押沼神社へ行く
本当に押沼は興味ある土地である。
祭神 日本武尊
資料によると、古くは鴛沼と書いたという。江戸期は押沼村。
志藤(市東郡の意味)と称していた時期もあり志藤七ヶ郷のひとつ。
市東村(しとうむら)とは、千葉県市原郡にかつて存在した村である。
(明治22年 町村制施行に伴い、瀬又村・番場村・押沼村・中野村・東国吉村・
金剛寺村・板倉村・永吉村・高田村・高倉村・奈良村・古都辺村が合併し市原郡市東村が発足。)
神社の前で農作業をしていた土地の人がいろいろ話をしてくれた。
押沼は水田の大部分がかつては沼であり、またおしどりが遊泳していたという。
「おし(決壊)・ぬま(湿地)」で地辷りまたは洪水のあった湿地という意味。
そしてここは、9世紀前後の頃の製鉄遺跡であった。
資料によると、構造は竪形炉で、送風施設もあり、付近には砂鉄や
炭などの置き場や粘土採掘の跡なども発見され、鉄製作者集団の存在と
製作プロセスを知ることができる重要な資料となりました。とある。
市原市編「時空を超えて」による
何年か前に「ここに一番高いので城があったのではないかと」と大学教授が、調査に来た
とおっしゃっていたが、土地はこの場所が一番高いが、それも疑問?しかし
調べてみるとネットに下記の田中教授の資料がありそこに
押沼城城郭は村田川の左岸段丘を中心に押沼集落内
に郭や土器などが認められている。
と記されていた。
気持ちが落ち着いたようでうれしくこの教授の論文に感謝して
ますます押沼に想いがいった。
目を見張るくらいきれいに整地された畑 「何も植えない野菜植えてもと…」とのこと。
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