丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

クラス会

2010年01月25日 | 個人史
中1のクリスマスだったか年度末だったかどちらかは忘れたが、放課後にクラス会が開かれた。
クラス内のいくつかに分かれたグループで出し物を用意して演ずるという会。
先に書いたTさんと彼女の親友のSさんは大阪人らしく漫才をやることにして、練習している所に出くわして僕が台本を考えた。笑いに厳しい大阪人でも、当時は中学生では「ボケ」と「ツッコミ」をきちんと理解している人はそんなに多くはない。まあ大阪人のほとんどがボケなんだが。僕はきっちりボケとツッコミを分けて台本を書いたのだが、後で仕上がったのを聞けば途中で立場が逆転していたり。

他のグループはほとんど覚えていない。僕のグループは長期欠席をしていた一人を含めた5人のグループで、欠席中の一人を除いて他のメンバーに歌いたい歌を4・5曲選んでもらった。で、何をやったかと言えば、その選んだ歌、合わせて20曲以上になるのだろうか、それを適当な長さに切って全員でばらばらな歌を一斉に歌うという物。最後に「生徒会歌」を合わせて終わるという趣向。
で、当日は長期欠席の男もこの日は出席したので、彼については準備がなかったので急遽指揮者をしてもらうという形にする。
まあ究極の合唱でしょう。けっこう受けたけれど。

ESSクラブ

2010年01月24日 | 個人史
K中学は必修クラブ制度だったが、どういう理由か知らないが、3学期最初にクラブ再編成が行われた。
言ってみれば、4月に新入生を迎えるための準備を1月段階でしっかり固めておこうというものなのだろうか。

4月から9ヶ月間、「野外活動部」というよくわからないクラブに属していたのだが、クラブ一覧表を見るとまったく新しいクラブができるというのでそこに転部することにした。そこがESSクラブ。イングリッシュ・スピーキング・ソサイエティ。一言で言えば英語クラブ。
まったく新しいクラブで、先輩が女子2名だけ、同学年が英語が学年一番だったTさん(ちなみに僕は英語が学年2番だった)、家が僕の近所で先に書いたことのあるM畠さん、僕が好きだったTさんの親友のSさん、そしてコメントがつかないKさん。特に深い関わりが後にも先にもなかったのでコメントがないだけだが。僕以外はすべて女子という環境。
メンバーとしてはけっこう楽しくやっていた。Sさんがいるために初恋のTさんのことがクラブ内でしっかり知れ渡ってしまっていたが。
M畠さんとは2年時に同じクラスになり、クラブもクラスも地区も一緒ということになって、クラブが終わった下校時はよく一緒に帰ったりしたものだ。
そんなことで、男子一人と言うことでいきなり副部長にさせられた。
このESSクラブ、結局1年間で顧問が3人替わるという悲惨な事態になるのだが。

そもそも始まりは、英語での文通同好会というのが最初だそうで、美術部の顧問だったM先生が有志を集めて英語友の会のような物を始めて、けっこう活動が活発になったということでクラブに昇格したらしい。
しかしここで大きな問題が2点生じる。
一つには、学校が必修クラブ制だったので、同好会の部員は全員どこかのクラブに属していたこと。結果として同好会の部員は一人も新生クラブにやってこなかった。
もう一つは、同好会の顧問をしていた美術のM先生自身が美術クラブの顧問であり、顧問の掛け持ちという異常事態になってしまったということ。
そんなわけで満足な活動ができないままに3学期は過ぎてしまった。
新学期に入り、M先生はやっぱり関われないと言うことで転任してきたばかりの女性の先生が顧問になることに。しかしこの先生、いろいろ問題有りの先生だった。ついたあだ名が「カラークレージー」とか。派手な服装で、よけいな色気ばかり求めて、生徒にはいろいろ不人気。おまけに私生活でもいろいろあったようで、何と1学期で退職してしまった。
で、2学期に入り、替わりにやってきた男の英語の先生が引き継ぐこととなる。
いまいち学校現場に慣れていない事やらいろいろあり、また相性的に僕とは合わない人だったこともあって、いろいろ細かいことで衝突したりでまああまり面白くもないクラブ生活になってしまった。

英語クラブという内容から、自分たち自身も何をやっていけばよいのかわからず、新1年生を入部させるわけにもいかず、中途半端な状態が続く。それでも学期途中で他のクラブから下級生が5名ばかり転部してきて何とか形にはなる。
僕が3年になったときには、ブラジル帰りの1年生が編入してくるということで特別に新入部員ができたり。またこの年に「文化祭」が始まって、ESSクラブとしても英語劇を発表することとなる。
ちなみに台本は僕が本屋で探してきた英語劇の台本から選んで「赤頭巾ちゃん」を3幕あるなかでトリプルキャストの早変わりでこなすこととなる。
僕自身はどもることもあり、舞台に自信がなかったので演出になりきることとなる。結果的には台詞がよく聞こえない等でうまくはいかなかったのだが。

結局何をしたのかよくわからないままでクラブは終わってしまった。
ちなみに翌年の文化祭を覗いてみると、ちょうど大阪万博が近づいた頃だったので、世界の人たちにインタビューをするという内容の劇を発表していたが。僕がいたときのメンバーが皆卒業してからはクラブとしては自然消滅したようだった。

ガマ先生のこと

2010年01月22日 | 個人史
「ガマ先生」と呼ばれる名物教師がいることは風の噂で聞いていた。
小柄な初老の数学教師で、年齢的には父親と同世代のような。
顔がガマガエルに似ていることから「ガマ先生」と呼ばれていたI先生とは、当時は教科担当ではなかったので直接は知らなかったが(1年時の担任教師が新卒の数学教師だった)、かなりユニークで面白い教師だという噂だけは耳にしていた。
ある日の昼休みに廊下を歩いていると、そのガマ先生が生徒と何やら話をしている場面に出くわした。これがあの有名なガマ先生かと思ったのが第一印象だった。

この先生とはなぜか気があった。恩師と言える唯一の先生となる。

2年時に数学の教科担当になって、そのユニークさを目の当たりにした。僕が数学教師になった一つの理由にこの先生との出会いがあったことは確か。そして思いっきり影響を受けた。どれくらいユニークかは表現できない。図形の定理を覚えさせるのに体全体を使ったお遊戯をしたり、しかもそれが授業参観の時で、後ろにいる母親達も一緒にとさせたり。

あるとき、少し退屈しているような僕の様子をとらえて、僕だけに一つ特別な問題を出された。3本の杭があって、大きさが順に小さくなる円盤が一つの杭にいくつかささっている。この円盤を、小さい円盤は必ずそれより大きな円盤の下には来ないように一つずつ別の杭に入れ替えて、元の杭とは別の杭にすべて入れ替えるのに何回入れ替え回数がかかるのか、一般解を求めよ、という問題。
後にそれが「ハノイの塔」というゲームの一般解を求める問題だと知るのだが、
1時間いろいろ考え、円盤が1個の場合から2個の場合、3個の場合と増やしていってその回数の数字の法則をとうとう最後には発見した。
この一般解については高校で正式に問題として出てきて、一般解の正しい求め方を知ることになるのだが、数列の面白さを知ったこととして記憶によく残っている。

3年の時にはI先生は僕の地区の顧問教師にもなったので関わりもより深くなった。卒業してからも、担任教師ではなくこのI先生を訪ねてよく中学校を訪問したものだ。
大学に入った年までは中学の文化祭には必ず訪れたものだったが、その後は忙しくなってとうとう訪問しないまま今日までいたっている。当時から連絡等はまったく取っていなかったこともあって、今どうしているのかまったく知らない。

サイン帳

2010年01月14日 | 個人史
小学校6年生とか、中高の3年生とかはよく卒業間際にサイン帳を回して卒業記念の一言を書いてもらったりするが、たいていは同じクラスの生徒がほとんどで、以前に同じクラスになっていても卒業年次に同じクラスでなければ、特に親しくない限りはサインを書いてもらうこともない。

ということを常々考えていて、だったら同じクラスにいる間に書いてもらえばいいんじゃないかと思って、中1の時からサイン帳を作ることにした。

キャンパスノートの手帳サイズのノートに、同じクラスの生徒、各自見開き2ページずつ、出席番号順に名前を書いておいて準備し、2ページを使って住所やサインやら何か一言とか書いてもらうようにした。見開きだから他の人の欄は原則的に見えないようにして……と言っても開いたら読めるのだが……とにかく何でも良いから書いてもらった。

さすがに中1では書いてくれる人はそんなに多くはいなくて、全員分は集まらなかった。中2になると、新聞係という立場を利用して、年末に賀状用のデーター集めに使うことも含めて全員分集めることが出来た。3年では当然のように全員書いてもらった。内容的にはやはり3年の時のが一番充実している。
先日もMIXIで当時の同級生と出会って、ノートを引っ張り出して確認した。このノートは宝物だ。

国語の教師

2010年01月12日 | 個人史
中学1年の国語の教師は、最初の授業で、吃音の者はいるかと聞かれた。
返事をしたところ、その1年間本読みはいっさい当たらなかった。
小学校の時につっかえながらも本読みをして、むしろ朗読が好きだったから、
当てられないことが不満だった。ありがた迷惑というか、親切の押し売りというか。

2年の時の国語教師は、苗字の漢字は小学校で習う漢字なのだが読み方が難しいという名前で、最近では女子フィギュアスケートの選手で同姓の選手がいて読める人も増えたのだが、国語の先生と姻戚関係でもあるのだろうか、非常に珍しい名前だから。
この先生の授業で、ある時、前回の授業と同じ内容を始められた。復習をされているのだろうかと最初は思っていたのだが何だか様子がおかしい。教室の中もだんだん不安になってきて、かなりの時間が経ってから、これ前回聞いてますと言ったら、どうしてもっと早く言わないかと言われた。どうりでこのクラスは質問してもみんなよく答えられるなと思ったと。

3年の時の国語の教師は男の教師なのだが、しゃべり方がやけに女性っぽい。それでいてつばきを飛ばしながらしゃべるので、一番前の席はつばだらけになったり。ついたあだ名が「つばき姫」。
この教師、何にもわかっていないなと感じた。
当時「愛と死を見つめて」という本が爆発的にヒットした。病気の若い男女の大量の文通の記録を本にまとめたもので、女性の方は若くして亡くなってしまうのだが、この純愛の記録がベストセラーになり、TVドラマになって大ヒット、吉永小百合で映画化されてまたまたヒット、歌が出来てその年のレコード大賞を取ったりの評判の本だったが、この国語教師はこの本を批判して、こんなのは何十年も残らないつまらない本だと切り捨てた。本当に名作と言えるのは何十年経っても評価の変わらない本だと。この教師、この本を読んだこと無いんだと。古典の名作と同列に並べてどうする気なんだろうと思った。

原稿用紙100枚

2010年01月07日 | 個人史
小学校3年生の時に新聞係をやって、学級壁新聞をみんなで作っていたが、連載の読み物も書いた。「うそつき話」という、物事の起源をでたらめに書いたのだが、けっこうこれで味をしめたのかもしれない。
小学校高学年ではクラスに新聞係はなかったので、掲示係になったのだが、中学になって、1学期が副委員長だったのだが2学期以降は委員にはならなかったので、替わりに新聞係を希望した。

ちなみに1年のクラスでは「毎日中学生新聞」を担任の先生が購入していて、自発的に毎朝職員室まで取りに行って閉じる役をしたりしたが。クラスで壁新聞もけっこう頻繁に発行した。中1コースからの毎月の便りがあったので原稿には事足りなかったので、けっこうまじめに発行し続けた。先生に模造紙をもらって、持ち帰って家や図書館などで書いていた。
4段組で、1段目には一般ニュース、2段目は学校内の記事、3段目には行事関係、4段目は娯楽欄で笑い話やクイズとか。基本的にそんな形態で続けていた。

ある日校内の各クラスの壁新聞を見に行って、自分のクラスの壁新聞が実に地味なのを知って、それでもいいだろうとは思いつつ、一度くらい羽目を外してみようかと、少しばかり型破りな新聞を作ってみた。レイアウトも大胆に変更して、「連載小説」も載せたり。ただしその末尾には「作者が続きを忘れましたので最終回になりました」と、第1回即最終回というおふざけもやったのだが、意外や意外、一部の読者に好評だったこともあって、次の号から再開することにした。内容は昔によく書いていた子どもが主人公の探偵小説。

書き続けていたが、学年が終わって連載も途中になる。で、今度は原稿用紙で続きを書くことにして、書いているうちに100枚を越えて行って、それでも終わらずに、いつの間にか途中で立ち消えになってしまった。大まかな内容は覚えてはいるが改めて書いてみようという気にはならない。
もっともこのことが契機となって小説を書きたいという思いが強まって、それ以来いろいろな小説を書くこととなる。

体操

2010年01月06日 | 個人史
運動は苦手だ。
脚力が全然無いので、とにかく足が遅い。50mを10秒で走ったのが記録。
持久力もない。冬は校庭7周半の1500m走を走らされるが、25人で走って後ろから2・3番目。当時は「骨川筋右衛門」と呼ばれるほどのガリガリで肥満とは縁遠かったのに、とにかく体力がなかった。
腕力もない。ボール投げでも少しも飛ばない。ジャンプ力もない。だからおよそ球技とは縁がない。野球でも外野が守れない。さらには外野フライでボールがどこに落ちるかの予測がまるでできていないので、高く上がったボールの真下にいる始末。ボールは放物線で落ちるので、真下には落ちてこない。だからいつでもボールを後逸してしまう。
ドラムのように手足を同時に使うことなどできないので、バスケットボールでドリブルシュートができない。ドリブルはできるけれど、前後運動の直後に突然上下運動に切り替えることができなくて流れが途切れてしまう。
ジャンプ力も背筋力もないのでバレーボールもむいていない。
水泳は先に書いたようにまったくのカナヅチ。

およそ体育など縁がなさそうなのだが、唯一得意だったのが体操及び器械体操。
ラジオ体操は完璧。小さい頃から夏のラジオ体操は皆勤だったので、音楽付きで完璧にこなせる。
余談だが、体育の教師でラジオ体操が下手なのがいる。仕方がないか。学生で体操が雑なのが運動クラブの部員だから。準備運動で毎日やらされているのに、実に雑にいい加減な体操しかしていない。まるでロボットのような。この運動がどこの運動なのかまったく考えないでただ機械的にこなすだけ。そんなのを毎日やっていて体が覚え込んでしまっているのが体育大学に入って体育教師になっているのだから、体育教師ほど体操が下手だ。もちろん体操が得意な体育教師もいるし、事実その教師にしっかり実地で教えられて僕の身についたのだが。

閑話休題
小学校で器械体操部に入っていたが、マット運動や跳び箱などはむしろ得意だった。東京オリンピックの体操競技で、「C難度」を越える「ウルトラC」と言うのができて、跳馬の「山下跳び」が有名になったが、地上転回を跳び箱の上で行うだけなのだが、それ自体は実は非常に簡単で、僕も中学時にはそれをこなすことができた。
マット運動では開脚前転でも手をつかずにできたし。足を閉じた伸膝前転も得意だった。地上転回もなんとかできたし、空転もまがりなりにできた。側転は得意中の得意で、五十肩で手が上がらなくなるまで少し長い廊下とかあればすぐにやってしまっていた。ただ後ろに回るのは、伸膝後転は得意だがバック転等は怖さが先立ってとうとう出来ずじまい。
跳び箱ではけっこうな高さまで跳べた。踏み切りが得意でタイミング良く跳べた。普通の開脚もそうだが閉脚跳びもやったし、V字形でも跳んだ。

器械体操系は得意なのに、学校に体操部があったのにも関わらず入れなかったのは鉄棒が怖かったから。高所恐怖症ということもあり、さらには前述のように鉄棒から手を離すことができなかった。手を離さなければ足かけ運動も前転・後転どちらもできたし、高鉄棒で1回振っただけで足かけで上ることもできた。後述するが蹴上がりも得意だった。でも鉄棒ではいわゆる「猫」という手を離した技ができなければ何もできない。そんなわけで体操部には入れなかった。

しかし体操だけはたとえ体操部といえど負ける気はしなかった。

1年時の体育大会での学年演技は「棒体操」というのを行った。肩幅より少し長いだけの棒を使って演技をするのだが、学年の代表5人が選ばれて、運動場前の体育館2階のベランダに上がって指導演技を行った。僕以外の後の4人はすべて体操部だったのだが、押されて僕が一番中央になった。一番間違えないでしっかりとできたから。実際本番で一つも間違えなかったのは僕だけだったとか。

前で行う時には左右逆に行う必要があるのだが、この時がきっかけだったのか、それともそれ以前からだったかは忘れたが、ラジオ体操でも指導用に左右逆に行う機会が多かった。高校の時は体育委員もやったから当然左右逆だし、教師になってからは体育大会で生徒の前でやることが多いので当然左右逆にやっていた。

まったく関係ないけれど、文字を書く時も左右逆の文字、いわゆる「鏡文字」を書くことができる。普通の人は両手を使って、利き手で正しく書きながら同時に反対の手で逆さ文字を書くのだが、僕の場合は最初から利き手だけで鏡文字が書ける。

9教科で実技教科の4教科のうち音楽は得意だったので、小学校4年の1学期だけ「4」だったがそれ以外9年間「5」ばっかり取っていたが、それ以外の実技3教科で「5」はとうとう取れなかった。まあ真剣に取り組んでいたので「3」または「4」で落ち着いてはいたが。体育でも真剣さでは「5」をもらってもよかったのだが、いかんせん水泳を一切さぼったのでそれは最初からあきらめてはいた。