丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

学校の怪談

2008年08月31日 | じつは
転勤した年のことだから1983年。ちょうど今から25年前。もう四半世紀前のことになります。
1年生が11期生でしたから、創立11年目になります。大阪万博で急増した住民のためにできた中学校で、小高い山の西南斜面を削ってできた学校だから、そちら方向には開けてはいましたが、反対側はまだ山の斜面が残っていました。

校舎の配置が重要になるので詳しく述べますと、北側に校舎が2棟平行に並んで建てられており、間に中庭がある。北館と南館はそれぞれ4階建て。東端と中央やや西寄りに渡り廊下が各階につけられていました。南館の前の広い通路から階段が降りて南に面した運動場があり、その西端には体育館が校舎と直角に、1段低く建てられています。
南館からは運動場をはさんで大阪平野がよく見え、天気の良い日には4階からは大阪湾も見えたかもしれません。
一方北館の北側は山の斜面があり、北西にある正門から外周道路が北側は校舎と平行にあって、急な坂を上り、道路の東端になると校舎の3階とほぼ同じ高さになるほど。従って、北館の1・2階は光が遮られて、夕刻からは薄暗くて、特に西端の教室では午後の授業では灯りをつけないと授業ができないほどでした。

転勤して最初の年で、1年の副担になりました。この1年生は9クラスまであります。前にいた学校が多いときで1学年12クラスあったので、それよりは少ないクラス数ですが、マンモス校には違いない。学年の教師も15人はいたでしょうか。

さて、この学校では毎年恒例で、1年生は夏に2泊3日の校内キャンプを行うことになっていました。各自寝袋を持参で、運動場にテントを張り、男女入れ替えでテントに1泊、教室で1泊を行います。中庭にかまどを作って、食事はすべて自炊というキャンプ。
後日談ながら、後に教育委員会から「学校は宿泊施設ではない」という指導が入って、この行事は行えなくなったのですが、この頃はまだ自由に行えた時代でした。ちなみに、この学校ではクラブ合宿も学校内で行っていて、クラブ生徒が合同で宿泊を行いながら部活を行ってもいました。

さて、9クラスもあると人数も多すぎるので、この年は学年を3分割して、1~3組を1次隊、4~6組を2次隊、7~9組を3次隊とし、2泊3日を3回連続して行う形態にしました。すなわち、1次隊最終日の昼食を取っている時に2次隊が集合し、2泊の後同じく最終日の昼食時に3次隊が集合するという形式で、都合合わせて6泊7日の連続したキャンプを行うことにしました。
もっとも教師が連続7日参加するのはきついので、3回のキャンプの2回に出ればいいということにしました。僕は2次隊からの参加ということにしました。

プログラムは、食事作りがメインですが、昼間はプールや運動場でのレクリエーション。夜は1日目が体育館でレクリエーション、2日目はキャンプ恒例の肝試しという内容。

1次隊には参加しなかったので詳細はわかりませんが、お楽しみの肝試しはあまり盛り上がらなかったようです。ふだん怒鳴り散らしてばかりの某教師が別の意味で怖がらすだけだったとか。

これではいけないということで、2次隊からはかなり趣向をこらすことになりました。

肝試しでは、最初に生徒を体育館に集めて怖い話を聞かせる間に脅かし役の教師が準備。体育館から2人ずつ出発して南館から北館に回り、北館4階西端にある図書室まで行って到着の印の札を持って帰るというもの。特に北館はまっくらでただでさえ不気味なのに加えて、お経のテープを購入してエンドレステープで流し続けることに。そしてゴールの図書室に急増の仏壇を作って、そこに細見の若い国語教師、仮にA子先生としますが、長い髪の毛を垂らして座っていてもらおうということにしました。教師の配置は何かがあっても困るので必ず2人で一緒にいることになっています。

さて、事件が起きたのは2次隊の肝試しのことでした。

北館1階に放送室があって、都合が良いのでそこを教師の控え室にしていました。
2次隊の生徒全員を体育館に集め、いろいろ怖い話を知っている僕が怖い話をすることになっています。当時は今と違って実話ネタの怖い話もそんなに出ていなくて怖がらせるための作り話しか出ていない頃でしたので、まあ小泉八雲の「怪談」が主なネタ本でしたが、最後には例の幽霊の写真もあるので、それを最後の武器として話をしていました。作り話でも十分怖がる生徒は多かったです。

この間、何が起こったのかはその時はわかりませんでした。わかったのは、生徒が寝た後の、教師だけのその日の反省と翌日の打合せを行っている時でした。

北館一階端の教室に隠れて生徒が来るのを待って驚かす準備をしている二人の先生の耳に、隣の教室のスピーカーからA子先生の声が聞こえてきたそうです。A子先生は放送部の顧問をしていて、一番良く放送にかかわる先生でしたが、この時は何を言ってるのかよくわからなかったそうです。おまけにこれから肝試しを始めるのに放送は止めておかないといけないので、放送室まで、放送を止めるように言いに行ったそうです。しかし、放送室の電気は消えていて、すでに誰もいなく、スイッチも切れていたそうです。
まあ、事情は後で聞こうと言うことでその場はそのままになったのでした。持ち場に戻るとすでにスピーカーからの声は聞こえなくなっていました。
ということで、「あの時、何を放送していたの?」と聞いた所、A子先生はびっくりして、「私、放送なんかしてません」という答え。放送室にはよらずに直接図書室に行ったことはもう一人の先生も証言しています。
とすると、あの声はいったい何だったのか?
うわさ話では、昔から北館では時々女性の声が聞かれるという話があったとか。
空耳ではなく、確かに女性の声が流れていたそうです。

おかしなことは3次隊でも起きました。

3次隊の指揮を行ったのは、8組担任のA子先生でした。
このキャンプでは生徒の自主性を養うことも目的にしていたので、不必要な放送はかけないようにしていました。いつでも注意をむける訓練で、生徒を係等で集合させるときには前もって北館中央に掲示板を出して、「次のチャイムで○○係は集合」というように書いておき、30分後くらいにチャイムだけをならします。それだけで生徒を集めるのですが、素直な1年生のことだからそれでもちゃんと集合はします。もちろん一部生徒で遅れることはありますが。

さて、3次隊の2日目の昼食前、食事係を集合させるように掲示も行って、チャイムを鳴らしました。生徒が集合します。ところが、8組の女子、A子先生のクラスの女子だけが一人もやってきません。待っても来ないのでそのクラスを除いて説明を始めます。気になったので僕が教室まで見に行きました。行けば、生徒はみな教室にいます。別に騒いでいるのでもなく。スピーカーのスイッチを見ましたがちゃんとONになっていて異常はありません。何している、外を見てみろ、と言ったのですが生徒はきょとんとしています。チャイムは聞いていないとみんな言います。嘘でもなさそうでした。
他の生徒はみんな来ているのだからチャイムが聞こえなかったはずもない、ということで、そのクラスの女子はこの後、食事は必ず正座という罰を行うことになりました。

奇妙なことは翌日です。
また生徒を集めるために掲示板に書いて、そろそろ集めようかとチャイムをならしにA子先生が放送室に行きかけると、8組の女子がダダダダっと階段を駆け下りてきました。どうしたの、と聞くと、チャイムがなったので急いで来ました、という返事。まだ鳴らしていない、これから鳴らす所だったのに、チャイムの音に過敏になったこのクラスの生徒にはまだ鳴らしていないチャイムが聞こえたのでした。

鳴らしたはずのチャイムがスピーカーから聞こえなくて、1日たって、そのチャイムが鳴らす前のスピーカーから流れてきたのでした。

さすがに気持ち悪くなったA子先生はキャンプが終わった後、お払いに行ったそうです。


不可思議なキャンプを終えて、その後日を改めて打ち上げの会を持ちましたが、この学校には過去にもいろいろな不思議な話があることがわかりました。いわゆる学校の七不思議という奴で、前述の「夜な夜な女性の声が聞かれる」というのもそれですが、それ以外にも奇妙な実話もありました。

この学年が11期生で、多くの教師は前年には8期生を持っていて、ある先生は昨年の修学旅行のクラス単位の分宿で、夜中に女生徒に騒がれて困ったと言います。
何でも、夜中にこっそり友だちを話をしていると、窓の外を人影が通り過ぎたとか。2階の部屋で誰かが外を通るはずもなく、怖がった生徒は担任の部屋に押しかけて、昼に座禅を組みに行ったお寺でお払いをしてもらいたいと騒いだとか。
さすがにそれは気のせいだろうと、担任も早く寝るように言うしかありませんでしたが。そういうのは、まあよくある話。

あまり良くある話でないのが、その3年前、5期生で一人自殺者が出たという。

その席で聞いた話なので実際のことはよく知りませんが、3年生の女生徒がノイローゼになったとか。精神状態がだんだんおかしくなり、授業中でもおかしな言動が目立ち始めたとか。
親もさすがに心配になり、自殺するかもしれないということで気をつけるようにし、夜中に部屋から出て行くことのないように目を配っていたそうですが、ある夜、自分の部屋の窓から抜け出して消えていってしまったそうです。
親はいろいろ探し回ったのですが見つからず、帰ってこず、そのことは学校にも連絡が入り、職員で相談の結果、ふだんの様子から緊急を要することでもあるので、細かいことは言わずに生徒に協力を求めようと言うことになったそうです。そこでHRで担任が、事情を言って見かけたらすぐに知らせて欲しいと言った所、生徒の誰かが、○○さんなら朝、教室にいましたよ、という返事。この発言で学校内は大騒ぎ。どこかの教室、使用していないトイレとかにいるのではないかと、校内をくまなく探したそうです。けれども彼女はそこにも見あたりません。

当然警察にも知らされ、町中にポスターも貼られたそうです。そうすると数件の電話が入ります。近くの駅、センタービルで見かけたとか。あるいは離れた市の中心部の駅近くのバス停で見かけたとか。そのたびにそこまで行っても見つからなかったとか。
周囲が必死で探しまくっている間、彼女の父親は異常な行動をとっていました。家近くにある池を毎日棒でつついていたそうです。うちの娘は絶対ここにいる、と言って。駅とかで見かけたという人もいるから生きていると言っても聞かずに。

そして数日後、やはりその池から彼女の死体が浮かび上がってきたそうです。家を飛び出したそのままの服装で。
不思議なのは、検死の結果、どう見ても彼女は家を飛び出したその足で池に飛び込んだとしか考えられないということでした。

とすると……

学校で見かけたというのは何だったのでしょうか。駅にいたのは誰だったのでしょうか。


大きな不思議な出来事はこれくらいでしょうか。
別件で、数年後に学校で授業中に、移動教室で誰もいない教室が燃えました。その時僕はちょうど真上の教室で授業をしていました。火事だと生徒の声で訓練通り生徒を運動場に批難させましたが、一部の先生は火を消し止めようとして、煙を吸って目や鼻を痛めてしまったり。

公の発表では、発見したのは隣の教室で授業をしていた教師ということになっていますが、本当は、当時授業を抜け出す生徒が多数いて、その時間もあるクラスで休み時間を過ぎても生徒が教室に戻ってこなくて、クラスみんなで探していたのですが、校外まで出て行ったかもしれないと、数人の生徒が校門外まで見に行こうとして、振り返って教室から火の手があがっているのを発見したそうです。さすがにどうして生徒が校門付近から発見したのか、その理由を明らかにできないので隣のクラスの教師ということにしたのですが、もう時効でしょう。この教室を使っていた生徒が何期生かは忘れました。

他、僕が転勤した後の話になりますが、自殺した生徒がいたとかいないとか。
事情等は知りませんがまあいろいろです。

祖母のこと

2008年08月26日 | 個人史
祖母は東京出身で、良家の子女だったようだ。幼い頃に日舞を習っていて発表会の写真を見たことがある。寅年生まれで煙たい存在だった。いい思い出は一つもない。
祖母は二人の息子を溺愛していて、その嫁には冷たかったようだ。終戦の年に伯父が亡くなり、4人の子ども、男女女男、のうち、後を追うように次女が亡くなり、ただでさえ悲しい状況でありながら残された3人の子どもを置いて伯父の奥さんを家から追い出したという。事情は知らない。当時5歳を筆頭に生まれたての子どももいるというのに、家を出て行くことになった女性の気持ちはいかばかりだったろうか。その後その女性とは一切関わりがない。風の噂では再婚してまた4人ばかりの子どもが産まれたとか後に聞いたことがあるがそれも噂でしかない。

祖母は父の奥さんにも冷たかったようだ。おそらく父は当時出征していたと思うが、同じく終戦時に一人娘と奥さんを同時に亡くすという不幸を背負う。家から女手がいなくなった。
残された3人の子どもを育てるのも大変なこと。溺愛する一番上の男の孫だけは家の跡継ぎとして残し、他の2人の子どもはお寺さんの紹介で養子に出すことにする。
もっとも、後に下の男の子だけは養家になつかないまま返されることになるのだが。
それでも子どもを育てるのは大変なこと。そこで打って出た手が、当時隣に住んでいた家にちょうど年頃、というか戦争のために少し行き遅れていた娘を父の後妻にもらいうけることだった。
こうして昭和21年2月4日に父と、後に僕の母になる人との結婚が成立。もともと伯父の子どもを育てるためというのが目的の結婚。戻ってきた子も含めて最初から2人のこぶつきだった。母と祖母の仲もあまり良くはなかったと思う。母が生計を支えるために働きに出たことはまだ救いだったかもしれない。
当時は家族全員合わせて8人で、生活は貧しかった。祖母も最中作りの内職をしていた。縁側であんこを炊いて、粒あんやらこしあんにして、最中の皮に入れて封をする。よく手伝わされた最中は商売物だから口にすることはまったくなかったが、こしあんで残った皮を集めて固めたお菓子はおいしかった。
一度、その商品を納品に行くのに付き合わされたことがある。相手先での世間話から、上の二人の兄(以前から養子だということは戸籍を見ることがあって知っていたが)が伯父の子どもで祖母の実の孫だと言うことをそのときに知った。僕の知識はほとんどが耳学問だった。

祖母は結局は伯父の二人の子ばかりを溺愛していた。不憫な子と思っていたのだろう。父の子と親しく関わることは少なかった。根からの東京人で、大阪風のジョークも通じなかったこともある。晩年はひたすら納豆を食べたがっていたが、いざ買うと実際にはほとんど食べなかった。
いろんなことにいちいちうるさく、家に友だちを連れて来ることも嫌がった。

祖母が倒れたのは僕が中学の時。
母と買い物に出かけた帰り道、急に歩けなくなりへたりこんだという。それから寝たきりの生活になる。当時は一番上の義兄と僕の二人の兄は家を出ていて、5人家族だった。体調もなんとなくましになってきて、どうにか立てるようになったのだが、ある日、家に僕しかいないときに、台所で食事をしている僕に祖母が近づいてきたが、再び倒れ、そのままはって布団まで戻ったが、その日を最後に祖母は二度と起き上がることはできなくなった。
祖母は薬とかには無頓着で、目薬などは直接目にくっつけてさすため、雑菌が中に入りその目薬は二度と使えなくなる。また与えられた薬の中にカプセルがあったのだが、カプセルの本来の目的は溶ける場所やタイミングを遅らせて胃の負担をなくすためなのだが、祖母は飲み込みにくいからと言って、はさみで半分にして飲んでいた。当然胃を荒らしてしまって逆効果だった。
当時は病人食も満足な物が亡く、ベビーフードも買ってはみたが、当時のベビーフードは食べられた物ではなかった。今はけっこうおいしいものが出ているのだが。ということで満足に食べられたのは瓶詰めの栗だけだった。
いろんな人がお見舞いに来たけれど、持ってくるのが決まったように「銀莊のカステラ」だった。今でもこれを見るたびに祖母のことを思い出す。

祖母が亡くなったのは僕が中学3年の三学期の始業式の日だった。
前日夜中、隣の祖母の部屋から、ガリガリというまるでネズミが柱をかじっているような音が鳴り続けていた。後で思えば、痰がからんでいる音だったのだろう。翌朝祖母は誰に看取られることもなく息を引き取っていた。数えで80歳になろうという年だった。同じ姿勢で寝ているばかりだったから床ずれがひどかった。父が体を起こそうとすると、背中の皮がずるっとめくれたとか。布団はもう使い物にならなかった。

亡くなって数日後、荷物の片付けをしていると、机の引き出しからはさみで切り取った祖母の写真が出てきた。3人並んだ写真なのに端の一人は切られていた。3人並んだ写真は演技が悪いとも言うが、おそらくは葬式の写真にこれを使って欲しかったのかもしれない。後でわかっても遅いのだが。

祖母が亡くなって今年でちょうど40年。なんとなく振り返りたくなったのもきりがいい年だからかも。

祖父のこと

2008年08月24日 | 個人史
祖父・重勝は僕が産まれる2年前にガンで亡くなったと聞いている。
明治の中頃生まれだから、60歳少しだったようだ。仏壇にある「過去帳」を昔見たが、その親の政八という人も60歳前後で亡くなっていたり、先祖はほとんどがそれくらいの年で亡くなっている。

祖父は先祖代々淡路島に住んでいて、ひと旗あげようと東京に飛び出し政治の世界に入ったとか。戦時中には大政翼賛会にも参加していたようで、父にその頃の写真を見せてもらったことがある。当時の東京市長とも懇意だったようだ。父はよく祖父に東京に連れて行ってもらったとか。
そこで良家の娘だった祖母と出会って結婚。大阪に戻ることになる。最初は大阪市内の九条という所に住んでいて父もそこで育ったとか。いつ頃か池田市石橋に転居。おそらくは戦争の影響なのかもしれない。近くに住んでいただろう母の実家も石橋の隣の家に転居したからおそらくそうだろう。

祖父は一度祖母を連れて淡路島の実家に帰ったことがあったが、当時はあまりにも辺鄙なところで、辟易した祖母は二度と行く気が起こらなく、その後一度も寄りつくことはなく、祖父に弟もいたのだが、彼も故郷を離れ三重県に移っていて、その世代が亡くなった後は、「故郷が淡路島」という情報以外、どこに住んでいたのかもさっぱりわからなくなってしまった。後にひょんなことから実家が判明するのだが、そのことは別項で記したい。

祖父はしょっちゅう大阪と東京を行ったり来たりしていたようだが、大正・昭和初期の頃とて、祖母が東京に行くことはめったになかったと思う。そのうちに祖父には公然のお妾さんができたという。父は上京する毎にその人にけっこう世話になっていたそうな。このことは誰もが知っていた。もっとも祖父の死後どうなったのかは誰も知らないが。

祖父の写真は見たことがあるのかもしれないがまったく覚えていない。祖母が亡くなったときには父が写真を飾ってはいたのだが、祖父の写真が並んでいたかどうか。
祖父の晩年は2階の部屋で寝たきりでいたようだが、ガンでかなり悪臭がしていたとか。亡くなった後布団はすべて焼却したとか。
政治家志望だったからうるさかったかもしれない。近寄りがたい存在だったみたいだ。祖父には僕の父と、父の兄である隆昌という伯父の二人の息子がいたのだが、伯父はいわゆる秀才だったようだが終戦の年に4人の子どもを残して病気で亡くなっている。

祖父が亡くなったとき、当時2歳だったすぐ上の兄が、葬式の焼香順で名前を呼ばれたときに、赤ん坊だから呼ばれただけで焼香しなくてもいいのに、一人でちょこちょこっと進み出て焼香をしたという伝説が残っている。

小説「ビデオテープでもう一度」(HPより転載)

2008年08月18日 | 詩・小説
メインHPに以前書いた小説なんですが、ちょっと転載しておきます。


「ビデオテープでもう一度」

 こんな話、誰に言っても信じてもらえないでしょうね。そりゃそうです、自分でも信じられないんだから。

 今、私は刑務所にいます。凶悪事件の犯人として。判決は死刑の有罪。そりゃそうでしょう、情け容赦ない犯行だし、目撃証言だけじゃなく、れっきとした証拠写真もそろっている。証拠写真。それが実は問題なんですけれど。でもね、一つだけ言わせてください。私は何もしていないんですよ。もちろん強盗殺人や有罪になった犯行なんかも、私じゃないんですよ。言っても信じてもらえませんけれど。裁判の時にも言いたかったけれど、はっきりと写真やTVの映像にに映っている限り言っても無駄なことはわかっていますから。でも、最後にどうしても聞いていてもらいたかったんです。

 おそらく今日が刑の執行日でしょう。もちろん誰もそんなことは言いませんよ。でもね、わかるんです。看守の人たちの様子とかを見ていれば微妙に様子が違うことが。ふだんならありえない無理を言っても聞いてもらえるんですから。だから、思いっきり無理なことお願いしちゃいましたよ。何をって?それは後で言いますけれど、とにかく順番に聞いていてください。

 私がこの現象に気がついたのはそんなに昔のことではなかったです。いや、もちろん、それ以前にもうすうすは感じてはいましたよ。何しろ異常なことですからね。でも、そのたびに気のせいだと無理矢理思いこんでいたようです。あの日、ナイターを見に行ったのです。そんなに滅多に見に行くことはないけれど、なにしろ贔屓のチームが優勝するかもしれないというそんな時期でしたから、生でその感覚を味わいたかったんですね。試合は伯仲した接戦で、相手チームにリードを許した1点差で迎えた9回裏の攻撃。2死ながらランナーを2塁においた一打逆転のチャンス。バッターは4番打者。最高に盛り上がる場面でした。ピッチャーの投げた4球目を思い切り振ったバットが快音を発しました。観客一同ボールの行方を眺めました。時間が止まったみたいに思えましたね。ボールはゆっくりとセンターを越えて外野席に飛び込んでいきました。はっきりと覚えていますよ。しばらくは誰も声が出ませんでした。数秒して観客席は大爆発。皆が立ち上がって大声で叫んでいましたよ。サヨナラ逆転ホームラン。もう興奮をはるかに越えていました。

 その日の帰りは楽しかったですよ。何件かハシゴして。結構遅くまで祝杯をあげました。最後に寄ったのが、ファンが大勢集まることで有名な店でした。見知らぬ人ばかりですけれど、同じファン同士、バンザイを叫びながら乾杯をしました。そして、ちょうどTVでニュースの野球の時間になったんですね。みんなTVに注目です。あの場面、そりゃ、もう一度みたいじゃないですか。TVはたった今見てきた試合を映し出しています。みんなは固唾を飲んでみています。結果は知っているんですよ、でも緊張しますよ。そして9回裏、4番打者の一振りがボールを外野に運んでいきます。

 次の瞬間、私はコップを落としそうになりました。外野に上がったボールは風に戻されてそれほど延びず、センターのグラブににすっぽりおさまえいました。ゲームセット。試合は負けです。「惜しかったよな、もう少し延びていればな」「悔しかったけれど良い試合してたから勘弁してあげようや」何を言ってるんだ?と思いましたよ。サヨナラホームランでしょ。でも、映像は贔屓チームの惜敗を伝えていました。そして、さっきまで祝杯をあげていたはずの周りの人たちがみんな沈んでいるんですよ。いわゆるやけ酒。

 何がなんだかわからないまま家に帰りました。翌日の新聞も敗戦を伝えています。

 このときでした、今までのいろんな出来事に思い至ったのは。

 たとえば、小学校の運動会の時でした。クラス対抗リレーのアンカーで走った私は、ゴール前、先頭を走っていた他のクラスの生徒を追い抜いて見事に優勝を決めました。合計得点もこの勝利で優勝です。鼻高々で家に帰りました。母がビデオを取っていたんですよね。それを帰った父を交えて見ました。私は言葉が出ませんでした。ゴール前追い抜かれたのは私の方だったから。ぎりぎりで負けてクラスは優勝を逃していました。母は、惜しかったのよ、と言います。父もよく頑張ったな、と言ってくれました。でも、私が聞きたかったのはそんな言葉ではなかったはずでした。

 私は小さな時の写真を持っています。男の子と女の子の二人の幼児が並んで座っている写真です。胸に名札がついています。男の子が「正美」わたしです。女の子は「友紀」。でも、これ違っていると今では思っています。だって、私の両親の名前は「友久」と「由紀」ですし、もう一人の子の両親の名前は「正和」と「晴美」です。入れ替わってるんですよ。取り違えじゃありません。血液型はちゃんと合ってることは確かめてあります。写真を撮ったその瞬間入れ替わったんです。

 大学入試の時とか似たようなことがありました。合格記念に撮った写真に不合格の人間が入ってしまったんですが、本当に合格していたのは彼の方でした。好きな彼女ができて、ライバルを(親友でしたが)押しのけて結婚しました。ライバルの友人は私たちを祝福してくれて披露宴の司会を引き受けてくれましたよ。新婚の家に彼が式の写真を持ってやって来てくれました。披露宴の写真を見ると、そこで司会をしていたのは私でした。花婿は彼だったんです。ふと気がつくと、新婚の家は彼の持ち物で埋まっていました。私は、ゆっくりしていけよ、という二人を後にして家を出ました。

 先日、課長の送別会がありました。企画の失敗の責任を取らされて退職と言うことになったのです。いい人でしたのに。それで有志で送別会の企画をしました。喜んでくれましたよ。プレゼントや花束を渡して。そこで、写真が撮られたんです。私の顔は引きつりました。嫌な予感がしましたが、現実になりました。翌日、会社に出社した私に、若い女の子が昨日の写真が出来ましたよ、と渡してくれたんです。見たくはなかったのですが、私の気持ちなど知らずに写真を取り出しましたよ。手作りの垂れ幕は替わっていました。花束を渡されているのは私でした。会社での私の席はすでにありませんでした。残務整理ごくろうさん、と退職したはずの課長がねぎらいの言葉をかけてくれました。

 行く当てのない私は何気なく銀行に行ったんです。預金を下ろさないとどうしようもなくなっていました。悪い時には悪いことが起こるものです。銀行強盗に遭遇しました。犯人は本物の拳銃をぶっ放して死者も出ました。人質を取って車で逃げ出しました。新聞もTVも事件をはっきりと映し出しました。その人質が私でした。結果いろいろあって、人質も殺されて犯人逮捕です。えっ?人質の私は殺されたのじゃないのかって?ええ、最初の人質は確かに私でした。でも、TVに映されてからは犯人は私に替わっていました。

 写真やTVで映されているのは事実だと思っているんでしょ。でも私の場合そうじゃないんですよ。映された場面が再現されたその瞬間、今まで事実だと思っていたことが逆転するんです。信じてくれなくても結構ですよ。私はこれから死刑になるんだから。

 でも、一つだけ希望を持っているんですよ。最初に言いましたよね、無理なお願いをしたって。看守さんにお願いしたんですよ。ポラロイドカメラで私が死ぬ瞬間の写真を撮って欲しいと。そしてその写真を棺桶に入れてくれるようにと。誰が死刑の立会人になるかわかりませんけれど、その人に頼んでおいてほしいとお願いしました。めちゃくちゃ変なお願いだから渋っていましたが約束してくれましたよ。今日とはさすがに言いませんでしたが、刑の執行の時には伝えてくれると。


 目隠しの中、ポラロイドカメラのフラッシュがたかれたことを確認して彼の刑は執行された。

「変な囚人でしたね、自分の最期を写真に撮って欲しいなんて」
「まあ、どうせ焼くのだからいいだろう、ということで認めたんだが、ちゃんと撮れたのか?」
「ええと、やはり気持ち悪いので、フィルムは入れませんでした」
そう言いながら男はにやっと笑った。

                            完

れいの話

2008年08月17日 | じつは
夏なので、涼しめの話を一つ。

あれは昭和25年のことだから、もう58年も前の話になります。

 当時僕の家と、母の実家は隣にあって、よく庭を通って出入りもしていたとか。 僕がまだ産まれていない時のことだから聞いた話でしかないけれど。
2番目の兄が産まれたのが昭和24年の11月。母の妹、叔母さんに長女が産まれたのが同じ年の12月。母にまだ祖母(僕にすれば曾祖母)が生きていたときのことで、そのおばあさんにとっては3人目の孫になります。4代目まで顔を見られれば、戦後まもなく頃なので幸せ者。近所の人が祖母に、これでいつ死んでもいいですね、などと言う物なら偉い剣幕でどなられたとか。まだまだ長生きするつもりだった。

ところが、人の人生などはわからないもの。

年が明けた昭和25年の1月2日。おせちも食べて気分良くお風呂に入った祖母がいつまでたっても上がってこなかったという。
心配になって見に行くと、すでに息を引き取っていたとか。叔父が医者をやっていたので専門家の立場で検視して、間違いなく死んでいたそうな。あれほど生に執着していたのに人の寿命はわからないもの。正月早々葬式を出すことに。

しかし、急死だった物だから、当人に死の自覚がなかった模様。その日から変なことが日常的に起こり始める。

まず、母の夢の中に毎日姿を現していたとか。
 映画を見に行く夢を見ると、隣に黙って座っていたり、買い物に行く夢では一緒に買い物をしていたり。ほとんど毎日のように夢に出てきていたとか。

おかしなことは実家にも起こっていた。

母の母、祖母の夢の中にある晩出てきて、「暗い、暗い」とつぶやいていたとか。
気になって仏壇を見に行くと、四十九日の間、つけっぱなしにしていなくてはいけないお灯明が消えていたとか。

そんなこんなが起こり続けて春になる。

滋賀の嫁入り先から叔母が娘を連れて里帰りをしてくる。
暖かくなった頃ということで、二人の赤ちゃんを並べて我が家の縁側で写真を撮ろうと言うことになる。

そして撮ったのがこの写真

なぜか写真の中心が変にずれていて、妙な物が写っている。
ごみだろうかと思ったそうだが、じっと見ていると人の姿に見えてくる。しかも和服を着たその姿は、亡くなったおばあさんにしか見えない。着物の着方も生前の姿とそっくりの様子。

これまでの奇妙なことと思い合わせて心当たりがある。

本人は急死だからこの世に未練一杯で死にきれなかったのかもしれない。

ということで父方の祖母の知り合いに祈祷師がいたということで、頼んでおがんでもらったとか。
すると数日後、母の夢枕に現れて一言。「おかげで良い所に行けました」
そしてその日からぷっつりと夢にも現れなくなったという。

この写真は気持ち悪いので母だけが持っているとか。

二人の赤ちゃんの反対側の隣には叔母がいるのだが、叔母の家ではやはり気持ちが悪いからと、上部を切り取った写真しか残していない。写真も古くなったので、原盤を元に焼き増しして貰ったもので、母が亡くなってからは原盤も無くなって、この写真しか残っていない。


最初に

2008年08月16日 | お知らせ他
新しくブログを開設しました。
ちょっと公に出来ない話とかその他をこちらに書こうと思っています。
と言ってもそんなにやばい話は書きませんが。
(公序良俗に反することはしませんし、そんなコメントはお断りです)
ただまあ、知人には読まれたくない話とか、為にも成らない話とか、
そんなのを書こうと思ったり。

40年も前から書きたかった小説とかも書けたらいいなと思っています。
不定期ではありますが、それこそ思いつくまま気の向くまま。
というわけで、他のブログからのリンクは貼っていません。
そちらから来られると困るので。逆はありますが。