2013年8月23日。
終戦記念日から1週間。不思議なことに、何かと「日本人」を意識させられる出来事が多くあった。
そんな中、僕に次のような質問をして下さった方がいた。「ふじもんは韓国人が嫌いなんですか?」と。
え~と、そんなことは決してありません!韓国や韓国人を嫌っているわけではないです!欧米人について書かせていただいた時も同じ質問をいただいたが、僕は別に「外国人嫌い」とかじゃないですからね、誤解しないで下さい!
ただし、最近の韓国の状況について言うのであれば、それは「反韓」である。それは当然のことだ。サッカー日韓戦の時の横断幕についてや、内政干渉と言っても問題ないであろうほどの日本への言いがかり、安部首相の顔に、あのナチスのシンボルマークであるハーケンクロイツを描いての抗議活動など、常軌を逸している面があるのは事実であろう。
僕は個人的にスポーツが大好きなのでサッカーの横断幕に注目してしまうのだが、怒りを通り越して呆れてしまうものがここ数年あまりに多い。「ようこそ戦犯国のみなさん」というものや、何を思ったか伊藤博文を暗殺した人物の横断幕を掲げたり、挙げ句の果てには「大震災をお祝いします」というものまであった。
ここまで来ると、もはや異常である。怒りというよりも「本当に大丈夫ですか?」と、逆に心配してしまうほどである。
まぁ韓国の話はいいとして、僕たちは今、「日本」について本当に本気で考え直さなくてはならないときに来ているのだと思う。そしてそれは、僕の世代や僕よりも若い世代に課せられた、大切な責務だと僕は思うのだ。
日本を語ったり、日本の良さを見つめ直そうとすると、どういうわけだかそれに抗する動きがあるようなのだが、僕にはそれが不思議でならない。自分自身が所属している国を語ったり肯定的に見つめ直すことの、何がいけないのか。何故単純に、短絡的に、「戦争」や「軍国主義」と結び付けたがるのか。あまりにも稚拙である。
僕たちは学校で「あなたはこの世でとっても大切な存在なのよ」「もっと自分に自信を持っていいのよ」「自分のことを好きになりなさい」と教えている。しかしこと国のこととなると、何故か趣が違ってくる。学校という現場では特に、である。
国家があることが戦争を引き起こすのではない。「国家の存在=戦争の発生」ではない。人間は、ある一定の範囲に固まって居住するものであり、そこには海や山脈などの地形的な隔たりがあることが一般的である。その一定の範囲の地域の中で政治的、文化的なまとまりを持つことは、至極当然のことだ。たとえば、日本とその真裏のブラジルでは、言語も文化も伝統も異なるのは当然のことで、日本とブラジルが政治的、文化的に1つになることは不自然であり不可能であり非現実的である。そしてそうする必要もない。
要は、その「違い」を認め合うことができない人間の愚かさと、全てを自分達のものにしてしまおうという人間の欲深さが戦争を引き起こすのである。特に日本についていうならば、国家の存在あるいは国家について語ることがすぐさま先の大戦に結び付くなどという考え方は極めて不自然である。
確かに現代という時代はかつてないほどに世界との繋がりが深まっている時代であり僕たちは「地球市民」としての意識とそれに基づく行動が必要であろう。しかしそうはいっても、地球を1つの「国家」としてまとめることなど不可能だ。地球という物理的な規模もさることながら、これまで諸地域で育まれてきた歴史や文化、伝統の存在を考えれば、まとまることなどできるはずがない。互いに互いを認め合い尊重し合うことは極めて重要だが、1つの国家になることなど到底あり得ない。
だからこそ、日本に生まれ育った僕たちこそが日本を知り、日本を語り、日本の良さを認識して発信することは非常に重要である。自己を知り、自分に自信が持てるからこそ他を認めることができ、他の尊重もまた可能になるのだ。よくいわれることだが、いじめっ子がいじめをするのはその相手が憎いからではなく、愛情の不足であったり、自己を認めてほしいという欲求の現れであったり、自分自身への自信の欠如が原因であるといわれている。個が総じて形成される国家においても、同様のことがいえるのではないだろうか。国民一人一人がその国を理解し、誇りと自信を持つことができて初めて、強くて優しい国家の礎となり得るのであろう。
さて、話を日本に戻したい。イギリスBBCの調査結果からも分かるように、また(これは思い切り僕の主観ですが)僕が旅をしていく中で感じる他国民の反応からも分かるように、日本は世界の中で人気のある国、良い評価をされている国である。それは本当に喜ばしいことであり、僕たち日本人はもっと誇りに思ってよいはずだ。しかし、問題はここにある。当の僕たち日本人は、自分たちの国に自信を持てていない。それどころか、マイナスのイメージさえ持ってしまっている。何故こんなことになってしまったのか。
僕が思うに、それはやはり先の大戦後の連合国支配が主な原因であろう。日本を厄介な国と認識していた連合国(まぁアメリカといってもいいのだと思うが)は、日本を骨抜き国家にしようと考えていた。
もしかしたら、日本国民を全員殺してやろうと本気で考えてた人もいたかもしれないと僕は思う。そうでなければ、広島や長崎への原爆投下にしても東京大空襲にしても、あんな非人道的なことなどできるはずがない。無抵抗、非武装の民間人を殺し尽くしたのだから。それがどれほど許し難いことなのか、僕たち日本人は知っていなければならない。特に、僕の世代や僕よりも若い世代は。
いずれにしても日本は大敗北を喫した。そして、連合国の支配の下に置かれた。その中で、日本を日本足らしめていた様々なものを取り除き、日本を自分たちにとって都合のよい国家に作り換え、二度と反抗できない体制に整えていったのである。
残念ながら、それは功を奏したといえるであろう。僕たちは、自国の歴史さえも自虐的に見ることを教え込まれ、国旗や国家の存在にさえもいちいち論じなくてはならないような状況になってしまった。日本の良さや強さ、過去の貢献などは教育現場から封印され、「日本は悪いことばかりをしてきたんですよ」という教育になってしまった。
皮肉なことだが、これに関してのアメリカの政策は見事だったと思う。その結果、日本人は思惑通りに自らを失いかけてしまった。
しかし僕たちは、全てを失ってなんかいなかった。僕たちは日本人としての魂を閉じ込められてしまっただけで、熱いハートまで失ってしまったわけではない。その一番の証明が、戦後復興の早さと高度経済成長であろう。
これはあくまで僕の推測だが、連合国側は、この日本の復興の早さと凄まじさに相当焦ったはずである。ボロボロに焼き付くし、国家の体裁まで奪おうとしたのに、あれよあれよという間に世界トップクラスの経済大国にのしあがってきてしまったのだから。世界一の敗戦国日本が、わずか数十年で世界一の座を見据えるところまでかけ上がって来たのだ。このすごさを一番分かっていないのは、実は僕たち日本人自身なのではないだろうか。
僕たちは「日本魂」を失ってなんかいなかったのだ。第三者の手によって、表面上は隠されてしまったのかもしれない。しかし、僕たちの魂に脈々と受け継がれてきた日本の歴史、伝統、文化などに基づく日本人としての意識は、そう簡単に滅ぶものではない。僕たちの魂はちょっとの間隠されていただけで、滅んでなんかいないのだ。
大東亜戦争からもうすぐ70年。今、日本人の間に「日本魂」が戻りつつあるように僕は思っている。ここまで隠され続けてきた僕たちの魂が、いよいよ現れてきたのだ。今、僕の世代や僕よりも若い世代が、この「日本魂」を取り戻し、今一度自分たちの胸に収めるときが来たのではないだろうか。
という風に書くと、やっぱり戦争や軍国主義と結び付けてくる人がいる。何度も繰り返すが、自国のプライドを持つことと、他国を蔑み時に争いにまで進展してしまうようなこととは、別の次元の話である。どうしてそこを混同して考えてしまうのか、あるいは考えようとするのか、僕には理解できない。
さて、それはよいとして、では今後僕たちの世代や僕よりも若い世代は、何をしていくべきなのか。それを次回は考えていきたいと思う。
最後に、僕の大好きな孔子の言葉を1つ。
「君子は和して同せず、小人は同じて和せず。」
日本人は和を重んじる。和とは、ただ同調することではない。周りと平和的に歩調を合わせつつも、自らを貫く。それが「和」なのだ。
ここ数十年の日本人は、確かに小人の和になりかけていたのかもしれない。しかし、今こそ僕たちは変わるときのはずだ。新しい日本になるべきときのはずだ。何度もいうように、それは僕たちの世代や僕よりも若い世代の大切な役目だ。戦後支配の中で隠されていた「日本魂」。今こそもう一度、世に花開かせるときなのではないか。
2013年8月23日。海亀が産卵にやって来るカリブ海を眺めながら。
終戦記念日から1週間。不思議なことに、何かと「日本人」を意識させられる出来事が多くあった。
そんな中、僕に次のような質問をして下さった方がいた。「ふじもんは韓国人が嫌いなんですか?」と。
え~と、そんなことは決してありません!韓国や韓国人を嫌っているわけではないです!欧米人について書かせていただいた時も同じ質問をいただいたが、僕は別に「外国人嫌い」とかじゃないですからね、誤解しないで下さい!
ただし、最近の韓国の状況について言うのであれば、それは「反韓」である。それは当然のことだ。サッカー日韓戦の時の横断幕についてや、内政干渉と言っても問題ないであろうほどの日本への言いがかり、安部首相の顔に、あのナチスのシンボルマークであるハーケンクロイツを描いての抗議活動など、常軌を逸している面があるのは事実であろう。
僕は個人的にスポーツが大好きなのでサッカーの横断幕に注目してしまうのだが、怒りを通り越して呆れてしまうものがここ数年あまりに多い。「ようこそ戦犯国のみなさん」というものや、何を思ったか伊藤博文を暗殺した人物の横断幕を掲げたり、挙げ句の果てには「大震災をお祝いします」というものまであった。
ここまで来ると、もはや異常である。怒りというよりも「本当に大丈夫ですか?」と、逆に心配してしまうほどである。
まぁ韓国の話はいいとして、僕たちは今、「日本」について本当に本気で考え直さなくてはならないときに来ているのだと思う。そしてそれは、僕の世代や僕よりも若い世代に課せられた、大切な責務だと僕は思うのだ。
日本を語ったり、日本の良さを見つめ直そうとすると、どういうわけだかそれに抗する動きがあるようなのだが、僕にはそれが不思議でならない。自分自身が所属している国を語ったり肯定的に見つめ直すことの、何がいけないのか。何故単純に、短絡的に、「戦争」や「軍国主義」と結び付けたがるのか。あまりにも稚拙である。
僕たちは学校で「あなたはこの世でとっても大切な存在なのよ」「もっと自分に自信を持っていいのよ」「自分のことを好きになりなさい」と教えている。しかしこと国のこととなると、何故か趣が違ってくる。学校という現場では特に、である。
国家があることが戦争を引き起こすのではない。「国家の存在=戦争の発生」ではない。人間は、ある一定の範囲に固まって居住するものであり、そこには海や山脈などの地形的な隔たりがあることが一般的である。その一定の範囲の地域の中で政治的、文化的なまとまりを持つことは、至極当然のことだ。たとえば、日本とその真裏のブラジルでは、言語も文化も伝統も異なるのは当然のことで、日本とブラジルが政治的、文化的に1つになることは不自然であり不可能であり非現実的である。そしてそうする必要もない。
要は、その「違い」を認め合うことができない人間の愚かさと、全てを自分達のものにしてしまおうという人間の欲深さが戦争を引き起こすのである。特に日本についていうならば、国家の存在あるいは国家について語ることがすぐさま先の大戦に結び付くなどという考え方は極めて不自然である。
確かに現代という時代はかつてないほどに世界との繋がりが深まっている時代であり僕たちは「地球市民」としての意識とそれに基づく行動が必要であろう。しかしそうはいっても、地球を1つの「国家」としてまとめることなど不可能だ。地球という物理的な規模もさることながら、これまで諸地域で育まれてきた歴史や文化、伝統の存在を考えれば、まとまることなどできるはずがない。互いに互いを認め合い尊重し合うことは極めて重要だが、1つの国家になることなど到底あり得ない。
だからこそ、日本に生まれ育った僕たちこそが日本を知り、日本を語り、日本の良さを認識して発信することは非常に重要である。自己を知り、自分に自信が持てるからこそ他を認めることができ、他の尊重もまた可能になるのだ。よくいわれることだが、いじめっ子がいじめをするのはその相手が憎いからではなく、愛情の不足であったり、自己を認めてほしいという欲求の現れであったり、自分自身への自信の欠如が原因であるといわれている。個が総じて形成される国家においても、同様のことがいえるのではないだろうか。国民一人一人がその国を理解し、誇りと自信を持つことができて初めて、強くて優しい国家の礎となり得るのであろう。
さて、話を日本に戻したい。イギリスBBCの調査結果からも分かるように、また(これは思い切り僕の主観ですが)僕が旅をしていく中で感じる他国民の反応からも分かるように、日本は世界の中で人気のある国、良い評価をされている国である。それは本当に喜ばしいことであり、僕たち日本人はもっと誇りに思ってよいはずだ。しかし、問題はここにある。当の僕たち日本人は、自分たちの国に自信を持てていない。それどころか、マイナスのイメージさえ持ってしまっている。何故こんなことになってしまったのか。
僕が思うに、それはやはり先の大戦後の連合国支配が主な原因であろう。日本を厄介な国と認識していた連合国(まぁアメリカといってもいいのだと思うが)は、日本を骨抜き国家にしようと考えていた。
もしかしたら、日本国民を全員殺してやろうと本気で考えてた人もいたかもしれないと僕は思う。そうでなければ、広島や長崎への原爆投下にしても東京大空襲にしても、あんな非人道的なことなどできるはずがない。無抵抗、非武装の民間人を殺し尽くしたのだから。それがどれほど許し難いことなのか、僕たち日本人は知っていなければならない。特に、僕の世代や僕よりも若い世代は。
いずれにしても日本は大敗北を喫した。そして、連合国の支配の下に置かれた。その中で、日本を日本足らしめていた様々なものを取り除き、日本を自分たちにとって都合のよい国家に作り換え、二度と反抗できない体制に整えていったのである。
残念ながら、それは功を奏したといえるであろう。僕たちは、自国の歴史さえも自虐的に見ることを教え込まれ、国旗や国家の存在にさえもいちいち論じなくてはならないような状況になってしまった。日本の良さや強さ、過去の貢献などは教育現場から封印され、「日本は悪いことばかりをしてきたんですよ」という教育になってしまった。
皮肉なことだが、これに関してのアメリカの政策は見事だったと思う。その結果、日本人は思惑通りに自らを失いかけてしまった。
しかし僕たちは、全てを失ってなんかいなかった。僕たちは日本人としての魂を閉じ込められてしまっただけで、熱いハートまで失ってしまったわけではない。その一番の証明が、戦後復興の早さと高度経済成長であろう。
これはあくまで僕の推測だが、連合国側は、この日本の復興の早さと凄まじさに相当焦ったはずである。ボロボロに焼き付くし、国家の体裁まで奪おうとしたのに、あれよあれよという間に世界トップクラスの経済大国にのしあがってきてしまったのだから。世界一の敗戦国日本が、わずか数十年で世界一の座を見据えるところまでかけ上がって来たのだ。このすごさを一番分かっていないのは、実は僕たち日本人自身なのではないだろうか。
僕たちは「日本魂」を失ってなんかいなかったのだ。第三者の手によって、表面上は隠されてしまったのかもしれない。しかし、僕たちの魂に脈々と受け継がれてきた日本の歴史、伝統、文化などに基づく日本人としての意識は、そう簡単に滅ぶものではない。僕たちの魂はちょっとの間隠されていただけで、滅んでなんかいないのだ。
大東亜戦争からもうすぐ70年。今、日本人の間に「日本魂」が戻りつつあるように僕は思っている。ここまで隠され続けてきた僕たちの魂が、いよいよ現れてきたのだ。今、僕の世代や僕よりも若い世代が、この「日本魂」を取り戻し、今一度自分たちの胸に収めるときが来たのではないだろうか。
という風に書くと、やっぱり戦争や軍国主義と結び付けてくる人がいる。何度も繰り返すが、自国のプライドを持つことと、他国を蔑み時に争いにまで進展してしまうようなこととは、別の次元の話である。どうしてそこを混同して考えてしまうのか、あるいは考えようとするのか、僕には理解できない。
さて、それはよいとして、では今後僕たちの世代や僕よりも若い世代は、何をしていくべきなのか。それを次回は考えていきたいと思う。
最後に、僕の大好きな孔子の言葉を1つ。
「君子は和して同せず、小人は同じて和せず。」
日本人は和を重んじる。和とは、ただ同調することではない。周りと平和的に歩調を合わせつつも、自らを貫く。それが「和」なのだ。
ここ数十年の日本人は、確かに小人の和になりかけていたのかもしれない。しかし、今こそ僕たちは変わるときのはずだ。新しい日本になるべきときのはずだ。何度もいうように、それは僕たちの世代や僕よりも若い世代の大切な役目だ。戦後支配の中で隠されていた「日本魂」。今こそもう一度、世に花開かせるときなのではないか。
2013年8月23日。海亀が産卵にやって来るカリブ海を眺めながら。