丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

麻雀

2009年07月29日 | 個人史
父から麻雀を教えてもらったのが小学6年の頃。
父は麻雀が強い。というより負けない麻雀を知っていた。
仕事の付き合いでは接待麻雀で勝ってはいけない場面もあったりするのだが、4人でやるのだから最下位にならなければ十分という場合もある。つまりは2位をキープする麻雀、負けない打ち方というのもあったり。父はそういう打ち方もできた。

麻雀の内容を簡単に説明すると、4人が麻雀卓を囲むが、東・南・西・北の風というのが各自についていて、親が東になり反時計回りに先の順に風がつく。親が勝ったり、誰も上がれなくても親が上がる一歩手前(これをテンパイという)だったら親は続けて親のままだが、親以外が勝ったり流れた場合に親がテンパイでなかったら次の人に親が移り、風も順に移動する。新しい親が東になる。4人一巡するまでが場と言って、この場にも東・南・西・北の順に替わっていく。つまり始まったときは東場で、一巡すると南場になる。これを4通り送ると勝負が終わってこれを一莊(イーチャン)という。

ということで、麻雀は最低各場で4回、これを4巡するので、親が続かない限り4×4の16回でゲーム終了となる。だいたい最低2時間はかかる。
もっともTVで放送したときにあまりに長すぎることから、東と南の場だけで終わらせる半莊(ハンチャン)麻雀が盛んになり、最近はほとんどがこの半莊で行うことの方が多くなった。一莊麻雀をやったことのない人がほとんどだろう。

父が教えたのは正式な麻雀で、当然ながら一莊麻雀をやった。最初は正式な役しか扱わない麻雀で、点数が倍になる「ドラ」とか上がるだけ4倍になる普通に行う計算方法は使わず、おまけに切り上げで数える方式も使わなかった。だから点数棒も実際に使用するのと一桁下げて行った。当然ながら正確に点数を計算することから教わった。数年間こういう方式で点数計算も正式にできるようになってから、一般的に行われる、切り上げや上がるだけで4倍になる計算方式や「ドラ」も加えて行うようになる。それでもやはり一莊麻雀しかやらなかった。我が家で半莊麻雀はやったことがない。まあ時間はかかるが体力勝負。本当に強い者だけが勝つ麻雀だった。当然ながら父は負けない麻雀をやるので、トップにならないことはあってもなかなかビリにはならなかったような。

最初は安物の麻雀牌だったが、ある正月に兄が質流れの麻雀牌を買ってきてそれを長らく使っていた。
上の兄は4人家族だから、下の子がまだ幼稚園の頃から家族麻雀をやっていた。僕の家では麻雀をやる機会はとうとうなかった。

正式な麻雀をやっていると、世間でやっているような麻雀はやる気がおこらない。特に半莊麻雀は邪道だと思ったり。ついでにいえば賭麻雀も一切やったことがない。純粋に家庭ゲームとして麻雀をやっていたので、賞品としても正月ならみかんを賭けたりとかそんなくらい。高校の時一度だけ友人とやったことがあったが、後で調べれば僕の方が正しかったのに反則だと言われて嫌な思いをしたこともあって、違うローカルルールの下でのゲームは極力しないことにしている。

縁日

2009年07月26日 | 個人史
縁日の夜店に並ぶゲームの一つに輪投げがある。これに全財産を使ってしまったことがある。小学生の頃だった。

たいていのゲーム類はこなしている。しかも誰よりも早くその存在を知って始めている。ルービックキューブも世間が騒ぎ出す前に、本場からの輸入版の木製のを持っていた。オセロは駒が紅白の時代からやっていた。バックギャモンも、このゲームをやりたいがために、パソコンをPC8001からPC8001MK2に買い換えた。まだMK2が出て3ヶ月しか経っていない頃。

カードゲーム類もたいていはやっている。UNOを最初にやったのは30数年前、キャンプでアメリカ人が持ち込んだ時だし、その他もろもろ。

もろもろの中に花札も入っているのだが、当時花札は持っていなかった。夜店でそれを見つけた。輪投げの景品の中に。
あの時の心境はどんなのだったか理解できない。とにかくそれを取りたい一心で輪投げをやり続けた。店の人も僕がそれを狙っていることにはすぐに気がついた。気がつけば少ない小遣いの全部を使い果たしていた。きっちりとは輪はかかってはいなかったけれど店の人は僕にそれをくれた。でも貰って判ったのは、それは花札ではなかったこと。安物のライターに花札の絵が描いてあるだけの品物だった。

今で言うならテンションが一気に下がってしまったというか、後悔だけが渦巻いた。全財産掛けていったい何をしていたのだろうと。

其れ以来のめり込むことがなくなった。賭け事は一切やらない。クレーンキャッチャーなんかも、少しはやっても、取れるまで頑張ると言うことがなくなった。最初から限度を決めて出来なかったらそれで終わり。未練はない。

縁日に行くたびに小学生の時の後悔の思いが思い出されてくる。

ラジオの公開録音

2009年07月18日 | 個人史
ある土曜日の午後、小学校の講堂を会場にして、ラジオの演芸会の公開録音が行われた。

その日児童は理由も特に言われず早く帰るように言われていたが、何とはなしに残って遊んでいると、昼過ぎからぞくぞくと大人の人が集まってきた。それで今日は何かがあるのだと知ったのだが、講堂のそばで遊んでいると声を掛けられた。演芸会のスポンサーである某食品メーカーの人で、観客にお土産に渡すインスタントラーメンの詰め合わせの袋詰めを手伝って欲しいとか。一緒に遊んでいた友人(誰だったかは忘れた)と一緒に、某M社のインスタントラーメンとインスタント焼きそばの袋を各一つずつ袋に詰めていった。
だいたい詰め終わったら、社員の人が特別に2袋ずつ詰めた袋を作って、手伝いのお礼にと渡してくれた。チキンラーメン以外のインスタントラーメンを食べたことがなかったので、これは貴重な体験で、それ以降この社のラーメンも食べるようになった。

そのまま帰らずに演芸会を見ていくことに。吉本の芸人が何組かやってきていた。
岡八郎・浅草四郎の漫才と、漫画トリオが出演していた。横山ノックを間近で生で見たのは初めてだった。
数日後ラジオでその日の中継を聞いたが、実際に聞いたのと違ってかなりのカットがあったのに驚いた。公開録音というのは放送時間に合わせて内容を切る物だということを始めて知った。

岡山方面への家族旅行

2009年07月17日 | 個人史
小学6年の夏に、両親と下の兄と下の義兄の5人で岡山方面に父の運転する車で旅行に行きました。
まだそちら方面に行く高速道路がない時代で、渋滞がけっこうあった国道2号線をひたすら走りました。加古川あたりのドライブインで昼食だったけれど、車がとにかく多くてなかなか席も取れず。何を食べたのかはよく覚えていないけれど、たぶんざるそばだったかも。

岡山は、後楽園と鷲羽山へ行く。「後楽園」と聞いてまず思い浮かべるのが野球場。でもどこにも野球場はなかった。小学生では日本三大名園なんてのは知らないのが当たり前。そういえば未だに偕楽園だけは行ってないな。

鷲羽山で内海をバックに記念写真。今ではこの同じ景色に瀬戸大橋があるんだな、と、先年鷲羽山に来たときに同じ場所で写真を撮ってみたかったが、写真を見てこなかったので同じ場所はわからなかった。

当時僕は真っ白の野球帽をずっとかぶっていたので、写真はほとんどが顔は陰になって写っていない。唯一ジュースを飲んでいる写真だけが少し上を向いていたので顔が写っている。父のお古の腕時計をもらって嬉しそうにはめていた。

ナイフとフォーク

2009年07月16日 | 個人史
昔はファミレスなんてのはないから、レストランなど庶民が入れる場所ではなく、洋食を食べる機会はめったになかった。外食と言えばうどん屋に行くくらいで、夏はざるそば、冬はきつねうどんばかり食べていた。百貨店の大食堂に年に一度くらいは行くこともあるが、おはしを使う物しか食べていなかったような。ちなみに回転寿司ができるまで寿司屋に入ることもほとんどなかった。遠足の前の日に弁当用に巻き寿司2本を買うのが常ではあったが。(遠足に弁当を持って行ったことなど一度もなかった)

ということで、ナイフとフォークを使うというのは子どもの頃の夢ではあった。生まれて初めて使ったのは小学校も高学年になって、大食堂でホットケーキを食べたときだった。今の子どもはふつうにパンケーキを食べるのだろうが。
高い物を頼むことはほとんどなかったから、本格的に洋食をナイフとフォークを使って食べることはその後かなりたってからのこととなる。

ナイフとフォークの正しい使い方を父から教わった。父は若いときに政治家を夢見ていた祖父に連れられて東京に出て、東京市長やら会ったりもしたとかで、洋食の場にもけっこういたとか。
余談でその頃の父のエピソードでは、高級な中華料理屋に言って焼き飯を頼んで出てきたものにソースをかけたら店の人にひどく怒られたという。調理人が自信を持って味付けをしているのに、一口もくちにしないうちにソースをかけるのはどういうことだと。喧嘩になりかけたがそこはおさめて、ならば、と、一口だけ食べてその後しっかりソースをかけたという。
その話を聞いていらい、チャーハンを食べるときは一口だけ食べてからソースをかけるようになった。

話を戻して、父はしっかりフォークとナイフの使い方を教えてくれた。今はアメリカ流の使い方が一般化して、ナイフで切ったら持ち替えて利き腕でフォークを使うのが当たり前のようになってしまっているが、これはどうみても不格好に見えて仕方がない。
父が教えてくれたのはあくまで右手はナイフ、左でフォークを持ったままの食べ方。ご飯を食べるときは、フォークを縦にご飯に当て、ナイフで一口に入るだけのご飯を分け、ナイフの背でご飯がくずれないように軽く押さえて、口に入る量のご飯を切ってフォークの背に押し当てて起こしてご飯を食べるやり方。実にエレガントで格好がよい。

ちなみに父の教えは、ご飯とおかずはほとんど同時に食べ終わるのが美しい食べ方で、最初から量を考えて交互に食べていくのがマナーだと。最近はご飯のおかわりをするところも多くなったが、本来はおかずに合った量のご飯がだされているのだから量を合わせるのが本当だと思う。ちなみにおかずばかり先に食べて後でご飯だけ食べたりその逆なんてのは論外にも甚だしい。

ホットケーキ以外でナイフとフォークを使ったのはやはりハンバーグだろうか。ファミレスもぼちぼち出来てきて、ステーキを安く食べられるようになって使い出してきたが、最近は手頃な値段でステーキが食べられる店があまりないので出番がない。手頃な値段のステーキではサイコロステーキが安いけれど、これだとナイフは必要ないので面白くない。

金婚式と喜寿祝い

2009年07月14日 | 個人史
母方の祖父母の金婚式のお祝いがあったのが4年生の頃だったか。
父方の先祖は誰も60歳代で亡くなっているので、当然ながら金婚式を迎えた者はなさそう。もっとも昔の時代にそんなハイカラな物はなかったが。
ちなみに父が亡くなったのは、金婚式を迎える2・3年前だった。

金婚式は市から表彰状やら記念品ももらったりして、母の兄弟たちが集まって芦屋の料亭で会を催した。ちなみに10数年後に教会の修養会をまったく同じ場所で行って、思い出が蘇ったのだが。
10歳くらいのことだから、集まったくらいのことしか覚えていない。新しい細身のズボンが穿きづらくてこの時以来二度とはかなかったのを覚えているだけ。

喜寿のお祝いがその数年後に大阪で開かれた。これも何のお祝いだったかよく覚えていないが、たしか喜寿と傘寿が重なったことのお祝いじゃなかったかと思うのだが確かではない。この時には兄二人はどちらも家にはいなかったので、僕の家族では両親と僕だけが出席した。会食の後大阪城になぜか出かけた。よちよち歩きの従妹がいたのを覚えている。この従妹に会ったのはこの時だけで、なぜかこれ以降会ったことがない。

「チビ」と「ゴン」

2009年07月07日 | 個人史
宝塚にいた祖父は、昔「チビ」という犬を飼っていた。名前の通り最初は小さかったのだろうが、雑種で成長すると名前と違ってけっこう大きな犬になった。
僕はどうも動物は苦手で、特に犬は怖かった。犬には人を見分ける能力があるとかで、犬嫌いの人間には近づかなかったり、犬が好きな人間にはじゃれてくることがあるのだが、なぜかチビは僕にじゃれついてくることが多かった。体を硬くして必死で逃げようとしている僕の姿が写真に残っている。

そのチビも歳をとって亡くなってしまって祖父宅も寂しくなっただろうと、兄がお菓子屋の友人から子犬を貰い受けて祖父の家に持って行くことになった。生き物を電車に乗せるのはダメなのだが、こっそりリュックサックに忍び込ませて連れて行った。
小さな犬で、洋菓子屋だったのでゴンチャロフから取ってゴンという名前だった。

そのゴンも雑種だったので成長するとやはり大きくなった。
けれど宝塚の家を売ることになって祖父は飼うことができなくなったので、祖父と同居していた叔父が引き受けることになって独立した西宮の家に連れて行った。ということで、其れ以来ゴンに会うことなくなったのだが、そこで寿命をまっとうしたようだ。

鼓笛隊

2009年07月06日 | 個人史
学校の音楽団は、4年生では合唱部だった。当然参加したのだが、折り悪く声変わりの時期に当たって声が出なくなっていた。ということで、途中で退部することに。
ちなみにのどに無理をかけないように高音を出していたので、音階を上がりながら自然に裏声が出せるようになっていた。今で言うならファルセット。もののけ姫のパートは普通に声が出せるので、世間が大騒ぎするのがわからなかった。

5年になると、3学期に卒業式用の楽団を結成することになった。課題曲は蛍の光で、アコーディオンが弾ける者を募集していた。旋律くらいは弾けるので、K君と誘い合わせてオーディションに参加。結果的にはアコーディオンは女子ばかりになって、替わりに中太鼓を担当することになった。小太鼓とか大太鼓ならどこの学校にもあるだろうが、ドラムセットで言うなら中間の大きさに当たる太鼓もこの小学校では完備していた。もっともいくつかは修理が必要な物が多かったので、練習の時は早い者勝ちの取り合いになった。

卒業式が終わって6年になっても鼓笛隊は続いて、市内パレードも行ったりした。「君が代行進曲」などをやったのを覚えている。先年、忌野清志郎が君が代を勝手に編曲したCDを出すのにもめたという騒動が報じられていたが、どんな問題があったのか詳しい話は知らないけれども、マスコミで聞く限りは勝手に君が代を編曲したということだけを問題にしていた。たぶん違うんだろうと思う。君が代の編曲くらいなら、この「君が代行進曲」なんてかなりな編曲なんだし、それでもめた話は聞いていない。

パレードの後に校門前で打楽器・鍵盤楽器グループで記念写真を撮った。


余談ながら、この行進練習中、休憩時間に運動場で休んでいると、空に何か光る物があった。太陽の光線の関係だろうくらいに思っていたが、後に学習雑誌に投稿した奴がいて、UFOを見かけたという話になっていた。まあ見えないことはなかったが。

阪神ファンのO君のこと

2009年07月02日 | 個人史
大阪人はほとんど皆阪神タイガースのファンのように思われているが、半世紀前にはそうした状況はあまり見られなかった。

というのも、TVで放送されるのはいつでも巨人の試合ばかりで、巨人の選手なら二戦級の選手でもTVにしょっちゅう顔を出して名前を覚えてもらえるけれど、それ以外のチームの選手は巨人戦で活躍しない限り覚えてもらえることはなかった。
また、少年がかぶる野球帽も、その9割は巨人の帽子しか売っていなくて、残りの1割くらいが地元のチーム、大阪だと阪神となってしまう。同じ大阪でも阪急とか近鉄の帽子は見たこともないほど。だから子供達がかぶる野球帽は大阪であってもほとんどが巨人の帽子だった。

余談だが、将棋の羽生名人は少年時代広島カープの赤い野球帽をかぶっていて、「恐怖の赤ヘル少年」と恐れられていたそうだが、彼は別に広島カープのファンでもなんでもなく、小柄なので見つけやすいようにと親が目立つ帽子をかぶらせたということだそうだ。東京で広島の帽子をかぶるのはきわめて少数派。当時は広島が強い時代だったけれども。
阪神がけっこう頑張っていたいた時代でも大阪ではそんなに阪神の帽子は売っていなかったし、阪急がリーグ優勝の常連になってもTVで阪急の選手が表に出てくる機会はほとんどなかった。
UHF放送が始まってサンTVが阪神中心の放送を始めてようやく阪神ファンが根づいたのではないかと思う。決定的だったのはハレー彗星がやって来た年に阪神が優勝してからかも。

ということで、僕の少年時代には野球好きの少年はいても、回りに阪神のファンを自称する者はほとんどいないなか、同級生のO君だけは熱烈な阪神ファンを名乗っていた。当然希少な阪神の野球帽をかぶっていた。

当時の阪神の有名選手と言えば村山とバッキーの二本柱の時代。ちなみに後に監督となる村山は池田市に住んでいたとかで、一度家を探しに行ったこともある。あいにく彼はいなかったのだが。

O君は学年途中で南隣の伊丹市に転居し転校してしまった。転校直後に新しい家の住所と地図が送られてきて、遊びに来るようにとのことでI君と一緒に行くことになった。
知らない場所に行くのに、下見をしないと気がすまない性格は昔から今も変わらず、約束の日の一週間前に自転車で家を探しに行った。彼からもらった地図と市販の地図を頼りに出かけて迷うことなく見つけることが出来た。
一週間後にI君と自転車で彼の家まで約束通りに出かけた。
転校したばかりと言うこともあって、まだ新しい環境に慣れていないということだったが、彼の家に行ったのはその一度限りになってしまった。