いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

澆季(ぎょうき)に蘇る書 番外編 その3:鉄舟に、必殺の極意を問うた島田一良

2010-10-08 12:35:59 | いろいろ
その男、島田一良(いちろう)は、市ヶ谷監獄の牢内から刑場に引き出されて、死刑執行人・山田吉亮(よしふさ・第九代山田浅衛門)に斬首され刑場の露と消えました。
それは、明治11(1878)年7月27日のことです。明治の元勲・大久保利通を5月14日に暗殺し、警察に自首してから3か月を経ていましたが、同日10時頃に死刑を宣告されてから、おおよそ90分後には死刑が執行されました。

この日、長連豪(ちょう・つらひで)、杉本乙菊(おとぎく)、脇田巧一、杉村文一、酒井寿篤(としあつ)も「紀尾井坂の変」の咎により斬首刑に処せられました。

ちなみに、伝馬町牢屋敷に代わって、明治8(1875)年に設立された市ヶ谷監獄(東京都新宿区市谷台町)は、昭和12 (1937)年に閉鎖するまで、現在で言う拘置所の役割を果たしています。刑場跡地は、冨久町児童公園になっており、その一角には刑死者慰霊の石碑が建てられているようです。ようです、というのは現地を訪れずに、情報だけを頼りに書いている為です。

ところで、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれ、明治初期に一連の反政府運動を起こしています。士族反乱の中で、西南戦争が最大規模であり最後の内戦とされています。

不平士族の一派である三光寺派(さんこうじは・石川県金沢市にある三光寺を談合場所にしていたのでこの名で呼ばれる)のリーダー島田一良は、西南戦争に呼応すべく仲間を説得している間に、西郷隆盛は敗軍の将となり城山で自刃してしまう。島田の志は敢え無い最期を遂げ、断念します。
それからの島田は、三光寺派の行動方針を要人暗殺に切り代え、志士5人と結束し、大久保利通を紀尾井坂(きおいざか・東京都千代田区)で襲撃し斬殺したのです。

他方では、島田らの暗殺計画が警察のトップである大警視(現在の警視総監)に複数のルートを経て知らされていたのですが、「石川県人に何が出来るか」と相手にしないまま、放置した、との説があります。
島田、長、杉本、脇田らは石川県士族で、加賀藩士の家に生まれ育ち、杉村は石川県士族。浅井は島根県士族ですから、石川県人に何が・・・との判断を下されてもおかしくはありません。

さて、当時の大警視・川路利良(かわじ・としよし)は、西郷隆盛や大久保利通の信頼を得た人物で、薩摩藩与力の長男として生まれた薩摩人。日本警察の父とも言われています。
また、川路は、西南戦争において西郷を暗殺する密偵を薩摩軍に送り込んでいる人物でもあり、田原坂の激戦で薩摩軍を退けるなど、九州を転戦し武勲を挙げています。
自分に課せられた責務を忠実に果たした川路も、不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象にされていたことは、彼の情報網が得ていたはずですし、熟知していたでしょう。元気印の独断と偏見では、この辺りに、大久保暗殺情報を握り潰したひとつの遠因がありそうです。
黒田清隆(くろだ・きよたか:第2代内閣総理大臣)の妻が病死した際、川路が執った処置に対する反発が大久保暗殺の遠因である、とする説があることを知りましたが、その詮索は専門家の分野です。素人が云々する事柄ではありません。

島田、長、脇田が目論んだ大久保暗殺の企てを実行する同志を募るために、他の3人は、この人(大久保)を除くことが御国のためである、と島田に説得されて犯行に及んでいたことが、彼らを裁いた裁判官の記録に残されているようです。

彼ら6人の暗殺犯は、大審院に臨時裁判所を開設して「国事犯」として裁判を行い、太政官は司法省から提出された判決伺を7月25日に決済、27日に判決を言い渡され、即日斬罪されています。
死刑執行から11年後の明治22(1889)年2月11日に明治憲法(大日本帝国憲法)が発布され、その大赦の対象者に杉本ら3人も選ばれたのは、罪を憎んで人を憎まず。気配りの行き届いた行政がもたらした結果であろう、と元気印は推測しています。

 かねてより 今日のある日を知りながら 今は別れとなるぞ悲しき

島田が残した有名な辞世の句として紹介されています。

必殺の極意を鉄舟に質した島田には、今日のある日をかねてより覚悟していた逸話があるので、鉄舟の人物像を記してから話を先に進めます。

『 山岡鉄舟 天保7(1836)年~明治21(1888)年
幕末・明治の政治家。無刀流の創始者。前名、小野高歩(たかゆき)。通称、鉄太郎。江戸生まれの幕臣。剣道に達し、禅を修行、書を良くした。戊辰戦争の祭、西郷隆盛を説き、勝海舟との会談を成立させた。のち、明治天皇の侍従などをつとめる。子爵』(広辞苑第5版)。

西郷が鉄舟に突きつけた江戸城無血開城の条件の中で、徳川家に安泰を得させるために、最後まで忠義を貫き説得する鉄舟に感嘆し、西郷の一存で徳川家の存続を鉄舟に約束した史実に、この説明は触れていないけれども、鉄舟を簡潔に紹介しているので引用します。

『おれの師匠』(小倉鉄樹著)には、島田が鉄舟宅に訪れた日のことが記されています。

「ある日、島田一良が來邸して、直紀(なおき・鉄舟の嫡子)さんを連れ出して四谷の大通りで玩具等を買ってやり、帰ってから師匠(鉄舟)と対談していた。撃剣の話しや真剣勝負の話などをしている時、

人を殺すことは難しいことでしょうか、と突然島田が質問した。

別段難しいことではない。人だけ殺して自分が生きようとするから難しくなるので、命を捨てる覚悟ならなんでもない。

と師匠が答えると、大変感心して島田は帰っていった」

その翌日、島田らは紀尾井坂で大久保利通を刺殺したのです。
剣の奥義を極めた鉄舟にしても、島田の本心は見抜けなかったのでしょうか。
島田は、フランス式兵学を修め陸軍中尉にまで昇進した軍人。おおよそ半年かけて企んだ暗殺計画で大久保を斬殺した後、警察に自首します。
そのように冷静な行動を取れる島田は、事前に同志の誰かを鉄舟宅に行かせていたのですが、その正体を見破られ埒があきません。それで、島田自ら鉄舟との面談に踏み切ったのです。このときの島田は、晴天白日の心境を乱すこと無く、撃剣や真剣勝負の話題に、さり気なく必殺の極意を忍ばせて聴きだす才覚はあったでしょうし、鉄舟の嫡子・直紀を味方につけているところが心憎い。島田の作戦勝ち。これは、元気印の独断判断です。

島田が帰ってから鉄舟は、

「今日は島田にうっかり悪いことを教えてしまったが、何か間違いがなければよいが・・・。と非常に心配しておられた」

禅僧としての鉄舟は、晴天白日の如く振舞う島田に、何か悪い虫の知らせを察知した・・・?

「すると、その翌日、四谷の食違い見附で、彼(島田)は長連豪と共に大久保利通を刺し殺してしまった。

師匠は幾度か超嘆息して、嗚呼(ああ)、馬鹿野郎共が、徒(いたずら)に地下の西郷を困らせるのみだ、と嘆かれていた」

当の島田は西郷の征韓論に共鳴し、「明治六年政変」により、江藤新平、板垣退助らと共に下野した西郷を鹿児島に戻るまでに追い込んだ明治政府に憤慨しています。西郷を尊敬している長と共に、政府の中枢を仕切っている大久保暗殺を企てたのは、西郷が鹿児島に下野してからなのです。

このように西郷と因縁の深い二人が、明治の元勲・大久保利通を暗殺した罪で斬首刑に処せられ、刑場の露となって地下の西郷の下へ行く訳ですから、鉄舟が西郷の気持ちを忖度するのは自然の成り行きですね。

話は前後しますが、小倉鉄樹は、

師匠は幾度か超嘆息して・・・と『おれの師匠』に記しています。

超嘆息の「超」は、どのように解釈すれば、鉄舟の気持ちを実感できるのか。気になるところです。そこで、広辞苑に再登場願います。

 超とは、
1. とびこえること、程度を超えること(超越、超過)
2. ぬきんでること、かけ離れてすぐれていること(超人、超然)
3. 接頭語句的に ①程度一杯をさらにこえる意を表す(超満員、超特急) ②ウルトラ、スーパー等の訳語(超国家主義、超現実主義、超閑散)
4. 俗に、その語の内容をはるかにこえていること(超忙しい、超愉快)

今風の意味は、4でしょう。流行の発端は、「超いい気持」からのように記憶していますが、同義語として、それ以前から使われていたかどうかは定かではありません。

「師匠は幾度か超嘆息して、嗚呼、馬鹿野郎共が、徒に地下の西郷を困らせるのみだ、と嘆かれていた」

この文の「超」は、1の意味でしょう。

「人だけ殺して自分が生きようとするから難しくなるので、命を捨てる覚悟ならなんでもない」

島田に語ったこの一言に、嘆息を通り越して慙愧に堪えている鉄舟の心理を強調する意図で、小倉は「超」をつけているように感じます。とすれば、嗚呼、馬鹿野郎共が、の「共」に、鉄舟自身を加えても不思議ではないし、徒に地下の西郷を困らせるのみだ、の意味がより鮮明になります。

剣の奥義を極めて無刀流を創始し、日本の禅僧として名を残すまでに禅を修めた鉄舟は賢人です。うっかり悪いことを教えてしまったが、何か間違いがなければよいが、一粒万倍(いちりゅう・まんばい)の心境で島田の行動を案じた、西郷の気持ちまで忖度している鉄舟には、自分の言動に対する人としての煩悩を強く感じます。

つまり、明治政府の重鎮・大久保利通を失わせた起因が、自分の一言にあったことへ嘆息しきれず、嘆いている。そのような意味で鉄舟の一言を捉えると、必殺の極意を鉄舟から授かった島田が大久保の暗殺に到る経緯は、鉄舟との貴重な逸話だと思います。

鉄舟の書「信」(写真)を見ていて、その動機はなんであれ、相談にきた相手の本心を見抜く難しさより、その相手を信頼することの方がより困難である。しかし、自分の眼鏡にかなった相手とは刎頚の交(ふんけいのこう)を結んで面倒をみた鉄舟の生き様を思い出しながら筆を進めている内に、こんな拙文になってしまいました。長々のお付き合い、有難うございます。
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