丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

いきなり単位を落とす

2011年06月08日 | 個人史
K大学では先に書いたように、学部で入学していても、
1年半は教養部でしっかり基礎学力をつけることになっていて、
2年間で教養部の単位を取り、1年半が過ぎてから専門学部の
勉強も混じっていくという形式になっていた。つまりは、
1年半が過ぎると、教養部の勉強と専門の学部の勉強の
2本立てになって、2年が過ぎると専門の一本になるのだが、
数学科ではこれに異議を唱えて、学内での統一見解に反し、
1年が経過してすぐに専門の勉強が開始されることに。
と言っても1教科だけだったが。

実はこれが大変な事態になる。
先に書いたように教養部では第2外国語でクラス分けが行われ、
英語や体育などの授業がそのクラス毎に割り当てられていたのだが、
これと専門の授業がぶつかることになる。
まあドイツ語やフランス語を取っているクラスでは問題がなかった
のだが、中国語やロシア語を取っていた者には、体育の授業等の
変更が余儀なくされるわけだった。変更の場合、割り当て外だから
選択に不利益が生じるわけで、けっこう困ったことに。

おまけにその1科目が教授がわかりにくい授業内容で、まともに
聞いていてもまったく理解できない上に、単位は100題ある
問題に答えればよいレポート形式だったのだが、それが英語と
ドイツ語とフランス語で書かれた文章だった。
その教授曰く、数学を学ぶ者はフランス語もドイツ語もできて
当然だとか。
結局レポートが出せずにその科目は棄てることに。

しかし基本的にその科目を履修していないと次の科目に移れない
システムになっていて、1年後に撮り直し。その時は別の教授
だったのだが、これが同じ科目かと思うくらい判りやすい
授業だった。

しかし弊害がすぐに出てきて、1年遅れで取ったために、
その時間には次の科目が行われていて、結局その科目を
取ることができなかった。これはどうにも穴埋めが効かなくて、
最終的に取れずじまい。それが「Ⅰ」だったため、「Ⅱ」も
自動的に取れなくなる。
数学科の4年間で後悔することがあるとすれば、このことにつきる。

教養部のこと

2011年06月05日 | 個人史
K大学では1年半の教養部生活が義務づけられていた。
記憶の隅をほじくっても、理科系の内容をやった記憶がないのだが、
よく考えてみれば、理系の学生は専門で理科系をやるのだし、
文系の学生は専門で文系の教科を扱うのだから、あえて教養部で
習う必要性もなかったのかも。だから、教科としては存在していたが、
教養部を終えるための必修科目としては、全学生に体育と英語と
第二語学があったくらいで、その他は選択として文系の学生は
理科や数学の科目を、理系の学生には国語や社会の科目が必修単位として
課せられていたのかも知れない。

英語は2単位×3科目。元々文法作文は苦手だったからこれは1つ
落としてしまった。リーダーは扱った教材が面白くてはまってしまったが。
1教科はスピーチで、全員が短いスピーチを行う事で単位取得と
なった。
落とした英語の教科の追加で、LLを取ったのでこれは面白かったが。

社会科としては日本史Ⅰの授業が面白く評判で人気が高かった。
大教室での授業だが、朝1の授業だと入れるのだが寝坊して朝Ⅱになると
満員で席が取れなかった。
毎時間終わりにまとめの板書があり、それを丸写ししていたら
テストでは点が取れるようになっていたから、休んでしまったときには
誰かのノートを借りれば済むのだが。

ちなみに日本史Ⅰでは高校の時に扱った邪馬台国論争とかそんなのが
テーマだったから、すでに高校で聞いていたからよくわかったことも
あったが。

余談ながら日本史Ⅱは現代史で、これはまったく面白くなかった。

心理学も面白く、テスト以外でも自分で心理学のテーマを見つけて
夏休みなどに調査してまとめたレポートを作成すればそれでも
単位を貰えるという。興味はあったがテーマを思いつけなかった。

あと何をやったのかはよく覚えていない。まあ専門に行けばそれしか
勉強しなくなるのだから、こういうのも良い物だと思うのだが。
数年後に、せっかく大学に入学したのに専門をやらないで高校の
復讐のようなことをさせるのはおかしいというような声が上がり、
教養部という形式自体が変更されたと聞く。
しかし、近年、中1レベルの数学ができない文系学生が現れたり、
日本や世界の地理はチンプンカンプンの理系学生が出てくるのを
聞くと、やはり偏った勉強ばかりでいいのだろうかと心配にも
なったりするのだが。

数学科のこと

2011年05月27日 | 個人史
K大学の数学科は2カ所あった。理学部と教育学部と。
数学としてやってることは同じなので、数学のすべての授業は
一緒にやる。

理学部の数学科が25名。教育学部の数学科が15名。それに加えて
教育学部で他学科から転科してきたのが1名いて僕の学年では
41名が同級生となる。

まあ違いと言えば教育学部系の勉強ぐらいだろうか。
もっとも理学部にいてもその大半は教職課程も取っていたので
教育学部で学ぶことも多く、かなりの時間一緒に過ごした。

大きな違いは教育実習だろう。教育学部では附属中学を2校持っている
ので、そこで4週間の実習となる。それ以外の学部では、自分たちの
母校の中学で2週間。(現在はどこも4週間になったようだが)
教育学部の実習生が実習中には、応援というか研究授業の一貫というか、
授業参観にわざわざ出かけた。2校ある附属中学ではそれぞれ
システムがまるで違っていて、そういう部分の面白さもあった。

数学科の学生はみんな仲が良かった。理学部に自分たちの学年毎の
部屋が用意されていて、そこによくたむろしていた。ほとんど
暇な時間にはトランプばかりしていた。ナポレオンだとか
ページワンとか。一日中トランプばかりしていた日もあったり。

他の学部の人によく聞かれることなのだが、数学科はある意味
理学部では孤立しているというか、他の学科の学生との交流は
まったくなかった。数学科の学生で理学部の他の学科、化学や
生物や物理などの授業を受けているのはほとんどいなかった。
その反対に他の学科の学生が数学の授業を受けに来ていることも
ない。こういうことを考えると、どうして数学が理学部の中に
あるのか不思議ではある。

K大学のこと

2011年05月26日 | 個人史
これを書くと、ほとんど大学案内になってしまいそうだが。

K大学はK市にあるのは言うまでもないが、当時学部が9学部まであり、
そのうちの8学部までがR山の中腹に大きく分けて4カ所に分散して
存在していた。
当然ながら、阪急電車R駅から毎日歩いて上り下りすることに。
まあK市バスも通っているので、雨の日や足に自身がないときには
利用することもあったが。

一番駅から近い場所には農学部・文学部・理学部が同じ敷地内にあった。
農学部の食堂はカフェテリア方式でちょっと魅力的だった。
理学部と文学部は共通の食堂で、まるで小屋だった。

横に移動すると工学部があり、ここの食堂は豪華だった。さらに横に
移動して道路を横切る端で渡れば教養部があり、ここでは全学部の
新入生が1年半基礎過程を学ぶために通った。籍は各部に所属して
いるのだが、1年半の間は学部には参加せずに、英語や体育、第二外国語
その他社会科系・国語系の基礎勉強を行って、単位を取ってから
学部に上がるシステムになっていた。
ここの食堂はそういう関係で一番大きな施設である。

橋を渡る手前に学生会館もあって、ここのフロアにも軽食を取れる
ようになっていて、ここのランチも美味しくて好きだった。

これらの施設より1段階上に上がった場所に位置して、法学部・
経営学部・経済学部がある敷地があり、ここがK大学のメインの
校舎になっている。もっとも大学祭の時にしかここに行ったことは
ないが。
メインらしく、校舎も古く重々しい。使いづらいだろうなと思うが。
ここの食堂は覚えていない。ほとんど利用しなかったから。

さらに離れて一段も二段も上に上がった位置に教育学部の敷地が
あった。ここまで上がると景観は抜群。山登りしたような気分に
なる。授業はよそ見ばかりしてしまいそうだ。
教育課程の単位を取る関係でここにはよく通った。
食堂はカフェテリア方式で、値段も安くて美味しかった。
食堂に行きたいためにこちらで午後の授業を受けるときには
一目散に駆け上ったものだ。

医学部だけは大学病院の関係で離れた場所に存在していた。
高校の同級生がたまたま同じ学年で医学部に入学して教養部時代は
時たま顔を合わせることはあったが、学部に上がってからは会うことも
なくなる。そちらには行ったこともない。

大学に入学してからの1年半は教養部で学ぶため、クラス分けは
学部が基準ではあるけれど、第二外国語履修毎のクラス分けに
なった。実際には文化系と理科系の学部に分けて第二外国語別に
分けて、合計41のクラス分けになっていたが。

第二外国語は、ドイツ語、フランス語、中国語、ロシア語の4カ国語で、
中国語とロシア語は人数も少ないので、文化系と理科系のそれぞれ
2クラスしかなかったが、ドイツ語とフランス語では取る学生が
多いので、ほとんど学部が固まることに。
僕はどうもヨーロッパ系の言語が苦手だったので中国語を履修する
ことにしたのだが、結果的にはそれが大間違いだったようだ。
数学の某教授曰く、数学を学ぶものはドイツ語もフランス語も
できないといけないとか。どちらも取らなかったおかげで
最初から躓くことに。
(今から考えたら、僕の人生、こういう初期の躓きだらけだな)

中国語のクラスはけっこう楽しくもあったし、飲み会などもよく
やったものだが、学部に別れてからはまったく会わなくなった。
そんなものだろう。そう言う意味でもドイツ語かフランス語に
しておくべきだったのだが。


書き忘れたので追記

何しろ9学部もあるので学生の数は相当なもの。
これを振り分けるのに、学生証番号は学部毎になっていた。
それぞれの学部の頭文字を最初に付け、理学部だったら「S」
経済学部は「E」、工学部は「T」などとそういうアルファベットを
最初に付け、次に入学期の2桁の数字をつける。僕の入学時は
25回生ということでS25***となる。他の大学では「回生」
という言葉は学年として使われることが多いみたいだが、K大学では
創立から数えての年数番号で読んでいた。「何期生」という
表現は一般的には卒業生に使われるもので、留年したりすると
違ってくることになってしまうので、入学年度で番号付けを
しているのだろう。
後の3桁はアイウエオ順の通し番号。理学部では数学科が最初の
25番までを取っている。同じ学部でも学科毎に順番が決まっている。
どういう基準かは知らないが。

ちなみに同じ年度の入学でも医学部は創立が遅かったので14回生に
なっていた。

ラジオ出演

2011年05月22日 | 個人史
大学合格が決まった直後、入学まで暇になったので、よく聞いていた
ラジオ公開番組の、恋人募集コーナーに出演希望の葉書を出してみた。

桂三枝が司会をしているワイドショーの1コーナーで、出演希望の
若者を一人を募集して、その人と付き合ってもいいなという相手が
電話で応募してくる中で、1名を決めてデートするという内容。

会った後はまあ好きなようにせよという、番組は後のことは知らない
というスタンドの番組で、毎週よく聞いていたのだが、一度好奇心で
応募してみたら、なんと当たってしまった。

当日は残念ながら桂三枝は欠席だった。
余談ながら、その番組中、ある日桂三枝がカゼで声が出なくなってしまった
ことがある。ラジオ番組で声が出なくなったら最悪の事態。出ない声で
無理をして、なんとかしゃべろうとするが、ハスキーでマイクに通らず、
何を言ってるのかわからない状態で、桂三枝はやけくそになって、大昔の
映画スターで、ハスキー声が評判だった大河内伝二郎のものまねでお茶を
濁すことに。何を言ってるのか分からない中で、時たま「オヨヨ」という
感じに聞こえるセリフだけが耳に残るという俳優だったが、その時以来
桂三枝のギャグである「オヨヨ」というのが始まった。すべてはカゼで
声が出なくなったのがきっかけという。

で、まだカゼが治らない桂三枝が休みだったというその日だった。

先に会場入り。簡単に打合せをして、事前インタビューもして本番。

まあ内容的にはどうにもならなかったのだが。最初から、一番最初に
電話を掛けてきた子にしようと決めていたのだが、その子自身は
まわりが勝手に電話したとかで、まあその程度だった。
番組からデート代に3万円もらったが、一緒に食事をしてそれで
おしまいだった。


大学受験

2011年05月20日 | 個人史
予備校の1年間はだてではなかった。しっかり受験用の勉強ができたし、何より、自分の進みたい方向も見えてきたし。

元々数学は好きだったけれど、高校でかなり自信を無くしてしまっていたのだが、予備校で、やっぱり自分は数学が一番好きなんだって思い直す。
で、その先のことは考えずに、とにかく大学では数学を勉強したいという気持ちが湧いてきて、その方向に行くことに。

家に金がないから、下宿等はありえない。家から通えるところで、国公立という限定された条件で、某O大学は工学系なら基礎工学部は入れるレベルだが、もう工業系に行く気はなかった。で、同じレベルでK大学の理学部だったら行けそうなところにあるので、前年までは視野にもなかったけれど、一躍目標に変更。
O大学にも数学かはあるけれども、ここはK大学の数学科より1ランク上で少し自信はなかったので、K大学の方で受験。

今回は滑り止めということで、2期校にも願書を出す。結果的にK大学を合格したので2期校の方は受験しなかったが。


浜松への家族旅行

2011年05月16日 | 個人史
僕が予備校にいたときの夏の家族旅行は、鳥羽の水族館からフェリーで伊良湖岬に渡り、浜松へ行くコース。
兄二人と、上の義兄家族3人がこの年から加わって、総勢8人の旅行。
これ以来どんどん人数が増えていって、後にはバスをチャーターしての大家族旅行へと発展していくのだが、これはほんの序曲。

鳥羽へは小学校の修学旅行で行って以来。フェリーで愛知の伊良湖岬に渡るのだが、当時三島由紀夫の「潮騒」も読んでいたから、その舞台も見てみたかったのだが、それはまあぜいたく。

浜名湖へ行って、当然のようにウナギを食べるのだが、すぐ上の兄だけは長い魚がだめで、ウナギや穴子も食べなくて、鰻丼ではなく別の物を食べていた。
不思議なことに、後にはとれたての新鮮な魚介類が好物で、長い穴子なども食べていたような。

浜松には日本三大砂丘の一つである中田島砂丘がある。砂丘と言えば鳥取しか知らなかったから、これはよかった。もっとも後にも先にもこの1回しか行っていないが。

宿舎は兄の会社の保養所が浜名湖の後ろ側にあって、そこに泊まる。ここには後にもう一度家族旅行で泊まるのだが、まだ繊維業界が活発だった頃の話で、後には軒並み保養所が閉鎖されていくようになるのだが。

予備校のこと(2)

2011年05月06日 | 個人史
予備校は天王寺にあったので、当然ながら電車通学。
阪急電車で梅田まで出て、地下鉄御堂筋線で天王寺まで。

定期だから途中下車ができたので、いろいろ寄り道が多かった。

一番の寄り道は、当然梅田駅周辺。
まあ阪神百貨店が多かった。
当時、6階だったか、ナショナルのショールームがあって、小さなスペースで
イベントのようなことを毎日やっていた。
DJばりの女の子が曲を流したり、宣伝をしたり、ゲストを招いたり。
ミニコンサートも毎日のようにあったりで、白いギターが置いてあって、
好きに弾けるようになっていたり。

ミニコンサートで、飛び入りもOKで、厚かましくも飛び入りして
弾き語りをして記念品ももらった。
ぶらっと現れたアマチュアシンガーも歌ったりして、当時アマフォーク界では
そこそこ名前は知られていたが、まだプロデビューする前だった河島英伍が
飛び入りで1曲歌ったりもした。
けっこうこの場所の雰囲気が好きだったけれど、1・2年で閉鎖になってしまったのは残念だった。

地下鉄周辺では心斎橋によく出た。そごうと大丸の二つの百貨店が並んでいて、大丸の屋上ではよく朝日放送ラジオの実況中継をやっていたりもした。

心斎橋にはパルコもできて、当時朝日放送ラジオの「パルコ寄席」というのがここで録音されていて、99円だったか、中途半端な入場料金で聞くことができた。土曜の夕方なので、一度家に帰って出直すのは難しくもあったが。上方落語にとっぷりはまった時期でもあった。

当たり前のことなのだが、予備校生活が終われば、そういった場所に行くこともなくなったのだが、ついてまわるがごとくに、そこらでやっていた物も合わせたように無くなっていく。「パルコ寄席」もいつしか無くなり、場所を変えて千里中央で「千里繁昌亭」という定席ができるようになるのだが、これを踏んで現在の天満繁昌亭へとつながっていく。

予備校のこと(1)

2011年05月03日 | 個人史
高校卒業後、1年間予備校に通う。
天王寺の駅の近くにある、名門の予備校。後で知ることだが、けっこう良い予備校で、出身学校の履歴に書きたいくらいの学校ではあった。

ちなみにこの学校の姉妹校が数年後に豊中に開校して、そこなら家から自転車で通えたのだが、あまりに近すぎて面白くなかっただろう。その分校は後、数年経って閉校したのだが。

学校横に食堂も併設されている。けれども昼食時間になると満員になるので、昼休み1時間前に、10分休みの時間に食堂に行くことを覚える。10分の間に昼食を取ってしまおうという。手っ取り早く済ませるために、ほぼ1年間カレーばかりを食べた。

昼食時間はやっぱり暇なのと、お腹も少しすくので、パンを1個食べたりもして、高校卒業後運動もしなくなったこともあって、この予備校での1年間の間に、気分的には人生最高に太ってしまった。まあ大学入って激やせすることにはなるのだが。ちなみにカレーばかり食べると超えるらしいと最近知ったのだが。

授業ではベテランの教師もいれば大学生のバイト講師もいた。総じて大学生は頼りなかった。はっきり言って勉強不足。マニュアル通りにやっているのが丸わかり。
中でも国語の講師はひどかった。漢字が書けなくて生徒から突っ込まれていた。
ある文字では変なこだわりの書体を正しい物と思い込んでいて、書き順がでたらめなところを突っ込まれて、翌日調べた結果自分の書き順が間違っていたことが判明したので訂正を入れたのは良いのだが、文字の形が誤った書き順のせいで違っているのを知らなくて、その形にするようにと蛇足を加えて恥の上塗り。部首の意味を知らないで国語をやっているというのはどうかと思った。

高校の時にテスト返却後の激論の結果、大学の正解とされているのが議論結果間違いだとなった問題も扱って、何も考えずに大学発表の答をそのまま正解としていたから、やはり駄目だなと思う次第。

まあ、古典の教師の授業は面白かったし、英語の教材でもユニークな本を扱っていて、その本を紛失してしまったのが実に惜しいと思っている。英語で落ちこぼれていたのが嘘みたいに英語が楽しかった。
また、中学時代は得意だったのに、高校でつまずいてしまった数学も楽しく、やっぱり自分は数学が一番好きなんだなと実感できたのはこの頃。だから予備校に行っていなかったなら数学をやっていなかったかもと思うと、この一年間は実に有意義な一年だったと感じてしまう。

夏休み中には現役高校生も通ってきての集中講座が開かれ、日本史などの教科もここで習う。入試対策の歴史を初めて習ってようやく入試に間に合わせることができる。

けっこう楽しいことの多かった予備校生活ではあった。

1972年5月14日の日記より

2011年03月11日 | 個人史
悲しみの日よこんにちは

また始まる日に戦いをいどむ

そんな明日にこんにちは

昨日の微笑みにさようなら

喜びの日にさようなら


また来る明日にこんにちは


昨日になってしまう今日にさようなら

明日にならない今日にさようなら


  1972年5月14日