丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

「フォークリポート猥褻事件」

2010年08月27日 | 個人史
よく見ると、この事件が起きたのは70年の秋のことだった。
69年の挫折から抜け出せないまま、70年安保が空振りに終わった挫折感がこの事件を産み出したということも言えるので、「69年の挫折」の締めくくりに起きた事件とは言えるだろう。

「フォークリポート」という機関誌は、元々アングラフォークの会員限定の雑誌であって、定期購読申込者に直接配布されていた物だが、URCレーベルのアングラレコードを取り扱う協力レコード店でも販売されるようになって、一般誌と変わらない扱いを受けるようになった雑誌であり、関西フォーク界の現状を語るマニアックな雑誌ではあった。

ちょうどフォークキャラバンが挫折するようになってから、アングラフォークの方向性がだんだんと傾いていった時期であり、そちらの機関誌でもかなり危ない挿絵が入り出したこともあって、かなり猥褻性を意識した流れになっていっていたのは感じてはいた。

そして編集者がアングラフォークの過激な騎手である中川五郎に替わって最初に発行された「フォークリポート冬の号」で、一気に問題が噴出した。

ページ数がこれまでより極端に増えたこともさることながら、いきなり表紙に男女の幼児の正面からの全裸写真が載せられた。これは今でもこのように正面切って表紙に据えている雑誌を見たことがない。店頭に並べられる物ではなかった。

本編のメインの内容では、前年逃亡した高石友也と岡林信康を糾弾するという論説が中心になっているが、それに加えて、まったく関係のない猥褻な挿絵がふんだんに導入された。
漫画家東海林さだおの意味のない、ただ猥褻だけの漫画を初めとして、編集者が創作したのが明かな悩み相談室。そしてピカソの性行為を直接表したエッチングに加え、ジョン・レノンとオノヨーコの正面向いた無修正の全裸写真などなど。きわめつけが、中川五郎本人が直接書いた卑猥そのもののポルノ小説。

警察の手が入るのは早かった。
出版社の在庫をすべて押収。関連レコード店の在庫もすべて回収。定期購読者リストを差し押さえて、定期購読者の家を一軒一軒回って本を回収するという念の入れ方。
猥褻事件としてかなりの部分が該当するとして摘発された。その一覧も持っていたのだが今どこにあるのか不明になった。(中川五郎自身がこの裁判について書いた書籍の中にはあるのだろうが)

しかし、ピカソの絵を訴えるわけにいかず、ジョン・レノンの写真についても国際的に難しい部分があったのだろう。告発されたのは中川五郎が書いた小説のみに絞られて猥褻裁判が始まった。

結果的には、数年後無罪が確定する。時期が早すぎたこともあるのだが、幼児ヌード写真は当時も猥褻性認められない物として認識されていたし、現代ではヘアヌードも解禁されている。また性行為を表現した絵についても、現代では浮世絵などでも堂々と書店で売られている時代。小説に至っては駅売り新聞や週刊誌などの方がより過激。そんななかで、時間が経てばたつほど猥褻の基準が変化してきてしまったといえる。

しかし、アングラフォークのある方向性に対してストップがかけられたことも事実で、この事件以降、アングラフォークが日の目を見ることが無くなってきて、世の中は爽やかな青春や悩みや夢を歌うフォークが全盛となってくる。

僕自身はこの事件がかなりショックで、すっかりアングラフォークの世界とは縁がなくなってしまうのだが。

1969年の挫折

2010年08月26日 | 個人史
アングラフォークの世界にどっぷり浸かっていた僕にとって、衝撃的な4つの事件がまとめて69年に起きた。

1つは、全日本フォークキャラバンの挫折。
先にも書いたことだが、70年安保に向けて、北は北海道から南は沖縄からフォークキャラバンを組んで、東京で最終合流、安保改訂阻止に向けての運動を行おうという動きがあった。評論家のT氏が中心となり、東京ではアメリカのプロテストシンガーのピート・シガーを招いて大集会を行おうという物で、僕も一口乗っていた。
しかし、いよいよ実行に移されようという土壇場になって、アメリカよりピート・シガーが来日しないという正式文章が送られてきた。そしてそれをきっかけに主催者であるT氏があっけなく手を引いてしまった。運動は宙ぶらりんなままで頓挫することに。

過激な政治的内容も含んだフォークキャラバンは、こうして打ち上げ花火のごとく、あっけなく消滅してしまったが、変わって、政治色を一切抜いて、内容もおとなしく単に平和を歌い上げる集会として、70年の大阪万博で全日本アマチュアフォークシンガーズとして大集会が開かれて成功する。内容的には若者達の非力と青臭さを自虐的に認めながらの、大人に媚びを売ったような歌詞内容の「戦争を知らない子供達」が広く歌われた。これが限界だったのだろう。

2つめの挫折は、アングラフォークのみんなが、その旗の下に結集していた高石友也が突如アメリカに逃亡したこと。実際には本当に彼が歌いたかった物がその時に歌っていたものではないというジレンマがあったのかもしれない。
数年後、彼が帰国してのコンサートを聴きに行ったが、過去の歌は一切歌わず、明るいカントリーフォークのみを歌っていた。不満だけが残ったが。
中心人物を失ってアングラフォーク界は騒然とする。彼の名前を冠した「高石事務所」は消滅し、「音楽舎」として生まれ変わる。

3つめの挫折は、やはり中心人物であり、「フォークの神様」と呼ばれていた岡林信康の失踪だった。
曰く、慢性の下痢を治すため、と称して、当時彼と同棲していた女優の吉田日出子と共に蒸発する。
数年後、彼は吉田日出子とは別れ、演歌歌手として再出発。近年原点に立ち返り、TVで原点とする場所でコンサートを行っている映像が流れていた。彼は昔に歌っていた歌も、彼の歌の原点として歌っていたが。

高石友也・岡林信康という二人の巨頭を失ったまま、70年安保は何事もなく通り過ぎていく。

そして、4つめの事件が起きた。
「フォークリポート猥褻事件」である。
この件に関しては次に記載する。

「ジローズ」のこと

2010年08月25日 | 個人史
関西のアマチュアフォークグループに「ジローズ」というのがいた。
杉田二郎、塩見大治郎、細野徹次郎の3人によるグループで、3人とも「ジロー」という共通の名前が入っていたことから命名される。
「あなたの世界」「まま子」などのヒット曲があり、関西では人気グループの一つだった。

フォークルが解散する時、端田宣彦がジローズのリーダーの杉田二郎に声を掛けて新しいグループ「シューベルツ」を結成することにした。実際には端田宣彦がフォークルに参加する時に、1年限定ということで、1年後の解散をめどにあらかじめ準備していたそうだが。
ということで、リーダーを失う結果と成ったジローズは困惑する。
新に「総次郎」という名前を持つ人物を見つけてきて、新生ジローズで活動を続けるのだが、中心だった杉田二郎を失った痛手は大きく、結局解散することに。

グループが解散となって塩見大治郎はあてもなく東京に出てくることに。そこで「ヤング101」結成の話を聞き込み、参加を申し込むが、オーディションはすでに終了していて断られることとなる。それでもあきらめきれない彼は担当者に必死に頼み込んで、追加加入を許されることとなる。
そんな苦労を経て自分の活動の場を見つけた彼だったが、後に番組ゲストにシューベルツがやってきて、杉田二郎と再会した時、番組内では旧交を温める姿が映されていたが、実際にはどんな気持ちでいたのだろうか、TVで見ていて、そんな気持ちを感じていた。

シューベルツが、メンバーの一人が急死するという不幸で解散した後、杉田二郎はフォークルのメンバーだった北山修とともに、1970年万博の全日本フォークシンガーズの企画に参加、テーマ曲の「戦争を知らない子供達」を作って成功させる。そして、自らがその曲を引っさげて再デビュー。「ジローズ」を再び名乗ることになる。
先のジローズとは違って、あえて「ジロー」の名前にはこだわらず、参加者として加わった人物に無理矢理改名させて「ジロー」を名乗らせる。改名させられた当人はどんな気持ちだったのか。グループ解散後、音楽関係で業界に残り、当然のごとく今は本名を名乗っているが。


そういうような裏事情を聞いているせいもあって、端田宣彦や杉田二郎にあまり良い感情を持っていない。

「ステージ101」のこと

2010年08月24日 | 個人史
NHKで画期的な歌番組が始まった。

それまでNHKでは長髪禁止で、紅白に長髪のGSは出場できなかった。出場したのは短髪・背広のブルーコメッツだけ。それ以外でも基本的に歌番組では彼らの出場はなかった。
そんなNHKの英断で、歌の実力はありながらも、商業ベースにうまく乗れない若手歌手達が集められて番組が作られた。スタジオ番号101番で収録が行われたことから「ステージ101」と名付けられ、若者集団を「ヤング101」と呼んだ。

実力は歌手が多い中、そうでもないのも含まれてはいる。いわゆるバーターというか。3人組のフォークグループで、2人はうまいけれど、もう一人はドラム担当で歌は歌っていないけれど、ついでに入り込んだような感じ。そういえば、当時の人気グループでも今でも3人組にそういうのがいる。

実力があるから、当時、ローカル的には名前の知られていた者もけっこう加わっていた。

関西ローカルで言えば、3名がすでに関西では知名度があり、この番組に参加することでようやく全国に知られた者がいた。
一人は小林啓子。関西では「比叡おろし」というヒット曲もあるフォーク歌手。
もう一人は高橋キヨシ。ギターの名手であり、シンガーソングライターとして関西では知名度抜群。「闘牛士の詩」「サバの女王」などのヒット曲もあり、ラジオ大阪でレギュラー番組も持っていたが、番組終了に合わせて東京に進出する。
もう一人は塩見大治郎。初代ジローズのメンバーで、彼については別項にしたい。

実力はあるのに芽が出ない若者を集めたからパワーはいっぱいあった。歌って踊って、たちまち人気番組となる。「ヤング」と言いながらも一人だけおっさんが加わっていた。みんなの兄貴分と慕われ、最初に登場した時は背広に短髪のまじめスタイルだったが、後にポプコン優勝で一気にブレイクする。上条恒彦だった。

当時はNHKと民放での連携ができていないことで、せっかくメンバーの中で民放番組の主題歌を歌う者が出てきたのに、どちらの放送局の歌番組でもお互いのことを紹介しないのでつぶれてしまったのがあるのが残念。

第1期のメンバーに、途中一人の若者が加わる。
NHKでやっていた「あなたのメロディー」という、一般人が作詞作曲した歌をプロ歌手が歌ってくれるという番組で、布施明が歌って優秀曲になった歌を作った若者。彼は自分でも弾き語りをして、その番組の特別編で自作の曲を歌って評判となり、ヤング101に加わった。田中星児である。彼は後に「お母さんと一緒」の初代歌のお兄さんとして有名になる。またビューティフルサンデーのヒットで紅白歌合戦に出場。同じ年の紅白に、ヤング101の1期生で大ヒットを飛ばす太田宏美と共に出場と言うことになる。

メンバーはこっそりと補充がなされ、3期生として数名が加わる。
いつのまにか司会陣の中に小柄な幼い少女が紛れ込むようになる。少女としては異例のシンガーソングライターでアルバムまで発表していた子で、番組終了後に本格デビューをする。谷山浩子である。番組内では自分の歌を歌ったこともある。
余談ながら、数年後、パソコン通信を始めた時に、入会した推理小説フォーラムに彼女が参加していて、チャット(当時はRT(リアルタイム)会議と言った)で直接話をして、ステージ101、見てましたと声を掛けたこともある。

メンバーの脱退もある。
番組の成功に甘い汁を吸おうと思ったのだろう、作曲家のいずみたくが、自分の弟子の若者を集めてグループを作ろうと計画する。「いずみたくシンガーズ」という。そのために中心メンバー数名が脱退する。
このグループ、TV番組主題歌を1曲歌ったが、その後の活動は知らない。いずみたく自身が亡くなったので消滅したのかも。

第4期、5期ぐらいまでは加入があっただろうか、番組が終了して、知名度ができた者はそれぞれ自分たちで活動の場を見つけていった。
番組内4人の男性実力派は「チャタラーズ」というグループを結成、アニメ主題歌を歌ったりする。上条恒彦はミュージカルで評判に。1期生の温碧蓮という女性は、駆け出し俳優の津坂正章と結婚、ちなみに、津坂正章は番組改編期に、局が力を入れる、秋の大作に出演させるのをきっかけに改名して、そのまま秋野太作と名乗る。
一条みゆ希はアニメの声優として今も活躍している。

「ステージ101」という番組名は無くなったが、「ヤング101」というグループは後にも継承された。NHKとしては由緒ある名称だろう。

近年、ステージ101の同窓会が開かれたそうで、その時のCDが発売されている。歌声はもうすっかり若くなくなってしまったが。

写真集「12歳の神話」

2010年08月24日 | 個人史
高校生向け雑誌に画期的な写真集の紹介記事が載せられていた。
「12歳の神話」と題された少女ヌード写真集だった。
まだ大人になりきっていない12歳の少女が明るく健康的にその裸体をさらけ出した写真集はかつてない社会現象を引き起こした。
TV等では好奇心一杯に話題性だけで注目が集められ、少女ヌードという新しいジャンルが芸術性から猥褻性まですべて含めて取り上げられた。
当時は裏本の世界以外で少女ヌードが出回ることはなく、警察の目を逃れての物しか出ていない頃、規制もきびしく、ヘアヌードなどは当然取り締まりの対象であり、ましてや少女の裸が公然と出回ることは無かった時代。

ここに抜け道を見いだした商業主義の大人達がいた。
陰毛がわずかでも見えていれば写真集や映画でも規制の対象だったが、まだ陰毛が生えていない少女なら性器の露出も規制の対象にならないということを知ってしまった。何しろ猥褻というのは、性行為をイメージさせる物が対象であって、完熟した大人の女性の性器なら規制の対象となり、それを覆う陰毛も取り締まられていたのだが、少女となると規制にひっかからなかった。
そして、この写真集をきっかけとして、巷では幼女のヌード写真が頻繁に出回ることとなる。

一番迷惑を被ったのがこの本家の写真集だったろう。被写体本人はまだ少女というのにいちやく後期の目に晒されることとなって、この写真集自身が封印されることとなる。

それから10数年後、この写真集が再刊された。
「12歳の神話」「エウロペ・12歳の神話」という2冊の分冊となって再刊される。当時少女だった子が成長し、結婚して一般主婦となったことでようやく日の目を見ることとなったのだろう。

10数年間、高校生雑誌に掲載されていた1枚の写真がずっと印象強く残っていて、その懐かしさで2冊とも購入した。その中から抜き出した写真と共に文章を加えた文庫タイプの本も出ていて購入する。世間の流行とはまったく縁遠い、芸術性ゆたかな写真集だった。

中学高校生向け本格小説月刊誌

2010年08月23日 | 個人史
中学生・高校生をターゲットとした本格的な小説専門月刊誌というのが刊行された。「小説エース」という雑誌だった。

中学から引き続き学研のコースを購読していたが(後述するが、1月だけ抜けているが)、そこでの宣伝や本屋での宣伝で、一流作家の執筆陣による本格小説雑誌の創刊ということで、購読をすることに。眉村卓をはじめとする蒼々たる執筆陣で、決して中高生向きだからと言って手を抜かない内容だった。実際、この雑誌に連載された小説が単行本・文庫化されて(一部手を加えて修正されたのもあるが)今でも書店に並んでいる。

しかし売れ行きが悪かったようで、三ヶ月で内容変更の憂き目にあい、大幅変更された月を最後に廃刊となり、「ヤングエース」と名を変えて青年向けの雑誌に方向集成された後結局つぶれてしまった。

後に出版態勢という物を知るようになる。
創刊された雑誌や、新規に連載されたコミックや小説は、3号までは続く物だと。創刊号・第1話の評判などすぐにわかるものではなく、出版された時点で第2号・第2話の準備が進められている。評価がわかるのは第2号が出版された時で、その段階で次の号の準備が進められているからそこでストップはかけられない。廃刊や連載打ち切りが決定するのはその段階であって、その時点では第3号や第3話は既定事実として進められてしまっているから止められない。したがって、その段階で打ち切りが決定するから、雑誌なら第3号が最終号。それ以上続けばなんとか出版のめどがたっているもの。連載コミック・小説なら、第4話以上続いているなら評判は上々ということなんだろう。まあ中には編集者が、たとえ評判は芳しくなくてもぜひとも続けたいという熱意で続く物もあるだろうが。だからコミック作者は3話までは用意していて、その段階でいつでも終われるようにしているとか。

ラジオ公開録音

2010年08月22日 | 個人史
関西の若者向けラジオ深夜放送と言えば、草分け的存在が朝日放送の「ヤングリクエスト」。僕が中学1年の時に放送が始まったことは以前に書いた。最初は二人のアナウンサーが交代でジョッキーをつとめ、葉書によるリクエストを読んで曲をかけまくる形式の、純粋音楽番組だった。

後発組で毎日放送が「ヤングタウン」という番組を始めた。こちらはヤンリクに対抗したのか、二人の司会者によるおしゃべりが中心の番組であって、スタジオに応募者葉書による抽選で観客を呼んでの公開放送形式を取った。
司会者に選ばれたのが、局アナの斉藤努と、入門直後の若手落語家だった桂三枝の2名。若者をスタジオに集めるという形式が評判になり、聴取者が飛躍的に増え、司会の桂三枝はいちやくアイドル落語家として人気を集める。
スタジオに客を集めるという形式から、深夜放送で生放送は無理があったから、録音形式を取っていた。千里山にある放送スタジオまで、国鉄の駅から往復の送迎バスが出ていて送り迎えをしていた。
おしゃべりだけでなく、リクエスト葉書による曲も数曲流していたが、目玉の一つにあったのが、「今月の歌」の設定。アマチュア・フォークグループによる1曲を今月の歌として、一ヶ月間毎日流し続けるという形式。この中から結構評判の歌が産まれ、近年1枚のCDに評判だった曲をまとめられて発売された。
同じグループが毎日出演することはなく、月の最初の日に録音した音源を毎日使用していた。時々は本人が出演して観客の前で生演奏することもあったが。
ということで、本人に確実に会える日は毎月1日なわけで、その日を狙って観覧希望の葉書を出した。

僕が高校1年だった11月1日が土曜日であり、学校が半日だったから観覧するのに都合の良い日だった。うまく観覧希望の葉書が当たって見に行けることになった。
実は、次が連休と言うこともあって、うちの両親は岐阜の会社にいる兄のところに泊まりがけで行くことになっていたが、僕は理由を付けて断って毎日放送のスタジオに行くことに。余談ながら、家に一人残ったのだが、一人で外食するのはこの日が初めてだったりして。日曜の昼食にお好み焼きを食べに行ったが、貧乏性なので何も入れないプレーンのお好み焼きを食べた。

千里山のスタジオに時間通りに着く。司会は桂三枝。以前にも書いたが実は本人にはまだ顔もよく知らない頃に服部緑地公園ですぐ目の前で見ているのだが、正式に本人と判って見たのはこの日が最初。まあ後には落語会とかによく出かけたので、実物の落語家数人を生で見る機会はけっこうあったが。

番組の収録はきっちり3時間前に(4時間前だったかな?)始められた。時間通りに終わらせる都合もあるから、時計をずらせてきっちり収録する方が都合がよい。なのに、この日が初日というアマチュアグループの今月の歌が、演奏冒頭でとちって、いきなりスタッフに頼んで録音し直しということに。いやいやスタッフも困ったことになったとは思うが、後で家に帰って本放送を聞いたらきっちり時間通りに終わらせていた。まあTVと違うから数秒無音が何回かあっても誰にも気づかれないだろうが。

ラジオの公開放送に参加するのはこの後もう1回あるのだが、そのことは後に。

校内紛争顛末記

2010年08月19日 | 個人史
1960年6月に日米安全保障条約が10年間の期限付きで成立して、改訂を迎える70年に向けて、学生を中心に大学紛争が過激化した。69年はその1年前と言うことで、冬には東大封鎖がTV中継され、その年の東大入試が中止になるなどの大事件が起こった。

大学紛争は東大進学者を多く含む高校でも活発になり、高校紛争として荒れる学校が増えてくる時代だった。僕が入学する直前にもいろいろあったようで、そのために合格者のうちの多くの者が一般公立高校に逃げるという事態が起きて、入学者が極端に減ってしまうと言う現象が生じた。ちなみに紛争が解決した翌年は、逃げる合格者を多く想定して多めに合格者を出したのに、ほとんどが入学してしまったので、教室に生徒があふれるという事態を引き起こすことになるのだが。

前年のことは知らなかったが、入学式が騒然としていた雰囲気から時代の流れを感じていた。大学の附属校という位置づけや、平地に学校があるという立地条件で、大学の過激派学生や、他校の生徒も入りやすい状態があったのは確か。
近年の話になれば、同じ敷地内にある附属小学校に乱入した男が凶器を振り回して多くの児童が被害にあったのもまだ記憶に新しいところ。そのように、外部から不審者も含めて侵入しやすかったこともある。

そんなことで、上級生を中心に政治運動が活発になり、行動はより過激になっていく。

9月のある日、学校内の特別教室等がある校舎が過激は生徒によって封鎖された。入り口付近には机や椅子が積み上げられ、他の校舎との連絡廊下のシャッターは閉め切られ、侵入できないように机等が積み重ねられた。
しかしこの封鎖騒ぎは、一般生徒が登校する前に教員の手によって排除された。

この間、一般生徒は立ち寄ることも出来ず、自分の学校内で起きた事件であるのに関わることが出来なかったことについての糾弾会が開かれた。学校にとって一般生徒はお客様にすぎないのか。学校が抱える問題に生徒が関わることができないのか。さまざまな討議は結論が出ないままに時間だけが過ぎ、そして二回目の封鎖が起きた。この時には教師だけで解決する作業は止められ、生徒の間で討論が限りなく続けられた。事態は一向に進展する様子もないまま、最終的に、全国で初めての高校への機動隊導入がなされる。ある早朝にやってきた機動隊が力ずくで封鎖を解除し、その様子は新聞に大きな写真付きで載せられた。
新聞記事の内容に失望感が起きた。当事者としてその場にいた者の目と耳で捉えていた内容と、マスコミの記事に相当の開きがあったから。以来、新聞TVのニュース記事を信用しなくなった。彼らは自分の観点でしか事態をとらえない、それは事実かも知れないが真実ではないと言うことを知った。

根本的な問題は何一つ解決はされていなかった。その結果、3回目の封鎖が12月に行われた。学校はもはや手の打ちようがなかった。
ひたすら討論の時間ばかりが重ねられた。授業はすべて成立しない。でもクラス討論に何の意義があるのか、疑問だけが残った。だからクラス討論の最中に、疑問を感じたことを述べて早退した。人生初の授業ボイコット。図書館に行って一人勉強をした。まあ、その日には中学時代の友人と会う約束があったのだが。中学時代のクラスメイトだったMHさん(一緒にスケートに行った女の子)に、わからない数学の問題があるので教えて欲しいと言われていて、会う約束をしていたのだった。英語で書かれた集合の問題で、僕自身集合を聞くのは初めてだったので、飜訳していても専門用語の訳がわからなかったことを覚えている。まあ自分自身での予習にはなったが。

閑話休題
一日おいて、結局自分で中身を知らない限り問題の本質はつかめない、と思って、バリケードの中にもぐりこむことに。中では「自主ゼミ」と称する討論会がいくつも開かれていた。
結果的にバリケード内に入って、はっきり失望する。
中はタバコ臭く、異様な雰囲気が漂っていた。彼らの主張自体、こんな状態では説得力も何もないものだと思った。ただ単に、やりたいからやった。雰囲気だけで満足している。そんなように目に写った。
翌日デモが組織される。市役所まで向けてのデモ行進。一応参加はしたが、何のためのデモだったのか、いまだにはっきりとはしていない。

デモの最終。事件が起きた。
解散がなされた直後、中心として活動していたリーダーが機動隊によって逮捕されたのだった。突然の出来事だった。皆は警察に向かって怒鳴るのがやっと。「国家権力」という四文字がしっかり焼き付いた瞬間だった。

この日が頂点だった。バリケード封鎖に限界が生じ、亀裂が出来てきた。
二学期の期末考査が流れるという事態が起き、これに困ったのが、大学受験を控える3年生だった。期末考査が流れれば受験用の成績表が作成できなくなる。とうとうバリケードは内側から崩壊した。

事態は一気に収束の方向に向かう。
3学期になって首謀者数名の、停学等の処分が発表された。これに抗議をした数名によるハンストが職員室前で数日間行われたが、すでに力はなかった。
単位不足によって数名が留年した。2年に上がった時に僕のクラスに留年生が入ってきたが、しっかり皆と溶け込んで、学内紛争は何だったのか、まったく何の痕跡も残さずに仲良く、一緒に卒業していった。

翌年以降、一つも紛争は行われず、まるでこの1年間が夢だったかのように時が過ぎていく。替わったことと言えば、授業のいくつかで、自主的学習内容が入ったり、生徒が自主的に学んでいく状態が起きてきたことか。
少なくとも僕自身は、大人や「学識経験者」の言葉を信用しなくなった。自分で見て、感じたことが真実だと思うようになり、他人の言葉は、一度は疑ってみるようになった。マスコミがいかにいい加減な物か、自分たちに都合の良い言葉しか言わないことが見えてきた。別の見方をすれば純真ではなくなってきたことだろうか。ひねた人間が一人生まれたと言うことか。

クラブと附高祭

2010年08月17日 | 個人史
高校に入ったら、迷わずに音楽系のクラブに入ろうと思った。
吹奏楽部は当時なかった。後に中学時代吹奏楽をやっていた者が集まって活動が始まったのだが、まあ当然中学時代は楽器をやっていなかった僕には最初から縁はなかった。
唯一あったのが合唱部。で、迷わずに入部したのだが、僕以外の部員の全員が他のクラブとのかけもち。で、活動は不活発。実質活動をやったのが一年間で4・5回くらいだったか。そんなことで翌年にはつぶれていた。

当時2年の某先輩一人が張り切っていて、前年に文化祭でやったというオペレッタに感激して、自分で脚本を作ってオペレッタをやる気十分になっていた。しかも昨年の感激をレポートにして、どれだけ感激したのか、どれだけ頑張ったのかの文集を作って配布するというぐらい。しかし大方の予想通り、一人で盛り上がっているだけのいまいち白けるような内容だった。
昨年やったというオペレッタも、内容は15少年漂流記の亜流というか、当時TVでやっていた冒険ガボテン島の内容とほとんど変わらない、感激するようなオリジナル台本とは呼べないものだったし、彼が今年に用意した脚本もひとりよがりの内容で面白味に欠ける内容だったため、部員全員が無視する結果になる。

そんなわけで文化祭が近づいても少しもまとまる気配もなく、最終的には合唱部主催の音楽会を開いて出演者募集を行うこととなる。学内の数組のフォークバンドが出演、合唱部の数名もチームを作って出演ということでお茶を濁す。

うちの学校の校舎は、何かの工場跡を譲り受けて建てたような学校で、体育館という名前の建物はあるにはあったが、工場跡の中身を空っぽにしただけのような建物。とてもそこで舞台発表をできるような施設ではなかった。きちんとした体育館ができるのは2年後のこととなる。
そんなわけでステージ発表とかはなく、クラス発表ばかりで、模擬店がいっぱい、と言っても学内12クラスしかないので内容的にはそんなに重なることもなく文化祭は行われていた。
しゃれた催しがあったと言えば、社交ダンスの場が開かれていて、そこに入場すると初心者でも社交ダンスを手ほどきしてくれて、クラブの1年先輩のきれいなお姉さんに手を引っ張られて踊ったことがなつかしい。

文化祭も2年後にはもう少しきちんとしたものになっていくのだが、当時は学内紛争の火種がいっぱいある中で、不穏の状態の中だったという緊張状態もあったりする。

高校の体育大会

2010年08月14日 | 個人史
高校でも体育大会がある。当然だが。
僕の高校の体育大会は少しだけ変だった。なぜなら、服部緑地にある陸上競技場をわざわざ借りて行っていたから。
1周400mの正式なトラックである。フィールド競技もできる。ただし練習はない。ひたすら走るだけ。
観客席はやけにだだっ広い。ここに全校生徒500人弱しかいない。平日だから親はほとんどいない。実に寂しい限り。

1年の時はこんなものかと思うだけ。
2年の時は転校が怪しくて、とにかく集合したら雨で流れていた。そして学校に戻って遅れて授業。結局後日学校のグラウンドで行うことに。
3年になったらもう競技場を借りるなどと言う馬鹿げたことはしなくなって学校内のグラウンドで行った。それで十分。もっとも、2年時に引っ越しして服部の競技場には近くなったのに。

徒競走関係は苦手だから、体育大会のことはほとんど記憶にはない。
あえて探すとすれば、3年の時には、全学年4クラスだから縦割りのクラス対抗形式で行って、頼まれもしないのにクラスの応援団長を引き受けて頑張った。
縦割りリレーの四人五脚に出場して、ぶっちぎりの逆転で勝って、それもあって総合優勝を勝ち取った。

体育大会以外にも球技大会も行われたりもしたが、ひたすら足を引っ張った。
1年時には卓球の団体戦に出て、負けたけどチームは勝ったりとか。3年時にはバレーボールの補欠で、最後に出してもらえたけれど足引っ張りで、結局は勝ったから良いものの。

あまり体育関係に良い思い出はない。