていたら自分でもできそうに思えるけれどとてもじゃないが自分では怖くて出来ない。以前にキャンプの引率に行った初日に足をはずした生徒がいたが、体育教師ではめられずに寝かしたままで車で病院まで運んだこともあった。少しでも動かすと痛いのが実感としてわかるので移動が大変だった。

関節を元に戻してもしばらくは固定しないといけないので腕を吊って一週間ほど固定する。その間その腕は使えない。そんなこともあったのか、利き腕でない方の手を使うこともけっこうあって、箸とかは左手でも使えるようになった。

池田時代に3回もはずしているのに、引っ越ししてからは一度もはずしたことはない。意識して気をつけているせいもあるのだが。

散髪

2009年02月12日 | 個人史
昔はどこの家庭にも散髪用のバリカンがあった。手動で切っていく奴。
先日某映画で主演の某氏が共演者の奥さん役の人に断髪の場面で本当に切ってもらい、めちゃくちゃ痛くて限界まで我慢していたという話があったが、下手な人がやるとこれは相当に痛い。

ということで、できるならば家でやってはほしくはなかった。だからかなり小さい頃に、家計状態など気にかけることもなく散髪屋に行きたいとねだった。
表通りを出て、橋を渡ったところに散髪屋があった。子どもにはがまんしたお駄賃がでたりするのだが、普通は何が貰えたのか忘れてしまったが、小さな子どもには散髪後に「粟おこし」が貰えた。これ、本当言うとあまり好きではなかったのだが、それでも家で激痛をがまんしてやってもらうことに比べればまさに天国と地獄。

引越をした後、一度だけはわざわざ電車に乗って散髪に行ったこともあるが、新しい場所で新規開拓するのはなかなかできなかった。転校して電車にも乗らなくなって、仕方なく引っ越し先で散髪屋を探したが、駅前にあった店に入ったところ、おそらく宣伝用だろうが、散髪中の写真を撮られた。あの写真はその後どうなったのか知らない。その店に行ったのはその時限りだったから。

その後、家から駅に行く途中、もう少し丁寧に言えば通学路に「ロング」という名前の新しい散髪屋が開店した。この店とはそれこそその後長い付き合いになる。若い夫婦がやっていて(後に若い女の子が修行で加わったりとかもあったが)、隣の店では奥さんが美容院も始めたりもしていた。
この店に25年くらいだろうか通うことになる。いろいろ注文をつけることも面倒くさいので、「いつも通り」と一言言えばすむのが楽だった。

小学生の頃は七三に分けていて、気分で左分けから右分けに変えたりもした。本当はつむじに合わせて向きが決まるのだろうが。
中学は強制的に丸刈りだったので、面倒くさいから一枚刈りがほとんどだった。
高校でまた伸ばし始めてまた七三にする。
その後転居したのだが、転居後もこの店にわざわざ通い続けた。と言っても料金も安くはないので、年に3回、年度替わりの頃と夏頃、正月前の3回。その後超長髪にあこがれて長らく行かなくなったこともある。

そしてある日転機が訪れる。

ある日久しぶりにその店に行くと、世代交代がなされていた。
開店当初妊娠中だった奥さんが生んだ子どもが成人して跡継ぎとしてこの店に手伝いに来ていたのだった。で、いつも通りの注文をしたのだが、本来七三分けが基本なのになんとセンター分けにされてしまったのだった。
なんとなく落ち着かないままで日を送っていたが、しばらくするとそのセンター分けがやけにすっきりと落ち着いてしまった。最初はわざわざ長さも違うのに横分けを意識していたのに、そのうちにセンター分けの方がいいんじゃないかと。
で、数ヶ月後再びこの店に来れば、今度は主人しかいなくて、センター分けを注文したのに、実に中途半端な分け方をされてしまった。やはり年取った人には時代の流れについていけないのだろうか。

そしてその日を最後に散髪屋に通うことはなくなった。

しばらくは伸びるだけ伸びるに任せたりしながら、うちの家内の紹介で美容院に転向。実はこの美容院通いにもいろいろいきさつはあるが、散髪屋とはすっかり縁を切ってしまった。

ちなみにこの「ロング」という名前の店はまだ営業している。そばを通るだけで中を覗くことはしていないのだが。

唯一の自慢話

2009年02月09日 | 個人史
小学2年生の時、唯一の自慢話があった。

今もって美術センスまったくなく、特に色のセンスはないので、美術の成績は悲惨なものだったのだが、なんと池田市の美術展に出品されたことが一度だけある。

遠足でたぶん多田神社に栗拾いとかで行ったとき。その遠足の様子を図工の時間に絵を描くことになって、とにかく絵が下手だから、特に人の顔を描くのが大の苦手だったから、
(人物画を正面から描くと絶対に類人猿になってしまう。後に目が実は顔の中間になるという事実を知ってからましにはなったが、それは大人になってからの話)
人間は描くけれど一切顔を描かない方法を思いつく。
それは電車の中で中央から見た絵にすること。つまり、乗客全員が外を見ているから一人として顔を描かなくてもすむこと。だから満員電車でたくさん乗っているのに、誰も顔がない。窓の外に景色とか他の電車が見えているだけという。

まあ今から思っても画期的な絵だっただろう。
クラスで掲示して優秀な絵の一つに選ばれ校内の展覧会に選ばれただけでなく、その後学校の代表として市の美術展に出品となる。当日は家族みんなで見に行った。
後にも先にも絵でほめられたのはこの1回かぎり。残念ながらこの絵は残っていない。

昔の通知簿とかはしっかり保管しているので調べてみたら、小学2年生の12月のことだった。通知表と一緒にもらう「褒賞表」というのに記録として書かれてあった。

運動会

2009年02月09日 | 個人史
昔の運動会って地域のお祭りでもあった。
保護者席は地区毎に分けられていて、地区対抗リレーなんかもあったような。

もっとも僕は運動会は苦手でもあった。お遊戯とかならむしろ得意なのだが、足が遅いから選手になることなどまずなかった。全員リレーなどもあったが、とにかくバトンをもらったらひたすら抜かされないことだけを考えていた。

クラス対抗全員リレーなんかもあるのだが、今から思えば不思議なことに、クラスで人数がそろわないときに、他のクラスから回されることもあった。当時は何も思わなかったけれど、よく考えれば、何でよそのクラスのために一生懸命走らないといけないのか。

小・中通して運動会・体育大会の思い出はほとんどない。とにかく走りたくなかった。
学年演技としてフォークダンスやその他体操なんかだと覚えていたりもするが。

給食

2009年02月04日 | 個人史
中学校では地域によって給食のある学校やない学校もあるけれど、小学校に関してはほぼ全国的に給食があるはず。それは昔もそうだったはずなのだが、僕は小学校3年生で転校した学校では全校生徒2000人の超マンモス校だったためか給食はなかった。
ということで給食を食べたのは2年間しかない。昔はコッペパンの給食ばかり。特にメニューで記憶に残る物はないけれど、一つだけ強烈に記憶に残っている物がある。

何かの行事の時だった。珍しくゆで卵がついていたのだけれど、僕に与えられたゆで卵をむいてみると、中から出てきたのは、羽化しそこないのひよこになりかけのもの。有精卵ならときたまありえるものだけれど、めちゃくちゃショック。どこかの国ではそれをわざと作って出すメニューもあるようだがとても我慢が出来ない。
それから数年間は卵が食べられなくなってしまった。

僕より上の年代では脱脂粉乳のミルクがあって飲めた物ではなかったそうだが、僕の時代にはまともな牛乳にはなっていた。それでもまだそんなにおいしくはないが。

中学校では給食がないかわりにミルク給食というのがあった。牛乳だけ配給されるのだが、冬になるとわざわざ大きな貯蔵ケースで温めて出される。味は元々いまいちなのだが、これを温めるとさらに美味しくない。残す生徒もかなりいた。休みの生徒がいると誰かがその人の分も飲んだりするのだが、よく貰って飲んだりしたが必ずその日はお腹を壊した。それでも時には3本飲んだこともあったが。まずいのにわざわざ飲むのは、もったいない精神だからか。

教科書有償他

2009年02月03日 | 個人史
現在小中学校では教科書無償が当たり前でそのことに何の疑問も感じないようだが、
実は僕の学年が教科書有償の最後の学年になる。

昔は教科書はすべて自費で購入していた。だから上に兄姉がいる人は教科書を買わずにお下がりを使っていたりもした。今は3年ごとに教科書改訂になっているので時期がずれると使えなくなるのだが昔はどうだったのだろうか。

で、全国的に「義務教育期間中は教科書も無償にするべきだ」という運動が高まって、僕が4年になったときにそのことが決定する。で、翌年がどうだったのか詳しくは覚えてはいないが、僕が6年生になった年に、小学校4年生までは教科書無償になった。続いて中学に入学した年に小学生は全員教科書無償になった。
それから後を追いかけるように教科書無償の波が寄せてくる。
中2の年に中学1年までが無償。中3の年に中学2年まで無償。そして僕が中学を卒業した年に義務教育は完全教科書無償になった。実に悔しい思いを毎年続けていた物だ。

もっとも僕の場合には、小学校1・2年時は援護家庭に指定されていたから、特別に教科書はもらえた。3年になって転校して援護指定が解除になったので特典はなくなってしまったが。

援護家庭だとその他目立つ補助としてあったのが、運動会での地下足袋の支給というのがある。なんじゃそれは?と思ってしまうが、昔の運動会では運動靴ではなく、地下足袋で走っていた。運津靴が買えない家庭もけっこうあった時代だった。