丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

クラブ活動

2009年09月27日 | 個人史
「クラブ活動」と「部活」が違うと言うことを最近になって教えてもらった。
「部活」は「部活動」の省略形だから、日本語的には部活もクラブ活動も一緒じゃないかと思っていたのだが、正式には違うという。
「クラブ活動」は学校の正規の授業の一つで、カリキュラムに組み込まれている時間、時間割の中にきちんと存在する科目だという。それに対して「部活」は放課後等に参加自由で活動する物を言うそうです。だから原則的に「クラブ」は全員参加、「部活」は希望者のみの参加ということになる。

K中学校では「クラブ活動」があった。木曜日の6時間目がその時間に充てられていた。当然全員どれかのクラブに属していなければならなかった。(授業の1形態だから当然ながら評価もある)
もっとも全員参加ということで、誰もが好きなクラブに入ることは出来なくて、人数制限があって希望者が殺到するクラブは抽選ということになり、クラブ希望表には第1希望から第3希望まで記入して、希望通りになるかは人数次第、誰がどのクラブになるのかは密室で決められていた。人気の高いのはテニスクラブで、希望者殺到でかなりの者が落選していた。

「部活」もあって、ほとんどクラブと重なるのだが、中には部活とクラブと別々に所属する者もいたりする、それも可能だった。もちろん運動部ではレギュラー争いでは同じ部にいないと不利になるのだが。基本的に文化系は正規クラブの時間しか活動していないことが多いので、それと運動部との掛け持ちもけっこういたようだ。マンモス校ということや運動場の広さの関係もあったのだろうが、野球部やサッカー部はなかったように思う。

兄は親の方針で必ず運動部に入るように言われてバレーボール部に一度は入ったのだが、一学期で辞めてしまってブラスバンド部に入部した。担当はクラリネット。それからクラリネット一筋に歩み続けてやり通してしまったので親も何も言わなくなった。
そんなこともあったので、僕が入学したときには、あまり体も強くなく、運動能力もほとんどなかったこともあったので、最初から運動系は望まれておらず、音楽が大好きということも知られていたこともあり、兄の後を追ってブラスバンド部に入るものと皆から思われていた。あまりにもそういう意識が強いことを感じて逆に入る気を無くしてしまって別のクラブに入ることとなる。

もし人生に一度やり直しの機会が与えられたなら、迷うことなくこの瞬間を思うだろう。僕の人生にとってブラスバンド部に入らなかったことが一生の後悔となって追いかけてくる。
不思議な物で、それから30年も経って吹奏楽と深く関わるようになるなんて夢にも思わなかったのだが。
ちなみに個人的にはトランペット、フルート、クラリネットを所有している。クラブの顧問として中古トロンボーンが必要になって買いに行ったとき、音がきちんと出るか試すように言われて吹いて、一度も吹いたこともないのに一度でドレミファソラシドを間違えることなく吹けてしまって自分でも驚いたが。
サックスも欲しいと常々思っているがたぶん贅沢だろう。

余談ながら、「ブラスバンド」というのは本当は金管楽器を中心としたバンドのことを言うのだが。マーチングバンドなどでは金管楽器の方が音がよくのびるので、K中学校でも行進をよく行っていたこともあって「ブラスバンド」と名乗っていたのかも知れない。しかし木管楽器も一緒に、室内演奏を中心に行うバンドなら「吹奏楽部」と言う方が正しい名称になる。英語で言うなら「ウインド・オーケストラ」と言う。英語での名称はなじみが薄いから名乗るのなら吹奏楽部の方がしっくりいく。もっともK中学校では正式名称がブラスバンド部だからそれでいいのかもしれないが。正式名称が吹奏楽部というところでは「ブラバン」と呼んで欲しくない、というのが関わりを持った人間のこだわりではある。

閑話休題
つまらない意地から音楽系をやめて、替わりに入ったのが「野外活動部」というわけのわからない部。ようするにハイキングとか校外で山歩きをするクラブ。
まあそういう事情から、授業時間内の1時間でやれることは何もなくて実際は退屈なクラブではあった。休日に一度六甲山から有馬温泉に抜ける道を歩いたくらいか。

どういうわけかK中学校では三学期にクラブ再編成が行われた。新学年に向けてきちんとクラブ編成をしようということだろうか。そんなわけで、野外活動部に飽きた僕はクラブを変えることにした。
クラブ紹介が行われるのだが、新規に「ESSクラブ」というのができるということで、そちらに入部することとなる。これがまた大変な道のりになるのだが、そのことは項目をあらためて書くことにしようか。

本と漫画

2009年09月23日 | 個人史
中学生になったのをきっかけに、ぴったり漫画を読むのをやめることにした。

それまで少年サンデーを毎週読み、小5で盲腸で入院しているときに退屈だからサンデー・マガジン・キングの3誌を買ってもらったのをきっかけに少年マガジンに乗り換えて読んでいたのだが、中学になったからもう漫画は卒業だと言うことできっぱり購読をやめた。もちろん本屋での立ち読みもやめることにした。替わりに芸能雑誌である月刊誌の「平凡」か「明星」のどちらかを毎月購読することにした。
これらの月刊誌には付録で歌本がついていたので、歌の好きな僕にとっては都合の良いことだった、どちらの本を買うのかは、歌本に楽譜がついているかいないかで決めることがほとんどで、どちらを買っていたのかは覚えていない。

歌好きは誰にも負けなかった。まわりの同級生の中では一番歌を知っているほどで、童謡・クラシックからポップス・演歌ポピュラーなんでもこいだった。ずっと後の話だが、大学のクラスで旅行に行ったとき、僕一人対他全員で尻取り歌合戦をやって勝ったという伝説がある。
好きな歌はノートに書き写して覚えた。ちょうど深夜放送を聞き出したこともあってとにかく耳で歌を覚えた。カラオケなんてない時代だから歌本だけが頼り。
ちょうど都合の良いことに、K中学校では生徒全員に学校作成の手帳タイプの歌集を配布していた。K中学校の校歌が自校の名前が入っていない特殊な校歌であったこともあるのだろうが、3つの校訓「創意・友愛・協調」を歌い込んだ「生徒会歌」というものが作られてよく歌われることもあって、その生徒会歌を覚えるついでに、民謡やキャンプソングをはじめとする健全な歌ばかりではあったが歌集が作られて配られたのだった。余白のページもたくさんついていて、当時の流行歌など自分の好きな歌を書き込めるようにもなっていた。
歌集に載っていた歌はほとんど覚えた。今でも愛唱歌としている曲が何曲もある。

話はそれるが、本当に漫画を読むのをやめてしまって、次に漫画に戻るのは高校生になってからだった。当時創刊されたばかりの「少年ジャンプ」で、漫画史に残る世間を大騒動に持ち込んだ「ハレンチ学園」が話題になり、どんなものか一度見てみたくて立ち読みをしたのがきっかけで、漫画の立ち読み時代に突入する。ほとんど購入することはなかった。
高校時代にはまったのが、真崎守という作家の「ジロがゆく」。彼の作品集にはとっぷりはまってしまって、後に彼の選集が出た時にほとんど集めた。真崎守の一連の作品集は今でも僕の本棚を飾っている。
ちなみに同時期に同じ雑誌に載っていたのが日本版のスパイダーマン。めちゃくちゃ暗い話でけっこうはまっていた。

閑話休題
新潮文庫とかには巻末にいろいろな本のリストが載っているが、中学になったときに兄にそのリストから読んだらいい本に印をつけてもらって、それらをとにかく読みあさった。1年間で100冊は読んだだろうか、とにかくいろいろ読みあさった。最初に読んだのは「十五少年漂流記」、それから「愛の妖精」、その後は武者小路実篤のシリーズなど。いっぱい多読するうちに自分の好みの作家や作品が見えてくる。それからただ読むだけでなく批判的に読むことも覚えてくる。この作品ではこんなことを言っているがそれはちょっと違うのではないかとか。
高校では国語の授業で、そういった作者の主張に対して自分はどう思うのかという評価をディスカッションしたりしたのでそれらは今でも生きている。小説や映画を見ても、この作者の考えには同意できない、したくないとか思ったり、この映画の脚本は本来の作者の考えを曲解しているのではないかと感じたりすることが多い。その逆に、元の小説は駄作なのによく脚本家はこれだけ上手に書き直したなと思ったり。

高校に入学したときに、学校指定で本を1冊無理矢理に買わされた。井上靖の「天平の甍」。学校指定で出版社も指定という、おそらく業者との癒着があったのではないかと思わされるが、結局この作品は未だに読んでいない。
買っても読まなかったのは他に「たけくらべ」とか。明治の文体がどうしても無理で読めなかった。
この経験から感じるのは、たとえタイムマシンが出来て過去の世界に行けたとしても、おそらくその時代の人と会話することは不可能だろうと言うこと。
明治時代の人の言葉でさえ理解できないのに、ましてや江戸時代や戦国時代の人と会話したり読み書きしたりなど絶対出来ない。タイムスリップの物語で最初に嘘だと感じるのはこの部分。タイムスリップしたい人は、徳川家康や織田信長が書き残した手紙などが実在するから、それをまず読みこなせるようになってから行くべきだと思う。(江戸時代なら井原西鶴の直筆の原稿とか)

K中学校のこと(2)

2009年09月18日 | 個人史
川西市立K中学校は、山の斜面を削ってできた学校で、校舎は3棟あるが坂の途中に順に上がっていく形式になっている。
一番南側に運動場があり、職員室等がある本館がまず前面にある。その後ろに中館、そして奥に北館がり、各棟は南の2階が北側の1階に渡り廊下がつながっている形態になっている。
各棟が何階建てだったかは忘れた。アルバムを見れば判るのだろうが、もし判ったらこの文章を訂正しておこう。
一番北の館に主に1年生が入っていて、その北側に小運動場があった。全校生徒千人の学校だから運動場も2つないとやっていけない。
南の運動場の西側もちょっとした崖になっていて、その斜面に南側からテニスコートがあり、その横に2階建ての体育館があった。クラス数も多いので当然ながら体育館使用もあまりなかった。雨が降れば体育の授業はほとんどが教室での講義だった。
体育館の隣には音楽室の建物があり2教室あった。その横に通用路がなぜかあり、裏山から侵入できるようになっていた。その小道を挟んでなぜか用水路があった。

校舎の東側には理科教室と技術室の建物があった。昔のことだから技術家庭は男女別習であり男子は技術、女子は家庭を習っていた。だから男子は調理実習をする機会はなく、女子からのお流れを運良ければもらえたりもした。
理科の授業は当時としては進んでいて、第一分野と第二分野を並行にやっていて教師も二人、分かれて授業を行っていた。

K中学校はいわゆるモデル校であったらしく、いろいろな実験的試みも多く行われていた。たとえば数学授業でも「代数」と「幾何」を二人の教師で分けて並行して授業を行っていくという実験的なことも行ったりもした。もっともこれはうまく機能が果たせないことが判って1年間だけで終わってしまったが。

一番大きな実験は、各教室にTVが入って、TVを使った視聴覚教育が僕の年から開始されたこと。当時はまだビデオカセットなどもなく、オープンリールという、ちょっと年配の人なら音楽録音で見たことのある人もいるかもそいれないが、映像をそのオープンリールで録画するという方式しかなく、放送室でTVのNHKの教育番組を録画して教室のTVを使ってその録画を見ながら授業を行うという方式を採っていた。
よく使われたのは歴史で再現ドラマを見たり、国語で能や狂言などを鑑賞したり、音楽の鑑賞とかもたまにあったりした。(音楽の場合はレコードでの鑑賞の方が多いが)
TVは授業時間だけでなく、娯楽の時間でも自由に使うことが出来て、NHKの朝ドラ、当時は「おはなはん」をやっていたが、昼食時にこれを見ながら弁当を食べることが出来た。短縮授業などで時間が合わずに見れなくなる日はとても残念だった。

マンモス校ということもあったり、川西市自体給食設備に費用が出せなかったこともあったのか、当然ながら給食という物はなく、ただ「ミルク給食」というのがあって、生徒全員に毎日、牛乳が配給されていた。この牛乳、市販の牛乳に比べてずっとまずくて、たまに欠席者の分をもらって飲んだりしたが、2本以上飲むと必ずお腹を壊してしまった。冬になると最悪で、生徒全員分の牛乳を一度に温める機械があってそれで温めた牛乳が配られるのだが、ただでさえまずい牛乳は温めると余計にまずくなって飲めた物ではなかった。
ちなみに本館の上に保健室があったのだが、この保健室を検診以外で利用したのはお腹を壊して行った1回だけだった。それも薬を貰えるかと思ったらトイレに行くように言われてそれで終わりという。今の時代、保健室を遊び場のようによく利用したり、保健室自体も生徒が入りやすいようになったりしているが、僕の時代には考えられもしなかったことだ。ちなみに保健室を遊び場替わりに利用することを教えてもらったのは高校3年になってからだったが。

全校朝礼は大運動場で行われていたが、雨の時にはTV朝礼もあったりした。また曜日で全校終礼を行う日もあったり、さらには学年終礼を行う曜日もあった。この時は1年生は小運動場で、3年は本館を向いての朝礼隊形で、2年は体育館を正面にしても隊形で分かれて同時に行った。大運動場ではマイクが上手い具合に分けて使えたようだった。運動場も広いし、スピーカーの切り替えも出来たのだろう。
ある時終礼の時、突然夕立が降ってきてあわてて体育館の下や2階に批難した所、体育館正面から見える下界にまともに雷が落ちたことがあった。火事になって消防車がかけつける様子をまともに見ることが出来た。
ある猛暑の夏は、雨がかなりの日数降らずに川の水がひえあがって、明日から給水制限、断水になることが決定して終礼でそのことを伝えている最中に豪雨が降り出し、給水制限は中止になったこともある。

プールのことは書いていないが、入学したときにはプールはなかった。また水泳の授業については以前にも書いてはいるが項目を改めて書くことにする。

K中学校のこと(1)

2009年09月13日 | 個人史
川西市立K小学校の卒業生は、2つの中学校に分かれて進学することになる。
小学校より南部、弥生時代の遺跡がある加茂台地を中心とした加茂地区は、その南部の空港騒音問題で有名になった久代地区にある町名のついたK小学校の卒業生と一緒にK南中学校に進学する。

一方、小学校より北側に住む子どもは、能勢電鉄で2駅先の駅前にあるK北小学校の卒業生と一緒にK中学校に進学することとなる。

小学校が6学年で2千人を超えていたが、中学校では別の中学校に分かれた分、他校から合流があるので、3学年で千人の規模の学校になる。やはりマンモス校には違いない。

K中学校は校歌に歌われている「大塚山」という山を削って作られた学校のようで、山の麓になる阪急電車の川西能勢口駅から山をえっちらこっちら登った先にある。
僕の家からは北へまっすぐ直線で行くと近いはずなのだが、なぜか東に駅前まで行ってそれから北進するのが正規の通学路になる。おそらくなのだが、山に登り始める急な崖状の所に、どういうわけか宝塚市が入り込んでいて、家から直線では宝塚市を通り抜ける必要があるからかもしれない。おまけに宝塚市を越えて行くためには、途中に小川が流れていて、その川を横切らないといけないのだが、小さな橋を渡るにはけっこう遠回りになり、石伝いに小川を横切る方法もあるのだが、もっと近いのは、水害よけのダム状のせき止め口を飛び越えて行く方法なのだが、さすがにお勧めはできない。従って、公式的には直線で行く道は指定されないのだが、遅刻しそうなときとかはよくこの経路で行ったものだ。もっとも最終的には学校の裏山の音楽室の裏をこっそり抜けるという裏道で校内に入ることになるのだが。

宝塚市の境界がどこまで入り込んでいるのかは地図を見ないとわからないのだが、卒業後数年経って、その境界線のすぐ近くにK小学校の分割校として新しい小学校ができた。もっと早くできていればこの小学校に通うことになっていたと思われるが、ちょっと残念な気がする。

中学校の入学式は確か4月1日に行われたように思う。確かではないが。
入学式には僕の家は親は来ないで、高校2年の兄が着いてきた。「父兄」であることは確かだ。まあその頃から「父兄」という呼び方の形骸化は感じていた。「保護者」という呼び方が一般化するのはまだまだずっと先の話。現在でも保守的なところでは保護する存在は「父兄」と呼ばれ、保護される存在は「子女」と呼ばれている。
そしてうちの親は僕が中学在校時には一度も中学校にはやって来なかった。親が学校に来たのは卒業式に来ただけである。ちなみにその日にはその足で映画を見に行ったので、映画を見るためについでに卒業式に寄ったような気もしないではないが。

ホッチキス

2009年09月11日 | 個人史
明日の図工の時間にホッチキスが必要と言われたのだが、当時家にはホッチキスという物はなかった。もちろんホッチキスがどんなものかは知っているのだが、家では使う機会がまったくなかったから誰も持っていなかった。

突然言われても困るのだが、学校ではそんなことは思ってもいない。当然どこの家にもあるものだと思い込んでいる。そういうことってよくあることで、自分の近くでは常識であることが、そうでない家もあるということを思いもしていないという。

ということでホッチキスを急遽購入しないといけないのだが、あいにく両親とも家にはいなかった。家にいるのはあまり話をしない祖母だけだった。どうしようもないので、とにかく祖母に頼んで100円だけもらって買いに行った。クラスの同級生が文房具屋をやっていたのでそこまで出かける。別に同級生だからと言って安くなるわけでもないのだが。
で、100円で買ったホッチキスは、1回使う毎に手動で少しゆるめてやらないと次には使えないというものだったが、不思議と手になじんで。現在に至るまで一番愛用のホッチキスとなっている。

ウルトラマン

2009年09月07日 | 個人史
「ウルトラ」という言葉は東京オリンピックで発明されたものだが、その後に「ウルトラQ」という番組ができて(これは再放送で見た)その後に「ウルトラマン」が始まった。日曜夜7時の放送で、関西では同じ時間帯に「アップダウンクイズ」という超人気番組があって、TVがまだ家庭に一台の頃ではチャンネル権は父親にあって、ウルトラマンを見ることはなかなかできなかった。
どういう事情があったのか覚えていないが、たった1回だけリアルタイムで「ウルトラマン」を見ることが出来た。あの「スペシゥム光線」が見られるとあって待望して見ていたのだが、何と、この回だけスペシウム光線は発射されず、ウルトラマンの手からはしょぼい水が噴射されただけだった。

がっかりするのは早い。実はこの回はウルトラマンの歴史ではきわめて貴重な、名作と名高い「ジャミラ」が登場した回で、その回だけリアルタイムで見られたのと言うのは堂々と自慢できるものだったのだ。

もっとも子供心にも設定はおかしなものではあったが。
水不足の星にたどり着いた地球人がそれだけで変貌するものなのかとか、たかが宇宙飛行士に地球に戻ってきて、しかも地球人を脅かすような宇宙船をたった一人で組み立てられる物かとか、材料やその他必需品をどうやって調達したのかとか、つっこみどころ満載ではあったが。

たった1回でもいろいろ突っ込むことのできるウルトラマンはそれでも魅力的ではあった。

怪獣映画

2009年09月05日 | 個人史
ちょうど怪獣映画がブームになっていた頃に小学生だったので夢中になって見まくった。
最初に見たのが「キングコング対ゴジラ」アメリカで人気だったキングコングと、日本の怪獣の先駆けのゴジラではどちらが強いのだろうか、という発想から生まれた映画。最終的には当時悪役だったゴジラがキングコングに倒されて終わりというものなのだが。

次に「モスラ」。ザ・ピーナッツの本家物。傑作でしたね。一番好きな怪獣がモスラでした。東京タワーが壊されてどうなったのか非常に気になったり。
「モスラ対ゴジラ」も傑作。まさかモスラの子どもが双子だなんて、この大逆転の発想はすごかった。1匹では倒せなかったゴジラが、双子のチームワークなら倒せるというのが判りやすかった。
「ゴジラ・モスラ・ラドン、地上最大の決戦」は究極。3匹が集まって宇宙怪獣キングギドラを倒すのだが、3匹が話し合いをして休戦協定を結んだり。そこまでやればやりすぎじゃないかと。結局それを最後にシリーズ化した怪獣物は見なくなった。

ガメラもとんでもない設定で笑えた。最後は宇宙船を造ってガメラを宇宙に追いやってしまおうというとんでもない発想なんだが、計画して実際にロケットを作るまで一体どれくらいの期間が必要なのか、子どもの頭でも不思議だった。完成するまでに日本はガメラに全滅させられてしまうだろうな。
評判がよかったので続編を作ることになって、宇宙に行ったはずのガメラが、ロケットの故障で地球に戻ってきてしまうと言うまたまた禁じ手にはあきれた。

怪獣物の亜流で、予告編だけで怖くてどうしても見ることが出来なかったのが「マタンゴ」。今でもこの名前を聞くとおびえてしまう。

時代劇の「大魔神」も傑作だった。本編は純粋な時代劇で、村人が悪代官に虐げられ、何とかして倒そうと頑張るのだが、どうしようもなくなった最後の瞬間に、村人の涙に打たれて大魔神が現れて、敵味方見境無く暴れ狂うという、その発想はとんでもなくすごい。こういう怪獣に敵も味方もないはずだというのがうり。印象がかなり強かったので、大魔神という言葉が一人歩きもしだしたし。

今の時代の怪獣物はやたらハイテク技術が進みすぎて、手作り感がなくなって面白くなくなってきている。海に浮かぶ船がミニチュアだとわかってもいいじゃない。ピアノ線が見えてもいいじゃない。フルCG合成なんて映画をつまらなくしているとしか思えない。