あれは僕が高校の時、休日にふと思い立って、宝塚ファミリーランドに行こうと思った。
普通は電車で行く所なのだが、よく考えてみれば自転車で行けない距離でもない。入場料も700円と安く、今どきのテーマパークに比べれば格段に気軽に行ける場所だった。
ということで、突然思い立ってファミリーランドに行き、のんびり散歩をしていたら、デート中の下の兄に呼び止められた。
なんでも、デーとしていた彼女が、あそこにあなたによく似た子が歩いている、と言ったとか。兄がよく見れば、あれは弟だ、ということで声を掛けられた。本当に偶然の出会いが、将来兄嫁となる人との初対面だった。
下の兄が結婚したのはまだ21歳の時。早すぎるという親の反対もあったり、上の兄がまだ結婚していないということもあったが、結局22歳の誕生日を迎える1週間前に結婚と言うことになった。親同士の話し合いは赤穂市の坂越という港町にある家で行われ、僕も連れられて出かける。
彼女には僕と同い年の弟がいて、偶然ながら同じ大学に入ることになる。もっとも、僕は一浪して入って、学部も学年も違うことから学内で会うことはまずなかった。
兄たちは大阪府堺市のできたばかりの泉北ニュータウン内にある社宅に住んだ。この兄嫁とはなんとなく気が合って、夏休みや春休みなどにはよく泊まりに行った。長男が兄たちと同じ干支で生まれてからも子守をかねて泊まったりもした。
息子が生まれた三年後の夏に娘が生まれるのだが、これがとんでもない難産で、無事生まれてからも兄嫁の体調は芳しくなく、実家からなかなか戻れず、兄が迎えに行った時もきっちり帰りたくないと言い張られて、不満たらたら兄は一人で戻ってくる羽目になる。ところがその一週間後、台風が赤穂を通過し、当時移り住んでいた相生市の実家は床下浸水になる。いち早く畳を上げて、後の処理が早かったので大きな被害こそなかったけれど、こんな状態で生まれたての子どもを置いておけない、ということで迎えに来て欲しいとの電話が入る。台風見舞いも兼ねて、兄とうちの両親と僕とで迎えに行くことになる。
その時は何も知らなかったのだが、実はこのときから亡くなるまで体調はずっと悪いままだったという。
体調の関係もあって泊まりに行くことはなくなったけれど、良いときには家族旅行とかはよく出かけた。もっとも正月の家族の集まりなどで欠席することもよくあった。
ごまかしながらも20年。兄夫婦は結婚25年目を迎えての銀婚式を祝って北海道旅行を無理矢理でも連れ出したのだが、それが最後の旅行になってしまう。
48歳の12月。1週間前に定期検診を行ったばかりというのに、急に体調が悪くなり、救急車を自ら手配して運ばれたときにはすでに意識はなく、CTスキャンでは、1週間前とはまったく違って脳がスカスカの状態。上手く回復したとしても植物人間状態になると言う危篤状態に陥る。もって1週間という。
前から覚悟はしていたけれど、兄はこの時点ですでにあきらめていて、葬式場の予約も行った。で、あっという間に亡くなってしまう。
本人も覚悟はしていたので、家の中は細々しているものはすべて整理されていて、どこに何があるのかはすべてわかる状態になっていた。
おまけに、娘に対して留め袖の着物の注文も行っていたという。葬式の日に娘は母親が用意してくれた留め袖を着て列席をする。
堺から小一時間ほど山に入った霊園に兄は墓地を買ってそこに埋葬をする。僕の家からだと車で2時間はかかるのだが、気が向いたときに一人でよく墓参りに出かけている。
普通は電車で行く所なのだが、よく考えてみれば自転車で行けない距離でもない。入場料も700円と安く、今どきのテーマパークに比べれば格段に気軽に行ける場所だった。
ということで、突然思い立ってファミリーランドに行き、のんびり散歩をしていたら、デート中の下の兄に呼び止められた。
なんでも、デーとしていた彼女が、あそこにあなたによく似た子が歩いている、と言ったとか。兄がよく見れば、あれは弟だ、ということで声を掛けられた。本当に偶然の出会いが、将来兄嫁となる人との初対面だった。
下の兄が結婚したのはまだ21歳の時。早すぎるという親の反対もあったり、上の兄がまだ結婚していないということもあったが、結局22歳の誕生日を迎える1週間前に結婚と言うことになった。親同士の話し合いは赤穂市の坂越という港町にある家で行われ、僕も連れられて出かける。
彼女には僕と同い年の弟がいて、偶然ながら同じ大学に入ることになる。もっとも、僕は一浪して入って、学部も学年も違うことから学内で会うことはまずなかった。
兄たちは大阪府堺市のできたばかりの泉北ニュータウン内にある社宅に住んだ。この兄嫁とはなんとなく気が合って、夏休みや春休みなどにはよく泊まりに行った。長男が兄たちと同じ干支で生まれてからも子守をかねて泊まったりもした。
息子が生まれた三年後の夏に娘が生まれるのだが、これがとんでもない難産で、無事生まれてからも兄嫁の体調は芳しくなく、実家からなかなか戻れず、兄が迎えに行った時もきっちり帰りたくないと言い張られて、不満たらたら兄は一人で戻ってくる羽目になる。ところがその一週間後、台風が赤穂を通過し、当時移り住んでいた相生市の実家は床下浸水になる。いち早く畳を上げて、後の処理が早かったので大きな被害こそなかったけれど、こんな状態で生まれたての子どもを置いておけない、ということで迎えに来て欲しいとの電話が入る。台風見舞いも兼ねて、兄とうちの両親と僕とで迎えに行くことになる。
その時は何も知らなかったのだが、実はこのときから亡くなるまで体調はずっと悪いままだったという。
体調の関係もあって泊まりに行くことはなくなったけれど、良いときには家族旅行とかはよく出かけた。もっとも正月の家族の集まりなどで欠席することもよくあった。
ごまかしながらも20年。兄夫婦は結婚25年目を迎えての銀婚式を祝って北海道旅行を無理矢理でも連れ出したのだが、それが最後の旅行になってしまう。
48歳の12月。1週間前に定期検診を行ったばかりというのに、急に体調が悪くなり、救急車を自ら手配して運ばれたときにはすでに意識はなく、CTスキャンでは、1週間前とはまったく違って脳がスカスカの状態。上手く回復したとしても植物人間状態になると言う危篤状態に陥る。もって1週間という。
前から覚悟はしていたけれど、兄はこの時点ですでにあきらめていて、葬式場の予約も行った。で、あっという間に亡くなってしまう。
本人も覚悟はしていたので、家の中は細々しているものはすべて整理されていて、どこに何があるのかはすべてわかる状態になっていた。
おまけに、娘に対して留め袖の着物の注文も行っていたという。葬式の日に娘は母親が用意してくれた留め袖を着て列席をする。
堺から小一時間ほど山に入った霊園に兄は墓地を買ってそこに埋葬をする。僕の家からだと車で2時間はかかるのだが、気が向いたときに一人でよく墓参りに出かけている。