丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

兄嫁のこと

2008年11月23日 | 個人史
あれは僕が高校の時、休日にふと思い立って、宝塚ファミリーランドに行こうと思った。
普通は電車で行く所なのだが、よく考えてみれば自転車で行けない距離でもない。入場料も700円と安く、今どきのテーマパークに比べれば格段に気軽に行ける場所だった。

ということで、突然思い立ってファミリーランドに行き、のんびり散歩をしていたら、デート中の下の兄に呼び止められた。

なんでも、デーとしていた彼女が、あそこにあなたによく似た子が歩いている、と言ったとか。兄がよく見れば、あれは弟だ、ということで声を掛けられた。本当に偶然の出会いが、将来兄嫁となる人との初対面だった。

下の兄が結婚したのはまだ21歳の時。早すぎるという親の反対もあったり、上の兄がまだ結婚していないということもあったが、結局22歳の誕生日を迎える1週間前に結婚と言うことになった。親同士の話し合いは赤穂市の坂越という港町にある家で行われ、僕も連れられて出かける。
彼女には僕と同い年の弟がいて、偶然ながら同じ大学に入ることになる。もっとも、僕は一浪して入って、学部も学年も違うことから学内で会うことはまずなかった。

兄たちは大阪府堺市のできたばかりの泉北ニュータウン内にある社宅に住んだ。この兄嫁とはなんとなく気が合って、夏休みや春休みなどにはよく泊まりに行った。長男が兄たちと同じ干支で生まれてからも子守をかねて泊まったりもした。

息子が生まれた三年後の夏に娘が生まれるのだが、これがとんでもない難産で、無事生まれてからも兄嫁の体調は芳しくなく、実家からなかなか戻れず、兄が迎えに行った時もきっちり帰りたくないと言い張られて、不満たらたら兄は一人で戻ってくる羽目になる。ところがその一週間後、台風が赤穂を通過し、当時移り住んでいた相生市の実家は床下浸水になる。いち早く畳を上げて、後の処理が早かったので大きな被害こそなかったけれど、こんな状態で生まれたての子どもを置いておけない、ということで迎えに来て欲しいとの電話が入る。台風見舞いも兼ねて、兄とうちの両親と僕とで迎えに行くことになる。

その時は何も知らなかったのだが、実はこのときから亡くなるまで体調はずっと悪いままだったという。

体調の関係もあって泊まりに行くことはなくなったけれど、良いときには家族旅行とかはよく出かけた。もっとも正月の家族の集まりなどで欠席することもよくあった。

ごまかしながらも20年。兄夫婦は結婚25年目を迎えての銀婚式を祝って北海道旅行を無理矢理でも連れ出したのだが、それが最後の旅行になってしまう。

48歳の12月。1週間前に定期検診を行ったばかりというのに、急に体調が悪くなり、救急車を自ら手配して運ばれたときにはすでに意識はなく、CTスキャンでは、1週間前とはまったく違って脳がスカスカの状態。上手く回復したとしても植物人間状態になると言う危篤状態に陥る。もって1週間という。

前から覚悟はしていたけれど、兄はこの時点ですでにあきらめていて、葬式場の予約も行った。で、あっという間に亡くなってしまう。

本人も覚悟はしていたので、家の中は細々しているものはすべて整理されていて、どこに何があるのかはすべてわかる状態になっていた。
おまけに、娘に対して留め袖の着物の注文も行っていたという。葬式の日に娘は母親が用意してくれた留め袖を着て列席をする。

堺から小一時間ほど山に入った霊園に兄は墓地を買ってそこに埋葬をする。僕の家からだと車で2時間はかかるのだが、気が向いたときに一人でよく墓参りに出かけている。

下の兄のこと(上)

2008年11月19日 | 個人史
下の兄は僕より4歳上。年が一番近い分親しい。
兄は次男坊ゆえの冒険譚もいろいろ。

一番最初の大きな事件は大やけど事件。

赤ん坊の頃に、風呂(まだ薪をくべてわかしている時代)のふたの上に乗っかっていて、少々熱めのお湯の中にはまってしまった。全身の二分の一、下半身を大やけど。ふつう二分の一なら生命の保証がないところ、上半身でなくて下半身だったことが幸いして一命を取り留める。びっくりした父があわてておむつを引きはがしたため、皮ごとめくれて体中の水分が抜け出していって相当あぶなかったという。とにかくその後の処置が早かったため何とか助かったが、その後かなりの年数、兄の下半身、特に両足には大きなケロイドの跡が残って、小学生の頃は半ズボンをはくのを嫌がっていた。ちなみに、その後僕を含めてしょっちゅうやけどの事故はあったが、この兄の体験から我が家では「チンク油」というやけどの薬がかかせず、早い処置が行われるようになった。

兄が2歳の時に祖父が亡くなったが、葬式での出来事は前述した。何も判らない幼児がちょこちょこと焼香を行ったという。
その他、幼児の頃、三輪車に乗って家の裏に行ったとき、そこは5mほど下に箕面川という川が流れているのだが、そこに面していて、三輪車ごと転落したという。川いの家の人が気づいて大声をかけてくれて気がついたとか。

兄が小学校の低学年の頃に腎臓病になって半年の入院を行ったという。食事は味のほとんど付いていないものだったとか。学校を半年以上休めば留年という事態もあるのだが(小学校でも留年というのはありえる。知り合いのやはり兄と同じ年の人は半年以上入院したので1年留年したという話を聞く)、幸いにも年度をまたがっての半年だったため、普通に進級は問題なくできたとか。

小学校の高学年になると新聞配達を始める。ちょうどその頃に少年サンデーが創刊されて、新聞屋に取り置きをしてもらった。転居してからもその地で新聞配達をやっていて、僕もよくその手伝いを行った。アルバイトのさらに下請けとでもいうか。

家の転居が兄の5年生の時で、上の兄とちょうど時期がうまくいって小学校卒業まで池田市の学校に通うことが出来た。一応認められての電車通学なのだが、学校には内緒で、時々兄は自転車で通ったこともある。学校からさほど離れていない友人の家に自転車を置かせてもらっての通学という。小学生にはちょっと遠い距離なので認められるはずもないことではあったが。

後の話だが、池田市にはゴルフ場もあるので、兄は上の兄と一緒にキャディーのバイトをやったこともあるとか。打っている人にクラブはどれがいいか聞かれることもあったが、いい加減に答えていたりとか。ちなみに我が家でゴルフをやるのはこの兄だけ。

小学校の頃は、低学年の授業は早く終わるので、よくまだ授業中の兄の教室まで行くこともあった。廊下で待っていると時々中に入れてもらえたり。僕のクラスの担任の女性教師が兄クラスの家庭科を教えていたこともあったりとか。ちなみに、この時の兄のクラスに、将来僕と同僚の数学教師になる人がいたことは、教科の慰労会でわかった話。

中学になった兄は運動をやるようにと言う父のすすめで、クラブは最初バレーボール部に入るが1学期で辞めてしまって、本来やりたかった音楽系で、ブラスバンド部に入部する。楽器はクラリネット。そしてそれからがブラスバンド一筋の青春時代を送っていく。
中学のブラスバンド部はけっこう進んでいて、市内パレードなどもよく行う積極的なクラブだったが、それに飽きたらず、隣の市である池田市の青少年吹奏楽団にも出入りして、本来高校生以上でないと入会できない所を無理矢理に潜り込む。ここもレベルはきわめて高く、ちなみに池田市にある呉羽小学校の吹奏楽部は小学校全国一になったところだが、兄たちはそこにも教えに行ったりもしていた。高校に入ると全寮制だったため長期の休みでないと活動に参加はできなかったが、時には家に帰らずに練習だけ来てまた寮に戻るというようなこともあったり。そこには会社勤めするまで参加していた。

中学を卒業した兄は上の兄が1期生として入学した同じ高校の4期生として入学する。やはり繊維関係の会社が入学前から勧誘にやってきたが、上の兄の時の経験を知っているので慎重に会社を選んで、某大手の会社を選択する。

全寮制の学校だったが、2度だけ学校から戻る出来事があった。

1度目は学校内で喧嘩をして、相手のパンチがメガネを掛けていた兄の左のメガネを割り、左目を怪我して治療のために戻ってくる。特に大きな問題はなかったが。
2度目は、修学旅行で飲酒事件があって停学処分をくらう。しかしそこには裏があって、実は担任の教師が生徒数名を連れて酒を飲ませていたことが後日発覚。双方きまずい状況で終了という。

高校を卒業して、大手の繊維メーカーに就職。繊維業界はぼちぼち不況の影響が出てくる頃で、入社後まもなく系列の関連会社に出向という形で移動。赤穂浪士で有名な赤穂市の支社で勤務することとなる。

音楽好きの兄はその地で社内の合唱部に参加(兄の合唱部通いは現在に至るまで続き、場所が変わってもその地の合唱団に所属し続けている)。そこで地元の同じ年の女性と知り合う。
兄が大阪府堺市に転勤で戻ってきても交際は続き、ほんの数年の交際期間を経て結婚となる。
当時、上の兄はまだ結婚していなくて、さらにはまだ若いと言うことで親の反対もあったが、本人達の意志が固く、兄の誕生日の1週間前に結婚式をあげる。ちなみに、相手は兄より2ヶ月誕生日が早かったため、式の時には彼女の方が年上という状況になる。
1年2ヶ月後に長男誕生。くしくも両親・長男が同じ干支になる。

その後の話については別項に。

上の兄のこと

2008年11月11日 | 個人史
上の兄は昭和22年生まれの、いわゆる団塊の世代。
小学生の頃にビクター少年合唱団に入っていたりもした。ちなみにうちの家族は皆音楽好き。(父が好きだったかどうかはよく知らない。父が歌を歌っていた記憶はほとんどない)
唱歌を歌い出すと誰もがコーラス部分の取り合いになったりするほど合唱が好き。

この兄が中学2年の時に我が家は池田市から県を超えた隣の市に引っ越したのだが、兄が卒業するまで下の兄弟みんなが池田市の学校に通う許可をもらって3人兄弟で1年4ヶ月電車通学することになる。ちなみに下の兄は3学年違いなのでちょうど小学校を卒業するまでいたことになる。

中学を出た兄は、高校はちょうどその年に新しくできた高校、繊維業界がお金を出し合って創った高校の一期生として入学する。全寮制の男子校で、まさに歴史を作っていった。
当時は今は禁止された「青田買い」が平然として行われていた時代で、合格発表がある前に、岐阜県にある某繊維メーカーが勧誘にやってきた。高校を卒業したらうちの会社に入社してくれるように、その代わりとして高校での必要経費はすべて会社が持つという。そういう熱心さから単純に了承したのだが、その後大手の繊維メーカーもやってきて、決めるのが早すぎたと思ったり。

高校時代のことはよく知らない。時折父の車で寮を見に行ったりしたこともあったが。ちなみにその高校は、後に繊維業界不況のあおりで手放すことになり、その後別法人が買い取って男子校の進学校に生まれ変わり、スクールバスが出るようになって、かつての寮は入学時の新入生訓練の場所に変貌する。さらに近年は時代の波に逆らえずに共学校に生まれ変わり、寮には女子用の設備も出来たとか。

兄が高校を出て、岐阜県の会社に入ったのが昭和39年のこと。何もない田舎に旧国鉄に乗って出て行った。そして、兄が行ったのと時期を同じくして、まさにその場所に新幹線の駅が出来ることになる。昭和39年10月1日開通。岐阜羽島駅。兄の会社はその駅からすぐの所にあった。

岐阜羽島駅は本来新幹線はこの場所を通る予定ではなかった。本来は江戸時代の街道に合わせて鈴鹿を通る予定だったのが、岐阜羽島出身の当時の自民党副総裁だった大野伴睦氏の意向によってここに駅が造られた。今でも岐阜羽島駅の正面には彼の銅像が建っていて、この駅はわしが造った駅だと言わんばかりに指を指して立っている。
彼のおかげで地元が賑わうかと思えばさにあらん、駅が出来ることが決まった直後から不動産屋による土地買い占めが公然と行われ、値上がりを待つ業者の意向で駅周辺には何も建てられないままバブルもはじけ、今では誰もここに何かを立てようという人もなく、最初からまるで変わらない田舎の風景が残ったままの駅となっている。駅のすぐ近くには高速道路のインターチェンジも新しく作られたけれどどれだけ利用されているのかはわからない。駅から兄の家までは車で20分近く走るのだが、その間一台の車ともすれ違わないこともあるくらい。

とにかくにも兄はその会社で勤め上げて昨年定年を迎えて、その後も会社に残っている。入社して数年後に、その土地に骨を埋めるつもりもあって家を購入してずっと住んでいる。

会社はいろいろアルバイトもよく入って、兄はよくいろんなアルバイト女性と仲良くなって家に連れて帰ってきた。結婚話までいった人も何人かはいたけれど、土壇場でうまくいかなかったことがたびたび。ちなみにその間に下の兄の方が先に結婚したり。
で、待てば海路の日和ありとでもいうか、時期が来るのを待っていたというのか、兄が30歳も過ぎてから近所に住む10歳年下の女性との縁談が生まれる。相手は3人姉妹の長女で早くに嫁がせたかった意向もあってとんとん拍子に話が決まって結婚と言うことになる。
岐阜は名古屋にも近い関係で結婚はかなり派手のようだが、相手の家族もそういうことをあまり望まない意向なので、あえて地元で結婚式を行わず大阪で式を挙げることとなる。

子どもが二人生まれて、上の娘は高校卒業後声優の道に進む移行で東京にも進出していたが今年家に戻ってくる。下の弟はいろいろわけありもあって不登校気味にもなったりして少し社会になじめない状況があるので親を心配させてもいる。

兄は早くに家を離れて一人暮らしをしていたこともあり、長男として親の面倒を見たいという意向が強く、父が亡くなり母も病気になった上、母が住んでいたマンションが取り壊される話が出たときに、どうしても母を引き取りたいと言うので、ちょうど兄の家の隣の家が留守になって空き家になっていたのでそこを借り上げて母を連れてくることになる。母は住めば都の性格で、どこに行っても順応して、新しい場所でも楽しく暮らしてそこで臨終の地とする。

ちなみに兄は家の近くにお墓を購入してそこに母の遺骨を納めたのだが、未だにそこには行く機会もなくて行けていない。

我が家のルーツ

2008年11月02日 | 個人史
昔アメリカのTVドラマで「ルーツ」というのが話題になった。差別の中にいるアメリカの黒人が自分の先祖を調べるという物語。アフリカから奴隷として連れてこられた初代から奴隷として苦しい生活を強いられてきた子孫たち、そして南北戦争を経て奴隷解放されてからもなお差別の中で戦っていく物語だとか。実は一度も見たことはないのだが。
そんな時代、自分たちのルーツ探しというのがブームになったことがある。それぞれの家系がどんな先祖から出てきたのか尋ねるという。

我が家の先祖が淡路島に住んでいたというのは先に書いた。一旗揚げようと祖父が上京し、東京で結婚して戻ってきたけれど、あまりの田舎加減に嫌気がさした祖母は二度と近寄らずそのまま大阪暮らしとなって、その後祖父母が亡くなってからは祖先の地をまるで知ることもなく、調べようもないままにいた。

ところがある時、淡路島に住むAさんという人から、我が家の家のことについて知らせる頼りが突然届いた。

事情は次のような次第。
淡路島に高速道路が通ることになり、Aさんの家の側を通るのに土地の買い上げと言うことになったのだが、なんとその一部にほんのわずかだけれども我が家名義の土地が引っかかったと言う。我が家とAさんの家は隣同士で、遠い昔に我が家の女性が嫁いだ先を初代としてAさんと親戚付き合いをしていたらしい。祖父が家を離れる際にAさんに後のことをすべて任せていたという。

土地を勝手に処分することは出来ず、本来の所有者である祖父を訪ね求めようにも調べるすべがなく、国の事業と言うことで、役所が調べてくれたようだ。祖父が亡くなり、本来あとを継ぐはずの長男もすでに亡くなっていることが判明し、土地の所有権として3人が候補に挙がり、所有権を確定すると共に相続権の放棄を行って欲しいという。祖父の次男である父と、祖父の長男の長男である義兄と、三重県に住む祖父の弟の(これも亡くなっているので)長男の3人に同じ文章が送られてきた。

ということで、夏のある日、僕が運転手として3人を連れてフェリーで淡路島に渡る。渡った先のわかりやすい場所でAさんが待っていて、Aさんの先導で祖先が住んでいたという場所に行く。生まれて初めて先祖が住んでいた場所を訪れることになった。祖母が嫌がったのも納得できるような本当に田舎で、車でやっと行ける場所で、祖父母はどうやって行ったのかそれを考えると本当に嫌になる。
手続きは簡単に済み、先祖のお墓と言う所にも案内してくれた。本当にちっぽけな形にもならない、あるだけという墓ではあったがAさんがきちんと管理をしてくれているという。

それから両親との間で賀状のやりとりだけはあったのだが訪れるというようなことはなかったが、先年の阪神淡路大震災でまさに震源地となって、連絡を取ればお墓がすっかりこけてしまってしっかり起こしてくれたとか。起こすというような作業も必要ないくらいの物なのだが。ということで、父はすでに亡くなった後だったが、見舞いに母と兄たちとで訪れることにする。行ったことのあるのは僕一人。住所も田舎のこととてそれだけでは行けるわけがない。高速道路ができて周辺も整備されたので、記憶もかなり怪しくはなってはきていたが、それでも一発でたどり着けることは出来た。

直下型の地震ではあったが、幸いなことにAさんの家は直前に立替を行ったばかりで、基礎工事で土台をしっかりしていたから、地震の時は家全体が真上に飛び上がり、そのまま横にずれて落ちたという。だから、家全体を持ち上げてまた土台の上に据えるとまったく何もなかったかのように元に収まったという。もちろん近所の家はほとんどつぶれていたのだが。
近くに温泉の施設もできるからと誘われてはいたのだが、その後一度もAさんの家を訪れることはなかった。

昨年久しぶりに記憶を頼りに近くを走ってみたが、お墓がどこだったか、たぶんこれだろうというのは見つかったが確信はない。ピンポイントではなく、このあたりのどこかが祖先の住んでいた場所だという、そんな雰囲気だけの存在になってしまった。


この項目、一度書いてどういうわけかエラーでアップできずに、書いた文章もすべて消えてしまって、改めて書き直しました。