丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

ミシン工場

2011年01月30日 | 個人史
高校3年の夏にミシン工場へアルバイトに行く。

母の知り合いの人が勤めているところだったんですがね。
ミシンを作っている工場。
ほとんど油まみれ。
でも、よく落ちる石鹸が置いてある。こんなに落ちるんだ。

そうか!今気がついた。だから大学受験も落ちたんだ!


ミシン全体を作っているけれど、関わるのはその一部分。
金属のボールみたいな部分をやすりで削って、油つけて。
それで組み合わせるとミシンが動くような。

同じ作業を繰り返し一日中。

冷房がすごく効いているからよさそうなのだが、
姿勢が同じ向きでずっといるから、同じ側ばかり冷やされる。
気温は高いので、工場内も本当は暑く、冷房の風で調節している。
ということで、体の片側は暑いのに、片側だけ冷やされるという、
最悪のコンディション。いっぺんに体調を悪くしてしまった。
いわゆる冷房病。

工場内には食堂もあって、食券をもらって昼食はここで食べたが
けっこうバランスも良くおいしかった。

30日間、まあそれなりに面白かった。

誤字脱字

2011年01月29日 | 詩・小説
自作の小説「白夜の人」を読み返していたら、誤字脱字がいっぱい見つかる。
うーーん、何度も書き直したり読み直したりしていたのに。

HPにアップしている方を先にチェックして校正して、さっきこちらの方を
修正したのだが、気づかなかったミスがあらたに見つかる。
完璧と思っていてもやっちゃうんだね。

小説だから修正したけれど、それ以外の文章にも誤字脱字があるんだろうな。でもそういうのはいちいち修正する気にもなれないので指摘されない限りそのままにしておこう。

初体験????

2011年01月27日 | 個人史
夏とはいえども肌寒い日だった。
パンツ一丁になって思い切って仰向けに飛び込んだ。
衝撃があった。
手を使い、足を使い、腰を動かして必死だった。
息ができない。一気に疲れが襲ってくる。
終わった時、疲労が襲ってきた。心地よい達成感があった。
呼吸が整わない。心臓が高ぶっている。びしょ濡れだった。



うーーん、初めてプールで泳いだのだった。


先にも書いてきたように、僕の行く学校どこにもプールがなかった。
水に浮くことさえできない完全カナヅチの僕にとって運命的なことだったかも
しれないが、行く先々の学校でプールが建設されてきたのだが、その年ごとに水泳講習会はあったのだが必ず事情で参加出来なかった。

高校3年の時にプールができた。

1・2年の体育の授業ではどうしていたのだろうか。
ひょっとしたら併設の小学校のプールを借りたのではなかっただろうか。
あの、全国の小学生とその保護者を恐怖のどん底に陥れた、異常者侵入による児童大量殺傷事件が起きた小学校である。
記憶違いかもしれないが、あの校庭に連れられて行ったことがあったように覚えている。

とにかくプールが出来て、夏には講習会も開催されたのだが、その三日間は雨模様で気温も低く、おまけに少々風邪気味ではあった。
しかし、この機会を逃したなら一生泳げることはないかもしれないという思いで無理を押して参加する。

生まれて初めての水泳であるが、水に浮かぶのは初めてではなかった。
先に少し匂わせておいたのだが、1年前の家族旅行の時に温泉で浮かぶ体験をしていた。

きっかけはTVの深夜放送だった。

1年前の夏、TVの某深夜番組の企画で、東京オリンピック出場選手だった木原光知子がコーチとなっての水泳教室の様子が放送されたのだったが、そこで彼女が、人間は誰でも水に浮くように出来ている。力を抜いて全身を伸ばして水に委ねれば必ず浮かぶように出来ている、と最初に語っていた。
今までで一番心に残る言葉だった。本当にそうなんだろうか。

で、温泉で実験してみた。なにぶんお風呂だから浅いのでまず安全。そして本当に体が浮かんだ。初めての出来事。

その年にはそれ以外にプール体験を持つことはなかったが、1年おいて3年の夏、プールで本格的に水泳体験をする。

1年経っても、お湯でなく水であっても、やはり体が浮いた。
バタ足とクロール。確かに前に進む。
この3日間で15m泳ぐ体験をする。

あいにく息継ぎはできなかった。水恐怖症で、顔に水がかかったり、顔を上げて髪の毛から大量の水が顔の表面に流れてくるとパニックになって、口が呼吸をするのをやめてしまう。息が出来なくなると言う現象が(今でも)起きて、息をするどころではなくなる。現在はスイミングキャップをかぶっているときは大丈夫なのだが、そうでないとやはりパニックになる。

クロールだと横向きになるので上から水が流れないから息継ぎがなんとかできるので、それからは当分クロールしかできなくなるが。本格的に泳ぎを覚えるにはそれから25年ほどたってからになるのだが。

とにかく足がプールの底から離れても大丈夫になる体験ができた。

高校の授業2

2011年01月25日 | 個人史
一番好きな教科はやっぱり数学だったが、先に書いたように高校では数学は二人の教師で分野を分けて授業をやっていた。どんな分け方だったのかはよくわからない。

数学の分野と言えば、代数、関数、幾何、確率に分けられるのだが、どれも中学に比べてかなり難しくなっている。

数学の片方の分野では比較的点数を取ったのだが、もう一つは散々。今でもはっきり覚えているのが、問題が全部で4問。1問25点。それの3問がちんぷんかんぷんでまったく書けず、ようやく1問をなんとか埋めたけれど正解ではなく、中間点で15点をもらった。後にも先にも得意の数学で15点はない。かなりショックでもあった。

逆に、中学ではそんなに好きでもなかった国語がけっこう性に合うようになる。国語の勉強というと漢字の書き取りしか思い浮かばなかったのだが、高校授業で深く読むということを覚えた。

それまで書かれた文章に何の疑いも覚えることがなかったけれど、批判的に読むことを覚えた。この文章、どこかおかしいのではないかとか。こういう読み方は推理小説を読むのに役立っている。一般社会的に言えば、新聞の論説や誰かの主張でも、それまで鵜呑みに信じていたことが、この人の発言はおかしいのではないだろうかと思えるようにもなった。
小説でも書かれた文章の奥の意味とか、文字になっていない感情とかも読めるようになってこういった部分、それまでのうわべだけの勉強と違った学習だった。

古典の授業では教科書以外の文章も多く扱って、難しくはあったけれどもけっこう面白かった。出典がわからない作品のコピーも多かったので、読み返せないのが残念。今でも本棚には当時使用していた源氏物語、枕草子、徒然草が並んでいる。

体育の授業はさっぱりだった。運動神経がないから仕方がない。それでも1年時には体育委員をやってはいたが。ラジオ体操だけは得意だったからよかったが。

体育と言えば、この年から体育大会は学校で行うようになる。それまで服部緑地の競技場を使用していたが、雨天の時とか不便なことも多かったためだが、僕が服部緑地に近い場所に引っ越ししたのに、その年に場所が学校に変更になったのは残念でもある。
クラスが各学年4クラスだったので、縦割りのクラス対抗をやって、頼まれもしないのにクラスの応援団長を勝手にやって、結果、クラス優勝をしたのが体育大会での思い出となる。

高校の授業1

2011年01月24日 | 個人史
中学ではほとんど学年トップと言っても、井の中の蛙であることはいなめない。それは承知だが、見事に高校では落ちこぼれた!

まあ、出だしでくじいたのは間違いない。何しろ、入学手続きをした後に渡された宿題を甘く見たのだから。ほとんどやらずに入学して、いきなりのテストで散々な結果が。そこから不幸の3年間が。

いわゆる赤点、僕の学校ではそういう言い方はしないで欠点とそのまま呼んでいたが、30点が基準で、それだけ難しいということなのだろうが、まあいどい点を取ったものだ。

物理や地理では教師が問題集を市販していて、テスト問題はそこから出題されるという、言ってみればずるいのだが、反発してあえて購入しなかったからぼろぼろ。1年の3学期には親も呼び出されたり。まあ3学期でなんとか持ちこたえて進級できたが。

元々岩石やら動植物が苦手。小学校の時盲腸で入院していた時に岩石をやっていて、そこをパスしているからまるで理解していない。中学の理科では第2
野の授業は荒れていたこともあって、植物がさっぱり。今でも花の名前などちんぷんかんぷん。
地学も最悪の点数だったが、何より生物では100点満点の5点という考えられない点数を取った。

日本史は得意だったが、高校での日本史はきわめて特殊な授業で、いきなり「お茶の歴史」から始まる。続いて仏教史になり、明治は西園寺公望の日記からの授業。かなり特殊。やっと古代に戻って、邪馬台国論争の話から、神武天皇は実在したかとか、辛酉革命説つまりは日本の紀元論争の話。古代史は藤原氏によって作り替えられたという説で、大化の改新はなかったという話など。

けっこう楽しい授業ではあったが、大学受験にはまるで役立たない話ばかり。卒業後の予備校で受験日本史をもう一度やり直してようやく一般常識はつかめたが。

日本史は得意なのに、世界史はからっきしだめ。とうとう卒業までの授業日数を確保できたら、1時間目にある世界史の授業は欠席することに。
ちなみに、中学教師になって、その世界史の先生の子どもが入学してきて、先生と顔を合わせてばつが悪かった。

英語も中学時代は得意な方だったけれど、高校の授業にはさっぱりついていけなかった。リーダーが全然読めず。文法作文はさらに難しく、いまだに英作文はできない。大学に入ってから英語の文章を読むのが好きになったのだが。いや、予備校での英語の文章が面白くてはまったのがきっかけかもしれない。

山辺の道

2011年01月20日 | 個人史


高校の校外学習は、基本的に参加自由。そして全員が同じ所に行くのではなく、参加コースを選択する。

3年春の学習も、4コースくらいあった中で、僕が参加したのが「山辺の道」散策コース。歴史が好きなことや、散策が好きなこともあって選択する。
このコース参加者が何名いたのかはよく覚えてはいない。
日本史のN先生が引率して、本来の山辺の道散策コースの逆コースを行くことに。

天理にある石上神社を出発して、三輪神社が終点。途中に崇神天皇陵もあるのだが、逆コースで歩いたため、途中標識を見失って道を間違ったりもする。

半日使ってのハイキングだったが、楽しかったのが、2年の時の同じクラスだったHさんとなんとなく隣に並んで歩いて、いろいろおしゃべりをしたこと。そういう体験は初めてだったので印象深い。
Hさんとは3年ではクラスは違ったのだが、この日以降、学校で朝会えばいつも挨拶を交わし合う仲になる。と言ってもそれだけのことではあったが。

まあ高校時の一番楽しかった思い出ではあった。

文系と理系

2011年01月19日 | 個人史
僕の高校は進学校なので、生徒の進路希望は100%大学進学。
ということで、3年生になると進路別に文系と理系に別れる。

と言っても、元々人数の少ない学年4クラスの学校だから、志望別でクラスを分けることもなく、特定の授業の時だけ別れることになる。理系の生徒が物理をやっている時間に文系の生徒は古文をやっているとか。1年時の芸術の授業のようなもの。
そういえば、クラスのこの生徒がいなかったな、とか思うくらいで違和感がほとんどなかった。

いまだに僕は自分が文系に向いているのか理系に向いているのかよくわからない。

教科で一番好きなのは音楽だったのかもしれないが、音楽系の学校に行くには家が貧しかった。もし子ども時代にピアノが習えるような家に育っていたならそちらの道に進んでいたかも知れない。兄貴もよくそんなことを愚痴っていた。兄貴は今は地域のコーラスグループに所属してるけれど。

音楽はまああきらめたとして、それを除いて一番好きだったのが数学だったので、その道に進んだだけ。実は本を読むのや小説を書くのも昔から好きだったから、そういう道に進む可能性もあったのだが。

文系か理系か、それを決める直接の理由は、社会が好きか梨花が好きかに分かれてしまった。

当時大学入試では、理系に進むためには理科教科(物理・化学・生物・地学)から2教科を受けないといけなく、文系に進むためには社会教科(日本史・世界史・地理・政治経済)から2教科受けないといけなかった。
正直、社会も理科もそんなに得意ではなく、日本史は得意ではあったが、その他の社会系教科がまるでできなかった。
対して、理科も苦手で、特に生物になると定期テストで100点満点中5点という、信じられない得点を取ったくらい苦手ではあったが、物理と化学ならなんとか及第点を取れそうだった。

という、ほんの小さな理由から理系を選んだのだが、本当にそれでよかったのか。物理化学は数学的計算でなんとかなる部分も多かったけれど、本質的に何もわかっていないのとそう変わらない。理論は好きだけれど実証的な部分がまるでだめ。比べて、今でも日本史は得意中の得意だから、国語が好きだったことから文系に進んだ方が良かったのかも知れない。まあ数学だけは勉強できて本当によかったとは思っているが。

正直、本格的に小説の勉強をしていればよかったなと思うこの頃ではある。

赤目四十八滝~室生寺

2011年01月14日 | 個人史
春休みにクラス旅行が行われる。

僕の学校の生徒は、基本的に良家の子女が多い学校のようだ。
医者の子どもとか、社長の子ども等が多いみたい。
というわけだろう、旅行慣れしたのが多いようで、自分たちで
さっさと旅行計画を作ってしまう。

今から思えば、1年時の林間に文句を付けたり、修学旅行でも
お仕着せを嫌って自分たちで計画をして、下見を行って実行して
しまうのもそういったことから来ていたみたい。

僕のような田舎者にはとまどうことが多すぎた。

そんなことで、春休みにクラス旅行の計画も、彼らにとっては
ごく当たり前のように実行された。

参加者は何名だったのか、よく把握していない。写真から推測してもらおう。
もちろん写っていないのも多いし、個人が特定できる写真は
省いたので総数はわからないが。

忍者の故郷で有名な、伊賀の赤目四十八滝から室生寺へ回る旅行を
行う。

初日は近鉄沿線の赤目の駅から四十八滝を見物。
さまざまな滝は素晴らしい。
入り口にサンショウウオがいた。別名「ハンザキ」。半分にしても生きているという。白土三平の忍者漫画にはよく出てくる名前。今でも忍者が修行を
していそうな場所。

宿は近くのユースホステル。
こじんまりして落ち着いて高校生には良い。
夜は麻雀大会。ルールを知らない女子に男子が指導したり。

翌日は山一つ超えたところにある女人高野・室生寺へ。
普通は一旦電車の駅まで戻って、一つ電車に乗ってまた山奥に入るのだが、
そこは若い高校生のこと、直登コースで一山越えてしまおう、ということで、ちょっと厳しい山道を歩いて行く。運動が苦手な者にはちょっと厳しすぎたが、それも良い思い出。

雰囲気は実に良い。
昔、高野山が女人禁制であった頃、女子にも参詣できる霊場として開かれた場所。近年台風で天然記念物の樹木が折れてしまったが。

いつか、もう一度同じコースで行ってみたいとは思うのだが、夢のまた夢。




「赤頭巾ちゃん気をつけて」以降の思い出

2011年01月10日 | 個人史
川西の図書館で中央公論に載っていた「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読んだのが、川西にいた頃だから高校1年のときか。その後この小説が芥川賞を受賞したと聞いてびっくりしたものだった。芥川賞ってもっと読みづらい小説に与えられる賞だと思っていたから。

その後映画かもされる。主役に作者本人に出演して欲しいという声も多かったが、年齢的に無理があるという事で、印象が似通っている新人男性が選ばれる。実は映画界のサラブレッドで、今は東映の社長をしている岡田裕介。ヒロイン由美役にオーディションでまったくの新人が選ばれた。森和代という女性。僕はこの女優にしっかり魅せられてしまう。

映画は実に忠実に原作通りに撮られた。そこまでやらなくてもという場面まで。

ちなみにこの森和代は、後に別の青春ドラマで岡田裕介と共演するがこける。
TVドラマ「兄貴の恋人」でけっこう良い内容をやって、夜中の放送だったが楽しみに見ていたのだが、好評で続編「兄貴の奥さん」が作られたが、こちらはスタジオドラマで、雰囲気がまったく違っていて、第1話で見るのを辞めた。

当時名古屋地区でラジオDJをしていた男性俳優が彼女の事を気に入って、自分の番組を私物化してラブコールを送る。自分の事を「俺、俺」と言うのが口癖で、それをひっくり返した名前を芸名にしている某有名人だが。この私物化が問題となって番組を降ろされる事になる。
彼女を番組に呼ぶ事に成功した彼はそのまま彼女とできちゃった結婚してしまう。おかげで彼女は芸能界を引退する。
先年、男性の浮気問題が発覚して離婚の記事が週刊誌に載っていた。

話を戻して、

赤頭巾ちゃん気をつけてが気に入ったので、中央公論に持ってた壁が低くなり、賞受賞後に連載が始まった続編「さよなら解決黒頭巾」を毎月図書館で読む事に。しかしこちらは、超人気作品の後という制約を抜けきれず、内容的にあまり面白くはなかった。何しろヒロイン由美が最初にしか登場しないのだから。内容も赤頭巾ちゃん気をつけてのそのまま後日談で受ける部分が少なかった。世間的にもそんなに騒がれもしなかった。

4部作の3作目になる「白鳥の歌なんて聞こえない」が出たのは僕が川西を離れてからだったと思う。図書館では読めないので毎月中央公論をこのためだけに買って読んだ。後に単行本化されてこちらも買ったのだが、どういうわけかラスト場面が変更されていた。オリジナルのラストがしっかりカットされていたのだった。ちなみに先年再発行された文庫本ではこのカットされた部分が復活している。
今度はけっこう面白く、世間的にも評判がよかったのだろう、映画化とNHKドラマ化もされた。

先の事情で映画のヒロインは交代になっていた。そして映画ではラストシーンがカットされた方を使っていた。
TVはNHKのUHF放送を使っていたので僕の部屋のコンパクトTVでは放送が入らず、この時間だけは親のTVを見せてもらった。
ヒロインにこれがデビュー作となる仁科亜紀子が選ばれて、僕と同じ年なので期待はしたのだが、大根ぶりを遺憾なく発揮していた。
演技はとんでもなかったが、嬉しかった事に、こちらのラスト場面はオリジナルを使っていた。

ちなみに大根なのにTV受けしてドラマにはよく使われて、共演俳優で最初は彼女に興味はなかったのに、回りが騒ぐので気になって付き合いだした松方弘樹が、奥さんを捨てて彼女と結婚したのは有名な話。

4部作の4作目「僕の大好きな青髭」が出たのはかなり後。
連載中に中央公論をまた買い始めたが、こちらはほとんど面白くなく、興味を失って途中で購読を辞めてしまった。単行本及び文庫本が家にはあるが、読んだはずでも内容を覚えていない。

川西八景

2011年01月07日 | 個人史
川西市を離れるにあたって、当時の川西の景勝地を写真に残しておきました。
題して「川西八景」。

14枚の写真の説明を先にしていきます。

①「県境の猪名川から池田市の五月山を眺める」
 現在はここには高速道路が走っていて、この景色は見られません。
 もう少し下流では毎年夏に花火大会が開かれ、現在はその時には
 高速道路は通行止めになって継続されています。

②「石切山から釣鐘山を見る」
 花屋敷から満願寺へ行く道の途中に石切山という「中山連山」の一部の山があります。そこは宝塚市になりますが、その端にあたり、五月山と向かい合う位置に、釣鐘状の山があって、その名も釣鐘山といいます。

③「釣鐘山の石段」
 釣鐘山の頂上へ行く道は3通りあり、石切山とつづいた道以外に、下から昇る石段が2カ所。そのうちの一カ所が直登コースになり、景色は抜群。

④「鼓が滝近辺」
 猪名川を上っていくと、両側から山がせり出してくる場所が鼓が滝。
 昔は能勢電車はこの山沿いを山にこするように走っていた物で、この地点で川を横切っていました。現在はトンネルで川を越えます。
 昔地崩れがあったようで、被害の記念碑が建っています。

⑤「多田大橋」
 多田源氏発祥の地である多田神社の正面にある橋。
 この付近は昔は川遊びが盛んでした。生徒が水死するまでは。

⑥「多田神社」
 清和源氏ゆかりの神社。源頼満が酒呑童子を退治した時に、首を洗ったとされる血の池が境内にあります。
 川西中心部から満願寺を経て多田神社まで続くハイキングコースもありましたが、今はゴルフ場横の道となり、ハイキングには向いていません。

⑦「妙見山ロープウェー」
 大阪府の最北端でもあり、川西市の最北端にある妙見山に登るロープウエー。
 併走して登山道もあるので、ハイキングにはそちらがよいが、ロープウェーから見る景色もよい。

⑧「ロープウェー山上駅」
 ロープウェー終点から眺めたところ。

⑨「リフト」
 山上駅からすぐのところにさらに上にあがるリフトがある。
もちろん歩いて行く道もあるが、下りに乗ると風光明媚。

⑩「妙見山入り口」
 日蓮宗の総本山として鎌倉時代からの霊場として有名な場所。
 ちょうどここが県境にあたる。
 家族向きの登山道もあるけれど、修験者向きの厳しい道もある。

⑪「妙見山頂上」
 この付近は大阪府になる。歩く毎に県境を越える事に。

⑫「満願寺山門」
 川西市の飛び地として宝塚市の中にある寺。ここも源氏ゆかりの地として川西市が所有。

⑬「満願寺境内」
 ここの右手奥に金太郎こと坂田の金時のお墓もある。

⑭「最明寺滝」
 満願寺が飛び地なので、ハイキングコースは宝塚市を通過する事になる。その途中にある滝。従って宝塚市内になるのだが、関連の場所として入れる。