いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

六義園 その5:ススキのひとり言

2008-01-07 01:15:28 | 散策
亥は光陰矢の如し。
好奇心旺盛な子がやってきました。
楽しいことはねずみ算で増やし、苦しい時は猫を噛んで撃退する子年です。

私は、太田道灌が品川の館から江戸の館へ移り、江戸城を築く前から六義園に住んでいるススキです。

久し振りに、寛正5(1464)年、「静勝軒」(初代江戸城天守閣)からの展望を詠んだ道灌の歌を思い出しました。

       我が庵(いほ)は 松原遠く海近し
          富士の高嶺を 軒端(のきば)にぞ見る

城の前に広がる日比谷入江、入江へ流れこむ小石川も近くにありました。静勝軒の眼下には品川から浅草や隅田川が広がり、はるか彼方には富士山から武蔵野平野や筑波山を展望できたのです。

そうなのです、道灌が江戸城を築いた頃、江戸の地は葦の茂る草深い片田舎でした。
豊臣秀吉は、地政学的な見地から、ここは領地経営の拠点とするには最適の地であると、徳川家康へ下命したのです。家康は徳川幕府に相応しい江戸城の築城を手始めに、町造りに着手します。家康亡き後も歴代の将軍がそれを忠実に継続して行い、片田舎は城下町として整備され発展してきたのです。私はそれを見続けてきました。

この六義園は徳川五代将軍・綱吉の側用人(そばようにん)であった柳沢吉保の別墅(べっしよ:高級別荘地)の庭であったこと、その謂れは何方もご存知ですね。

『元禄8年4月20日、この日柳沢出羽守吉明に、染井村にて、別墅の地・四万七千坪を給ふ。これ後に山林泉石の景到をかまへ、六義園と称し、霊元上皇(れいげんじょうこう)御題詠をたまひて名園と、世にもてはやせし所なり(徳川実記・第6編 常憲院殿御実紀の吉明賜染井村別墅地)』

『柳沢吉保の下屋敷。綱吉より元禄8(1695)年、当時、染井村駒籠(こまごめ) に47,000坪の地を与えられた吉保が7ヶ年をかけて完成し、彼みずから園名を六義園(むつくさのその)、屋形(やかた)を六義館(むつくさのたち)と名付けた。
 古今集の序にある和歌の六義(りくぎ)にのっとった命名で、吉保自選の園記に あるように、和歌浦(わかうら:和歌山県和歌の浦)のすぐれた名所を写し「和歌」にちなんで「万葉集」「古今集」などの歌枕や歌意より園内に八十八境を作っている。
 千川上水(せんかわじょうすい)から水を引いて園の中央に大池を開いて、二つの中島を築き(蓬莱島と称する岩島は明治に設けたもの)、諸国の名石を集め、贅を尽くした回遊式大名庭(かいゆうしき・だいみょうにわ)である。北の大中島築山の頂上は園池の俯瞰によく、富士山や筑波山の展望台でもあった。
 当初より敷地が狭くなったが、庭園の主要部分は良く伝えられ、約10万平方メー トルのうち62,700平方メートルが特別名勝に指定されている(日本史大辞典 第 6巻)』

現存する六義園・染井門は染井村の名残りでしょう。
駒籠(駒込)村が元禄の改で上、下に分割された時、駒込村枝郡として分立して染井村が誕生しています。徳川実記にある染井村は枝郡として分立した染井村でしょう。

『日本の首都、江戸の郊外には、商売用の植物を栽培している、大きな苗木園が幾つもある。
 江戸の身分のある人びとは、すべて高度の文明人のように花を愛好するので、花の需要は極めて大きい。江戸の東北の郊外にある団子坂、王子、染井の各所には、広大な植木屋がある。私が江戸に来た主要な目的の一つは、これらの場所を調査することにあったので、時を移さず訪ねることにした(幕末日本探訪記・江戸と北京:ロバート・フオーチュン)』

幕末にここを訪れた英国人の著書に「江戸の東北の郊外にある染井」と記述していますので、枝郡染井村が上駒込村に組み入れられてからも、その地域を染井と呼んでいたのでしょう。今、本郷通りから染井霊園方面へ入る枝道の分岐点が六義園・染井門の前にあり、枝道は「染井通」と命名されています。

幕末日本探訪記に記述されていたのは、染井にあった大規模苗木園を有する植木屋と盆栽を作る技術に関することだけで、残念ながら、六義園については触れられていません。それは、多分、明治11(1878)年に岩崎弥太郎が別邸地として六義園を含めた周辺を購入して復旧するまでは荒廃するに任せていたので、廃園同然だったからでしょう。

元禄14(1701)年4月25日、桂昌院(けいしょういん・綱吉の生母)が六義園に立ち寄ることになり、吉保は心の限りを尽くして迎えますが、六義園の出来栄えには満足しませんでした。

『それなりに盛大であったけれども、その折は山里の整備もまだ不十分で、あるじの君(吉保)は物足らぬことに思われていた(松陰日記:正親町町子)』

六義園のデザインが吉保にあったのです。

『このお邸は、松の柱や杉の戸をたいそう簡略になさったけれども、昔からしかるべき趣があるように工夫をこらしておられた。それに、今またどうしても必要なところなども加わって、君のお住まいになるところをはじめとして各方面に、遁世をしたときのことを考えて計画を立てておいたので、さらにたいそう広々と造り続けて、あちらこちらを通ずるようにし、まことに風雅なうえに、趣深くせいせいする様子である。「六義園」と申した邸は、ふだんのお住まいに続いて、庭園の方がゆったりと広々と見えるのは、ひどく趣がある(同日記)』

ですから、出来上がっている館、庭園に駄目を出したのでしょう。
また、六義園の造営指導と施工監理にも吉保の人柄、苦心の跡が窺えます。

『駒籠の山里は、たいそう広範囲な場所を占めており、山水の配置も風情があるところである。そこに年来しかるべき居宅を作られ、庭などもまたとなく趣深く工夫される。君(吉保)ご自身はお暇がなくて、いらっしゃれない。家人が毎日行きかよって、しかるべく築造するはずの模様を絵に描いて差し出し申したので、それを一日中ご覧になって、あれこれと指示される。そこで、君は現地には伺かがわれなかったものの、心配するところはなかった(同日記)』

参勤交代が定着してからは、将軍を接待する目的で江戸屋敷内に造園するのが当たり前でした。
それらの庭園は大名庭園(だいみょうていえん)と呼ばれ、後楽園(現・小石川後楽園)もそのひとつです。水戸初代藩主・頼房が徳川二代将軍・秀忠から7万6,689坪の邸地を寛永6(1629)年2月1日に下賜され、9月末に完成した邸館を中屋敷にします。水戸二代藩主・光圀(みつくに)が家督を相続した寛文元(1661)年から元禄3(1690)年に隠居するまでの29年間に亘り整備していたのが後楽園です(小石川後楽園:吉川需・高橋康夫)。

しかし、後楽園の景観は一変します。桂昌院が後楽園を訪れることになり、回遊する園路に危険のないように大部分の大石や奇石を取り除いたからです。元禄15(1702)年、桂昌院は78歳です。水戸家は、断腸の思いで安全を最優先して決断を下したのかも知れません。
2年前の12月6日、73歳で没した光圀ならどのように裁いたか、興味の湧く出来事です。

他方、六義園の工事がすべて終了したのは元禄15(1702)年8月13日です。
道灌山、王子稲荷、円勝寺から谷中感応寺を経て、日暮里をまわって帰城する途中、柱昌院は、六義園に立ち寄っています。六義園のすべての工事が終了したのは、それから、1年4カ月後のことです。吉保は最後の仕上げを指示して、工事着工から7年余をかけて完成したのです。

それから、後楽園と六義園は江戸の名園として評判になったようですが、柱昌院を迎えた水戸家と吉保の応対から判断すると、現存する両庭園の景観で比較することは無意味なようです。おそらく、後楽園が名園と絶賛されたのは、柱昌院が訪れる前の景観ではないでしょうか。

松陰日記に六義園に対する吉保の関心度合いを推し量る記述があります。
元禄13(1700)年 8月22日 、吉保は六義園を訪れていますが、

『 君(吉保)は、駒籠というところに山里(六義園)をお持ちになっているのを思い出されて、そこへ出かけられた。(中略)。ここ数か月来、お暇がおありにならず、お邸から遠い所領はたいていお覘きになることさえなかったので、この山里の庭など滅多にお手入れをなされない。人気(ひとけ)もなく荒れまさって、野辺の松虫が得意気に鳴いている。お入りになる宿は、以前から総じて飾り整えて建てておかれたものである。そこで、今日こちらへお渡りになるということで、管理人などが掃除し整頓して、さすがにこざっぱりとした感じにした』

ここには、吉保が六義園に余り執着していない様子が窺えます。
神田橋の内邸にある吉保邸の見事な紅葉を観て山里を思い出しているのです。ほぼ完成に近い六義園ですが、職務多忙で手入れをしていない、仕事人間だったのでしょうか。

8か月後、柱昌院が詣でる王子には王子神社、王子稲荷があり、日暮里に近い谷中には諏訪神社、南泉寺があります。どちらも徳川家と縁(ゆかり)の深いところです。王子からの帰りは日光御成街道(岩槻街道:本郷通り)を通ることを吉保は熟知しています。虫の知らせがあったのかも知れません。

綱吉の長女・鶴姫と養女・八重姫が六義園に遊びに来ています。
元禄16(1703)年3月13日に鶴姫、5日後に八重姫です。
当時、東山天皇の治世で院政を敷いた霊元上皇から六義園十二境八景歌の御題詠を賜ったのは3年後の宝永3(1706)年10月です。

六義園十二境歌から一首

  春秋を わくしともなし花ならぬ 藤代の根の松の緑は

  (春秋を区別することなく、いつもかわらないことだ。春だけ咲く桜の花とは違う、藤代の嶺の常盤の緑は)

六義園八景歌から一首

  しばしなほ 入日のあとも暮れやらで 光を残す花ぞ目ぬかれ

  (吟花亭あたりでは、入日の後もしばらくはなお暮れてしまわないで、残照に映える桜の花は、目を離すことができないほどすばらしい)

吟花亭(ぎんかてい)の周辺には桜が沢山植えてあり、あたかも吉野のような雰囲気であった、とボランテイア・ガイドも説明しています。吟花亭で休憩をした鶴姫、八重姫は、桜の素晴しさに心を奪われてしまい、しばし時を忘れていたとの伝聞が残っているようです。
六義園の名声は、霊元上皇から六義園十二境八景歌を賜った時に確立したのでしょう。

吉保の主君・綱吉は宝永(ほうえい)6(1709)年2月19日に薨去(こうきょ)しています。
吉保は6月3日に幕府の役職を辞すると共に家督を吉里(よしさと)に譲り、18日に隠居して六義園に籠もり、5年後の正徳4(1714)年11月2日、56歳で生涯を終えています。

それからの六義園は、柳沢三代藩主・信鴻(のぶとき)が隠居してから18年間住んで居ました。寛政4(1792)年3月3日、信鴻が亡くなった後、約7年間は利用がないため、荒廃するに任せられ、その跡も残っていなかったようです。それで、四代藩主・保光(やすみつ)が文化6(1809)年に約1年をかけて復旧工事と園内整備を行いました。

しかし、復旧された六義園は柳沢家代々の当主が隠居して使う程度でしたので、次第に頽廃に傾き、明治維新後は全く荒無に帰していたのです。

岩崎弥太郎が六義園に隣接している藤堂・前田・安藤諸家の邸地を併せて購入し、弥太郎の没後弟の弥之助が明治19(1886)年に修復工事を進めたので、現在の六義園が再生したのです。

六義園の思い出は沢山ありますが、今回はここで終わりにします。
長い話にお付き合い下さり、感謝しています。
盆栽の手入れが行き届いているので、私と再会するチャンスは少ないでしょうけれども、その日を楽しみに待っています。



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