丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

我が家の正月

2008年12月29日 | 個人史
昔から、我が家の正月のルールがあった。
正月1日は家で家族と過ごす。宝塚にある清荒神に出かけることもあったが、人混みが多いのであまり正月1日には出かけなくなった。

正月2日は母の実家の集まりがある。母は6人兄弟だったから集まれば相当の人数になる。昔は宝塚の祖父の家に集まった。祖父の孫達がまだ小さい頃だったからそんなに家の中は狭くなく、騒いだとしてもころころとしたもの。男だけの兄弟という従弟がいたけれど、手のかかるのはここだけ。後はおとなしい物。一同そろって百人一首大会。みんなけっこう好きだったから百人一首はけっこう覚えた。もちろん坊主めくり等もやったけれど百人一首の方が面白い。対抗戦の源平合戦もやった。

その他トランプゲームもやったし、今で言うオセロも、駒は赤と白だがすでにやっていた。オセロというものが発明されたと言われるのはずっと後の時代になるのだが、同じルールのゲームは昔からあった。手品大会もやったり、それは楽しい正月だった。

祖父母が宝塚の家を出ることになって集まる場所がなくなってしまって困ったことになったが、その最初の年は我が家で集まることになった。とても入りきれないのだがなんとかなった。翌年は滋賀県の叔母の家になったがちょっと遠くて(おまけに遠回りもしたせいで)、たどりつくのがかなり遅くなってしまった。
その翌年からはもう集まることもなくなってしまった。

我が家の兄弟達が独立してからはその2日に集まる習慣は次の世代になって、我が家の兄弟達が集まる日になった。

正月1日は兄弟達がそれぞれの奥さんの実家に行く日となって、2日に我が家に集うことになる。集まれば毎年必ず全員集合の写真を撮っていった。引越をするまではその写真は今に順に飾られていたが、母が岐阜の兄の家に行くことになって写真も持って行くことになったが、飾るのが手間になったこともあって、その写真はすべて僕が所有することになった。写真整理ソフトで整理しようと思っているのだがいまだにできないままでいる。

この家族の集まりもそれぞれ孫が大きくなると集合が悪くなっていき、父が亡くなった後も続けられてはいたが、さすがに母までいなくなると続けられなくなって自然消滅と言うことになった。

家族の集合を家以外で行ったこともある。
一度は堺の兄の社宅の側の集会所を借りたこともあった。堺の兄の家族が一切を取り仕切ったのだが、今から思えば兄嫁さんは体力的にかなり無理をしたのではないかと思う。
一度は思い切り家から離れて、和歌山県の加太の国民宿舎に行ったこともある。正月に何も準備しないで出かけるというのも一興だが、これもけっこう無理がある物。

神社詣りはたいてい正月三が日を避けた日に出かける。
伏見稲荷に行ったのが1回。住吉大社に出かけたのも1回。
橿原神宮がけっこう多かったが、早朝出発と無理をすることが多い。
岐阜の兄の家族が泊まりがけで来ることが多かったので、近くでということもあって阪急宝塚沿線の中山神社に行くことが多かった。ここには今は父の遺骨を預けている。少し丘を登ったところにあって、庭園から下界を見ると、その途中に墓所が並んでいるのだが、父が晩年病院で夢を見て、その墓所の場所がお花畑になっていたという。およびがかかったと言う所か。


お正月

2008年12月25日 | 個人史
我が家の正月は、祖母が東京人ということもあって、関西風と関東風の折衷になっている。

関東と関西の正月の違いは、お餅の形とお雑煮の違いがある。
ということで、我が家では毎年お米屋さんに餅を頼んでいたが、鏡餅が大きいのが一組に、神棚に供える小さい鏡餅が3組あって、それに加えて関西風の丸餅の小餅を1升か2升くらい、そして関東風の四角い平餅も2枚くらいか。平餅の方は大きいままで配達されていて、家で普通の大きさに切り分ける。いわゆる角餅のできあがり。切るのが遅くなると堅くて切りにくくなる。ついでに祖母用にさらに小さく切り分ける。

昔一度だけ家で餅つきをしたことがある。
川向の家から臼と杵を借りて、リヤカーで運んだ。
これも関東と関西では違っていて、関東では猿カニ合戦党で有名な木の臼なのだが、関西では石臼を使う。この臼ってかなり重たいんだよね。

家の土間で餅米を炊いて餅をつくのだが、重たい杵を1回だけ持たせてもらったがとても一人で持てる物ではなかった。

雑煮だが、関東ではすまし汁、関西では味噌仕立てとなっている。ということで、我が家では正月1日は関西風白味噌仕立ての雑煮。餅は丸餅で大根、人参、豆腐などが入っている。最初に全員に食べる予定の餅の数を聞いておいて、あらかじめ煮込んでおく。白味噌の中に餅が溶け込んでいって汁が粘っこい物になる。ちなみにうちの娘はこのどろっとした感じが嫌いで白味噌じたてを好まない。
2日はすまし汁。四角い餅を焼いてお椀についだすましの中に入れる。この場合、餅の数は後で調整できる。

正月の楽しみと言えばお年玉。家によってはお年玉というのは家族には渡さないという家もあるようだが、これは毎月の小遣いのいわばボーナスバージョン。お年玉を貰ってやっと買える物もある。具体的には初詣に行った後で寄った街のレコード屋でレコードを買ったりする。人生最初に自分の小遣いで買ったレコードは、当時ファンだった坂本九のレコードだったと思う。

正月と言えばお屠蘇。正月1日には家長から順にお屠蘇をもらって飲んでいく。杯は知っての通り大小3枚あるけれど、順に使っていくので、大きい杯が当たればラッキーと思う。記憶にある最初のお屠蘇はみりんを使っていたけれど、いつの頃か特級酒を使うようになった。父は日本酒党なのだが、ふだんは1級酒なのだが正月だけは特級酒になる。
ちなみに正月とお盆だけは子どもでも家でだけお酒を飲んだ。日本酒のみだが、お盆にはいつも家族旅行をしていたので、その年2回だけ無礼講になる。というわけでお酒はけっこう強いはずだが普段飲まないのでどうなのかよくわからない。どういうわけか本物の日本酒は飲めるのに、甘酒や白酒は苦手でいまだに飲めない。

初詣によく行ったのは近くにある清荒神。満員でなかなか歩けないのであまり行きたくはなかった。
京阪電車沿線の伏見稲荷や成田神社に行った年もあったが、電車が満員で乗れなくて何両も乗り過ごして二度と行かなくなった。
何時の頃からか橿原神宮に行くようになった。最初の頃は近鉄特急に乗って行ったのだが、これもいつからか日を遅らせて車で早朝に出てすいている時間に到着するようにした。一度はあまりに早く来すぎてまだ閉まっていたこともあったり。

クリスマスの思い出

2008年12月25日 | 個人史
クリスマスに特に思い出はない。
プレゼントも特にうれしいものがあったこともない。そりゃ、靴下を置いたりもしていたこともあったが、欲しい物が手に入ったこともない。まあ我が家に煙突などなかったから仕方がないと納得はしていたが。
一つだけ覚えているのが、スィッチを入れると動き出すロボットの人形。でも僕が欲しかったのはこんなのじゃない、などと某コミックのキャラが言いそうな台詞を言ったり。欲しかったのは手元のリモコンで操縦できる奴。コードがつながったままでもいい、とにかく手元で操縦したかった。でも正直そこまでいくと高いから無理だと言うことはわかってはいたのだが。

我が家にクリスマスツリーなどと言う物もなかった。だから自分で所帯を持ったときにはとにかくツリーを飾りたかった。クリスマスケーキと言う物も子ども時分には食べたこともない。ケーキなんか買える家ではなかったし、人数も多かったし。二番目の義兄が某乳製品メーカーに勤めて初めてアイスのケーキを食べた。それ以来いまだにクリスマスになるとアイスのケーキが食べたくなる。丸ごと買うことや一日で食べきることは禁止されていて出来ないのだが。

本当に欲しかったのは、おもちゃでも食べ物でもなく「妹」が欲しくて母親に無理を言ったものだ。男ばかり5人兄弟の末っ子だから、とにかく妹が欲しかった。先にも書いたように、実際には自分自身生まれていたかどうかも判らなかったほどなのだからとんでもないことだったのだろうが。
そういう事情がからんでいるのかどうかは知らないが、不思議なことに義姉も含めて6人兄弟すべての家族に娘が一人ずつ生まれている。さらには甥姪で子どものいる所にはすべて女の子が生まれていたりと。

クリスマスに願い事をしても絶対に叶うことなどありえないと、何時の頃か判ってきた。だから、平気で願い事をして叶うのが当たり前と思っている世代とは話が合わない。

幼児期の思い出3

2008年12月22日 | 個人史
幼児期で忘れられないのが風呂でのできごと。
風呂にはいろいろ事件があるものだが、まだ幼い頃、母と二人で風呂に入っていた。
関西の風呂は埋め込み式で、外から薪をたきつけるのに、釜が風呂の内部まで縦にまっすぐ入っている。その部分は熱くなるのでスライド式の上板があって、ちょっとした段になって風呂に入りやすくなっている。幼児の場合、お湯の量が多すぎるから、その段に腰掛けることで十分体をつかることができる。

あるいは遊び場にもなるので、その日は母が体を洗っている間にその段に乗って、洗濯ごっこをしていた。「川で洗濯をする」という桃太郎でおなじみの光景。昔は洗濯機などというものはないから洗濯はすべてこの方式。
タオルを使って洗濯遊びをしていたら、頭が重たかったのだろう、前からズンブリコと浴槽にはまりこんでしまった。
母が気づいてあわてて引き上げる光景が浮かんでいる。本当に見たのかそう思いこんでいるだけなのかはわからない。

風呂で溺れた経験があったからかどうかは知らないが、泳ぎは苦手になってかなり大きくなるまで泳げなかった。
ちなみにうちの娘も風呂で溺れさせたことがあるが、こちらは早くにスイミングに通わせたこともあって泳ぎは得意。スイミングスクール内の大会で金メダルも取ったこともあったり、4種目すべてできるので小中学時代などは水泳の授業で模範泳法をしたこともあったり。

兄嫁の十三回忌

2008年12月21日 | 個人史
今日は兄嫁の十三回忌。
母の49日をどこでやろうか調べたときに見つけた某ホテルで。
このホテル、大阪市内で交通の便も良いのにそんなに客がいない。ということで、どういうわけか場所も良いのに取りやすいということで、それ以来法事ではいつも利用。
ちなみにこのホテル、将棋の大会にも使われているようで、気をつけて見ていると、関西将棋会館主催アマ大会の行事はいつもここで行われている。母の三回忌の時に、同じ日に道場対抗子ども大会が開かれていて、十三棋道館も出場していたらしく、その気になれば知っている子どもに会えたかもしれない。たまにブログを覗きに行く某将棋教室も出場していたりとか。

十三回忌という事で、向こうの家族は両親と弟4人家族がみな出席、こちらはちょっと欠席者が多かったのだが。
当然のことながら十三回忌にもなると年を越えてしまったり。向こうの両親はまだ健在。哀しい物がある。これでもうあちらの家族と会うこともなくなるのかもしれない。

幼児期の思い出2

2008年12月19日 | 個人史
幼稚園入園前までを幼児期と言ってしまう。

末っ子の定めとして、昼間は誰もいない。母も勤めに出ていたので家には祖母だけがいるのだが、若干煙たい存在で、あまり近寄りたくはなかった。
向かいの家に年も近い親しい兄弟もいて、家にもよく遊びに行ったものだが、早い時期に滋賀県に引越をしてしまった。換わってやって来た家族には僕より1歳年下の男の子がいて、その子とは遊んだりもしたが、前の家族とはちょっと違って家に上がることはあまりなかったような。
引っ込み思案のこともあって、他に親しい友だちもいなくて、兄がいればその友だちに交じって「ごまめ」をしていたけれど、兄がいないときは遊び相手はいないに等しかった。

家に三輪車はあったようなのだが、僕が意識したときには、それはすでに一輪車と二輪車に解体していた。だから大人になってゲームで乗る以外に三輪車に乗ったことはない。

記憶のはるかかなたに、母とどこかに行ったことがある。

母が僕を連れてどこかの家に出かけていった。何の用事だったのかは知りようもない。その帰りに原っぱに寄って、れんげを摘んで遊んだ記憶が一度だけある。あれは何だったのか。

ある正月に家族みんなで奈良にある菖蒲池遊園地に行った。しかしその日は遊園地は閉まっていた。どういう経過か知らないが中にもぐりこんで、動かない観覧車に乗り込んで弁当を食べて写真を撮ったことがある。当時は遊園地でも正月は休園のことが多かった。何か哀しい思い出かもしれない。


幼児期のアルバム

2008年12月18日 | 個人史
今の時代の人には信じられないかもしれないが、僕のアルバムに幼児期の写真は1枚もない。
アルバムの最初のページは、幼稚園入園児に自宅の庭で撮った、証明写真サイズのものが2枚あるだけ。1枚は幼稚園の制服を着て一人で立っている写真、もう1枚は向かいの家に住んでいた1歳年下の友だちと並んで写した写真。

昔にも保育園とかはあったけれど、お金のある家の子どもが行く物で、貧しい家庭では公立の1年だけの幼稚園に行くのが関の山。だから僕のアルバムは5歳から始まる。しかも、そのすぐ後の写真は、幼稚園卒園前にクラス毎の全体で撮った写真だけ。
幼稚園は紅組と白組があって、僕は白組。ちなみに、後に同僚になる先生が同じ年のもう一つの組、紅組にいたことを知るのは30年も先の話。写真を見せ合って、同じ場所で撮ったことがわかっている。子どもは違っていても先生はみんなが写っているので同じ顔ぶれ。

小学校に入る前の写真はそれだけ。

他に1枚も撮っていないかと言えばそういうわけではない。例えば、一番下の叔父の結婚式に行ったのが3・4歳頃だが、当時お気に入り(?)のビニール製のキリンの人形を持って写した集合写真があるのだが、親のアルバムにしか残っていない。他にも撮ったかもしれないが、僕のアルバムには1枚もない。

小学校に入っても、なかなか写真が残らない。遠足や学級の集合写真でさえなかなか買ってはもらえなかったからとぎれとぎれ。だから「写真」というものへのこだわりはけっこうある。

もちろんすべて白黒写真。アルバムにカラー写真が加わるのは中学校に入って、初詣に某神社に行ったときに撮った写真が最初になる。

幼児期1……怖かったこと

2008年12月12日 | 個人史
幼児期の思い出を羅列する。

ほとんどトラウマに近い状態で残っているのが、バイクが怖かったこと。

表通りで遊んでいて、道路に石を投げた所、たまたま通りかかったバイクに当たりそうになり、思いきっり怒鳴られた。その頃道路に車が走ることはめったになく、本当にたまたまだった。
それ以来バイクを見るたびに、あの時の人が思い出したようにやってきて怒鳴りに来るのではないかと恐怖におびえる。ある日数人で遊んでいたときに、バイクに乗った人がやってきて、僕の家を尋ねてきた。思わず知らないと言って逃げ出した。実はその人は叔父さんで我が家を尋ねてやってきただけだった。


夏のラジオも怖い。

母はその頃から勤めに出ていて、昼間は家には祖母しかいないことが多かった。
ある夏の日、祖母がラジオをつけっぱなしにして出かけていった。そのラジオから、夏の番組らしく怪談が流れてきた。内容は覚えていないがとても怖くて、ラジオを消すことさえ出来なくて、つけたまま、その番組が終わるまでと、家を抜け出して行くあてもなくしばらくの時間出て行った。


最初の記憶は2回目の手術

2008年12月05日 | 個人史
記憶に残る最初の出来事は、2回目の手術のことだろう。
たぶん3歳の夏のことだと思う。夏であることは下記の事情で確か。

ある夜急に手足が動かせなくなって泣き出した。自分の意志ではまったく動かせない。驚いた両親が病院に抱え込んだが、最初に行った病院では小児麻痺だろうという判断。それでも納得できない両親は別の医者に連れて行く。そこで様子を見ているうちに右肩が腫れ上がってきた。

父は昔若い頃に「筋炎」という病気にかかって手術をしたことがあるという。なんとなくその症状に似ているのでその疑いはないかと尋ねて調べてみるとまさしくそうだった。

原因は夏によくできる「あせも」。

あせもが大きくなると膿んでくるのだが、その中に「芯」が含まれていて、膿んだときに取り除けばいいのだが、それをそのままにしていたところ、その芯が血液中に入り込み、全身に回ってきたという。そのために全身麻痺の症状が起きたようだ。それが右肩に腫れの状態で現れてきたらしい。

ということで、緊急手術。人生で3回手術をやっているが、全身麻酔の経験は一度もない。みな局部麻酔。手術台の上に寝かされ、回りで親や叔父達に押さえ込まれて手術を受ける。必死で抵抗したことをまだ覚えている。右肩には今でも手術跡が残っている。

それから数日間入院生活。毎日薬を飲むのだが、抗生物質なんだろうが、粉薬は無くて糖衣錠の丸い薬。それとて3歳の子どもが飲むことを想定していない。とてものどを通らない。
のどを通らないということで、カナヅチで砕いて粉状にして飲むことに。そもそも糖衣錠というのは、中の本体がめちゃくちゃ苦いため、飲みやすくするために外を甘くしているのであって、その糖衣錠を砕いてしまっては飲みやすくしている意味が無くなる。それはそれはとても苦い物で、仕方がないのでそれに砂糖を混ぜて飲むこととなった。この変な薬の味もいまだにはっきりと覚えている。
ちなみにのどが細いのはこの時以来今でも続いていて、ちょっと大きな錠剤はなかなか飲み込めない。最近は大きな錠剤が多くて困ってしまう。

とにかく手術後に手が動いて大変喜んだこともはっきりと覚えている。

以来、夏にあせもができると要注意するようになった。最近あせもをかくこともなくなったし、あせもの話もあまり聞かなくなったのはどういうことだろうか。

記憶以前……最初の手術?

2008年12月04日 | 個人史
ようやく自分の個人史を述べる準備ができた。
普通、個人史というと、「最初の記憶」なんかが初めなんだろうが、僕の場合には記憶のない時にすでに記録が始まっている。そういう人も中にはいろいろいるとは思うのだが、これまでの人生で3回手術を行っている。もちろん親戚をはじめ、祖父両親などが癌で亡くなっていることから、この先癌の手術をすることになる可能性もあるだろうから、この3回で終わりではないと思うが。

最初の手術は記憶の無いときに行われている。

聞いた話だけでまとめてみると、2歳くらいの時に、母と兄たちとで風呂に入っているときに、風呂の縁にあごを乗せていたときに、上からいきなり押さえつけられたとか。そのときちょうど舌を出していた状態だったので、自分の歯で見事に舌を噛み切ってしまった。

よく時代劇で捕らえられた忍者などが舌を噛み切って死んでしまう場面があるが、あれは真っ赤な嘘。舌を噛み切ったくらいで死なないことは僕が実証している。

急いで病院に連れて行かれて舌を縫い合わせたそうだ。まったく記憶にはないが。しかしその証拠に今でも舌の中央部には噛み切った傷跡がはっきりと残っている。