丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

ハーモニカ

2009年03月29日 | 個人史
昔は子どもが最初に出会う音階のある楽器はハーモニカだった。
小学校でも音楽で使う楽器がハーモニカの学校もあれば縦笛の学校もある。
最近ではリコーダーというしゃれた縦笛の方が主流で、小学校でソプラノリコーダー、中学校でアルトリコーダーをやっている学校も最近はある。
僕よりだいぶ後の時代には鍵盤ハーモニカ、YAMAHAの商品名で言えばピアニカを使用している時代もあったが。

僕の時代ではハーモニカか縦笛しかなかった。最初に手にしたのはハーモニカ。
学校で一括購入する奴を最初は使っていたが、自分で言うのもなんだが、音感がよくて、一度聞いた曲なら楽譜が無くてもハーモニカはすぐに吹けた。知っての通りドミソは吹く音で、レファラシが吸う音でその使い分けが難しいはずなのに、なぜか山勘でそれがわかってしまう。音程の上下は勝手に口が動くし、吹き吸いも問題なく見分けていた。
ちなみに他の楽器でもそういう勘が働いて、専門的な管楽器でも教本を見ないでも吹いてしまうことがよくある。トランペットを持っていて、教本もあるのだが、すっかり忘れていてもドレミの音程は1オクターブしっかり吹きこなした。
以前学校のクラブで必要な中古のトロンボーンを買いに行ったときも、音がちゃんと出るかどうか確かめるのに吹いてみるように言われて、初めて触ったにもかかわらずドレミの音階をきちんと吹いてしまった。

そんなことで、学校購入のハーモニカ程度ではあきたらず、親から本格的な「宮田のハーモニカ」を買ってもらった。けっこう使用したのだが、学校が替わって、そちらでは縦笛使用の学校だったこともあっていつのまにかハーモニカは使わなくなってしまった。

後にある青年誌の漫画で、初めてハーモニカを吹く青年がきちんと曲を吹いているのに驚いて天才だ、とばかりに音楽の道を進める物語があったが、そんなの誰でもできる当たり前のことだろう、と当時は思っていた。本当はけっこう難しいらしい。

小学2年生

2009年03月22日 | 個人史
小学2年生は「ボーン校舎」と呼ばれる校舎で1年間過ごした。2階建てで、1階が2年生、2階が3年生。当然ながら2階に行くことはまったくなかった。この学校では、1・2年とクラス替えも担任の交替もない持ち上がりだった。もっとも担任の女性のM先生はちょうど2年生の1学期に出産休暇に入られたので、1学期の間だけ産休講師の先生に替わられた。

2年間の通知表の、2年の1学期だけ筆跡も違えば書かれた所見も実に簡素な内容だった。その産休講師の先生のことはほとんど覚えてはいないが、所見は覚えている(というよりも、通知表はすべて保管していていつでも見られる)。曰く「もう少し落ち着いたらどうでしょう」

実に落ち着きがない子どもだったと思うし、なまじ人より早く理解することが多かったのですぐに答を言ってしまったり、授業では実に迷惑な存在だったと思う。そんなことで、一度は授業の邪魔だから、と教室を追い出されたこともある。運動場に出て行け、と言われて、呼びに来るまで一人でぽつんと運動場にいた。

担任のM先生は上級生の家庭科も教えられていて、兄のクラスの家庭科も受け持っていたので兄もよく知っていた。

クラスとしては男女関係なく仲の良いクラスで、女の子の遊びでもある「おじゃみ(関東ではお手玉と呼ぶか)」とか「おはじき」などもよくやった。折り紙でいろいろな物を作ったりとかそういう室内遊びも多く流行っていた。もちろん運動場でのドッチボールなどもよくやっていて、僕はあまり球技はできない方なのだが、朝、登校すると加わるのが当たり前のように組み分けをされてドッチボールに加わるのが常だった。

2年生が終わった段階で転校することになるのだが、ちょうどこの学校では2年から3年に上がる時にクラス替えがあるので、学年の終わりがクラス解体の時になり、年度の終わりに「お別れ会」が持たれた。この年度で転校するのが僕を含めて3名いたこともあるのだが、クラス替えだからちょうど都合もよかったかも。

みんながそれぞれ出し物をするのだが、この部分、「ちびまる子ちゃん」でもそんな場面があったようだがよく似た雰囲気かも。結局僕は出し物を思いつけず、他の人の出し物に混ざる形になったのだが、最終的にはやらなかった。かわりに司会に選ばれてそちらをつとめる。冬休みの工作で僕の作ったマイクスタンドが優秀だったこともあったのだが(実は兄がほとんど作ったことを白状しよう)。

最後に転校生一人ずつ挨拶で、僕は挨拶も兼ねて、当時好きだった坂本九の「上を向いて歩こう」を歌った。この時代、学校で歌謡曲を歌うことは禁止されていたのだが、転校する特例ということで認めてもらった。

このとき一緒に転校することになったもう一人の男子の名前がやけに印象に残っていて、彼の名前の苗字をペンネームにしたこともある。後にいろいろなペンネームを考えたりしたのだが、その名前が一番気に入った名前で、中学生時代に小説を書いたりするときに使っていた。パソコン通信でハンドル名をつけるときに今の名前にしたのだが、惜しいのでそのペンネームをパスワードにしたりしている。何でその名前が気に入ったのか、その秘密に気がつくのはかなり後の話だが、ちゃんと理由はあった。当然ここには書けないが。

転校してから当時の友だちと会うことは一度もない。
もっとも幼稚園のある友だちとは、友人の友人という形で一度再会したことはある。小学校で先に転校した子が、転校先に学校にいたというのもあるがあまり一緒には遊んでいない。

そうそう、先に書いたように、まったく友人でもないのに同じ時期に同じ小学校の同じ学年で過ごしたという人二人とは後に偶然出会うことにはなるのだが。

兵庫県川西市のこと

2009年03月13日 | 個人史
最初に転居した兵庫県川西市には約10年住んだ。
正確に言えば9年と11ヶ月と3週間。小学1年の11月15日に引越をして、高校2年の11月8日に出て行った。
最初の1年4ヶ月は電車通学で元の学校に通い、最後の1年8ヶ月は県外の高校に通っていた。その時には川西市というか兵庫県内に通勤通学する家族は独立した兄を除いて誰もいなかったので、何も残さずに出て行ったことになる。

兵庫県川西市は、兵庫県の最東部に位置する県境になる霊山・妙見山を市内に持つ市であり、妙見山及び能勢地域への入り口にあたる起点になる。
地域的には兵庫県東部の6市1町(芦屋市・尼崎市・宝塚市・西宮市・伊丹市・猪名川町、そして川西市)で構成する「阪神地区」の一つであるが、経済的には県境を流れる猪名川をはさんだ隣の大阪府池田市との関連が強い。例えば水道水は猪名川の水を共有していたり、電話番号の市外局番は池田市と同じだったりした。市内にある国鉄(今のJR)の駅名は「川西池田駅」だったり。
ちなみに同様の関係にあるのが両市のちょうど南隣にある兵庫県伊丹市と大阪府豊中市の関係でもあったり。この2市間では大阪空港を共有したり、ゴミ処理上が共有だったりして当然ゴミの分別方法も一緒だったりする。

川西市の地図を見ると、まるで「タツノオトシゴ」のような形状をしていて親しみが持てる。だからしごく当然のように、市のイメージキャラが「タツノオトシゴ」だったりもする。現代的には「火を吹き出すクッパ」に見えないこともないが。
鼻先が妙見山に当たり、足下の部分に市の中心街があり阪急電車が(JRも)そこを通っている。能勢への入り口と言うことで駅名は昔は単に「能勢口」と称していたが、僕がいる頃に「川西能勢口」と呼ぶようになった。
昔は市内にもう一つ「花屋敷」という駅も存在したが事情で廃止された。
(この話については別項として書こう)

川西市は歴史的にはかなり古く由緒ある土地でもある。

清和源氏の先祖である源満仲が自分の住居を求めるのに、神託でナニワから北に向かって矢を放ち、落ちた所が川西市内にある「多田神社」のそばの「鼓が滝」というところに落ちたという。そこに住み着く龍に当たり、瀧を落ちていく音が鼓を打つような音だったことからその地名がつけられた。
満仲はその近くの「多田」に住み着き、別名「多田満仲」とも称した。清和源氏のことを「多田源氏」とも言う。
近年川西市内に文化ホールが出来、名称を「みつなかホール」と言う。
源氏の紋章が「笹りんどう」だったこともあり川西市の市章も「笹りんどう」を模している。当然市草でもある。

源氏ゆかりの地はけっこう多く、源頼満とその四天王が酒呑童子を退治したとき、鬼の首を洗ったという「血の池」が多田神社の境内にある。また四天王の一人渡辺綱のお墓が市内の小童寺(花屋敷ゴルフクラブへ行く途中にある)というところにある。
四天王と言えば忘れてはならない、金太郎こと坂田の金時のお墓も、川西市の飛び地である「満願寺」にある。この飛び地は本来隣の市の宝塚市の中にあるのだが、その由来から川西市の土地となっている。位置的にはタツノオトシゴが糞をしたような位置になるのだが。

バブル以前に大阪のベッドタウンとして距離的にも手頃な川西市が狙われて、開発ラッシュが起き、阪急電車で直接急行が通うニュータウンなどができたが、家が急増し、住民が急激に増えると学校等の公共施設が必要となるということで、経済的に苦しくなるために、建設会社に施設建設の費用を半分近く持ってもらうという「川西方式」が産み出された。このことは自然破壊にもつながったりもするのだがどうだったのか。

川西市できわめて珍しいのが、「花屋敷駅」のすぐ近くにあるお寺に、世界でも2つしかないという「ナイチンゲール像」があるということ。
ここの住職がヨーロッパ旅行をしたときにナイチンゲール像と出会い、その話に感動して正式に許可をもらって境内に建てたという。お寺にキリスト教関連の像があるという。僕が10年住んでいた家がこのお寺の近くだった。

川西市から出た有名人と言えば、すぐに名前が挙がるのが、プロ野球で元ヤクルト監督だった古田敦也氏。市内にある高校からプロに入った。
現役女優の由美かおるは駅前の商店街にある八百屋の娘で、橋幸夫の映画相手役に抜擢されてデビューしたときには店にポスターが貼られていた。彼女は僕の小学校の先輩にもなる。在校時は知らなかったが。
ダチョウ倶楽部の寺門ジモンも川西の出身だという。どこにいたのかは知らないが。
マイナーなところでは将棋のプロの森安八段は、駅近くに将棋の駒の形をした将棋道場を建てて指導を行い、名誉市民になっている。

川西能勢口駅は整備されて、子会社であり妙見山までつながる能勢電車と同じホームになるよう大きな駅ができ、JRの川西池田駅とも歩道橋でつながるようになった。市内南部には高速道路の中国自動車道が通っているが通過するだけなのだが、第二名神の建設予定では先に書いた小童寺のそばを通り、そこにインターチェンジができるという。当然ながらゴルフ場があるためだが。ちなみに僕の通う教会が所属する団体が所有するキャンプ場がインターチェンジ脇に引っかかって、キャンプ場が削られることが決まっている。もっとも第二名神建設が現在凍結はされているのだが。

市内を流れる猪名川は昔はきれいな水で遊泳もできたのだが、僕が中学1年の時に、上級生が多田神社付近で泳いでいて流されて双子の片方が亡くなるという出来事があってからは全面遊泳禁止になった。
また30年ほど前に支流の川で工事を行っていた作業員が急に流れてきた激流に巻き込まれるという事故も発生。当時僕が住んでいたマンションの住人がその中にいて、数日後に大阪湾で遺体が発見されるという事故もあった。

歴史とニュータウンが並立する町、それが川西市である。

池田での思い出書き残し

2009年03月10日 | 個人史
池田市に住んでいた頃のことで書き残している小さな話など、断片的に書きます。
後で追加していくかも。

友人の家に遊びに行った帰りに、そこのお兄さんの自転車に無理矢理二人乗りで乗せてもらったら、落とされて頭を怪我したこと。

堀のようになっている小川で、上から滑り落ちて怪我したこと。

正月前に買ってもらった新しい靴を側溝に落としてしまったのは夢だったのか。


蛍狩り

2009年03月10日 | 個人史
家の裏を流れていた「箕面川」は当時綺麗な水が流れていて、夏になると蛍が飛び交っていた。隣の駅が「蛍池」というだけあって、地域的に蛍が多い所だったのだが。
線路の反対側になる河原は蛍狩りの名所で、駅の近くでもあり夏には大勢の人がやってきて蛍をめでた。蛍の匂いは今でも覚えている。昔は蛍を売買しようなんて人はいるわけもなく、2・3匹取ると虫かごに入れて家で眺めたりもした。

最近は今住んでいる豊中市でも蛍の名所はあることはあるが、いろいろ禁止事項も多く、蛍もそうだがめでる人間にとっても住みにくい時代になった物だと感じてしまう。何でも商売にしようという人が最近は多すぎる。

子ども会のこと

2009年03月09日 | 個人史
小学生の頃だった。
ある夏の日、通学路と違う道で帰る途中の家で、「子ども会」が開かれるという案内のポスターがあった。なんとなく楽しそうかも、というそれだけのことで、行われる日曜日にその家に集まった。けっこう大勢の子どもがいて、歌を歌ったりゲームをしたり、それから幻灯を見せてもらった。今ならスライドというのだが、実に古い幻灯機という機械で絵物語を見た。それはイェス・キリストの生涯の物語だった。

幼いからまったく気がつかなかったが、キリスト教の子ども向け伝道集会だったのだ。帰り際に豆カードをもらった。
10数年後に自分自身が教会学校の手伝いを始めて、子どもにカードを配ったときにデジャブに襲われた。このカード、見たことがある、と。その時までそんなカードをもらったことなどすっかり忘れていたから。

幻灯はなぜか強烈に記憶に残っていた。イェス・キリストが十字架を背負って歩く場面があった。けっこう強烈だったかも。

その日はそれで終わって、本当にそれで終わりの筈だったのに、幼い子どもというのはとんでもないことをしでかすもので、翌月の同じ日にその家の玄関先に座って子ども会が始まるのをずっと待っていた。あるわけないのに。
それに気がついた家の人が考えたのだろう、それがきっかけで本当に毎月開かれるようになった。

12月はクリスマス。特別と言うことで近くの公民館を借りてクリスマス会が開かれた。しかし、場所が変わって内容も盛大になったことで逆に熱が冷めてしまって、それ以降行かなくなった。

ちなみに母は昔、天幕伝道集会にも参加したことがある。家からすぐの空き地にサーカスの天幕をめちゃくちゃ小型にしたようなテントの中で伝道集会があって、僕も連れられて行った記憶がある。なぜか我が家には聖書があった。
後にアンドレ・ジイドの「狭き門」を読んだときに、この聖書の箇所がどこにあるのかこの聖書で捜した物だ。それと、基督の十字架のくだりを読んでみたくて、聖書の終わりの方を探したが一向に見つからなかった。この聖書は2度目の引越の時に行方不明になった。
ちなみに兄の高校でもギデオン協会から人が来て日英対訳の聖書をもらっている。
こちらの方は兄は使わずに僕が使うこととなる。けっこう兄の本が僕の本棚に並ぶことが多い。

電車通学-小学時代

2009年03月08日 | 個人史
小学1年生の11月15日に引越をして、2年生の終わりまで1年と4ヶ月、電車通学をする。
兄も電車通学なのだが、一緒に行くことはあまりなく、ほとんど一人で通った。
兄はたまに友人の家までこっそりと自転車で行き、そこで自転車を置かせてもらって歩いて学校には行くということもやったり。僕は自転車には乗れなかったし、自転車自体なかったから電車で通うしかなかった。

世の中不思議な物で、僕の苗字の2文字を入れ替えた人物が同じクラスにいて、彼は元々僕の転居先の割と近くに住んでいて電車通学をしていたが、僕が電車通学をするようになって数ヶ月後に彼の方は学校近くに転居した。名前だけでなく人生も逆さまだったという。

一度だけ通学時間帯に降りる駅のまさにすぐ近くで脱線事故があり電車が折り返し運転になったことがあった。事故現場を知らなかったので、電車の路線の逆回りだと行けるだろうかと幼心に思ってしまって反対方向の電車に乗ったが、あまりにも時間がかかりすぎるのでやめて、一つ前の駅からだと小学校近くの中学校まではバスが出ていることを思い出し、駅まで行ったのだがバス乗り場がわからず、しかたなくそこからバス道を歩いて小学校まで行った。学校に着いたのは昼前で担任の先生がずいぶん心配をしてくれていた。まだ電話などと言う物がそんなに普及していない時代だから連絡のしようがなかったことがあった。

以前の家が駅から近くの所だったので、電車を降りると後はそれほど変わりなく通学できる。ただ駅前の通りの途中に映画館があり、夏になると怖い映画がやっていて、看板がとても怖ろしくて通れずに遠回りをしたことも数度。余談ながらこの映画館、子ども映画もよく上映しているので、家にテレビがない時代唯一の映像娯楽施設だからせっせと通ったものだが、あるとき、子ども映画を見に行ったのに、予告編でラフカディオ・ハーンの「怪談」の映画化でその予告が画面いっぱいに映し出されてびびってしまった。忘れもしない「耳なし法一」がお墓の前で平家物語を語っている場面で、今ならぜひ見てみたいと思うのだが。
ちなみに恐怖映画はいまだに苦手。怪獣物は好きだったのに、予告編で見た「マタンゴ」という映画には超びびって、今でも見られない。

家が離れてしまったために友人の家に遊びに行くことはまったくなくなってしまった。元から他人の家に遊びに行くような性格ではなかったこともあったが。その代わり、転居して数ヶ月後に家の近所で遊んでいたグループと知り合い、中でも小道をはさんだ家の1歳年下の男の子と親しくなって彼が引越をするまでずいぶん仲良く遊ぶようになった。3年生で転校しても新しい環境に慣れることが出来たのもそういう布石があったことが大きい。

兄のバイトと少年サンデー

2009年03月06日 | 個人史
僕の兄弟は末っ子の僕を除いて皆が小学生の頃から家計を助けるためにアルバイトをしていた。
下の義兄は自転車に乗れなかったのに、牛乳配達のアルバイトをするために必死で自転車に乗れるようになってやっていた。
兄二人は同じ新聞配達のアルバイトをしていた。転居しても下の兄は小学校を卒業するまでは元の配達店で続けていた。中学になってからは近くの新聞配達店を探して続けた。
たまに僕もその兄の手伝いをすることもあって、まさに気まぐれに配達を手伝ったりもした。転居してからの方が手伝いは多くなったが、兄の受け持ち区域を半分にして反対方向から配って中間地点で落ち合うというぐあいに。
昔は折り込み広告も少なかったから配達は楽だった。特に夕刊の場合だとほとんど入っていない。新聞を新聞受けに入るサイズに折るときのキュッキュとさせる動作とか、枚数を数える動作とか覚えたものだ。

まだ池田市でバイトをしている頃に少年サンデーとマガジンが創刊された。新聞配達店に週刊誌も置かれていたので、兄は少年サンデーの創刊第2号から購読を始めた。今でも第2号に連載されていた「スポーツマン金太郎」の場面をしっかり覚えている。
当時電車通学を始めたばかりだったので、時々は兄の代わりに僕がもらって帰って、電車の中で読みふけり、降りる駅を過ぎてしまったこともあった。

週刊少年雑誌で言えば、僕が盲腸で入院した5年生の時に、退屈しのぎに当時出ていた少年サンデー・マガジン・キングをすべて買ってもらって、その後、少年サンデーに変えて少年マガジンを購読するようになる。それは中学入学まで続いて、中学入学と同時に定期購読を止めることとなる。ながらくは漫画雑誌自体も読まなくなったのだが、高校の時に少年ジャンプが創刊され、あの画期的な「ハレンチ学園」で立ち読みを始めることとなる。

月刊雑誌は気がついたときには定期購読をやっていて、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などが載っていた「少年」をずっと読んでいた。他の月刊誌を見ることもあったが、長らく「少年」ばかり読んでいたような。

兄二人は中学・高校になってからは近くの五月山にあるゴルフクラブでキャディーのバイトをしたりとかもあったようだ。ゴルファーにゴルフクラブは何番が良いか尋ねられてけっこうでたらめに教えていたとか。
もっとも兄二人は青田買いの会社から奨学金や小遣いが出る高校に入ったのでバイトをする必要はなくなってあまりやらなくなったようだが。