第1編でケインズは古典派(リカードに源を持つ論客達)を相手にしていた。第2篇でケインズは目前の資本主義を相手にしている。それは、我々にとってもなじみ深い資本主義である。それは、資本装備が巨大化し「スクラップアンドビルド」が簡単ではなくなった資本主義であり、それは、ケインズが言うところの「アニマルスピリット」が欠けた「とりあえず」やってみようとはならない、長期期待が投資に大きく影響する資本主義である。そのような経済体制下では何が起きるだろうか?
****
「第1編序論」において、ケインズによって古典派理論の公準が定式化され、セイの法則と合わせて三つの命題が定立された。それを粉砕するのが一般理論の書かれた目的である。
そして「第1編 第3章 有効需要の原理」において「三つの命題」は基本的には粉砕されたのだが、そこには、後に正確に定義される概念が時期尚早に、未定義のまま投入されている。投資誘因も資本の限界効率も第4編で出てくるので、第1編では先走りである。ケインズも「投資誘因は資本の限界効率表とさまざまな満期と危険をもつ貸付の利子率複合体との関係に依存することがわかるであろう」と言っている。わかるであろうって何だよ?資本の限界効率表って何だよ??その定義に至るまで、その意味が分かるまで、第2編、第3編という10章にわたる回り道が必要となってくるのである。ここを飛ばしていきなり第4編に行くと残念ながら一つも理解できないという悲劇が待っている。
急がば回れと言うのは一般理論のことである。特に「第6章 所得、貯蓄および投資の定義」「付論 使用費用について」「第7章 貯蓄と投資の意味―続論」はどれも難物であり、じっくり読まないと誤読する。誤読する原因は、これまで何回も書き、これからも何回も書くだろうが、我々の持つ常識のせいである。読者にはぜひわかるまで原文に当たっていただきたい。そして脳細胞を100%働かせていただきたい。その上で以下の章にお付き合いいただければより実り多きものとなるだろう。
****
この第2篇は、ケインズによって「これらの章は脱線ふうの章」とされているが極めて大事な章である。なぜならケインズはこの章において読者に貨幣ヴェール説からの決別を強いているからである。貨幣ヴェール説とは「貨幣は実物経済のうえにかけたヴェールのようなものにすぎず,実物経済の動きを円滑にはするが,その本質にはなんの影響を与えるものでもなく,経済現象の本質を明らかにするには貨幣というヴェールを取去って,実物経済それ自体を分析しなければならないという考え方」とされている。この説を近代化したものが貨幣数量説である。当時も今も正統派の考え方と言っていい。この謬見から目を覚まさないと以下の論述が理解できないから、この第2篇は書かれた。
今どきそんなことを考えている人がいるのか?と思われる読者もいるだろうが、日銀の異次元金融緩和と政府の財政緊縮が両立する政策は、まさにこの考え方に立っており、我らが眼前に聳え立っている。古典派も現代正統派も「世間知」をオーソライズしたものに過ぎず、常識に立脚して事実に立脚しない。何時まで経ってもても効果を表さない金融財政政策を採り続けるのも「常識にかなった信仰」のおかげである。
古典派も現代正統派も
- 貨幣というものが、
- 誰にとっても、
- いくらあっても、
- 邪魔にならない存在だから
- 貨幣であり続けるのだ
ということをついに理解しないまま経済体系を分析している。この点「世間知」のほうが、いくぶんましであろう。
全く余計なことだが、ケインズの貨幣論はマルクスの影響下にある、と言うよりそのままと言ってもいいのではないか。私には流動性選好と物神崇拝は同じ概念としか思えない。さらに言えばリフレ派の無知とは、流動性選好・物神崇拝という概念を理解しないことである。ついに「歴史的円安」という事態に立ち至ったが、それに対応する術はもう残っていない。金利ではなく総需要が重要だったのだ。