現在市販されている”ミクロ経済学”テキストは、
①無差別曲線→需要曲線
②生産要素、固定費用、可変費用、機会費用等→(短期)供給曲線
等延べ、価格決定、更に長期の、生産、費用の説明というような構成のものが多いように見受けられますが、
(投稿者自体は一般に”ミクロ経済学”の有用性が今一理解し得ないところからあまり関心が有りませんでしたが)”価値論”を考える中で最近、若干、関心を擁いている所でありますが、これらの”無差別曲線”、”機会費用”といった些か分かりにくいと言いますか、婉曲的表現が所謂”限界効用学派”から派生していると思えるのですが、
(因みにこの”機会費用”と言う用語は、全く”専門用語”でありまして一般的には非常に分かりにくい概念であると思う事です。
簡単に言うなら、財Aの生産に犠牲とされた(生産を断念した)財Bのもつ価値(効用)と言う事だそうですが(経済学史 大野忠雄 岩波書店p181)なにゆえそのような概念の導入が必要なのか不明であります。
(これは”労働価値説”に反駁するあまり論理に無理を強いていると思えるのですが)
財(サービス)の価格は需要供給の一致するところで決まる と言う事はもっともと思われますが、需要曲線は一定、主観的なところと言いますか、好みで決まると言うのも事実と思いますが、(これについても見解がありますが、それは又の機会にしまして)
”供給曲線”について考えるならこれが需給表の何処に位置するかは、例えば自転車の供給曲線よりは、自家用車の供給曲線のほうが上位にあると思うのは、費用の曲線から明らかと思えるのですが、(全て生産物はその”部品”から成り立ちその部品の価格はどの様に決定されたかを考えるならその需給による としか言いようが無いと思われそれは更に遡ると思いますが、一般的”テキスト”でその様な事は殆ど触れず、かなり脈絡不明のまま”機会費用”の概念が説明されているのが一般的のようですが、私見に於いてはその様な些か無理な概念構成が”ミクロ経済学”を一層分かりにくくしており、結果的に果たしてその用途は?と言うような事になると思う事です。
その事がまず第一点で二番目として、”限界効用学派”の始祖としては、一般的に
メンガー、ワルラス、そしてジェボンズの三者と言われていますが、既に他でも言われている事かもしれませんが、ジェボンズの代表的著作としては、経済学の理論”がある訳ですが、その4章交換価値のところの”価値の起源”のところでこう言っています。
生産費は供給を決定する。
供給は最終効用度を決定する。
最終効用度は価値を決定する。
と言う事で、しかしこれは一読して分かるように簡単な三段論法でありまして、究極的には”生産費は価値を決定する”と言う事になってしまい、価値の決定としては全くの循環論であります。(小泉信三他訳p123)
これにつき、マーシャルはその”経済学原理”三巻(馬場敬之助訳p294)でも、”このような連鎖は存在しない”と言っています。
私の疑問はこのような論理を平気で使っているジェボンズが限界効用派の始祖の一人として一般に言われ、一般的”ミクロ経済学”テキスト等でもなにも言われていない事であります。
①無差別曲線→需要曲線
②生産要素、固定費用、可変費用、機会費用等→(短期)供給曲線
等延べ、価格決定、更に長期の、生産、費用の説明というような構成のものが多いように見受けられますが、
(投稿者自体は一般に”ミクロ経済学”の有用性が今一理解し得ないところからあまり関心が有りませんでしたが)”価値論”を考える中で最近、若干、関心を擁いている所でありますが、これらの”無差別曲線”、”機会費用”といった些か分かりにくいと言いますか、婉曲的表現が所謂”限界効用学派”から派生していると思えるのですが、
(因みにこの”機会費用”と言う用語は、全く”専門用語”でありまして一般的には非常に分かりにくい概念であると思う事です。
簡単に言うなら、財Aの生産に犠牲とされた(生産を断念した)財Bのもつ価値(効用)と言う事だそうですが(経済学史 大野忠雄 岩波書店p181)なにゆえそのような概念の導入が必要なのか不明であります。
(これは”労働価値説”に反駁するあまり論理に無理を強いていると思えるのですが)
財(サービス)の価格は需要供給の一致するところで決まる と言う事はもっともと思われますが、需要曲線は一定、主観的なところと言いますか、好みで決まると言うのも事実と思いますが、(これについても見解がありますが、それは又の機会にしまして)
”供給曲線”について考えるならこれが需給表の何処に位置するかは、例えば自転車の供給曲線よりは、自家用車の供給曲線のほうが上位にあると思うのは、費用の曲線から明らかと思えるのですが、(全て生産物はその”部品”から成り立ちその部品の価格はどの様に決定されたかを考えるならその需給による としか言いようが無いと思われそれは更に遡ると思いますが、一般的”テキスト”でその様な事は殆ど触れず、かなり脈絡不明のまま”機会費用”の概念が説明されているのが一般的のようですが、私見に於いてはその様な些か無理な概念構成が”ミクロ経済学”を一層分かりにくくしており、結果的に果たしてその用途は?と言うような事になると思う事です。
その事がまず第一点で二番目として、”限界効用学派”の始祖としては、一般的に
メンガー、ワルラス、そしてジェボンズの三者と言われていますが、既に他でも言われている事かもしれませんが、ジェボンズの代表的著作としては、経済学の理論”がある訳ですが、その4章交換価値のところの”価値の起源”のところでこう言っています。
生産費は供給を決定する。
供給は最終効用度を決定する。
最終効用度は価値を決定する。
と言う事で、しかしこれは一読して分かるように簡単な三段論法でありまして、究極的には”生産費は価値を決定する”と言う事になってしまい、価値の決定としては全くの循環論であります。(小泉信三他訳p123)
これにつき、マーシャルはその”経済学原理”三巻(馬場敬之助訳p294)でも、”このような連鎖は存在しない”と言っています。
私の疑問はこのような論理を平気で使っているジェボンズが限界効用派の始祖の一人として一般に言われ、一般的”ミクロ経済学”テキスト等でもなにも言われていない事であります。