丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

小学校でのクラブ

2009年06月24日 | 個人史
小学5年と6年では授業時間内でクラブの時間があった。全員何かのクラブに所属して週1時間のクラブを1年間行う。方よりも出てくるので希望制ではあるが人数が多いと調整で第二希望等に回されることもある。

僕は5年の時には「家庭科クラブ」に入った。おそらく学校始まって初めての男子部員だったのだろう。母から編み物等習っていたこともあって手芸関係は好きだった。留守家庭と言うこともあったから料理なんかもけっこうやっていたし。

調理もあったし、枕カバーの刺繍とかもやった。あと何をやったのかはあまり覚えてはいないが。

さすがにこれを2年続けるのはちょっときつかったので、6年では「器械体操クラブ」に入った。高所恐怖症で、高鉄棒、特に鉄棒で手を離すことはできなかったが、マット運動とかは得意だったのでこちらはけっこうよくやった。上手い具合に一年間高鉄棒はなかったこともあったが。
跳び箱の踏切も得意だったので跳び箱はけっこう高いのも跳べた。
今では肩を痛めて以来できなくなったが側転も得意だった。また家の畳の部屋で壁に背を付けて足を伸ばした状態で、腰の脇に両手を突いて体を持ち上げる練習とかも普通にやっていて、両手だけで体を浮かす、ちょうど足は水平に伸ばした状態で、オリンピック体操の吊り輪でやる「脚前距」という技を床でやる状態も得意だったので、けっこう器械体操向きだったのかもしれない。何度も言うが、高所恐怖症でなかったら体操をずっと続けていたかもしれない。

当時小学生の間では鉄棒の技が流行していて、高鉄棒で手を離して足の両膝だけで逆さまにぶら下がる「猫」という技が流行っていた。そのままの状態で体をゆすって飛び降りて着地するまでの流れがあるのだが、体操得意な子どもはみんなそれができていた。僕も練習したかったが、どうしても手を離すことが出来なくて一生できないままだった。
両足の間に両手を入れて鉄棒を握り、足は鉄棒から離してぶらぶらさせて飛び降りる「化け猫」という技もあった。これは手を離さないこともあり、降りるまではいかなくてもその姿勢だけならできるので、一度低い鉄棒でその姿勢になって、ほんの気のゆるみから、これで手を離すとどうなるのだろうと、思ってなぜか手を離してしまった。真っ逆さまに落ちて頭から地面に激突した。低鉄棒だったからよかったのと、石頭だからということもあって大きなこぶができただけですんだ。鈍い音と星が飛び回っていた。

鉄棒に関しては中学で大きな出来事もあるのだが、それはその時に書くことにする。

障害児学級

2009年06月20日 | 個人史
K小学校には障害児学級があった。かなりの人数がそこに在籍していた。肢体不自由児もいたし知恵遅れの子もいた。
普通クラスにも所属学級があって、肢体不自由児でふだんの学習に差し支えない子どもはほとんどの授業を普通学級で受けていたし、知恵遅れの子どもで授業についていくのがかなり難しい子どもの場合には、学級活動や全体活動の時には普通学級に戻ってきて、そうでないときには障害児学級で生活をしていた。実験的にかけっこう多くの時間を普通クラスで生活していたこともあった。

僕のクラスには肢体不自由児で、片手が麻痺している男子が1名と、片手片足が不自由で学力もかなり遅れている女子が1名、常時一緒に授業を受けていた。それとは別に知恵遅れの子で遠足や体育大会等の行事には一緒に参加する男子が1名所属していた。何の前触れもなくクラスに入ったり出ていったりしていたが、クラスの子供達はそういう出入りにはほとんど気にしていなかった。

修学旅行では当然同じクラスとして一緒に参加していたが、他のクラスがすべて保護者も一緒だったのに僕のクラスだけは一人も保護者がついていなかった。

障害児の子どもについては特に思い出深い出来事がある。

小学4年の頃、大阪の子どもにとっては当時吉本新喜劇は当たり前のようによく見ていた。当時人気劇団員であった平参平のギャグで、何かの拍子にびっこを引いて歩き出して、途中で膝を叩くとぴんと伸び上がって普通に歩き出すという物があった。ひょうきんだった僕は授業中にテスト返却で用紙を取りに行くときにそれを真似して歩いていたら、担任教師に後で職員室に呼び出されてこっぴどく叱られた。
クラスに足の悪い子がいるのにその真似をする、と言って。
別に彼女の真似じゃないのに、と思いながらも言い訳はしなかったが後味は悪かった。

盲腸の手術後、学校に復帰してしばらく体育の授業を見学していたら、ぼさっとつぶやいたようだ、何を言ったか覚えていないが、早く走れるようになりたいとか、そんなことをつぶやいたのだろう。そうすると、隣で同じく見学していた足の悪い女の子が、あんたはもうすぐ体育やれるやろうけれど、あたしらは一生体育でけへんのやで、と言った。
この言葉は痛かった。あれから40年以上経つけれど未だに心に突き刺さっている。

三度目の手術

2009年06月15日 | 個人史
東京オリンピックの開会式を三日後に控えた昭和39年10月7日のことだった。

その日は朝から体調が思わしくなかったことを記憶している。なんとなくだるいような。夕食を食べた後も具合が悪く、下腹が痛い。

昔から今もなお胃腸は弱く、しょっちゅう腹痛を起こしている。ほとんど持病。だから今でも腹痛の薬は携行している。以前には薬剤師の叔母が調合した薬を持ち歩いていた。この薬はよく効いた。

医者にはしょっちゅう通っていたから、検査方法も判っている。お腹を押してみて、左側が痛ければ大腸関係の病気。大腸カタルとか。中央が痛ければ小腸関係の病気。そして右側が痛ければ盲腸の疑いが高い。自分で触診してみて今度はどうやら右側のようだ。ほとんど間違いない。
夜、どうしようもなくなって、かかりつけの駅前の町医者に行く。歩いてはいけないくらいだったので兄におんぶしてもらって出かけた。医者についても診察は同じ。お腹を押してみてやはり右側が痛い。どうやら本当に盲腸らしい。ここでは手術もできないから、隣の池田市の市民病院に紹介状を書いてもらって行くことに。

駅前からタクシーに乗って市民病院に向かう。途中池田の駅前にある銀行の電光時計が11時58分を告げているのが見えた。
病院について血液検査。白血球の様子とかを調べる。手術をするのに間違えていては大変だから。結果、盲腸(正式には虫垂炎)であるのは間違いない、ということで緊急手術になる。

服をすべて脱がされてベッドに寝かされたまま手術室に運び込まれた。横では手術道具、メスやピンセットなどを煮沸消毒している。そのままの時間が長く感じられた。そして一つの疑問符がたえず頭の中をよぎっていた。……何か忘れてはいませんか?????……
専門家相手の声をあげることはできない。ただまかせるだけ。しかし何もないまま時間だけがすぎていく。……何か忘れてはいませんか?????……
そのうちにドラマなどでよく見る緑色の布がかけられる。直接体にふれないように枠をはめて、手足が勝手に動かないようにひもでゆわえられて。でも……何か忘れてはいませんか?????……
緑の布には手術をするお腹の部分だけが開かれている。そしておもむろに手術が始まった!
当然お腹を切る物質。ぎゃぁぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!!!!!

ここは普通麻酔をかけるところでしょう!なのに、いきなりお腹にグサッとやられた!!!!ぎゃぁぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!!!!!

あの痛みは一生忘れられない。昔々に舌を噛み切ったこともあったが、今度はいきなり切腹と来た。どういうめぐりあわせなのか。
そして感覚的にはお腹を横に切り開かれていく感覚。

後から思えば、あの痛みはその時にやっと局部麻酔を打った注射針の痛さなのかとも思う。麻酔薬を入れられた感覚が横に広がる感覚だったのかも。でも真相はわからない。何しろ布で覆われて何も見えなかったのだから。
意識がおかしくなって、途中一回起きかけて無理矢理押さえつけられた。後はどうにでもなれという心境。天井の穴だけをしきりに数えていた。

とにかくにも手術は無事に終了して、足の太ももにリンゲル液の太い注射針が差し込まれたままで手術室を出る。

病室は大部屋。本当は大部屋というのはあまり好きではないのだが。
つい最近母が亡くなる少し前に聞いた話では、この頃父はちょうど転職したばかりだったのでまだ保険の切り替えができていないときだったとか。手術費用などの工面が大変だったようで、ぎりぎり保険の手続きが間に合ったとか。

当時はまだ病室にTVなどはなく、病院には待合室に1台あるだけだったとか。そんなわけで東京オリンピックの開会式は見られなかった。兄たちは待合室まで行って見たという。

翌日、最初のガーゼ交換は痛かった。何しろガーゼが血で固まり着いているのをはがすのだから。痛いのはその1回だけだったのだが、毎回ガーゼ交換の時は体が固まった。未だに自分以外でも他人の傷口等を見るのは怖い。うっかり触って猛烈に痛い思いをさせてしまうのではないかという恐怖がある。

傷口は珍しく横に切られている。盲腸の手術跡は縦に切るのが普通のようなのだが。だから糸の後も含めるとカタカナの「サ」という形に傷跡が残っている。この傷口を触るのも怖かった。うっかり触って傷口が開いてしまうとどうなるのかなどと思ってしまう。

病院には一週間入院して、退院してからもう一週間家で静養した。歩き方を忘れたみたいで普通の歩行がなかなかできなかった。せっかく乗れるようになった自転車に乗れなくなっていたらどうしようかと思ったがこれは大丈夫だった。

学校に2週間行かなかったわけだが、その間の学習内容は抜けている。そういうわけでもないのだろうが、岩石についての話は苦手だ。家庭科は裁縫で雑巾を縫っていたのだが、雑巾を縫うのも苦手だ。関係ないとは思うが、ミシンを扱うのも実に苦手。昔は足こぎでミシンを動かすのだが、僕が使うと必ずミシンは逆方向に動いてしまう。
国語で漢字は「飛」という漢字を習っていた。なにか印象深い。

自転車

2009年06月13日 | 個人史
長らく自転車には乗れなかった。

昔は自転車というのはすごく高い物で、忘れもしない、40年前には物価が今は当時の20~30倍という時代に自転車は2万3千円した。今の金額に換算すると50万円になるかという。

ちなみに僕の計算基準は「たこ焼き基準」で、昔はたこ焼きは6個10円だったのが、今では6個で300円したりする。縁日等では500円もする。近くに日本一安いたこ焼き屋があったが、5個100円だった。とてもそれではやっていけないとかで、最近5個200円に値上がりした。それでもまあ安い方だが。

ということで、物価は確実に20倍から30倍になっているにも関わらず、自転車の値段は30年間ほとんど変わらない。

で、話を元に戻すと、とてもじゃないが自転車でさえ子ども一人に一台なんてもてるはずもない時代だった。ということを理由にして、長らく自転車に乗ることは出来なかった。子供用の補助輪がある自転車があったなら乗れるようになったのかもしれないが、ぎりぎり大人用の自転車しかなかった。昔の子どもはみんな「丁稚乗り」という乗り方をしていた。大阪商人では丁稚は大人用の自転車に足を三角のフレームにつっこんで立ちこぎをする。「となりのトトロ」でカン太が乗っていた乗り方。あれは本当に自転車に乗れる人でないとできない乗り方だ。

ということで、練習することもなく、ずっと乗れないままだった。大人用の自転車で練習しようと試みたこともあったけれどまるでだめだった。

それが、小学5年生の時、昭和39年8月16日に乗れるようになったのだった!

15日から滋賀県の叔母の家に家族で泊まりがけで遊びに行った。裏がちょうど琵琶湖なので、家から水着に着替えてそのまま入れるという環境。そんなこともあって、この頃はほとんど毎年叔母の家に行くのが習慣だった。
2歳下の従妹がいて、彼女が乗っていた自転車がもう使わなくなって古くなっていたのを、それで練習することにした。従妹の古い自転車だから相当小さなもので、またがって楽々と両足が地面に届いた。ということで、ちょっと進んでこけそうになったら両足をつければ良いのだから実に気軽。ということで、ちょっと進んでは足をつけるということを繰り返しているうちに長時間足を着かなくても進めるようになった。人生、生まれて初めて自転車に乗れた瞬間だった。

従妹の自転車はもう古くなった物だから、そのまま貰って帰って自分の自転車になった。

後の話だが、この自転車に乗っていたら警察官に呼び止められた。他人の自転車を盗んで乗り回していると思われたのだろう。誰の自転車かと問われて、元は従妹の自転車で、とか子どもながらの答でますます不審がられた。これ以来警察官にはトラウマ的な嫌な印象がつきまとう。できるだけ警察官には近づきたくないような。
(姪とその旦那が警察官だがどうしよう)

あまりに古い自転車だからタイヤがだめになっていて、何度もパンクする。3・4回くらい修理した後、タイヤ自体を交換した。自分用の自転車を買ってもらえるようになったのはずっと後の話。

ちなみにこの経験から、最初に自転車に乗れるようになるためには、両足がきちんと地面に着けることが大切だと思い、娘はいっぱつで乗れるようになった。

本の話

2009年06月11日 | 個人史
図書室に行くのは大好きで、図書の時間が楽しみでならなかった。
図書室にあったシリーズ物の話で好きだったのが、「タヌキの学校」というお話。学年毎にシリーズがあって、低学年ではタヌキの話やタヌキを飼う話なのだが、中学年以上になると擬人化してタヌキのクラスで起きる出来事の物語になっていた。全学年分楽しく読んだ。

時代が古くて、図書室には戦前の本もあったりした。算数の組合わせとかを扱った本なのに、プロ野球チームの対戦組み合わせで、チーム数が今と違ってリーグに7球団や8球団あったり。たとえば「高橋セネターズ」などというチームが健在の頃。まあ歴史の本でもあったりして、その本の内容以上にとんでもない発見もあったり。

当時一番面白かった本が「誰も知らない小さな国」。コロポックルという小人を扱った物語で、何十年も忘れられなくて社会人になってから文庫本を購入した。
次に面白かったのが、当時新刊本として入荷してきた「星の王子様」。今でこそ知らない人の方が少ないが、僕はこの本を読んだはしりだと思う。その直後、世間でも評判になり、TVの「笑点」では三遊亭円楽が自分のことを「星の王子様」と自称して一躍有名になり、中学に入るとなんと教科書に載っていて驚いたことがあった。

「星の王子様が」面白かったので、それと関係あるのだろうかと思って読んだのが「星の牧場」。全然関係ない本だったが不思議な世界の物語だった。数年後に寺尾聰主演で映画化されて知っている人もいるんだと感心したが。

5・6年の担任の先生が「芥川龍之介全集」を貸してくれて読み進めたこともある。小学生にはいろいろ難しい話が多かった。後にTVドラマシリーズで芥川龍之介シリーズがドラマ化されて、たくさん知っている話があって得した気分にはなったが。難しすぎて、結局全部を読み切らないうちに卒業になって本を返すことになった。ちょうど「河童」の途中だった。気になったので数年後文庫本で読み直した。今なら芥川の本もきちんと読めるとは思うのだが、なんとなくその気になれずにいる。

中学に入ったときに、週刊漫画雑誌はもうやめて、文学を本格的に読もうと思って、文庫本の後ろにある一覧表から、兄に推薦本を選んでもらってとにかく買いまくって読みまくった。乱読という奴か。それから自分の好みに合う本なども判るようになって選んで読むようにはなったが、若いうちは乱読も良い物だと思う。

担任教師

2009年06月11日 | 個人史
最初に入学した学校では1・2年がクラス替えなく持ち上がりで女の先生だった。途中で産休のため1学期間だけ産休講師の女の先生になったことはあったが。
転校した学校では2・3年がクラス替えなく持ち上がりのはずだったが、2年で女の先生だったのが3年では男の先生になっていた。おそらくは学年一の乱暴者がクラスにいたからなのかもしれない。もっとも途中で転校していったので何事もなかったのだが、正直担任の男の先生もホッとしていたようだった。

クラス替えのあった4年ではまた女のK先生になった。この先生はクラス中の子どもに好かれていた。なのに5・6年ではまた担任が替わり、男のK先生になった。
先にも言ったが、僕の人生、「K」というイニシャルにつくづく縁があるみたいだ。
この男の先生、校区内にあるお寺に住んでいる先生で、時々家を訪ねて遊びに行ったりもした。体育と算数が得意のようだった。僕なんかは好きな先生ではあったが、ときたまセクハラがあったようで、女の子からは嫌がられていたということを後に聞いたりもした。まあ昔から坊主と教師は嫌らしい物と決まっているような所があるが、二つ兼ね備えていれば二倍になるのかも。

中学校では1年では新卒の数学の男の先生、2年では前年まで障害児学級の担任をしていた女の体育の先生(ということで直接授業にかかわることはなかったが)、3年では音楽の女の先生が担任だった。でも中学時代に一番好きで、相性が良くて親しくさせてもらったのは担任でも何でもない初老の数学のI先生だったが。
だから卒業後中学校に行っても会いに行ったのはI先生ばかりだった。

夏の一コマ

2009年06月09日 | 個人史
川西の家は坂の途中にあったので、廊下側は2階の高さになっている。当時は高い建物がなかったので、池田市の五月山が正面に見える。

五月山では毎年お盆の頃に送り火が焚かれる。京都の五山の送り火と同じように大文字が焼かれる。場所が二カ所あって、「大」の文字と「大一」の文字がそれぞれ焼かれ、我が家の廊下から真っ正面にその文字が見える。

ちなみに今の家からはもう一つの文字を眺めることができる。

ある夏の日、外から盆踊りのお囃子が聞こえてきた。
盆踊り好きのわが家族はいてもたってもいられなくて、近所だろうと、音のする方向に出かけていった。しかし行けども行けども音の場所には近づかない。とうとう県境の川も越えてしまって、五月山までたどりついた。五月山公園で開かれていた盆踊りの音が、何も遮る物がないために直接聞こえてきたのだろう。当然帰りは電車の乗って帰ったが。

地区の公園でも夏は櫓が組まれて盆踊りが行われた。子ども向けには「オバQ音頭」などもあったが、僕は子どもグループの先頭に立って踊りまくった。
盆踊りと言えば郡上八幡が有名だが、岐阜の兄は近いからと言ってよく出かけていた。踊りの好きな我が家族だった。

映画

2009年06月08日 | 個人史
川西には当時映画館が2館あった。川のそばと商店街の脇に。

ある夜家族で映画を見に行くことになった。家からとことこ歩いて川の側の映画館に。橋幸夫のヒット曲「絵梨子」を映画化した物。夜中だったということもあり、暗くて嫌だったのかもしれない。入場して5分もたたないうちに帰りたいとだだをこねた。一人で帰るつもりだったがさすがに一人では帰してくれなくて、結局入ったばかりの映画館を出て行くことになった。

たぶん其れ以来だろう、映画は一人で行くのが気楽だと思い出したのは。

今でもそうだが当時からいろんな映画を見まくった。
夏には東映漫画祭りがあった。たいていはTVの連続アニメの2話分くらいをまとめて上映するのだが、3作品くらいまとめて放映でお得。
覚えているのが、「風のフジ丸」「狼少年ケン」。フジ丸は本来原作は白土三平の「風魔小太郎」なのだが、スポンサーの藤沢薬品の都合で名前が変えられた。だからどこにもフジ丸での原作はない……と思っていたら、先週東京に行ったとき、別作家で「風のフジ丸」のコミックが売られていた。まあいいが、やはり白土三平で読みたい。

映画と言えば、昔からけっこうミーハーで、アイドル映画をよく見ていた。
スリーファンキーズという3人組の男性人気ユニットの物語とか、植木等の無責任シリーズとか。
ザ・ピーナッツの映画を見た。双子の姉妹なのに両親の離婚で別れ別れになり、お互いの存在も知らなかったのが偶然に出会い、入れ替わってお互いの家に潜り込んだり、後に二人でコンビの歌手になるとか。つい先年実によく似たストーリーの物語をNHKの朝ドラでやっていたような。まあ「双子のロッテ」以来ありきたりのストーリー展開で、双子タレントがいれば簡単に思いつく企画ではあるが。

映画は昔は自由席でいつ入場してもよかったから、とにかく座りたいためには、前の上映が終わる少し前に入場して、終わって前の客が出て行くときに席を確保すること。ときどき同じ考えで座り続けていた人もいて狙いの席が取れなかったこともあったが。

小学生時代だからまだ英語の映画は難しかったし、昔は吹き替えが当たり前だったから外国映画も吹き替えが多かった。特にディズニーアニメはほとんど吹き替え。
「ピノッキオ」が印象深い。後はつい先年リメークされた「フラバー」とか。
劇場アニメでは「西遊記」「少年猿飛佐助」「わんぱく王子のおろち退治」「シンドバットの冒険」などなど、子ども向きの映画が多かった。

結構面白かったのがクレージーキャッツ出演の「花のお江戸の無責任」。歌舞伎で有名らしかった物語をクレージー風にアレンジして内容的には格調高かった。

映画で忘れてはいけないのが怪獣物。最初に見たのが「キングコング対ゴジラ」。続けて「モスラ」「モスラ対ゴジラ」「モスラ・ゴジラ・ラドン、三大怪獣地上最大の対決」などなど。大映の「ガメラ」とか「大魔神」などもリアルタイムで見た。大魔神は映画的にも優れていると思う。何しろ大魔神が登場するのは最後の最後であくまでも時代劇のストーリーで引っ張っていくのだから。

逆の意味で印象的なのは「マタンゴ」。予告編でびびってしまって、未だに見る気にはなれない。それほど予告編だけで恐かった。

チャップリンの「独裁者」を見たのも小学生だったと思う。初めてチャップリンを知ったのだが実に印象的だった。後の話だが、大学時代、お金がない頃に連続してチャップリン映画を上映していたのだがいくつかを見れなくて残念だった。

クラスメイト

2009年06月06日 | 個人史
小学校4年~6年の3年間はクラス替えがなかったので、小学校高学年の密なる3年間を同じメンバーで過ごしたことになる。だからひときわ印象も強い。

特に親しいわけではなかったがFK君。良家の子どもという雰囲気で当時としては珍しいヴァイオリンを習っていた。クラス会で演奏もしたがそんなに上手でもなかったが、小学生なら仕方がないかも。勉強もできていまいち好きにはなれなかったが、私立中学に進学したので小学校でおさらば。
後に再会する。場所は高校入試の会場。たまたま同じ高校を受験して同じ試験会場の教室にいた。彼は同じ中学の友だちと一緒で、特に親しくもなかったから知っている顔があるくらいの印象か。忘れもしないのが、国語だったかの教科の試験が終わった後の休憩時間、少し難しかったと思っていたら彼が友人達との会話で、易しい問題だったと話していたこと。ちょっとカチンときた。
で、結果は合格者名簿に彼の名前はなかった。

女の子達とは特別に親しい人はいなかった。川西はけっこう田舎の雰囲気があって男女が仲良くするとすぐに悪口を言われたりする物だからちょっと敬遠しないといけなかった。数名たまに遊んだ子もいたりはしたが。

男子の友人はけっこういた。

一番遊んだのがI君。顔が五角形で野球のホームベースに似ていた。家も近かったのでよく彼の家に他の友人達と一緒に遊びに行った。今でも覚えているのが、彼の家で初めてテープレコーダーで録音をしたこと。誰でも最初に思うことだが、自分の声を初めて聞いたときの違和感。けっこうショックだった。歌を吹き込んだのだが、みんなでいろんな歌を歌った。その当時流行っていた「北京の55日」「自動車ショー歌」とか。

FJ君は猿顔の小柄な少年。沖縄生まれの奄美大島育ちとか。たしか父親が米兵だったとかなかったとか、ハーフなんだろうと言っていた。もっとも父親の苗が日本名なんだから、もし米兵としてもハーフだったりして。だったらクオーターか。名前の方がちょっともじれば外国名に聞こえなくもないので、時々そういう呼び方もしていた。彼もI君の家で一緒に遊んでいたときの写真がアルバムにある。
中学は校区が違うので(北側はK中学校、南側はK南中学校に分かれる)小学校卒業後は会うこともなかったのだが、思いも寄らない場所で再会することになる。
成人して教会に通い出した大学生の頃、先年若くして亡くなった牧師がまだ神学生の時、祈祷会で学校の友人を連れてきたことがあった。顔を合わせてお互いびっくり。なんとFJ君だった。親の事情で苗字が替わっていたけれど、それにしてもこんな場所で再会するとは夢にも思わなかった。まあその一度だけでその後会うこともなくなったが。

鹿児島からの転校生U君とも親しかった。彼が児童会に立候補することになったときは、応援団に回って作戦会議をすることになったのだが、演説原稿を僕が書いて持って行ったらそれですっかり安心してしまって後は遊んでしまった。結果は落選。

同じく転校生のN君はやけに顔が長い馬面の少年。近い時期に転校してきたM君はゴジラによく似ていた。IN君はイナゴによく似た逆三角形の顔をしていていろいろ笑わされた。
小学4年生は遊び道具がなくてもすぐに遊びを思いついて、よく遊んだ。正月休みに集まって遠くに遊びに行く計画も立てたのだが、親に知られて猛反対されて断念。ちょっと残念だった。

Uさんのこと

2009年06月03日 | 個人史
小学4年でクラス替えがあって、新しくクラスメイトになった女の子にUさんがいた。美形の目立つ子だった。そんなわけで男子もちょっと近寄りづらいという雰囲気で、いろいろ気にしているのはいても、表だっては言えないというような。
そういう時にはたいてい誰かが犠牲者になって、あいつが彼女とあやしい、とか、火のない所に煙を立てようと言うことになり、そういう立場に僕が陥れられることに。僕個人的には男女で分けるような意識は元々もってはいないのだが、うるさく言われると何となく避けるようにもなったりもする。

Uさんは音楽を専門的に習っていたというようなことで、ちょっと他のことはその頃から違っていた。ちなみに卒業アルバムを誰かに見せても、知らない人でも一目でUさんがわかるくらい。
家にも一度遊びに行ったことはある(他の女子数人と一緒にだが)が、音楽を習っているのは当時としては珍しいほどに上流の家庭という雰囲気だった。家に行ったのはその一度きりだった。

小学校を卒業後、Uさんは中高一貫の学校に進学したので中学時代は会うこともなかったが、高校受験で僕がその高校に合格して再会することになる。もっとも高校時代はクラスも違うこともありほとんど話もしなかったが。

彼女はいつも、よく似た女の子と行動を共にしていて、ある時によく似ていることを尋ねたことがある。従姉妹だという答だった。それが高校時代唯一の会話だった。
そのうちに学校で彼女の姿を見かけなくなった。風の噂で宝塚音楽学校に合格して高校を中退したらしかった。ちなみに先日開かれた高校の同窓会には出席者に名前を連ねていた。僕はその会には欠席したのでよくは知らないが。

宝塚の舞台にも出たようで、当時に過激団員の本を立ち読みしたら名前とアンケートが載っていた。
宝塚時代はそんなに長くなかったようで、その後TVに移って2時間ドラマに出ているのを見かけたことがある。先日ネットで調べるとけっこうTVにも出ていて、今でも現役でやっているようだ。
ちなみに彼女の妹も宝塚に入り、こちらは娘役トップまで行って、駅のポスターでもよく見かけたが、結婚を機に引退したとのこと。Uさん本人のHPにそんな話が書かれていた。