昔から、我が家の正月のルールがあった。
正月1日は家で家族と過ごす。宝塚にある清荒神に出かけることもあったが、人混みが多いのであまり正月1日には出かけなくなった。
正月2日は母の実家の集まりがある。母は6人兄弟だったから集まれば相当の人数になる。昔は宝塚の祖父の家に集まった。祖父の孫達がまだ小さい頃だったからそんなに家の中は狭くなく、騒いだとしてもころころとしたもの。男だけの兄弟という従弟がいたけれど、手のかかるのはここだけ。後はおとなしい物。一同そろって百人一首大会。みんなけっこう好きだったから百人一首はけっこう覚えた。もちろん坊主めくり等もやったけれど百人一首の方が面白い。対抗戦の源平合戦もやった。
その他トランプゲームもやったし、今で言うオセロも、駒は赤と白だがすでにやっていた。オセロというものが発明されたと言われるのはずっと後の時代になるのだが、同じルールのゲームは昔からあった。手品大会もやったり、それは楽しい正月だった。
祖父母が宝塚の家を出ることになって集まる場所がなくなってしまって困ったことになったが、その最初の年は我が家で集まることになった。とても入りきれないのだがなんとかなった。翌年は滋賀県の叔母の家になったがちょっと遠くて(おまけに遠回りもしたせいで)、たどりつくのがかなり遅くなってしまった。
その翌年からはもう集まることもなくなってしまった。
我が家の兄弟達が独立してからはその2日に集まる習慣は次の世代になって、我が家の兄弟達が集まる日になった。
正月1日は兄弟達がそれぞれの奥さんの実家に行く日となって、2日に我が家に集うことになる。集まれば毎年必ず全員集合の写真を撮っていった。引越をするまではその写真は今に順に飾られていたが、母が岐阜の兄の家に行くことになって写真も持って行くことになったが、飾るのが手間になったこともあって、その写真はすべて僕が所有することになった。写真整理ソフトで整理しようと思っているのだがいまだにできないままでいる。
この家族の集まりもそれぞれ孫が大きくなると集合が悪くなっていき、父が亡くなった後も続けられてはいたが、さすがに母までいなくなると続けられなくなって自然消滅と言うことになった。
家族の集合を家以外で行ったこともある。
一度は堺の兄の社宅の側の集会所を借りたこともあった。堺の兄の家族が一切を取り仕切ったのだが、今から思えば兄嫁さんは体力的にかなり無理をしたのではないかと思う。
一度は思い切り家から離れて、和歌山県の加太の国民宿舎に行ったこともある。正月に何も準備しないで出かけるというのも一興だが、これもけっこう無理がある物。
神社詣りはたいてい正月三が日を避けた日に出かける。
伏見稲荷に行ったのが1回。住吉大社に出かけたのも1回。
橿原神宮がけっこう多かったが、早朝出発と無理をすることが多い。
岐阜の兄の家族が泊まりがけで来ることが多かったので、近くでということもあって阪急宝塚沿線の中山神社に行くことが多かった。ここには今は父の遺骨を預けている。少し丘を登ったところにあって、庭園から下界を見ると、その途中に墓所が並んでいるのだが、父が晩年病院で夢を見て、その墓所の場所がお花畑になっていたという。およびがかかったと言う所か。
正月1日は家で家族と過ごす。宝塚にある清荒神に出かけることもあったが、人混みが多いのであまり正月1日には出かけなくなった。
正月2日は母の実家の集まりがある。母は6人兄弟だったから集まれば相当の人数になる。昔は宝塚の祖父の家に集まった。祖父の孫達がまだ小さい頃だったからそんなに家の中は狭くなく、騒いだとしてもころころとしたもの。男だけの兄弟という従弟がいたけれど、手のかかるのはここだけ。後はおとなしい物。一同そろって百人一首大会。みんなけっこう好きだったから百人一首はけっこう覚えた。もちろん坊主めくり等もやったけれど百人一首の方が面白い。対抗戦の源平合戦もやった。
その他トランプゲームもやったし、今で言うオセロも、駒は赤と白だがすでにやっていた。オセロというものが発明されたと言われるのはずっと後の時代になるのだが、同じルールのゲームは昔からあった。手品大会もやったり、それは楽しい正月だった。
祖父母が宝塚の家を出ることになって集まる場所がなくなってしまって困ったことになったが、その最初の年は我が家で集まることになった。とても入りきれないのだがなんとかなった。翌年は滋賀県の叔母の家になったがちょっと遠くて(おまけに遠回りもしたせいで)、たどりつくのがかなり遅くなってしまった。
その翌年からはもう集まることもなくなってしまった。
我が家の兄弟達が独立してからはその2日に集まる習慣は次の世代になって、我が家の兄弟達が集まる日になった。
正月1日は兄弟達がそれぞれの奥さんの実家に行く日となって、2日に我が家に集うことになる。集まれば毎年必ず全員集合の写真を撮っていった。引越をするまではその写真は今に順に飾られていたが、母が岐阜の兄の家に行くことになって写真も持って行くことになったが、飾るのが手間になったこともあって、その写真はすべて僕が所有することになった。写真整理ソフトで整理しようと思っているのだがいまだにできないままでいる。
この家族の集まりもそれぞれ孫が大きくなると集合が悪くなっていき、父が亡くなった後も続けられてはいたが、さすがに母までいなくなると続けられなくなって自然消滅と言うことになった。
家族の集合を家以外で行ったこともある。
一度は堺の兄の社宅の側の集会所を借りたこともあった。堺の兄の家族が一切を取り仕切ったのだが、今から思えば兄嫁さんは体力的にかなり無理をしたのではないかと思う。
一度は思い切り家から離れて、和歌山県の加太の国民宿舎に行ったこともある。正月に何も準備しないで出かけるというのも一興だが、これもけっこう無理がある物。
神社詣りはたいてい正月三が日を避けた日に出かける。
伏見稲荷に行ったのが1回。住吉大社に出かけたのも1回。
橿原神宮がけっこう多かったが、早朝出発と無理をすることが多い。
岐阜の兄の家族が泊まりがけで来ることが多かったので、近くでということもあって阪急宝塚沿線の中山神社に行くことが多かった。ここには今は父の遺骨を預けている。少し丘を登ったところにあって、庭園から下界を見ると、その途中に墓所が並んでいるのだが、父が晩年病院で夢を見て、その墓所の場所がお花畑になっていたという。およびがかかったと言う所か。