「あみだ様」(写真)の建立350年祭が11月1日行われました。
主催は、下諏訪町商工会議所、町観光協会などで構成した実行委員会とのこと。というのは、祭りには参加できず新聞情報によるからです。
万治3(1660)5月25日に鑿(のみ)を入れられた耀石安山岩の小袋石(こふくろいし)は、11月10日に頭を据え付けられ、阿弥陀如来が化生(けしょう)した石仏(いしぼとけ)となり、信者に「あみだ様」と呼ばれてから350年目に当たる年を記念したお祭りです。
あみだ様を造立したのは、明誉浄光と心誉慶春と謂れ、浄土宗に帰依した法名(ほうみょう:生前に出家し仏門に入った者が名乗る名前)願主であり、二人の関係などは下諏訪町生涯学習情報(以下、生涯学習情報)を参考にして「その2」に書きましたが、もう少し探ってみます。
『宮島潤子さんは、その「万治の石仏」の謎を追って、長い探索の旅を続けてこられた篤学の人である。ときに民俗研究者として各地のフィールドに執拗な探求の足をのばし、また時には歴史研究者として新発見の文書の解読に精力を注いできた。その実態調査と資料探索のなかから本書「謎の石仏-作仏聖の足跡」が生まれることになった』(山折哲雄:宮崎潤子著・謎の石仏-作仏聖の足跡解説)。
「あみだ様」に関わっている作仏聖(さくぶつひじり)の思想とその系譜について、宮島潤子氏を紹介した山折哲雄氏は、次のように解説しています。
『わが国には古くからあった、民衆の間に伝道し、民衆の苦しみや悲しみに直接答えようとした聖(ひじり)と呼ばれる民間宗教者の流れは、江戸時代になっても伝統は受け継がれていった。
蝦夷地などの辺境の地に遊行漂泊して民衆教化の仕事に携わる遊行僧や回向聖、木食戒のような厳しい禁欲生活を守って仏像を彫り、祈祷や占いを行った木食行者や作仏聖たちがそれである。このような作仏聖や遊行聖の系譜から円空(1632~95)と木食行道(1718~1810)のようなきわ立った才能が生み出されてことは、既に広く知られている』
『本書の中に登場する主人公たちが、そのような木食行者や作仏聖たちなのである。
弾誓(たんぜい)を初祖と仰ぐ、但唱(たんしょう)、長音(ちょうおん)、閑唱(かんしょう)、空誉(くうよ)、明阿(みようあ)、山居(さんきょ)と続く「作仏集団」(仏像造りの聖集団)の流れである。彼らの多くは、円空や木食にやや先立って、あるいは殆ど同時に活躍した聖たちであるが、その業績や足跡は円空、木食に比べると闇に包まれた部分が多く、十分に明らかにされてきたとはいい難かった。否、むしろ歴史の片隅に押しやられたままであったと言ってもよいだろう。宮島さんは、その作仏集団としての弾誉教団の歴史と活動を資料的に解明することを通して、「万治の石仏」の謎に迫り、その背後に広がる当時の民衆宗教家たちの実態をわれわれの眼前に生き生きと蘇らせようとしている』
さて、小袋石に鑿を入れ「あみだ様」を刻んだ二人の願主の話です。
結論を先に書きますと、清念や説難は、弾誓を初祖として、但唱、長音、空誉と続く継承者である弾誓4世・空誉と相弟子関係にある。清念と説難は、明誉浄光と心誉慶春であるとして、宮崎潤子氏は弾誓派の系図に挙げています。つまり、明誉浄光は清念、説難が心誉慶春であったのです。
「あみだ様」は、宮崎潤子氏が述べているこの二人に関する逸話を書き出すようにと、元気印の夢枕にお告げをして急かすのです。
『願主であり勧進元である作仏聖の法名には誉号がついている。この誉名を与えるようになったのは長音の代からで、その最初が江戸安養寺の直弟子で当時19歳の4世空誉であった。正保3(1646)年、長音が相川弾誓寺(新潟県佐渡市)を建立し、本尊造立のため、奥州十三湊へ材木を調達しに出掛けたおりに、清念(当時18歳)、説難(当時12歳)の二人の弟子がしたがった。長音は後年、この二人にも当然のことながら誉号は与えたはずで、その二人が「万治の石仏」の願主となった万治3年、つまり清念32歳、説難26歳の時には明誉、心誉の弾誓流の法名を持っていたことは容易に推定できる』
つまり、生涯学習情報で推測していたことを、宮島氏は自らのフイールドワーク調査から大胆に推定したのです。
『寺僧であった長音の弟子清念と説難は、寛永年間(1624~1644)に続々と造立された常盤南部(茨城県竜ヶ崎市、水海道市周辺)の大日像や大日三尊像の存在を、目黒行人坂(東京都品川と目黒の区境)の安養院にいた清念と説難が知らぬはずはなく、かつて長音にしたがって赴いた秋田帰命寺や、但唱の湯殿山(日原一石寺)、湯殿山の大海法印が開いた大円寺(明王院)において、湯殿信仰の影響を受けなかったはずもない。
このようにみてくると、「あみだ様」こと「万治の石仏」は、弾誓一派における仏頭への熱い祈りを造形化しているとともに、胸の図柄や卐(左マンジ)はこの時代の弾誓一派と湯殿行者との交流を示しているとみることができる』
『長音が中興開山した安養院は、弾誓系の木食の寺と湯殿系の木食の寺がともに護国院に属していたので、弾誓系の作仏聖は、湯殿信仰とかかわりを持つことができた。帰命寺から10里ばかりの山形県の湯殿山は、即身即仏で有名である。
湯殿山の行者が木食後に入定(にゅうじょ:真言密教の究極的な修行のひとつ)するのは、作仏聖とは思想的に異なる。代受苦までは同じであるが、その目的は6億7千万年の後に弥勒(みろく)がこの世に現れるときまで、自己の肉体をミイラ化させて現世に残し結縁(けちえん)を続けようとするものである。
作仏聖の場合は、初祖弾誓以来、民衆との接点を仏像と考えた。弾誓の「心」を形としてこの世に残し、永遠に民衆との結縁を続けようと志すもので、それは入定ミイラのように肉体不壊(ふえ)の思想とは異なり、霊魂を仏像に封じ込めて霊魂不壊の思想であった。心を形に残す手段として一方は「入定ミイラ」となり、一方は民衆救済の誓願に基づく「作仏入定」となった』
と延べて、別のところでは、
『護国院系の融通念仏と弾誓流念仏は表裏一体であった』との結論を出しています。
さらに、「あみだ様」の持つ特徴は、
『但唱の作仏の特徴は、木彫と石彫の両方がこなせることであるが、但唱と弟子の一部は、木彫仏からはじめたが、やがて石仏も堂々とこなすようになった。「万治の石仏」の弥陀の定印(じょういん)や三衣(さんね・袈裟)の繊細で軽やかな線の美しさには、高度の技術がみられる。清念や説難は佐渡を離れて長音にしたがい、江戸をはじめ本土を回国した作仏聖であった』
そして、
「万治の石仏」も同様で、仏頭の表現の技法はきわめてシンプルでありながら、仏師の写実的な木彫技法の及ばぬ内面の深さを示し、胴体の複雑な線彫りは、広い岩面に冴えた鑽(たがね)が駆使されており、圧倒的な量感で迫ってくる。線彫の線が叩きっ放しのあたりにも、職業的石工とは異質の野生がみなぎっていて、祈りが先行する宗教者の作という感がある。清念や説難にとっては、おそらく一生に一度の大作であったに違いない、と著しています。
「万治の石仏」を解説した生涯学習情報を思い出します。
『高島藩主・諏訪忠晴(ただはる)公が、万治2年(1659)春宮の石の大鳥居を寄進した。そのときこれを石材にしようとして石工が鑿(のみ)を入れたところ、血が流れ出たので神様の祟(たた)りと恐れて中止した。その夜石工の夢枕に、上原山(茅野市)に良い石材があるというお告げがあり、上原山の石を使い、急ぎ阿弥陀(あみだ)様を祀って、鳥居の完成を祈願した」という。現在も残っている鑿(のみ)の跡はその時のものと言われている』
『雲をまとった桜樹を代り自ら影像を彫刻しようとしたが、たちまち熱血が流れ出したので半作のまま中止した。これを「斧作りの御影」という』
ことも前に書きましたが、元気印は次の伝承が気に掛ります。
『弾誓が岩泉に浴しているとき、五社の善神(天照、八幡、春日、住吉、熊野)が現れて、神道の秘奥を授けるために弾誓の背筋を知剣で断ち割り、凡骨と抜き変えたのち頭上に神水を注いだ。こうして「換骨の秘儀」は終わったと「畧伝」にある』
その挿絵に描かれている弾誓の背中からは、骨もあらわに鮮血をほとばしらせており、スリリングな迫力がある、と宮島氏は述べています。石仏の背中から流れ出した血、桜の大樹から流れ出した鮮血に、どこかで繋がっている言い伝えのように想像してしまいます。
『徳道上人の生まれた矢田部(兵庫県揖保郡太子町)には、上人の偉業に感動して動いたと伝える大岩、感動岩が遺跡となっており、別の山中にも、上人が岩上に座して行をしたという三つに割れた大岩の遺跡があったが、こちらのほうはそのひとつに石工がノミを入れると、割れ目から鮮血がほとぼしった、という「万治の石仏」と共通した伝承が残っている』
のですから、尚更その思いが強くなります。
『過日、虫倉山中の木食仏を調査したおり、小川村の大日方英雄氏邸内に立つ毘沙門堂で千体仏に出会った。全体に歳月の間の痛みがみられるが、高さ11cm~14cmの地蔵立像である。そして驚いたことにその眼の彫はまさに「万治の石仏」の眼と同じであった。頭形は細長いもの、円いものが混じり、背丈や表情も少しずつ異なるが、親指の頭ほどの仏頭の眼は単なる線彫りではなく、小さいなりに上下の瞼から眼底に向かって深く抉られている』
続けて、
『技術的に共通しているだけでなく、こちらを向いたお顔の奥深いまなざしは、「万治の石仏」と同じ呪術的な雰囲気に満ちていた。明誉と心誉はここにいたのである。ようやく二人にめぐり会えたという思いで私は緊張した。万治3年から少なくとも5年ほど経っているのであろう。明誉は40歳近く、心誉も30歳半ばになっていたはずである』
ここまできて、やっとこさ、元気印は「万治の石仏」を彫った明誉と心誉が、清念と説難であることを確信するのです。
「あみだ様」の謎解きは終りに近づきます。
「万治の石仏」が小袋石であった時代に弾誓は、この神石の上に座って、神から生まれた仏として念仏を唱え説教した様子が想像される。それは播磨の檀特山(だんとくさん:兵庫県姫路市)の大岩上に座った徳道上人以来の歴史であり、北安曇郡松川村板坂に残る弾誓の岩上の説法そのままの光景であったろう。諏訪下社への参詣者が渡る橋の手前で、弾誓は神も唱える。しかも諏訪明神が守護神である融通念仏の勧化を続けた。女や子供の救済に力を入れた弾誓の勧化において、子安信仰のこの神石はまことにふさわしかったといわねばならないし、この神石そのものが弾誓遺跡であったことに、宮島氏は改めて気付くのです。
この地が神領であることからみて、弾誓が下原、東山田とともに神領で布教したことを教えてくれる。神領の村人たちは、下社の奉仕に通い続けていたから、たちまちのうちに薬師参詣道の神石で布教していた弾誓の熱心な支持者となったことだろう。ここで得た浄財が、山中の一草庵から法国山阿弥陀寺という弾誓の法名の二字を山号につけた現在の唐沢阿弥陀寺(長野県諏訪市)建立の基金となった、と宮島氏は指摘しています。
その阿弥陀寺で万治3年5月25日、弾誓の50回忌が行われたのです。
その帰途に、明誉と心誉は下諏訪町の砥川のほとり、弾誓以来の信者たちが待つ東山田へ向かいます。そして、弾誓遺跡の「ゑぼし石:烏帽子石」(小袋石)の傍に庵を作り、翌日から早暁の砥川で禊(みそぎ)を行いつつ6カ月間に亘って造仏に励み、11月10日に「あみだ様」が誕生したのです。
生誕350年記念のお祭りが11月1日に開催されたのですが、「あみだ様」は、相も変らず仏頂面(ぶっちょうずら)をして「万治の石仏」を装っているようです。
主催は、下諏訪町商工会議所、町観光協会などで構成した実行委員会とのこと。というのは、祭りには参加できず新聞情報によるからです。
万治3(1660)5月25日に鑿(のみ)を入れられた耀石安山岩の小袋石(こふくろいし)は、11月10日に頭を据え付けられ、阿弥陀如来が化生(けしょう)した石仏(いしぼとけ)となり、信者に「あみだ様」と呼ばれてから350年目に当たる年を記念したお祭りです。
あみだ様を造立したのは、明誉浄光と心誉慶春と謂れ、浄土宗に帰依した法名(ほうみょう:生前に出家し仏門に入った者が名乗る名前)願主であり、二人の関係などは下諏訪町生涯学習情報(以下、生涯学習情報)を参考にして「その2」に書きましたが、もう少し探ってみます。
『宮島潤子さんは、その「万治の石仏」の謎を追って、長い探索の旅を続けてこられた篤学の人である。ときに民俗研究者として各地のフィールドに執拗な探求の足をのばし、また時には歴史研究者として新発見の文書の解読に精力を注いできた。その実態調査と資料探索のなかから本書「謎の石仏-作仏聖の足跡」が生まれることになった』(山折哲雄:宮崎潤子著・謎の石仏-作仏聖の足跡解説)。
「あみだ様」に関わっている作仏聖(さくぶつひじり)の思想とその系譜について、宮島潤子氏を紹介した山折哲雄氏は、次のように解説しています。
『わが国には古くからあった、民衆の間に伝道し、民衆の苦しみや悲しみに直接答えようとした聖(ひじり)と呼ばれる民間宗教者の流れは、江戸時代になっても伝統は受け継がれていった。
蝦夷地などの辺境の地に遊行漂泊して民衆教化の仕事に携わる遊行僧や回向聖、木食戒のような厳しい禁欲生活を守って仏像を彫り、祈祷や占いを行った木食行者や作仏聖たちがそれである。このような作仏聖や遊行聖の系譜から円空(1632~95)と木食行道(1718~1810)のようなきわ立った才能が生み出されてことは、既に広く知られている』
『本書の中に登場する主人公たちが、そのような木食行者や作仏聖たちなのである。
弾誓(たんぜい)を初祖と仰ぐ、但唱(たんしょう)、長音(ちょうおん)、閑唱(かんしょう)、空誉(くうよ)、明阿(みようあ)、山居(さんきょ)と続く「作仏集団」(仏像造りの聖集団)の流れである。彼らの多くは、円空や木食にやや先立って、あるいは殆ど同時に活躍した聖たちであるが、その業績や足跡は円空、木食に比べると闇に包まれた部分が多く、十分に明らかにされてきたとはいい難かった。否、むしろ歴史の片隅に押しやられたままであったと言ってもよいだろう。宮島さんは、その作仏集団としての弾誉教団の歴史と活動を資料的に解明することを通して、「万治の石仏」の謎に迫り、その背後に広がる当時の民衆宗教家たちの実態をわれわれの眼前に生き生きと蘇らせようとしている』
さて、小袋石に鑿を入れ「あみだ様」を刻んだ二人の願主の話です。
結論を先に書きますと、清念や説難は、弾誓を初祖として、但唱、長音、空誉と続く継承者である弾誓4世・空誉と相弟子関係にある。清念と説難は、明誉浄光と心誉慶春であるとして、宮崎潤子氏は弾誓派の系図に挙げています。つまり、明誉浄光は清念、説難が心誉慶春であったのです。
「あみだ様」は、宮崎潤子氏が述べているこの二人に関する逸話を書き出すようにと、元気印の夢枕にお告げをして急かすのです。
『願主であり勧進元である作仏聖の法名には誉号がついている。この誉名を与えるようになったのは長音の代からで、その最初が江戸安養寺の直弟子で当時19歳の4世空誉であった。正保3(1646)年、長音が相川弾誓寺(新潟県佐渡市)を建立し、本尊造立のため、奥州十三湊へ材木を調達しに出掛けたおりに、清念(当時18歳)、説難(当時12歳)の二人の弟子がしたがった。長音は後年、この二人にも当然のことながら誉号は与えたはずで、その二人が「万治の石仏」の願主となった万治3年、つまり清念32歳、説難26歳の時には明誉、心誉の弾誓流の法名を持っていたことは容易に推定できる』
つまり、生涯学習情報で推測していたことを、宮島氏は自らのフイールドワーク調査から大胆に推定したのです。
『寺僧であった長音の弟子清念と説難は、寛永年間(1624~1644)に続々と造立された常盤南部(茨城県竜ヶ崎市、水海道市周辺)の大日像や大日三尊像の存在を、目黒行人坂(東京都品川と目黒の区境)の安養院にいた清念と説難が知らぬはずはなく、かつて長音にしたがって赴いた秋田帰命寺や、但唱の湯殿山(日原一石寺)、湯殿山の大海法印が開いた大円寺(明王院)において、湯殿信仰の影響を受けなかったはずもない。
このようにみてくると、「あみだ様」こと「万治の石仏」は、弾誓一派における仏頭への熱い祈りを造形化しているとともに、胸の図柄や卐(左マンジ)はこの時代の弾誓一派と湯殿行者との交流を示しているとみることができる』
『長音が中興開山した安養院は、弾誓系の木食の寺と湯殿系の木食の寺がともに護国院に属していたので、弾誓系の作仏聖は、湯殿信仰とかかわりを持つことができた。帰命寺から10里ばかりの山形県の湯殿山は、即身即仏で有名である。
湯殿山の行者が木食後に入定(にゅうじょ:真言密教の究極的な修行のひとつ)するのは、作仏聖とは思想的に異なる。代受苦までは同じであるが、その目的は6億7千万年の後に弥勒(みろく)がこの世に現れるときまで、自己の肉体をミイラ化させて現世に残し結縁(けちえん)を続けようとするものである。
作仏聖の場合は、初祖弾誓以来、民衆との接点を仏像と考えた。弾誓の「心」を形としてこの世に残し、永遠に民衆との結縁を続けようと志すもので、それは入定ミイラのように肉体不壊(ふえ)の思想とは異なり、霊魂を仏像に封じ込めて霊魂不壊の思想であった。心を形に残す手段として一方は「入定ミイラ」となり、一方は民衆救済の誓願に基づく「作仏入定」となった』
と延べて、別のところでは、
『護国院系の融通念仏と弾誓流念仏は表裏一体であった』との結論を出しています。
さらに、「あみだ様」の持つ特徴は、
『但唱の作仏の特徴は、木彫と石彫の両方がこなせることであるが、但唱と弟子の一部は、木彫仏からはじめたが、やがて石仏も堂々とこなすようになった。「万治の石仏」の弥陀の定印(じょういん)や三衣(さんね・袈裟)の繊細で軽やかな線の美しさには、高度の技術がみられる。清念や説難は佐渡を離れて長音にしたがい、江戸をはじめ本土を回国した作仏聖であった』
そして、
「万治の石仏」も同様で、仏頭の表現の技法はきわめてシンプルでありながら、仏師の写実的な木彫技法の及ばぬ内面の深さを示し、胴体の複雑な線彫りは、広い岩面に冴えた鑽(たがね)が駆使されており、圧倒的な量感で迫ってくる。線彫の線が叩きっ放しのあたりにも、職業的石工とは異質の野生がみなぎっていて、祈りが先行する宗教者の作という感がある。清念や説難にとっては、おそらく一生に一度の大作であったに違いない、と著しています。
「万治の石仏」を解説した生涯学習情報を思い出します。
『高島藩主・諏訪忠晴(ただはる)公が、万治2年(1659)春宮の石の大鳥居を寄進した。そのときこれを石材にしようとして石工が鑿(のみ)を入れたところ、血が流れ出たので神様の祟(たた)りと恐れて中止した。その夜石工の夢枕に、上原山(茅野市)に良い石材があるというお告げがあり、上原山の石を使い、急ぎ阿弥陀(あみだ)様を祀って、鳥居の完成を祈願した」という。現在も残っている鑿(のみ)の跡はその時のものと言われている』
『雲をまとった桜樹を代り自ら影像を彫刻しようとしたが、たちまち熱血が流れ出したので半作のまま中止した。これを「斧作りの御影」という』
ことも前に書きましたが、元気印は次の伝承が気に掛ります。
『弾誓が岩泉に浴しているとき、五社の善神(天照、八幡、春日、住吉、熊野)が現れて、神道の秘奥を授けるために弾誓の背筋を知剣で断ち割り、凡骨と抜き変えたのち頭上に神水を注いだ。こうして「換骨の秘儀」は終わったと「畧伝」にある』
その挿絵に描かれている弾誓の背中からは、骨もあらわに鮮血をほとばしらせており、スリリングな迫力がある、と宮島氏は述べています。石仏の背中から流れ出した血、桜の大樹から流れ出した鮮血に、どこかで繋がっている言い伝えのように想像してしまいます。
『徳道上人の生まれた矢田部(兵庫県揖保郡太子町)には、上人の偉業に感動して動いたと伝える大岩、感動岩が遺跡となっており、別の山中にも、上人が岩上に座して行をしたという三つに割れた大岩の遺跡があったが、こちらのほうはそのひとつに石工がノミを入れると、割れ目から鮮血がほとぼしった、という「万治の石仏」と共通した伝承が残っている』
のですから、尚更その思いが強くなります。
『過日、虫倉山中の木食仏を調査したおり、小川村の大日方英雄氏邸内に立つ毘沙門堂で千体仏に出会った。全体に歳月の間の痛みがみられるが、高さ11cm~14cmの地蔵立像である。そして驚いたことにその眼の彫はまさに「万治の石仏」の眼と同じであった。頭形は細長いもの、円いものが混じり、背丈や表情も少しずつ異なるが、親指の頭ほどの仏頭の眼は単なる線彫りではなく、小さいなりに上下の瞼から眼底に向かって深く抉られている』
続けて、
『技術的に共通しているだけでなく、こちらを向いたお顔の奥深いまなざしは、「万治の石仏」と同じ呪術的な雰囲気に満ちていた。明誉と心誉はここにいたのである。ようやく二人にめぐり会えたという思いで私は緊張した。万治3年から少なくとも5年ほど経っているのであろう。明誉は40歳近く、心誉も30歳半ばになっていたはずである』
ここまできて、やっとこさ、元気印は「万治の石仏」を彫った明誉と心誉が、清念と説難であることを確信するのです。
「あみだ様」の謎解きは終りに近づきます。
「万治の石仏」が小袋石であった時代に弾誓は、この神石の上に座って、神から生まれた仏として念仏を唱え説教した様子が想像される。それは播磨の檀特山(だんとくさん:兵庫県姫路市)の大岩上に座った徳道上人以来の歴史であり、北安曇郡松川村板坂に残る弾誓の岩上の説法そのままの光景であったろう。諏訪下社への参詣者が渡る橋の手前で、弾誓は神も唱える。しかも諏訪明神が守護神である融通念仏の勧化を続けた。女や子供の救済に力を入れた弾誓の勧化において、子安信仰のこの神石はまことにふさわしかったといわねばならないし、この神石そのものが弾誓遺跡であったことに、宮島氏は改めて気付くのです。
この地が神領であることからみて、弾誓が下原、東山田とともに神領で布教したことを教えてくれる。神領の村人たちは、下社の奉仕に通い続けていたから、たちまちのうちに薬師参詣道の神石で布教していた弾誓の熱心な支持者となったことだろう。ここで得た浄財が、山中の一草庵から法国山阿弥陀寺という弾誓の法名の二字を山号につけた現在の唐沢阿弥陀寺(長野県諏訪市)建立の基金となった、と宮島氏は指摘しています。
その阿弥陀寺で万治3年5月25日、弾誓の50回忌が行われたのです。
その帰途に、明誉と心誉は下諏訪町の砥川のほとり、弾誓以来の信者たちが待つ東山田へ向かいます。そして、弾誓遺跡の「ゑぼし石:烏帽子石」(小袋石)の傍に庵を作り、翌日から早暁の砥川で禊(みそぎ)を行いつつ6カ月間に亘って造仏に励み、11月10日に「あみだ様」が誕生したのです。
生誕350年記念のお祭りが11月1日に開催されたのですが、「あみだ様」は、相も変らず仏頂面(ぶっちょうずら)をして「万治の石仏」を装っているようです。