丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

紀行文「奥の舗装道」第5章

2010年11月29日 | 個人史
第5章 北国旅情

窓の外に白煙が見える。ここが吾妻小富士という所だという。バスはここで一時停車。

火口を見る。すばらしいなと思う。
川西にも満願寺近くに火口の跡があったが、今は住宅地と変わっている。世も末である。バクハツすれば面白いのに。

その後、今度はバスは蔵王に向けて出発。なんとなく眠たい。雨が少々降っている。
そして蔵王。
旅行前の僕の楽しみの一つに、雲海を見る事があった。この日がそのチャンスの日ではあったが満足できる物はなかった。でも、雲の上だから、さすがに寒い。みんなはさすがにコートを着込んでいる。それを見るとかえって逆らってみたくなってコートを脱いでみた。心頭滅却すれば風もまた暖かし。

蔵王の、通称「オカマ」はもうなんとも形容の言葉がないほど素晴らしかった。これだけでも旅行に来てよかったなぁと思った。

蔵王温泉ではかなり神経が参る。

ここには内湯と外湯があり、僕は内湯に入ったのだが、湯の流れてくるところが、ちょうど隣と筒抜けになっているのだが、しかし隣には誰もいず。後で入った者の話では、年寄りが入っただけとのこと。

一方、外湯の方では大変な騒ぎであった。
その騒ぎの元を作ったのは、かのY氏であるとのこと。
彼の話を聞けば、外湯では男女の仕切りは半透明のガラスで、ただでさえ怪しい雰囲気。その上、ちょうどY氏のいたところの仕切りに穴が開いているのを発見!覗くとノーカット上映であったとのこと。湯気という映倫はあれどもきわめて刺激的。そしてみんな大騒ぎ。隣には同級生の女子が多数入浴中。別の者の話ではしっかり丸見えだったという。後で話を聞いて悔しがる者多数現れ、そしてその日からY氏は今までの真面目人間のイメージが大崩れして変身してしまった。

その日の夕食の魚の甘露煮、大変評判が良かった。魚嫌いの僕もすごく気に入る。それで朝食も期待をかけたが、見事、はずれもはずれ、大外れ。夕食と差引ゼロとの噂もある。
とにかくぴりりとくる一晩であった。

紀行文「奥の舗装道」第4章

2010年11月25日 | 個人史
第4章 明日こそ別れを告げよ

『どこに人々帰るやら 街はざわめく夕間暮れ……(以下略)』
                     (赤い鳥「人生」)


12日朝、やはり雨。若い者が朝っぱらから旅館に閉じこもったまま。仕方がないと言えば仕方がない。
部屋で炬燵にあたってゲームに花が咲く。バンカーズ、プレイング・カード、フラワーカード、その他あれこれ。
おかげでこの旅行のために買ったばかりのトランプがぼろぼろになる。少し荒っぽいゲームをしすぎた。もったいないかぎりである。

今までの修学旅行が駆け足旅行だったという事で、同じ旅館で2泊しようという改善案の一部が認められて、この旅館だけ2泊ということになったが、雨のため裏目に出たようである。

それでも午後、小降りになったため、希望者だけ五色沼見物。残ってもしょうがないから外に出る。
五色沼は熔岩が流れ込んで水がいろんな色になったという。とは言っても僕自身そんな違いはわからなかった。また、雨のため色がかすむのかもしれない。


  ”紅葉の 涙に濡れる 五色沼”


晴れていればきれいなのだろう。そう思い込む事にする。
笠野列が続く写真が撮れない。時実際の話、写した写真に1枚、傘の陰が写っていた。

五色沼を過ぎてバス停。バスを待つ間、向かいのそば屋でソバを食べる。
高一の白樺湖旅行に行くまではざるそば以外蕎麦を食べた事がなかったのだが、帰りの汽車の途中停車した駅のホームで食べた初めてのソバがなんとなく気に入る。今ではうどんよえいソバの方をよく食べているみたいである。

さて、旅館に帰ればまたゲームである。
この日は予定ではボン・ファイヤーをすることになっていたのであるが、なにぶんにも雨ではしょうがない。その替わりに大広間で演芸会を行う事になる。
それで班ごとに何かするようになっていたが、僕の版では、最初北上夜曲を歌う事になっていたのだが誰もやる気がない。どうしようかと思う間に夜となる。こうなればF君に落語をやってもらおうかと思いきや、そのF君は演芸会に姿を見せない。後で聞けば、ぐっすり眠っていたそうな。

とにかく困っている時、U君が詩を朗読すると言ってくれた。それでバックで僕がギターで伴奏を入れて、なんとか顔を立てる。バックに流した曲はフォーセインツの「小さな日記」とザ・ムッシュの「坊やの絵」。すんでしまえば後はすっきりしたもの。
ふだんなら白けるような事ばかりだったが、結構楽しく過ごせた。

明けて13日朝、旅館を出る。
もう一週間もここにいたような気分。そして、これからまだ旅行が残っているのかと思えば、何となく憂鬱になる。また一つ街を離れていく。

もうここには帰ってこないかもしれない。バスはスカイラインを走る。霧でいっぱいの道を。行き先が見えないのは、何も道ばかりではないのかもしれない。


  ”磐梯を 過ぎてこの道 霧の中”


『住み慣れたこの街に汽笛がひびく……(以下略))』
     (ザ・ムッシュ「明日こそ別れを告げよ」)



紀行文「奥の舗装道」第3章

2010年11月24日 | 個人史
第3章 北の国へ

『帰ろう故郷へ 帰ろう北の国へ……(以下略)』
            (高石友也「北の国へ」)


郡山に着く。いよいよ旅は始まったのだ。駅を降りると何か異様な臭いが鼻を突いた。
まだ旅に出た気分が出ないのは、そんなに目立った物がないからだろうか。空気がすごく冷たい。もう冬が近いのだろうか。それとも北の国に来たからなのか。世間の風邪が身に染みる(?)。

見知らぬ世界を行くのは初めてではない。僕にとってこれまでの生活すべてが見知らぬ世界の連続であった。
人生これまた日々旅にして谷をすみかとする。もう何が起きても、どう変わろうと驚きはしない。ただ、消えていく物を少し惜しがるだけ。

バスに乗りこむ。もう進むだけ。
サジは……じゃなかった……サイは投げられた。バスは走っていく。陽はもうくれかける。猪苗代湖にて一時停車。水が冷たい。そして寒い。浜を歩くと靴に砂がはいる。そして日暮の道をまた再びバスは走る。

第一の旅館に着いた時には、もう日は暮れていた。アメもパラパラ降り出してくる。
旅館のすぐ裏には檜原湖があるという。ここはもう磐梯だという。ここに来た人は磐梯山の名前を3回唱えるという。「バンダイ三唱」とか言って……。(石を投げないでください!)

早速、湖を見に行く者がかなりいる。僕は行かなかった。雨が降ってるし寒かったから。それに暗闇は恐い。閉所恐怖症みたいなところがあって、そして、それに伴う暗闇もあまり好かない。

各部屋に一つずつ炬燵が置いてある。それを真ん中に置き、そしてそのまま、その回りに各自布団を敷く。ジローだけは勝手に布団を敷く。彼はかなり疲れている様子。全然眠っていないとのこと。それでも彼の十八番の落語をみんなに披露する。そしてそのまま彼は眠ってしまった。しかし彼を除いて他の者は眠れない。灯りが消え、布団にもぐったまま、炬燵を中心に、なんとなくいろんな話をする。そんな雰囲気の中で僕もふだん考えている事を話す。反戦の事、『愛』について、宗教について……。まだ僕の心にしっかりとはついてこない。でもおそらく中心をなすであろう事柄、愛とは何なのか、本当の宗教ってどうあるものなのか。僕にとって有意義な話し合いだった。

「私たちの望むものは 与えられることではなく……(以下略)」
             (岡林信康「私たちの望むものは」)


紀行文「奥の舗装道」第2章

2010年11月22日 | 個人史
第2章 悲しくうたうもの

『旅が楽しいのは、帰るところがあるからである』

暢気な旅ができるのは、その度に終わりがあるきあらであり、そしてその時、帰るすみかがあるからである。

その意味で、人生は帰るところのない旅である。もしあるとしても、それはかりねに過ぎないかも知れない。
そして、この時、僕にとっても、帰るところが無くなることが決定的となっていた。

10年間のかりねではあるが、それ以上のものを感じた日々であった。
残された日々、過ごしていたいという願いもはかなく、離れなければならなくなった。
この旅はまさに人生の旅を象徴する物であるかのようだった。
そういう暗い心を持って、11日、旅だったのであった。

一週間以上も旅をするのは生まれて初めての事である。出発のの前夜、眠れないのは毎度の事。そのまま起きて、6時50分家を出る。兄貴の運転する車に乗り、新幹線の駅に向かって一路国道を走る。朝はまだ冷えていた。

まだ早い新大阪駅。人通りもまばらである。どういうわけか僕はいつでも早く来すぎるきらいががある。いろいろな集まりの、そのほとんどが一番であった。
例外もたまにはある。その一例がこの日であった。

誰もいないベンチに座っていたのは同じクラスのY氏だった。僕よりも相当ドジな人間がいるのに驚くばかりである。

このY氏のことは、同じく同級生のジローは、『カニの生まれ変わりと称されてはいるが、優れたサッカーのアシと、剣のウデを持つできる男』と、自作の同じくこの旅行をテーマにしたユーモア小説の中で表現していた。
このY氏はこの修学旅行の話の中でよく登場することになるが、サッカー部に属し、剣道部にも所属するというスポーツ系好男子と、この旅行が始まる前までは思われていた。


 ”寂しさの 中にぽつんと 一人あり”


新幹線で東京へ行くのは二度目である。
新幹線では旅の気分が出ないという人もいるが、朝が早くて眠いのには、むしろその方がいいかもしれない。

富士を見ようと思ったが見えず。
とにかく眠い。まだ夢心地である。旅行の気分などまったくでない。というよりも、今、自分がここにいるということも信じられない。


 ”世の中の 人も夢なら 旅も夢”


この旅だけが夢なのではなく、今までの生活すべてが夢に始まり、夢の中にうまっているのではないのだろうか。

今日まで、そして明日から もまた消えていく。


紀行文「奥の舗装道」第1章

2010年11月22日 | 個人史
第1章 前書き

昭和45年10月11日から18日までの8日間、高校2年生による7泊8日の東北修学旅行が行われる。

この旅はある意味において、僕にとって象徴的な旅であった。


この旅行から戻って一ヶ月もたたないうちに、10年間住み慣れた川西の地を離れる事が決まっていたからだ。
小学2年の11月15日に川西に越してきて、そしてちょうど10年後の11月8日に離れるという。正確には9年と11ヶ月と3週間。あと一週間で10年になるという区切りの時だった。

小学校・中学校、そして高校の半分という、まさに青春のど真ん中の日々を過ごした川西の街との別離は、少なからず感傷的な思いが占めていた。
実際その後、川西とは縁は切れたままになってしまう事になるのだが。


人生の縮図的意味をはたすこの旅を、たまたま紀行文を書くように言われていて、提出した文章を加筆して、ここに示す物である。


なお、実際の紀行文では、当時印象に強く残っていた歌を散りばめていたのだが、公に発表するには著作権に引っかかるので、必要最小限にとどめることに。歌詞の一節だけの引用は見逃してほしいものだ。

修学旅行前夜

2010年11月20日 | 個人史
どこの高校でも、たいてい修学旅行は2年で行うようになっていると思う。
修学旅行は準備に1年間かかる。旅館の手配や列車・バスの手配が1年前から予定しないと取れない。

ということで、どこの学校でも1年の時には修学旅行の予定が決まっている事になる。入学式で、うちの学年はどこそこに修学旅行に行きます、と発表する学校もある。

これにうちの学年は猛反発した。

ちょうど学内紛争の火が炊き始めた頃、1年生を集めての学年集会で、修学旅行の話が出た時に、どうして自分たちの修学旅行を、当人達にはかることなく勝手に決めてしまうのか。学年集会で猛反対の結果、こんな修学旅行は認められない、という結果になった。1年生の過半数がその意見に賛成の意を示した。

ということで、学年で代表を決めて学校と交渉を行う事となる。

業者に関しては変更が不可能という事。また旅行先も変える事ができない、ということで、中身の検討という事になった。
物見遊山の観光地や記念館の見学とかは極力やりたくない。あっちこっちと、忙しく回るような旅行はしたくない。一カ所で連泊とかはできないのか。そういう意見が多数を占めて、最終的には、初日と二日目を連泊にする。当初予定にあった野口英世記念館見学はやめよう、ということになる。

ただ、青森まで行く都合上、他の地での連泊は難しいので、3日目以降は当初の予定通りにせざるを得ないという結果になる。

この旅行に関しては、国語の授業で、紀行文を書かないかという課題があったので、それに乗って書いてみた。最終的にこの課題をやったのが3人程度だったらしいが。
この文章、いまだに手元に残っているので、次の項目でその文章を全文(一部だけ手直し)掲載しようと思う。

贅沢旅行

2010年11月18日 | 個人史
この年の夏の家族旅行は、それまでで一番の贅沢旅行を行う。

両親と兄との4人で、日光から鬼怒川温泉に行く。
東京までは新幹線。たぶん初乗車。東京からは東武鉄道の特急で
指定席を取ったのに、兄とほとんどビュッフェに行っていて、
特急料金を無駄にする。

日光に着いてからタクシーを一日借り切る。
運転手がけっこう気さくな人で、いろいろ進めてくれたりで、
楽しく日光見物が出来る。

まあ日光東照宮自体にはあんまり興味はなかったのだが。

鬼怒川温泉で一泊。
ここは夜には出歩かない方が良いと言われた。
今でもそうなのかどうかは知らないが。

この旅館で人生初の体験をするのだが、それは来年の話を
書く時にしたいと思う。

帰りに東京による。ここでもタクシーを借りたが、あまり良い
印象ではなかった。

NHKに寄って見物。これ以来、東京に行くときは必ずと
言ってよいほどNHKに行ったりする。
東京タワーにも昇ったり。いわゆるおのぼりさん。

帰りは人生初めての飛行機に乗って帰る。
空港に着いてからタクシーで池田の駅前まで出て、駅前の
寿司屋に入って、後にも先にもこの1回だけだろう、注文で
寿司を握ってもらう。

ちなみに、食事の最後に寿司屋がサービスで、口直しにと
握ってくれたのがしそ巻き。
食べて口に合わなくて、口直しの口直しが必要だった。
この時以来、紫蘇が自分には合わない事を知った。
(シソの天ぷらだけは食べられるのだが)


国語の授業

2010年11月17日 | 個人史
再び、個人史に戻ります。

高校紛争の後、変わった事と言えば、国語の授業で合議制になったこと。

生徒の発言が活発になって、授業の幅が広がった。
たとえば、単元を生徒が分担しての発表形式になったりとか。
まあ、個人よがりの偏ったものになる傾向もなきにしもあらずだったが、自ら考えるという傾向は増えていった。

O・ヘンリーの短編があったとき、指示語が意味する内容が不明で、文脈解釈に違いが出た時は、原文を調べてきて、それで内容を理解するという、お仕着せでない勉強をしたり。

定期テストでは長文問題で必ず過去の大学入試問題を扱ったが、当然解答もついてはいるのだが、誤答とされた自分の解答でも、みんなが納得できるように説明できれば、その結果○になることもある。
議論の結果、正解とされている解答が、実は文章の読みが浅くて、これでは正解とは思えないという結論に達する事も。

定期テストではテスト返しの日が面白かった。
このおかげで、けっこう文章理解力が付いたような気がする。

ちなみに、ケンケンガクガクを戦わせて、解答とされた答が誤りだという結論になった問題が、予備校でそのまま出されて、学生講師が何の意識もなく解答集の答を正解としていて、この講師は当てにならないと思ったり。ちなみにこの予備校の国語講師は漢字も正しく書けない、理解していない事が明らかになったりもしたが。

1971年1月10日の日記より

2010年11月16日 | 個人史
例えば突然、自分が何をしているのかわかたなくなるってのが、よくあるじゃない。
突然考え込むんだ。どうして今ここにいるんだ。どうしてこんなことを、しなくちゃならないんだ。
でも時間が経つにつれて、むなしくなってきちゃうんだ。わけもわからないままこの世に生きて、そうして死ぬまでそんなままで生きていくんだ。

自分は今まで何をしてきたんだろうかって、むなしいよね。一生懸命生きてきて、それで結局は何をしたかわからなくなるなんて。
でも結局はそんなものんなんだろうね。

社会がどうのこうの、政治がどうのこうの言うけど、自分が一体何なのかわからないままに、そんな事を言ったって、結局は無意味なんだな。淋しいんだな、何でもかんでも無意味だと思うようじゃ。

恋人が欲しくてたまらない時期を通り過ぎちゃうと、もう何もなくなっちゃうんだな。もう淋しいなんてのも感じなくなる。

明日がどうのこうのなんて言っても。現在というものをつかまえることからできない。虚無思想でもないんだけど。

結局はすべてのことがどうでもいいんだ。それでみんな捨てていって、何が残るのか。もう一度考え直さないと。

でも、こんなこと考えるのも、どうでもいいことなんじゃないだろうか。


詩集より「混沌」

2010年11月15日 | 詩・小説
悲しみが私の胸をよぎり
淋しさがとおりすぎていき
みんな消えてしまった

だのに まだ喜びはこない
ほほえみの超えさえ聞かれない
明日はいつ くるのだろう

すべてが消えてゆき
今 私は何もない
混沌とした中に一人いる


   1971年4月14日