丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

また消えた

2010年05月31日 | 愚痴
書きかけの記事がまた途中で消えてしまった。これで何回目か。

新しいバージョンの投稿メニューに変えたが、右側に投稿写真が出てくる。
幽霊の写真1枚を投稿しているが、毎回その写真が出てくるのが何となく気持ち悪い。なんとかならないものか。

友人K君のこと

2010年05月31日 | 個人史
友人のT君とは音楽のことなどで趣味が一致していたり、クラスのサッカーでも一緒にディフェンスにいたり、一緒にいることも多かったが、もう一人、この時期に一緒にいることの多かったのがK君だった。趣味が一緒とかいうわけではないのだが、なぜだか一緒にいたり遊んだり行動したりすることが多かった。

あるとき放課後に廊下で遊んでいたら、はずみで教室の窓ガラスを割ってしまった。ガラスを始末して職員室に謝りに行ったら、自分で直しておくようにと言われた。そんなわけで窓ガラスのサイズを測り、当時の窓ガラスは木の枠で挟まれていたので、その分の寸法も測って下界までガラスを買いに行った。

うちの学校は大塚山という山を切り開いてできた学校なので、山の中腹にあったから、店があるのは下界だった。ガラス屋まで行って測った寸法を言ってガラスを購入して、二人でまた学校まで持って戻る。そして教室の鍵を借りて窓ガラスをはめなおした。

K君とは中2の頃は一緒によく遊んだが、3年になってクラスが離れると会う機会も少なくなった。決定的に離れることになったのは、ある日彼が廊下を歩いていると、勢いよく走ってきた生徒と正面衝突をして、彼の鼻が曲がってしまう大怪我をしたこと。全快までかなりの期間をかけることになったのだが、曲がってしまったのは彼の鼻だけではなく性格も曲がってしまったような。学校に戻ってきてから、会う機会も減ったこともあるが話が合わなくなってだんだん接触も減ってしまった。卒業してからは一度も会うことはなくなった。

アングラフォークの世界

2010年05月26日 | 個人史
「帰ってきたヨッパライ」に始まったアングラフォークブームは京都の学生を中心に大きな波になる。
アングラ第2弾として出されたのが、高石友也による「受験生ブルース」。元々は当時高校生だった中川五郎がアメリカのフォークを素材に自身の暗い青春をアイロニーいっぱいに歌ったもの。原曲は暗く、それに歌詞を面白おかしくつける本家のブルース調だったのが、高石友也によって曲も陽気な歌になり大ヒットする。中川五郎自体はこの変えられた曲を気に入ってはいなかったようで、翌年原曲を使って続編の「予備校生ブルース」を作ったりする。

京都のフォークの集会に突然客席から上がってきた労務者風の男がいたという。「山谷ブルース」という自前の歌を歌って熱狂的に迎え入れられた。岡林信康の登場だった。プロテスタント教会の牧師を父に持ち、教会賛美歌で育った彼が家を飛び出し労務者に交じり、そしてフォークの世界に入り込んだ。キリストに似たその風貌から人々は彼を「フォークの神様」と呼んだ。

高石友也は気に入った若者に自分のギターをあげる癖があったようで、中川五郎や岡林信康も高石からギターをもらったと聞く。後にシャンソン歌手からフォークに転身した加藤登紀子もギターを貰い受ける。もっとも、当時「ギターを弾こう」という歌を歌ってはいたものの、ギターはまるで弾けなかったという。

こうしてアマチュアフォークの若者が高石友也の周辺に集まりだし、「高石事務所」を設立して彼らを受け入れだした。そして大手のレコード会社からレコードが出されないことから、自らのレーベルでアングラレコードを出版するに至る。URCレコードの出現である。

当時会員制で、会員による通信販売しか行っていなかった。友人のT君が会員になって次々とレコードを購入する。
第1弾は発売中止に追い込まれた「イムジン河」をミューテーション・ファクトリーというグループが歌った物。前述のフォークルにゆかりのある3人組。
その後、高石友也の「ホー・チ・ミンの歌」とか高田渡の「転身」「三億円強奪事件の歌」、中川五郎の一連のプロテストソングなど。
当時の彼らのスローガンは「性と文化の革命」。アメリカの大ロックコンサート「ウッド・ストック」を日本で実現させたい、として伝説の「中津川フォークジャンボリー」を行ったりもしていた。

機関誌で「フォーク・リポート」という一般紙も発行していた。これも当時は通信販売。後にアングラレコードに協賛するレコード店も多く現れてそこではこの「フォーク・リポート」もURCレコードも購入することができるようになる。僕の行きつけの池田市にあるレコード店も加盟したので、お金のある時はそこで買うこともできるようになった。

時は70年安保を迎えようとしていた。1960年に十年間の期限律法で締結された日米安保条約の更新が迫ってきていた。反体制を主張する学生運動がこの波に乗っかり、70年安保粉砕をスローガンにフォークソング界も乗っかっていた。70年を目指して、「全日本フォーク・キャラバン」なるものが組織された。70年安保のその日を目標に、北は北海道から、南は沖縄からフォークの集会を行いながら東京を目指そうという運動で、僕もそれに一口乗っかった。
賛同者には不定期に機関紙も送られてきた。

こうしてアングラ・フォークの世界にとっぷりはまることになるのだが、この流れは、1969年に起きた不幸な4つの事件によって挫折することとなる。この敗北感はいまだに心の傷として残ってしまうこととなる。その話はその時にまた。

フォークルにはまった頃

2010年05月20日 | 個人史
中学2年の12月に、深夜放送のラジオから奇妙な歌が流れてきた。
後に日本中を衝撃の渦に巻き込むこととなる歌とグループの登場だった。この曲のためにGSブームは一気に消し飛んでしまった。
曲名を「帰ってきたヨッパライ」、歌うのはフォーク・クルセダーズ、通称フォークルと呼ばれるアマチュア学生フォークグループだった。

そもそもフォークルは京都に住む学生4人組で、ノッポ二名とチビ2名、計4名による凸凹グループだった。音楽性の高さと関西人のとぼけた歌とおしゃべりで評判だったらしいが、チビの1名が実家を継ぐために故郷に帰ることになる。同時にもう一人のチビが海外留学することとなり、2名いっぺんにグループを抜けることになった。仕方がないから解散と言うことになり、解散記念で「ハレンチ」というアルバムを自主製作して限定版で親しい人たちに配ったという。そのうちの1枚を偶然に神戸にあるラジオ局の関係者が手に入れ、これは面白いと思って、自分が関係するラジオ番組にアルバムの中の1曲を流し続けたという。
これが関西中に話題となって、そのラジオ局から音を借りて各放送局でかかるようになったという。噂を聞いた大手レコード会社も乗りだし、一度は解散したグループが復活することとなって東芝からメジャーデビューとなった。

しかし、辞めた二人が戻ることはなく、しかたがないので、交流のあった別のグループのチビのメンバーを借り受けることとして、限定1年間という約束で再結成することとなる。
限定というのが冗談だと思っていた新メンバーも、それが本気だとわかって、加入と同時に再解散時のことまで考えてメンバー集めを同時進行で行いだし、やはり交流のあった2つのグループから中心メンバーを計3名借りて、フォークル再解散と同時に新グループを結成することとなる。ちなみに中心メンバーを失った他のグループは、一つは解散、もう一つは別メンバーを加えて活動を続けていたが結局解散することとなる。そのことはいずれ後に。

1曲目が大ヒットした歌手やグループの真価が問われるのは2曲目が成功するかしないかだが、フォークルの2曲目は話題性は社会的に大きな事件となり、30数年後まで関わる事件となって記憶にとどまることとなる。
2曲目として用意されたのがやはりアルバムからのシングルカットで、「イムジン河」という、1曲目とはまったくイメージの違った名曲で前評判が実に高い曲だった。レコード発売前に盛んにラジオで流され、大ヒットは間違い無しという曲だった。
忘れもしない、発売日の前日の夜、フォークルのメンバーと仲が良かった大橋巨泉が司会するTVの某深夜番組の中で、臨時ニュースとして彼が発表した。「イムジン河」が突然発売中止になったという。その衝撃のニュースは今でも忘れない。政治的な難しい問題が含まれていた。

歌詞に問題があると言うことで、後に関係のない別のグループが歌詞を変えて発表した。元々の歌詞のままというのでは、アングラレコードからまたまた別のグループで発売されることになる。もっともそちらのグループは、フォークルを知っている者には何の不思議でもない顔ぶれだった。先に辞めたチビ二人と、フォークルのブレーンで「イムジン河」を訳した人の3人組のレコーディングだけの限定グループだった。

メジャーデビューしたフォークルは1年間いろんなTVに出て、自分たちの番組も持つようになったりした。彼らがメインの番組は視聴率こそ低かったが、だからこそ、ということで、プレゼントコーナーに応募したら見事当選したこともある。当たる率も高かったわけである。

当時は小遣いがほとんどなかったので彼らのレコードはシングル盤を数枚買っただけだったが、友人のT君は彼らのレコードをすべて購入していた。彼の家で飼ったばかりのアルバムを一緒に聴いたりした。T君とこの頃ほぼ同じ時期にギターを弾き始めたので、フォークルと共にギターを覚えた感がある。

1年後予定通りに彼らは解散した。後から加入した男は同時に新グループ「シューベルツ」を立ち上げたが、ヒットを飛ばしたのだがメンバーの急死で解散を余儀なくされる。その後いくつものグループを結成しては1曲目は売れるけれど後が続かず、数グループ続けた後自然に消えてしまった。彼の中ではフォークルにいたことは歴史から抹消しているようなことも言っていたので、後にフォークルの再結成には加わろうとはしなかった。

のっぽ2名は二人だけで大ヒット曲を作ったりもし、後にあるバンドのメンバーでフォークルの大ファンだと言う男が呼びかけてフォークルを再結成した。もっともこの男が厚かましくも勝手にメンバーに加わったりしているので、僕は気に入らないので無視している。

ノッポの1名が先日亡くなって、フォークルはとうとう伝説になってしまった。
しかし僕のギター歴が彼らと共に始まったこともあって、彼らのことはいつまでも忘れない。

吃音教室

2010年05月16日 | 個人史
中2の夏休みに吃音教室に通う。
大阪市生野区にある聾学校で、夏休みで学校があいている期間を利用しての開校らしく、聾学校の熟年の先生が一人教師になって開校。毎年来ている「先輩」とかもいたりする。もっとも、毎年来ていると言うことは、一向に治らないということだと、来ていた一人がつぶやいていた。
科学的な原因や傾向とかも知ったり、しゃべるコツとかなどの練習もあったりするが、何となく頭で理解してしまうと治療にはならなくて、まあいい経験をした程度に終わってしまった。

夏休み期間、一ヶ月定期を購入して電車で通ったが、定期が切れて行かなくなった。

一つ年上のちょっと感じの良い女性が来ていて、ちょっとあこがれたりもしていたが、彼女と同じ年の男の子と親しくなっているのを知って、何となく行く気がしなくなったのが実際。

ミーハー的アイドル史

2010年05月15日 | 個人史
ミーハーであることは承知している。けっこう流行に乗せられたりもする。

僕が小学生の頃はロカビリーブームだった。当時はプレスリーなどのアメリカポップスを日本語の歌詞で歌う若者が多く人気を博していたが、残念ながら兄たちの世代に当たり、歌は聞いてはいたがのめり込むほどではなかった。
まあ好きな歌手では坂本九がいたが、彼のことについては、亡くなった頃の話でまとめて書きたい。

アイドルグループもけっこういたり。たとえばスリーファンキーズとかザ・ピーナッツとかは歌もよく聞いたし、彼らのアイドル映画もよく見に行った。
しかし当時の一番人気のグループと言えば、やはり元祖・ジャニーズだろう。
歌って踊れる四人組はとにかく格好良かった。他のグループで踊れる者はいなかった時代。

飛ぶ鳥を落とす勢いだったジャニーズが、勉強のために1年間アメリカに渡る。その思いは間違ってはいなかったはずだが、時代は彼らに情け容赦がなかった。
彼らがいないその間にグループサウンズ時代がやってきたから。帰国した彼らに出番はもはやなかった。あわてて彼らもサウンドを取り入れたが付け焼き刃であることはしかたがなく、人気低迷からの解散をよぎなくさせられた。

歌謡界では「御三家」と呼ばれる3人が登場した。橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の3人(三田明を含めて「四天王」と呼ばれることもあった)。女生徒の人気は西郷輝彦が一番だったが、僕自身は舟木一夫の方が好きだったかも。西郷輝彦の歌も好きなのが多かったけれど、舟木一夫の歌の方が好きだった。彼はTVドラマにも出演したり映画もやっていたりしたが、ドラマも映画もよく見た。他の二人のドラマはほとんど見ていない(西郷輝彦が本格的役者になって時代劇に出るようになってからは見る機会は増えたけれど)。
そんな御三家の時代もグループサウンズにあっという間に蹴散らされてしまった。

グループサウンズ時代の予兆はあった。ビートルズ人気がすでにあった。
ビートルズの時代を3期に分けることができると思う。
日本来日公演までが前期。彼らが英国で勲章をもらい、最初の世界衛星中継でイギリス代表として「愛こそはすべて」を歌った頃までが中期。そして解散までが後期とするならば、僕はビートルズには中期に関わったと言える。
もちろん日本公演があるまでにその名前は知ってはいたが、小学生のこととて歌は歌えないこともあってよく知らなかった。彼らの日本公演のTV中継はしっかり見ていた。(ドリフターズがでていたかどうかは覚えていない。ドリフターズは後のTV番組「ホイホイ・ミュージック・スクール」で覚えたが)
中期の時代は僕も中学生で英語を覚えだしたから、英語の勉強と同時に歌も覚えたりもした。もっとも英語とは思えない歌詞もけっこうあったが。

ビートルズの日本公演で影響を受けた若者達がいた。彼らの多くが自分たちもエレキギターを弾いて歌いたいと思って、後に言うグループサウンズを始めた。

エレキギターでは、神様と呼ばれる寺内タケシがうまさでは一番ではあったが、GSとしてはタイガースが一番だっただろう。音楽的にはブルーコメッツやスパイダースの方が上だったろうし、寺内タケシにギターを学んだ加瀬邦彦がリーダーのワイルドワンズも音楽的には上だったと思う(ちなみにドラムも名手のハナ肇より本格的に学んだと聞いた)
テクニック的に言えば、エレキギターでは「テケテケテケテケ」とギターを弾き降ろすところで、正式には指を一音一音変えながら弾くので、寺内タケシの流れをくむギタリストはきっちりそういう弾き方をするが、自己流の人は指をすらすだけ。ドラムでは正式に学んだ人はスティックの持ち方が左手が違っている。

ザ・タイガースは音楽的には劣っていたかも知れないが、人気はトップ。僕自身はちょっと横目で見ながら、実はやっぱり好きだったかも。彼らの解散時のTV中継はしっかり見ていた。

雨後の竹の子のように数限りないグループが生まれてアイドルになろうとしていたが、あっと言う間に彼らの時代は過ぎていった。フォークルから始まるフォークブームが彼らを蹴散らしてしまった。それはあたかも彼ら自身がそれまでの音楽を蹴散らしたのと同様に。

我が家にあった本

2010年05月07日 | 個人史
僕が少年・青年時代を送った家で、一番本をよく読んでいたのは僕だと思っている。
博識だった一番上の義兄は高校を出ると会社の寮に入り、その後結婚して独立したので、一緒に暮らした時期は短かった。
二人の兄も高校で全寮制の学校に入り、卒業後は遠方の会社に入社し、家に戻ってくることはなかったので、中学生の頃などに貸本屋で漫画を借りていた以外に家で本を読んでいる姿はあまり見なかった。

そんな風なのに、なぜか家には僕が購入するはずのない本がいくつもあった。
まず不思議なのは聖書があったこと。きちんとした体裁の聖書で、どうして我が家にあるのか不思議だった。一度「キリストの物語」を読もうかと思って、十字架の話は普通の本では最後の話なので「聖書」の最後のページあたりにあるだろうと思って開いたのだが、一向にそんな話は出てこない。さりとて最初から読もうとしたら、最初の数行で挫折してしまった。
(もちろん、今は、旧新約聖書を版を変え何度も通読してはいるが)

「下村湖人集」という分厚い本があった。誰が読んでいたのやら。
ちょうど当時NHKの連続ドラマで「次郎物語」をやっていて、最初の方は難しくて見てはいなかったが、主人公次郎少年が中学生になった頃からドラマにはまりだし、ちょうど家にあった「次郎物語」を、最初の用は読まずに、TVで放映していた頃の部分から読み始めて、とうとう最後まで読み通した。もっとも最初の方はいまだに読んではいないのだが。

「氷点」も家にあった。内藤洋子という少女がTVの主役に抜擢され評判になった頃で、これも読んだ。同じ作者で「塩狩峠」もなぜかあって、これは後に大学時代に薦められて読んだが。
内藤洋子が他のドラマに出演した石坂洋次郎のシリーズ物の本もなぜか家にあってこれも数冊読んだ。もっとも彼女が出演したドラマの原作は読まずじまい。TVも見ていなかったのだが。

そして一番不思議なのが、当時TVでは画期的だった、田村正和主演の眠狂四郎シリーズ。この原作本である「眠狂四郎無頼控」の文庫本が最終巻以外全部あったこと。だからTVでやっている背景から知ったり、TVは原作を適当に省略したり、設定を変えたりいじったりしていることがよくわかった。中学生の何も知らない純情な頃ではあったが、ドラマより原作の方がずっと良いなと感じていた。

最終的にこれらの本は引越のどさくさで無くなってしまったが。

ギター講座

2010年05月07日 | 個人史
ギターの覚え方で、クラシックをやるのなら今でも市販の教則本を使うのが一番かもしれない。僕がクラブの顧問をしていた「軽音楽部」は実質はギター(マンドリン)合奏部だったのだが、全音の教則本を使って2ヶ月はしっかり基本を教えていた。

部活ならそれもありだが、手っ取り早くギターを弾いて歌を歌いたい場合にはそれでは逆効果。指導者がいない自己流の場合にはすぐに飽きてしまう。そんな人のために、一つの月刊誌のギター講座ではポイントを絞っていた。いわゆる、ギターを覚えるにはギターコードを覚えるのが一番。これが正解だと思う。

ギターは左手で弦を押さえて音の高さを決め、右手でリズムやメロディーを奏でていく。左利きの人でもそれで行うのが普通。たまにまったく逆に持ち替えて弾く人や、ギターの弦をすべて張り替えて左利き用に作り替える人もいたりはするが、ピアノに左利き用がないように、基本的にはギターも同じ。

右手は弦を弾きおろすストロークで方法でかまわない。それでリズムを付けてもいいけれど、格好良く見せるには、基本の形である薬指が1弦、中指が2弦、人差し指が3弦専門になり、親指でベース音の4~6弦を担当する形で、親指でどれか1音弾いた後で残りの3本の指で同時に4本の弦を弾く、つまりはポン・ジャジャジャ、という4拍子のリズムとか、ビギンと呼ばれるズ・チャーチャ・ズチャズチャ、というリズムを覚えるといかにも上手に弾いているように見えるし、応用で何拍子でも対応できる。ストロークでも上下運動をリズムをつけて行うと格好が付く。右手はこれで十分。

さて問題は左手。
教則本ではしっかり音を覚えて正しい指使いで押さえてメロディーを覚えるようになっているが、それでは飽きてしまう。実は3種類の押さえ方を覚えるだけでかなりの曲を歌うことができる。

音楽の時間をまじめに勉強した人は、「主要3和音」という言葉を習っている。
3つ以上の音を同時にならしてハーモニーを作るのを和音というが、どの調の曲でも3つの和音というのが存在する。移動音階で言うと、(1)ドミソ、(4)ファラド、(5)シレソ、という和音で、この3種類を知っているとたいていの曲がこの組み合わせでできている。
ギターの場合、ハ長調に限って言うと、(1)ドミソ……C、(4)ファラド……F、(5)シレソ#ファ……G7、という3つの和音(コード)を知っていると良い。
シャープもフラットもつかない楽譜で、平行短調と呼ばれているのが、ハ長調の場合にはイ短調になって、この場合の3和音は、(1’)ラドミ……Am、(4’)レファラ……Dm、(5)ミソシ#レ……E7、となる。
ハ長調の曲の場合、短調の和音も含めて合計6個のコードを覚えるだけでほとんどの曲を弾きこなすことができる。

この6個の中で押さえ方の難しいのはFのコードだけ。もっとも簡略の押さえ方もあったりするのでごまかしもきくけれど、弦の上から下まで人差し指で6弦すべてを押さえてしまうセーハという押さえ方を一つは覚えるのも悪くはない。

残念ながら世の中の曲はハ長調だけではない。しかし#が一つついたト長調の場合、長調の3和音は、G,C、D7となり、短調がEm、Am、B7となって、ハ長調の6つの和音と3種類違うだけ。しかも新しく増えるD7は押さえ方も簡単で覚えやすい。短調のB7は、実はクラシックギターを始める人が誰でも弾きたがる「禁じられた遊び」の前半部分の最後に出てくる指使いなので、この曲をついでに覚えた人ならたやすく覚えてしまうコードでもある。

♭が一つついたヘ長調の場合には、残念ながら押さえ方が難しいものが増えるのでお勧めできない。しかしこの場合には、元の曲の高さを変えてしまうという裏技がある。半音で5つ分音を低くするとハ長調の曲になるのでそれで歌うといいし、あるいは逆に半音2つ分高さを上げるとト長調になる。もちろん本当には#の曲と♭の曲では雰囲気が違うので変えてしまうとよくはないのだが。

このように高さを変える方法にはある決まったパターンが存在する。

#が2つの曲ニ長調では、半音2つ分音を下げるとハ長調。3つの場合には半音2つ下げてト長調。
♭2つ曲は半音3つ下げてト長調、♭3つの曲は半音3つ下げてハ長調。

このように、ハ長調とト長調のコードを知っているだけで、どんな調の曲でも高さを変えれば、必ずハ長調かト長調に直すことができる。

同じ時期にギターを始めた友人のT君と、よく話し合ったものだ。高さを変えるのではなく、ギターのネックの部分に上から下まで押さえつけてしまうような何かがあれば、高さを変えることなくすべての曲をハ長調かト長調の演奏で弾けるのにな、と。そんな道具作られれば良いのにな。
なんと、同じ事を考える人がいたものだ。ある日、いつもは通らない道にある楽器屋のショーケースの中にそれがあった。何に使う道具か説明は一つもなかった(実際説明書きは外国語だけだった)が、見ただけでギターの高さを変える道具だと気づいた。カポタストロ、通称カポと呼ばれるギター用小道具との出会いだった。

前述のように、♭2つまたは3つの曲はギターの3フレット目にこのカポをはめれば、ト長調・ハ長調で高さを変えずに歌うことができる。♭1つの曲なら5フレット目につけるとハ長調になる。
#2つ、3つの曲は2フレットにつけるとハ長調・ト長調に直せる。#4つ、5つの曲なら4フレットにつけると良い。

ギター演奏の世界があっと言う間に変化してしまった。
フォーク歌手でもこれ以降はカポをつけるのが常識になり、某フォーク歌手はエレキギターにもつけたいと公言していたが、何と今ではエレキギター用のカポまで存在するから不思議。

こうしてギターコードは2種類の調の主要和音、計8つと、後はいくつかの合計でも15個以内のコードを覚えれば世の中の歌のほとんどを歌うことができる。