渉成園(しょうせいえん)は、京都駅から近い。東本願寺の飛地 境内地。
正式名は渉成園というが、造園当時、周囲に「枳殻(からたち)」を生垣として植えたことから、
「枳殻邸」(きこくてい)という。枳殻邸は江戸時代に三代将軍・徳川家光から東本願寺の別
邸として寄進された御殿。石川丈山によって書院式の回遊庭園として作庭される。頼山陽も
1827年訪れ「十三景」として紹介している。
ここへ行った目的はかって『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人ではないかと言わ
れた源融が営んだ「六条河原院」旧蹟であるとの言い伝えがあったからである。源融は嵯峨
天皇の第十二子として生まれながら、臣下の源氏姓を賜り、左大臣にまでなった。光源氏も
帝の子でありながら、臣下として「源氏」の姓を名乗る。光源氏が最も光り輝いていた時の
舞台は「六条院」である。
源融は六条河原院を造営する際、みちのくの歌枕塩釜の風景を模して庭園を造った。
「塩釜」の井筒、「塩釜の手水鉢」などが景物として残されている。また、源融の供養塔もある。
しかしその死後、六条河原院は荒れ果て幽霊屋敷となり、あの夕顔が亡くなったのはこの屋
敷とも言われたりしている。たとえ伝説でも一度見たかった。
世阿弥が能の傑作といわれる「融」において、容姿端麗で才能にあふれた融が政治権力者の
座からやぶれその心が、高津などの三つの浦から多量の海水を運ばせ、塩を焼かせ、立ち昇
る紫煙を愉しむという風雅よりむしろ桁外れな異常な世界を出現させ、現世を怨み、その思い
がこの六条河原院を生み出したかと想像する。
其の狂気の世界を世阿弥は能に表現し、『今昔物語』などにはこの荒れ果てた「六条河原院」が
登場してくる。
みちのくの しのぶもぢずり たれ故に
乱れそめにし われならなくに
河原左大臣 『百人一首」十四番』
浸雪橋
縮遠亭
源 融 ゆかりの塔
塩釜の手水鉢
鎌倉時代の作
塩釜 今は水は枯れている
園林堂
傍花閣