丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

9月1日に始めたこと

2009年12月26日 | 個人史
中学1年の9月1日に2つのことを始めました。

1つは日記を書き出したこと。
これまでにもアルパインカレンダーなどの日記の欄とか使ったこともあるけれど、とても続かない。ああいうのは書き込みの欄が中途半端。短すぎるのかとにかく制約が大きくて満足に書けない。そして書かないと空白がやけに目立ってしまう。
そんなこんなで、市販の日記帳などは使える物ではなかった。

で、普通のキャンパスノートを選んで自由に書き始めた。
まず、無理して続かせないこと。長さは適当。何日書かなかったとしても、その後で穴埋めしようなどとは思わないこと。書きたい時に書けばいい。振り返りたければその時に振り返ればいいや、という実に気楽なスタンスで始めることに。
あえて4日目は休んだ。わざと三日坊主を決め込んだ。で、その後も好きな時に書き始める。これがけっこう続いた。
日記帳にいちいち題名を付けた。最初は「日記」だったが、2冊目からはなんとか日記とか「日記」とはつけない自由帳風な名前とか、毎回違う名前にしだした。ノートのサイズは変わらない。1冊目は3ヶ月くらいで終わったか。次が1ヶ月とか、時には3年かかったときもあったりとか。20代後半まで書き続けた。恋バナがほとんどではあったが。
何がきっかけだったかは忘れたが、ある時にすべて焼却することにした。その時書いているノート以外をすべて焼き捨てた。そして最後のノートも書き終えたその日に焼却した。残しておくべき物ではなかっただろうが、悔いはない。それもまた青春の一コマ。


2つめは深夜ラジオを聞き出したこと。
ちょうどその年の4月に大阪では2つの深夜放送が開始された。朝日放送の「ヤングリクエスト」と毎日放送の「ヤングタウン」と。僕は純粋に音楽を聴きたかったので、パーソナリティーのおしゃべりを売り物にしていたヤンタンはパスして、もっぱらヤンリクばか聴いていた。こちらはアナウンサーと女性アシスタントの二人だけでひたすら音楽を流していた。

人気はと言うとヤンタンの方が圧倒的に人気が高かった。落語家になりたての桂三枝が週の半分を受け持っていて、人気が沸騰する。こちらは公開録音で、千里山の毎日放送スタジオに客を集めての収録で、まじかにタレントを見られるよさが受けていた。
ある夏、服部緑地公園に遊びに行くと、誰かの写真撮影が行われていて、若い青年が写真に撮られていた。近づいて上着の内側の名前を見ると「桂」と書かれていた。まだ素顔がそんなに知られていない若き日の桂三枝だった。

だんだんとヤンタンを聴く回数も増えていって、ある年の11月1日、公開録音に申し込んで見に行くことにした。その日、両親と兄は岐阜の兄の会社で催し物があるのでそれに行くことのなっていて、僕は口実を設けて家に残った。
ヤンタンでは毎月、「今月の歌」というのがあって、月最初の1日は本人が歌い、それ以外の日は録音を流していた。というので11月1日は本人登場だったのだが、なんと本番で間違えてしまい、撮り直し。録音だからそういう融通も利くのだろうが、時間調整はたいへんだったと思う。

ヤンリクもヤンタン人気に押されて、後にはパーソナリティー制度を取り入れて、メイン司会はアナウンサーなのだが、曜日毎で中身を変える方式に出て、コーナーもいろいろ特徴を取り出して対抗した。「仁鶴頭のマッサージ」とか、毎日午前2時に「心の旅」と称するお便りコーナーを設けてこれがけっこう評判ではあった。

後にラジオ大阪でも深夜放送が始まり、笑福亭仁鶴や当時芸能界を干されていた正司敏枝玲司などが交代でパーソナリティーをやっていて、この二人の曜日だけ聴くようになったり。

深夜放送にはまるのは社会人になるまで続いた。さすがに社会人になると深夜まで起きるのは難しくなって辞めることになる。

夏のキャンプ

2009年12月16日 | 個人史
昔から胃腸がとても弱い。
小さい頃は「おやつ」なんてなかったこともあったが、ビオフェルミンを
おやつかわりになめていた。ヤクルトも愛用していた。
牛乳は今は大好きだが、小さい頃はお腹にやさしくなかった。
本当はコーヒー牛乳をとってほしかったのだが、あれははっきり言って
栄養価の低いただの飲料にすぎないので、妥協してフルーツ牛乳を毎日
購入していたときもあった。前に書いたように中学校ではミルク給食で、
毎日ミルクを飲んでいたが、これもお腹にあまりよくなかった。
それでも、クラスに欠席者が出た時には休みの生徒の分ももらって
飲んだりして、必ずその日はお腹を壊していた。

征露丸がかかせなくて愛用して持ち歩いていた。これはけっこうきついものがある。
薬剤師の叔母にお腹の薬を調合してもらって愛用していた。これは実に
よく効いた。めったに叔母の家に行くこともなかったので、すぐに薬が
なくなってしまって困った。
高校帰りに駅のホームのベンチに倒れ込むこともあって、通りがかりの
先輩の顔見知りの女子に心配されたこともあった。

腹痛で病院通いはしょっちゅうのことで、触診には慣れて自分でもできるように
なった。だから盲腸になったときには自分でもすぐに気がついて覚悟を
決めることが出来た。
たいていの場合は大腸カタルという病気で、(大腸が何を語るのかは知らないが)
結婚してからは陀羅尼助を常備薬にして持ち歩いている。
大腸カタルの時はお腹が冷えてくるので、「手当て」が一番で、
冷えたお腹を暖かい手のひらで温めると落ち着いてくる。

大学以上になってくると神経性胃炎の時が多くなってきた。まだそんな病名が
出回っていない時に、自分で勝手に病名をつけたらこれがいつしか正式名称に
なっていた。

で、中学1年の夏休みに学校の校庭を使って一日キャンプが行われた時、
お腹を壊してしまった。学校行事を欠席してしまったのは後にも先にも
この1回だけだろう。校庭にテントを張って星空を眺めたり、飯盒炊飯を
したり、キャンプファイヤーをしたりと楽しみにしていたのに、実に残念。
翌年は何もなかっただけにことのほか残念。

音楽に飢えていた頃

2009年12月11日 | 個人史
中学1年の1年間が人生の中で一番音楽に飢えていた頃だと思う。
変な片意地でブラスバンド部に入らなかったことが一生の後悔。

まだ楽器に触れることもない幼児の時でも音楽が身近にあった。
ラジオから、たしか「こどもの歌」という番組名だったと思うが、
今のNHK「みんなの歌」のような番組が民放のラジオ番組でも
ヤクルト提供で放送されていた。毎月発行される楽譜集を溜めて
いたのだが、いつの間にか引越のどさくさで無くなってしまったが
いくつかの歌はいまだに覚えている。

最初の楽器と言えばハーモニカだろう。これには天才的なものが
あって、一度聞いた曲なら楽譜が無くても吹くことが出来た。
口が勝手に動いて、吸うか吐くかも自然にわかってしまう。
知っての通り、ハーモニカではドミソは吐く音でレファラシが
吸う音で、小さなハーモニカでは穴が4つしかなくてもオクターブが
出せるようになっているが、同じ穴で吸うのと吐くのとで出る音が
違えてある。
僕のハーモニカは「宮田」のハーモニカで標準的なものだったが、
かなり愛用していた。さすがに半音は出ないので半音付きのも
欲しかったが。後に吹く機会もできたがかえって難しかった。

幼稚園の時には音楽会でシンバルの係になって派手にたたいていた。
小学校で転校してからは縦笛に変わって、チャンバラごっこの
おかげで一番下の穴の部分で折れてしまってセロテープで巻いた
状態で使用続けていた。
小学校低学年の音楽部では鈴やトライアングルの係になった。
小学校高学年ではクラスの木琴係になって縦笛にはあまり触って
いない。
鼓笛隊では中太鼓の係になり、考えてみればパーカッションに
けっこう関わっていたような。

そして中1になってそんな楽器から見事に遠ざかってしまった。
とにかく飢餓状態に陥っていた。とにかく飢えていた。
持っていた楽器は折れた縦笛だけで、結局これだけが頼り。
好きな歌手だった坂本九の歌に「口笛だけが」という歌が
あったが、この歌が特に好きだった。ちなみに口笛も吸うのも
吐くのも音が出せるので、音が切れないままでいつまでも
口笛を吹き続けることができるのだが。

この頃に縦笛でいくつか作曲をした。歌詞のない曲だけの
物だが寂しい曲想の曲ばかり。長調の曲なのに寂しい曲も
あったりする。

飢餓状態は中2でギターを覚えるまで続く。

義兄が3000円の安物のギターを買ったのだが、使いこなせず
ほったらかしにしているのを借り受けて僕の方が覚えてしまった。
この話については項目を変えて語ることとする。

高校では横笛に憧れて普通の横笛を買ったり、安物のオカリナを
買って、あれは音階が難しいのだが勘だけで吹いたり。
その後はいろいろ楽器を買い集めていく。
フルートに始まり、マンドリン、トランペット、クラリネットなども。

吹奏楽部の顧問になって足りない楽器の補充で中古楽器を
探すために楽器屋を巡り歩いていた時、安いトロンボーンを
見つけてクラブのために購入したのだが、きちんと音が出るか
試すように店の人に言われて、初めてトロンボーンを吹いて
みたのだが、まったく初めてにも関わらずドレミファソラシドを
一発で出してしまったのには自分でも驚いたが。
トランペットもピストンは3つだけで、組み合わせで音階が
出るのだが、これもなんとなく直感だけで音階がわかる。

で、器用貧乏できちんとならせる楽器は少ないのだけれども。

昭和天皇との接近遭遇

2009年12月01日 | 個人史
東京人なら皇室の人と出会う機会はあるかもしれない。軽井沢とか伊豆とかそういう皇室がよく出かける所の住人も出会う可能性があるかもしれないが、京都以外の関西人が出会う機会は滅多にない。
そんな場所にあって、偶然にも昭和天皇を目の前に見た。

何時の時かは覚えていない。国際見本市を見に出かけた。
今なら大阪ならインテックスなんていう場所でやっているのだが、当時は朝潮橋にある見本市会場で開かれていた。
だだっ広い会場で、いくつもの分かれた建物があって回るのだが、1館だけが道路を挟んだ反対側にあって、向かい側とは道路をまたぐ歩道橋でつながっているだけだった。

で、いろいろ会場を巡って、その1館だけ離れた会場に行った時、急に様子がものものしくなる。なんとその日に昭和天皇夫妻が見本市を見に来ることになっていたとか。で、警備の都合上、いろいろな制約がつけられ、なんとその1館だけ離れた会場に渡る歩道橋が通行止めになってしまった。つまりその会場に渡った人は二度と元の場所に戻れないことに。
しかし、その1館離れた会場の前の道路に天皇が乗ってきた車が到着すると言うことで、一番近くで目にすることができるという特典もあったり。

ということで、もう元の会場には戻れないのを承知で、反対側の道路から昭和天皇の到着を見ることが出来た。スターにあったようなノリで、手を振ったら手を振り替えしてくれた。

で、その会場側の出口から外に出て後は帰るだけとなる。
逆に言えば、天皇がやってきたおかげで国際見本市を中途半端に見ることになってしまったのだが。


余談ながら接近遭遇と言えば、当時のアメリカ大統領レーガンが大阪に来た時、たまたま大阪市内にいて、特別車がすぐ近くを通るのに出くわしたことも。