この本は臨床心理士が精神科デイケアで過ごし学んだ“居ること”の難しさ、ケアとセラピーの違いについて書かれた本です。
ケアが先でセラピーが後がいい。
物語として書かれているので大変読み易い本でした。
僕らは誰かにずっぽり頼っているとき、依存しているときは、「本当の自己」でいられて、それができなくなると「偽りの自己」をつくり出す。
だから「いる」がつらくなると、「する」を始める。
依存労働は、脆弱な状態にある他者を世話(ケア)する仕事である。
依存労働は、親密な者同士の絆を維持し、あるいはそれ自体が親密さや信頼、すなわちつながりをつくりだす。
→例えば母親が子どもの世話をする仕事
依存労働は専門化されない傾向があり不可視化させている。
要求水準が高いとはいえ賃金は非常に安い。
→夫は外に出てお金を稼いでる。家事は妻に依存している。妻自身も稼ぎもしないで家事だけしていると卑下してしまいがち。
依存労働が上手くいっている時は誰も気が付かない。母親に感謝する時は依存をしていない時か何か悪い事があった時だ。
人は本当に依存しているとき、自分が依存していることに気がつかない。
物語は線的な時間で起こり、円環的時間は日常をもたらす。
退屈とは時間がのろい。ぐずつく時間によって引き止められている。退屈と共に台頭してくる空虚放置へと落ち込まないために何かやるべき仕事を求める。
空虚放置とは単に物がないということではない。物が私たちに何も提供してくれないことを意味する。
自我境界とは自分と外界、自分と他者、自分の無意識と意識の間に作られた境界である。
統合失調症の人が退屈ができればだいぶ治ってきている。
自我境界が閉じて退屈ができているからである。
遊びは中間で起こる。主観と客観のあわい、想像と現実のあわい、子どもと母親のあわい、遊びは自己と他者が重なるところで行われる。
→人は誰かに依存して、身を預けることができたときに、遊ぶことができるということを意味している。
ケアすることでケアされ、ケアされることでケアする。それらは複雑に絡み合った投影によって可能になる。
能動態でも受動態でも語りきれない動詞が存在する。それは「中動態」
→生まれる、座っている、耐え忍ぶ、気にかける
中動態は作用の元も作用の対象も自分自身。内側で生じて内側で作用する。
ケアとは依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係。
→ニーズを満たす。依存を引き受ける。
泣いている人がいる。その人のニーズによりケアは変わる。
“ケアとは傷つけないことである”
“セラピーは傷つきに向き合うことである”
セラピーはニーズを満たすことではなく、ニーズを変更することが目指される。
ケアが先でセラピーが後がいい。
ケアとセラピーは成分。両方混じっている。
デイケアでは「いる」ことでケアが行われている。
しかし、本質的な価値が見失われているのに、ただ「お金になるから」という倒錯した理由で「いる」が求められている。
その時「いる」は金銭を得る為の手段へと変わる。
上記は私の学びを書き出しました。
読みにくい文となり申し訳ありません。
私は訪問してリハビリを提供する仕事をしていますが
元気を交換する感覚(ケアしながらされている)
お話を聞くだけ(ケア)でお金をいただく違和感
訓練より遊びの方が有効な場面など言葉にできない感覚がたくさんありました。
この本は実体験を元に進みられています。
文献や資料を根拠に分かりやすい言葉で説明してあるのでかなりわかりやすかったです。
是非読んでみてください。
私も長く喘息でした、今は発作は出てませんが、秋口は体調不良になります
お大事に😊
まだ咳は残っていますが、熱は下がりました。明日からは仕事に行けそうです。
家族が出かける間に読書を楽しみました。