朝起きて、昼が過ぎて、夜になって寝て、また朝になって・・・。
と、生きている人が多い気がします。みんながみんなそんなことはないですけど、現代人って、「生きていることの本当の充実感」を見失っている人も多いですよね、きっと。
僕、日々すごく「死」を意識するんです。
それは後ろ向きではなく、とっても前向きに「死」を考えるんです。
「生」を考えるからこそ、「死」を考える。何かが「始まる」ということは、必ず「終わり」が来る。人生の「終わり」である死に対して、眼をそらさずに腹を据えて向き合うこと。そこに1つの、「生の充実」へのヒントがあると思うんです。
昔、生徒にこんな質問をしました。
「次の中から、可能性が100%のものを選んで。」
1.あと10分後に隕石は頭上に落ちてこない。
2.昼休みに突然飛行機が校庭に不時着しない。
3.〇年〇組の生徒全員と藤本正樹は、いずれ死ぬ。
答えはもちろん3ですね。どんなことだって、100%起きないなんて、言い切ることはできない。
でも、死ぬんですよね、みんな。それだけは100%。
笑えませんか?みんな知ってるんですよ、そのこと。絶対死ぬって。小学生だって、自分がいつか死ぬことを悟っているはずです。
それがいつなのか?どんな形なのか?それは分かりませんが・・・絶対、死ぬんですよね。
誰もが死ぬ。それは知っている。でも、なぜか「死」を遠ざける。誰にでもやってくる「終末」なのに。
「絶対は絶対にない」と、よく生徒に言いました。でも。「死という絶対」はある。そこに向き合い、いかにして「死」を迎えるのか?どんな「死」を迎えたら、あなたは幸せなのか?どんな「終わり方」をしたいのか?そこをとことん追究することに、「生の充実」への1つのヒントがあると思うんですよね。
少しだけ、僕の話。
インドのガンジス河にいたときのこと。河のほとりには、焼却場があるんです。そこでは、息絶えたヒンズー教徒の方々が、次々と焼かれていきました。そしてその灰は、聖なるガンジスに流されます。ヒンズー教徒にとって、ガンジス川のほとりでその身体を焼かれ、ガンジスに流されるということは、最高の「終末」ということのようです。
僕は、そこで死体を運ぶ作業を手伝わせてもらいました。そして、何人もの死体が目の前で焼かれていくのを見ていました。
不思議な気持ちになるんですよね。
さっきまで、命ある肉体だったはずのその身体が、瞬く間に炎に包まれ、そして灰になっていく。
そして何人もの死体が、焼かれるのを今か今かと待っている。
いや、違うぞ。死体だけじゃない。生きている人もいるじゃないか!
ある老人に話を聞いた。
「ここで死んで、そして焼かれるためにここにいる。それがハッピーなんだ。」と。
衝撃的でした。ここで死ぬためにここに在り、そして焼かれるためにここに在る。
そして、それはハッピーであると。
考えさせられました。
「生」とは何か?「死」とは何か?
ここで「死」を迎えるために、まだある「生」を使い切る。その意義は何なのか?
そこに意義を見出しているからこそ、彼らの「終末」は、ハッピーなのです。
このとき、そしてこの場ほど、人間の「死」について考えさせられたことはありません。
それ以来、僕は「死思考人間」になってしまいました。
僕にとって、ハッピーな死って何だろう?ハッピーな終末って何だろう。
どうやったら、ハッピーな終末を迎えられるんだろう?
人間が生きて、死ぬって、何なんだろう。
答えは、きっと自分自身で結論を出すしかないのでしょうね。
でも、そのために悩み、人に聞き、思考を繰り返すことに、価値がある。
その作業を通して、少しずつ「生」が良くなっていく。僕は、そう思うんです。
国が変われば、死生観は変わる。時代が変わっても、死生観は変わる。
今僕たちが21世紀という時代で、日本という国で生きているのであれば、その中で、「ハッピーな生と最高の死」の答えを見出すのしかないのでしょうね。
混沌とした時代だからこそ、今こそ、「死」を見つめ直すときだと思います。
特に日本のように、「人間の死に様」が、日常から遠ざけられている国では。
これは人間だけじゃないですね。動物も同じ。なんたって、「牛肉は白いトレーに乗せられてパックで包まれて生まれてくる」と、本気で思っている小学生もいるらしいですからね。
皆さんも今一度、「死」について考えてみませんか。
そしてよかったら、僕と一緒に「死思考人間」になりましょう!笑)
ふじもん
と、生きている人が多い気がします。みんながみんなそんなことはないですけど、現代人って、「生きていることの本当の充実感」を見失っている人も多いですよね、きっと。
僕、日々すごく「死」を意識するんです。
それは後ろ向きではなく、とっても前向きに「死」を考えるんです。
「生」を考えるからこそ、「死」を考える。何かが「始まる」ということは、必ず「終わり」が来る。人生の「終わり」である死に対して、眼をそらさずに腹を据えて向き合うこと。そこに1つの、「生の充実」へのヒントがあると思うんです。
昔、生徒にこんな質問をしました。
「次の中から、可能性が100%のものを選んで。」
1.あと10分後に隕石は頭上に落ちてこない。
2.昼休みに突然飛行機が校庭に不時着しない。
3.〇年〇組の生徒全員と藤本正樹は、いずれ死ぬ。
答えはもちろん3ですね。どんなことだって、100%起きないなんて、言い切ることはできない。
でも、死ぬんですよね、みんな。それだけは100%。
笑えませんか?みんな知ってるんですよ、そのこと。絶対死ぬって。小学生だって、自分がいつか死ぬことを悟っているはずです。
それがいつなのか?どんな形なのか?それは分かりませんが・・・絶対、死ぬんですよね。
誰もが死ぬ。それは知っている。でも、なぜか「死」を遠ざける。誰にでもやってくる「終末」なのに。
「絶対は絶対にない」と、よく生徒に言いました。でも。「死という絶対」はある。そこに向き合い、いかにして「死」を迎えるのか?どんな「死」を迎えたら、あなたは幸せなのか?どんな「終わり方」をしたいのか?そこをとことん追究することに、「生の充実」への1つのヒントがあると思うんですよね。
少しだけ、僕の話。
インドのガンジス河にいたときのこと。河のほとりには、焼却場があるんです。そこでは、息絶えたヒンズー教徒の方々が、次々と焼かれていきました。そしてその灰は、聖なるガンジスに流されます。ヒンズー教徒にとって、ガンジス川のほとりでその身体を焼かれ、ガンジスに流されるということは、最高の「終末」ということのようです。
僕は、そこで死体を運ぶ作業を手伝わせてもらいました。そして、何人もの死体が目の前で焼かれていくのを見ていました。
不思議な気持ちになるんですよね。
さっきまで、命ある肉体だったはずのその身体が、瞬く間に炎に包まれ、そして灰になっていく。
そして何人もの死体が、焼かれるのを今か今かと待っている。
いや、違うぞ。死体だけじゃない。生きている人もいるじゃないか!
ある老人に話を聞いた。
「ここで死んで、そして焼かれるためにここにいる。それがハッピーなんだ。」と。
衝撃的でした。ここで死ぬためにここに在り、そして焼かれるためにここに在る。
そして、それはハッピーであると。
考えさせられました。
「生」とは何か?「死」とは何か?
ここで「死」を迎えるために、まだある「生」を使い切る。その意義は何なのか?
そこに意義を見出しているからこそ、彼らの「終末」は、ハッピーなのです。
このとき、そしてこの場ほど、人間の「死」について考えさせられたことはありません。
それ以来、僕は「死思考人間」になってしまいました。
僕にとって、ハッピーな死って何だろう?ハッピーな終末って何だろう。
どうやったら、ハッピーな終末を迎えられるんだろう?
人間が生きて、死ぬって、何なんだろう。
答えは、きっと自分自身で結論を出すしかないのでしょうね。
でも、そのために悩み、人に聞き、思考を繰り返すことに、価値がある。
その作業を通して、少しずつ「生」が良くなっていく。僕は、そう思うんです。
国が変われば、死生観は変わる。時代が変わっても、死生観は変わる。
今僕たちが21世紀という時代で、日本という国で生きているのであれば、その中で、「ハッピーな生と最高の死」の答えを見出すのしかないのでしょうね。
混沌とした時代だからこそ、今こそ、「死」を見つめ直すときだと思います。
特に日本のように、「人間の死に様」が、日常から遠ざけられている国では。
これは人間だけじゃないですね。動物も同じ。なんたって、「牛肉は白いトレーに乗せられてパックで包まれて生まれてくる」と、本気で思っている小学生もいるらしいですからね。
皆さんも今一度、「死」について考えてみませんか。
そしてよかったら、僕と一緒に「死思考人間」になりましょう!笑)
ふじもん