丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

訂正他

2009年10月19日 | 個人史
最近、週間のDVDブックスで、特撮シリーズが刊行されたので、一覧表を見てみると、「キングコング対ゴジラ」よりも「モスラ」の方が先だと言うことがわかった。ということは、僕が先に見たのも「モスラ」の方だということになる。
まあ印象がかなり強くて、それ以来、阪急電車の新型車を見るとモスラに見えたりして。

本箱の奥の方から卒業アルバムを引っ張り出してきて、けっこう小・中学校の詳しい状況がわかったので追記します。

川西市立K小学校がマンモス校だというのは書いたけれども、詳しいデーターで見ると、僕の学年が卒業時には7クラスまであって、卒業児童数が347人。どのクラスも50人ないし49人ずついたという。当時のクラス定員が50人だから351人から8クラスになるところなので、4人足らなかったと言うことになる。

で、実は僕の学年が一番人数が少なかったようで、5年と4年が8クラス、3年と2年が9クラス、なんと1年は10クラスもあったようだ。8クラスだと最低351人、9クラスだと最低401人、10クラスで最低451人という計算になるので、全校生徒は少なく見積もっても最低2302人ということになる。すごいマンモスぶりだ。僕の学年が一番人数が少なかったということだから、次の年にはどうなっていたやら。1年と同じくらいの人数だとすると3クラスは増えることになるから絶対に教室は足りなかっただろう。
そういえば併設していた幼稚園の場所に校舎を建てていたような気もするが。

中学校のアルバムを見ていると、書き間違えていることにも気がついた。
校舎は3棟、木造の2階建てで、渡り廊下はなく、階段状に端に廊下があるだけだった。
卒業時の生徒数は、8クラスで362人。これも50人定員だから7クラス350人を12人越えていたことになる。それでも各クラス44人から46人の在籍があった。人数に差ができるのは途中転校等あったからだろう。

クラブは野球部はあったようだ。サッカー部がなかったことは別の思い出ではっきりしているのだが。大人数で、グラウンド一面を使うクラブは複数取れなかったというのが実際だろう。

余談ながら小・中学校どちらのアルバムも白黒なのは言うまでもない。
写真も今や古びてしまって、戦時中の写真と思われてもしかたないような写真になっている。
ついでながら、高校のアルバムでもやはり全編白黒写真ばかりだが。