丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

阪急レクリエーションクラブ

2009年08月31日 | 個人史
阪急百貨店では「友の会」というクラブ制度がある。文化教室だけでなく、校外に出て行ったりのレクリエーションクラブもあって、それの小中学生版の「ジュニア部」もあって、母が友の会に入会していた関係で、兄と僕もジュニア部に入会していた。

一度は、当時出たばかりの水中翼船に乗る機会もあったのに、当日現場の神戸湾に行けば、強風で中止になっていた。兄と二人でただ海を眺めていた。

夏のある日、キャンプがあって、テントに泊まる企画があって参加した。テントは別の兄弟と一緒になって一晩過ごす。
帰りに兄が持って行った何か大事な物を忘れて帰ってしまった。

その時だったか別の時だったのか、夏のある日、天体観測をする機会があって、土星の輪を見ることができる機会があった。でも夜の空というのがめちゃくちゃ怖くて、とうとう天体望遠鏡を覗くことが出来なかった。今でも夜の空というのは怖い。

彦根城ドライブ

2009年08月26日 | 個人史
母はいろんな職を転々としていたが、僕が小学生の頃に4・5歳上の女性のMさんがやっている不動産屋に勤めだして、それが性にあったのか、Mさんともうまがあったのか、そこを最後の職場として30年以上にわたって勤めていた。

そのMさんはいわゆる「女史」というやり手の人で、当時としては珍しい車の運転もできて、ある日母と僕を連れて彦根城までドライブに出かけることになった。
当時開通してまだ間もない名神高速道路を使うと、車の量も少なかった時代と言うこともあってスムースに行くことが出来た。

当時はまだ名神高速道路も一部開通で通行できる区間も短いこともあって、料金は当時は均一料金だった。だから入り口で料金を払えば出口では係はいなくてそのまま出て行く仕組みになっていた。

さらに驚くべき事に、まだ車の量も少ないと言うこともあって、なんと深夜・早朝にはその係の人もまだ出勤していないという。つまりは、早くに高速に乗れば係がいないので料金を支払わずに(受け取る人がいない)無料で通行が出来たという。

ということで早朝に出発。スイスイと車は進んで彦根城に着く。
大阪城以外でお城に行くのは初めてのこと。やはり彦根城は名城というだけあって印象も強かった。特に印象強いのが階段が急なこと。高所恐怖症の人間としてはとても怖くて仕方なかった。

先年、何十年ぶりかで彦根城に行ったが、当時の思い出が強く残っていた。さすがにある程度高所恐怖症は克服していたので階段は大丈夫だったが。

小学校卒業

2009年08月25日 | 個人史
小学校時代の思い出がまだあるかもしれませんが、なかなか思い出せないのでそろそろ卒業します。

今の時代なら卒業式には格好良い服装で行くのでしょうが、昔は晴れ着なんてものはないので、ほとんどの子どもは新しく作った中学の制服での出席になりました。
僕の場合、当時の身長は後ろから3番目くらいだったので、けっこう大きめなので、いつまでも着られるようにと高校生用の制服をあつらえました。残念ながらその後ほとんど身長は伸びず、中学時はどんどん前の方になって、前から2・3番目くらいの身長になってしまいましたが。おまけに制服も傷みが大きくなって、中学在校時に買い換える羽目になって、せっかく大きめの服にしたのに意味が無くなってしまいました。

卒業式は学校によって今も違うでしょうが、代表が証書を受け取る方式で、さらには今のような全員が声を揃えて叫ぶようなこともなく、蛍の光や仰げば尊しを歌い、代表者が送辞・答辞を読んだようですがまったく覚えていません。
感傷もあまりなかったのですが、女子の中には泣いている子もいたりして、そんな子を見ているとなんとなくつられてきたりして。間の悪いことにそんな様子を下級生にしっかり見られて後で、泣いていただろうと言われてしまったり。

卒業すればもう学校に来ないようにと言われたのを忠実に守って、その後は一度も小学校の校内に入ることはありませんでした。

お別れ会

2009年08月17日 | 個人史
大昔には「謝恩会」なるものがあったという。現代では「卒業を喜び合う会」などという名称が流行っている。
在校生が卒業生を送り出す形式なのが「送別会」だが、卒業生自分たちが催す会だから、当時は何て言ったのだろう。やはり謝恩会だったのかもしれない。

クラス毎に出し物を演じた。観客に在校生がいたかどうかは覚えてはいない。さらに言えば、他のクラスが何をやったのかさえ覚えていない。自分たちのクラスは歌を歌った。合唱ではなく斉唱になった。曲は当時人気沸騰真っ最中だった加山雄三の「夜空の星」。

当時は学校内で流行歌を歌うことは禁じられていた。今なら信じられないだろうが、休み時間でさえ歌うことは許されていなかった。ある時、休み時間に廊下で流行の歌を歌う声が聞こえてきて、担任教師が気に留めたけれど、お別れ会が近いから他のクラスでその練習で歌っているのだろう、ということで大目に見られた。実は、蓋を開ければ、流行歌を歌ったのは僕のクラスだけだったが。

加山雄三の「夜空の星」は映画の主題歌だったようで、レコードでは「君といつまでも」のB面になっていた。だからTVの歌番組でも、加山雄三特集とかでないかぎり聞く機会はほとんどなかった。僕も1回しか聞いたことがなく、ベストテン番組などをチェックしてもまったく聞くことは出来なかった。だからクラス練習の時にしか知ることはなかった。

昔からそうなのだが、教師になって文化祭で教員の合唱とかでもほとんどそうなったのだが、僕の位置は真ん中と決まっている。他のみんなが僕を頼りにしたから。音楽で一番きっちり歌えるのが僕だから。特に教員合唱ではパートに分けるから、主旋律でないパートだと僕の声を頼りにされる。
そんなことで僕が一番大きな声でリードすることになる。

そしてお別れ会本番、僕がしっかり2番の歌詞を間違えて、結果クラス全員が歌詞を間違えることとなる。

修学旅行

2009年08月09日 | 個人史
三重県を除く近畿地方の小学校の修学旅行先と言えばほぼ全員が伊勢神宮だった、
当時、小学校の団体を受け入れる観光地旅館が近畿では伊勢しかなかったからだという。最近は受入旅館もいろいろ増えたので、小学校では広島に行ったり大山に行ったりとかさまざまになっているが。

昔は国鉄で行くしか方法はなく、高速道路は整備されていなかったから学校からバスで行くと言うことはまず考えられなかった。集約列車と言うのがあって、国鉄では修学旅行の季節に修学旅行専用の団体貸し切り列車を走らせていた。貸し切りと行っても数校が乗り合わせるわけで、車両の貸し切りで、他校と触れ合わないように境目をしっかり教師がガードするというシステムになる。
列車は抽選になるので、まず集約列車を確保してから日程の調整になる。すべて旅行会社がやってくれることなのだが、とにかく調整が大変だったと思われる。

で、伊勢旅行。鳥羽のミキモト真珠島(今は橋でつながったが、当時は船で渡る)や二見浦などを巡って伊勢神宮に行く。小学校だから短い日程だ。

旅行前に学校でお土産の集約を行った。行く前にすでにお土産を購入するという、思えば変なシステムなのだが、伊勢の土産というと「生姜板」で、家族や親類から買うように言われることがほとんどということで、前もって購入数を調べておいて、帰って解散するときに渡すという段取り。準備がしやすいというただそれだけのこと。当時は小学生の小遣いも少ない物だから、大金を持たせることの是非とか、つまらない物を買ってしまわないようにとの配慮というか。
伊勢の名物というと「赤福」なんだけれど、日持ちのかげんから生姜板限定だったような。僕の家は貧しいこともあって注文はしなかった。結局何を買ったか覚えてはいない。おそらく土産は何も買わなかったのかもしれない。

現代の修学旅行は、教師も子どもと同じ料理を食べることになっているのだが、昔は教師はあきらかに別料理を食べていてお酒も出ていたが、別に変だとも何とも思わなかった。教師なんだから子どもとは違うのが当たり前だと思っていた。今でもそう思うが。

学習雑誌

2009年08月08日 | 個人史
小学生向けの2種類の学習雑誌がある。「学習」と「科学」と。今でもあるのだろうか。
小学校では学校が斡旋をしていて、クラス毎に担任が購読希望者を募り、毎月教室で渡されていた。僕は最初の学校で「学習」を購読していて、転校してからも引き続き取っていた。
ある年のある月に、どういう事情か知らないが「科学」が1冊余ってしまって、希望者に買い取るように言われて、その号の付録が、なんと写真機だったので希望者が多く、結局僕が引き当てた。写真機と言っても、5cmくらいの針穴写真機なのだが、フィルムは模型屋で売っている本物で、子どものオモチャとしては超高級ではあった。

いろいろ撮りまくったのだが現像したのかどうかよく覚えていない。確か、ベタ焼きで現像してもらったとは思うが、小さなフィルムのベタ焼きとなると何が写っているのかわからないから記憶に残っていないのだろう。

中学での学習雑誌というと「コース」と「時代」の2大勢力になるが、さすがに学校での斡旋などはなかった。僕は中・高6年間(実際は一ヶ月だけ買わなかったが)「コース」を読んでいた。その話は中学のことを書くときにまた。

写真機を手にしてから、次の年度からは購読誌を学習から科学に乗り換えた。特に意味はないが。

丸坊主

2009年08月07日 | 個人史
兵庫県では公立中学校の男子はすべて丸刈りだった。
後に六甲アイランドに中学校が出来たときに、帰国生などが多くて服装や頭髪についての論議が起きて、兵庫県で初めて長髪が認められたのだが、それ以来多くの学校で頭髪が自由になっていったようだが、僕の時代には有無を言わさず男子は全員丸刈りだった。
ということで、中学生になっていきなり丸坊主になるのではなく、小学6年生のうちからだんだんと丸坊主が増えていくことになる。
最初はよそのクラスの子が丸刈りをやりだしたのだが、うちのクラスではそれが一気に広がって、私立中学進学希望の子を除いて全員が丸坊主になったのが学年で一番だった。

イメージ的には丸刈りは清潔そうに思えるからということなのだが、実際にはかえって頭を洗わなくても良いみたいに思ってしまって不潔なケースもある。
まあ洗いやすいのは事実だが、丸刈りだと夏は直射日光が当たってとにかく暑い。健康的にはあまりよくないように思える。おまけに怪我もしやすいだろうし。

中学3年間丸坊主で、特に僕は散髪代を浮かすためということもあって一枚刈りにしていたからきれいなもの。
その反動が実際にあって、高校生になってからはむしろ長めに紙を伸ばし始めて、実際にはかなりの長髪の期間が長くなっている。

頭髪やら服装とかで強制的にさせられるのは後で反動が一気に来る物だと自分を見ていて感じる。

国語の教科書

2009年08月04日 | 個人史
国語の教科書の一番後ろに載っている長文の小説が好きだった。選ばれて載せられてあるだけに面白い話が多かった。
4月の始業式に教科書を貰って家に帰ると、まずそこを先に読んだ。自分の分だけでは飽きたらずに、兄の教科書の長文も読ませてもらった。4年上だから内容的には少し難しい話が多いのだが、判らないなりにその長文の持つ雰囲気が楽しかった。今でもよく覚えているのが、これは後述で述べるが芥川龍之介の「魔術」や「杜子春」とか。内容は難しかったのでよく覚えてはいないけれど雰囲気が印象的だったのが「くるみ割り人形」という小説。誰の作品なのかはいまだに知らない。

話はそれるけれど、中学英語の長文とかも好きだった。特に模擬テストとかでは教科書に載っていない小説が出されるけれど、まったく新鮮な長文にテストと言うことも忘れてワクワクする。中3の入試模擬テストの英語の長文が、出だしから不気味な雰囲気で、実はラフカディオハーンの「怪談」の一節だったことが読み進んでからわかるのだが、この文章の元がどこから出ているのかわからない。本物のハーンの文章とは違っていたようだから。

それるついでに言えば、教師になってから試験監督で国語の監督中にテスト問題を見るのも楽しい。他の教科で生徒の教科書を見ることはないから、テストで長文に出会うのだが、こんな内容の話が載っているのだと思うと新鮮だ。「ブランコ乗りのキキ」の話は、オリジナルのNHKでの物語朗読をリアルタイムで見て知っていたから懐かしい。戦争をテーマにした「アイスクリーム売り」の話は読みながらジーンとしてきて感動的だ。思わずテストと言うことを忘れてしまう。(監督中に忘れてはいけないのだが)

閑話休題
小学5・6年の時の担任のK先生は国語も得意だったようで、けっこう楽しかった。ときどき朗読競争なども行ったりする。教科書の長文などの朗読をやって、ちょっとでもつっかえたり読み間違えたりすると交替していくという。間違わないでどれだけ長く読み続けられるのかという競争。僕はどもりが激しい時期だったのでその競争には加わることはほとんどなかったが。授業参観でこれをやって、つっかえると、それに気づいた誰かが立ち上がって即座に交替して読み続けるという、ゲーム感覚で、授業参観だから特におとなしくしていたら、後で参観に来ていた母にどうしておとなしくしていたのか叱られた。

6年の3学期頃に長文を交替交代で読んでいくことになった。「残雪」という鶴と人間の交流を描いた小説だった。今回は競争でなく、区切りの良い所まで読んで交替ということだったが、僕の順番になって読んでいきだした時に、急にK先生が呼ばれて教室を出て行くことになった。で、しかたなくそのまま読み続けることになったのだが、いつまで経っても先生は戻ってこない。結局最後まで読むことになってしまった。調子よく読み続けられたのだが、最後まで来て安心感というか余裕が出てきた頃にまたつっかえだして読めなくなったりもしたが、誰も止める者はいなかったので、それでも読み続けることになってとうとう最後まで読み切ったら、クラス中に拍手が起きた。最後の方になってやっと先生が戻ってきたのだが、この時の朗読体験は今でも良い思い出として残っている。

K先生は校区内のお寺が実家で、よくクラスの女子たちと一緒に遊びに行った。そんなときに、「芥川龍之介全集」を貸してもらった。芥川はやさしい話も多いけれど、小学生には難しい話もけっこう多い。「お貞の貞操」なんて話はまるで意味がわからなかった。「芋粥」は、サツマイモのお粥しか知らなかったからこれも理解しにくかった。「トロッコ」は今では中学の教科書にも載っていて授業で詳しく説明もされているけれど、そういう説明がなければ読みづらい小説だった。
ちなみに、数年後、TVで芥川龍之介の短編を元にした連続ドラマがあって、原作をけっこう知っていたから面白かった。映像でやっとわかったという話もあったり。
小学生には難しい話も多かったから、結局全集は最後まで読み通すことができなくて、「河童」を読んでいる途中でギブアップ。長らく放置したあげくに卒業と言うことで先生に返すこととなる。

余談ながら、中学では国語の最初の授業で、どもりはいるか、と聞かれて答えたら、1年間本読みは当ててもらえなかった。つっかえても読みたかったのにな、と思ってしまう。杓子定規な教師だなとずっと思っている。