ファシズム、ソ連型社会主義、新自由主義から人間の自由をどう守るか?
ファシズムはイギリスでも勢力を伸ばしていた。写真はイギリスファシスト連盟である。
(資本から希少性を取り去るという主張*訳注)以外の点では一般理論の主張は適度に保守的である。というのは一般理論は、私的領域に中央統制を行うことの根本的な重要性を説きながら、社会にはなおそれには影響されない広汎な活動領域があるからである。国家は税制や利子率の固定やその他の方法で消費性向に指針となる影響を行使しなければならなくなるだろう。そのうえ利子率における銀行政策の影響は利子率を投資に最適な率にするには充分だとは言い難い。それゆえ私は多少とも包括的な投資の社会化が完全雇用に近い状態を維持する唯一の方法であると証明されるであろうと信じる。かと言って、公共当局が民間主導の活動と協力するための妥協や工夫をすべて排除するわけではない。しかしこれを超えて社会の経済生活のほとんどを包含してしまおうとする国家社会主義に明確な擁護論は存在しない。国家が引き受けるうえで重要なのは生産手段の所有ではない。設備を増加させるために投入される資源の総量とその設備の所有者に支払われる報酬の基本的な比率を決めることが可能であるなら、それで必要なことは全てとなろう。
*解説
行きつ戻りつする議論である。中庸の人、現実の人、ケインズならではの議論であるが若い時には物足りない。が、投資の社会化という概念を打ち出しておりこれが最も重要である。
ケインズはソ連型の計画経済の成功(第一次五カ年計画 1928~)、ナチス政権誕生(1933)と言う時代に一般理論を書いている。一方でハイエクらの強固な反対派がいる。ハイエクについては本ブログでも取り上げた。
ハイエクという人は「もし政府が景気回復を助けたいと望むのなら、行なうべき事は、その浪費という昔の癖に戻るのではなく、現時点において景気回復の始まりすら阻害している貿易や自由な資本移動(新株発行を含む)への規制を撤廃することなのです」と言う人であって、現代の緊縮派、規制緩和派の元祖である。頭がクラクラするほど既視感のある言説ではないか?
ハイエクは新自由主義の始祖?として知られている。「隷属への道」で知られているが、最大の隷属は資本への隷属であることを無視したのである。
一般理論でも「風変わりな学説」を信奉する人として取り上げられている。
ケインズとの一番大きな違いは長生き(1899-1992)したことである。長生きすれば権威も長続きするのだ。
ケインズ死後、一般理論はIS-LM理論になってしまった。
ケインズ・ハイエクを対照的にとらえた本はたくさんあるが、ほとんどはケインズ一般理論=IS-LM理論としているはずである。はずというのは読む気もしないので、すいません。
ケインズは、表題のような三つの論敵(ファシズム、ソ連型社会主義、新自由主義)に囲まれて一般理論を書いているのである。
ここまで読んできて、ケインズの問題意識は「資本の限界効率がゼロとならざるを得ない段階で人間の自由をどう守るか」であったと思う。非常に興味深い。
古典派理論は完全雇用下でのみ有効である
完全雇用下では古典派理論が通用するというのは、当初から一般理論が主張していることである。
全ては需要と供給によって決まる、と考えている限り非自発的失業者は存在しえない。
通説となっている古典派理論は、その分析に論理的欠陥があるというより、その暗黙の前提が現実の世界とかけ離れているところに間違いがある。その結果、古典派理論は現実の世界の経済問題を解決することができないのである。しかし本書で提唱するような中央政府によるコントロールが導入されて完全雇用水準に一致する産出量が達成されたら、そこから先は古典派理論が通用するようになるのである。民間部門の営利追求動機が、何を生産するか、どのような生産要素が生産と結合されるか、最終生産物がどのように分配されるかを決定していく過程を分析する古典派の理論的枠組みは、総産出量が所与の場合、その総産出量の枠内では立派に通用する。繰り返すが、我々は勤倹貯蓄の問題を古典派とは違うやり方で取り扱ってきた。しかし完全競争下にしろ、不完全競争下にしろ民間と公共の利益の間をどの程度融合させるかという点に関して現代古典派理論に反対する理由はどこにもないのである。かくして、中央政府は消費性向と投資誘因の相互にどのように調整するかと言う点に気を配ればいいのであって、それ以上に経済生活を社会化しなければならないという理由はないのである。
*解説
消費性向と投資誘因相互の調整、つまり貯蓄・投資バランスに気を配れという話である。投資の社会化である。しかし、未曽有の災害(戦争が一番だが)からの復興期を除いて国家が財とサービスの分配を決定することは得策ではないし、そもそもできはしない。
財とサービスの分配を決定するということは国家が労働力の配置を決定するということである。30年来、構造改革・労働力移動が叫ばれてきたが、貯蓄>投資と言う投資不足の時代、慢性的半失業状態のときに進むわけはないのである。貯蓄=<投資となって初めて、言われてきたような「構造改革」は進む。生産性の低い産業は徐々に消えていくのである。
20年ほど前に中国の工場に行ったことがある。製壜工場だった。日本では当時から壜の最終検査工程は画像処理で自動化されていたが、中国の工場では三人くらいが貼りついていた。工場長にそのことを聞くと「この方が安上がり」とのことであった。今はどうなっているか分からない。
貯蓄=<投資となって初めて賃金は上がる。賃金が上がって初めて省力化は進むのである。
一方、デフレ時代のコスト削減のための省力化は今以上のデフレを産む。これは国家が貯蓄・投資バランスに気を配らない結果である。その手段はあるのに行使しない結果でもある。
現実に即して言うと、現行のシステムが生産要素を間違った方向に使用しているわけではない。予測の間違いで利益が生じない場合もあろう。しかし、それは決定を国家がしたところで避けられない。就労意志のある1000万人のうち900万人が雇用されているとき、その900万人の労働が間違った分野に投入されているということはない。現行システムの問題点は、900万人を違った分野に移動させられないということではなく残り100万人に仕事がないということである。現行システムが機能不全なのは、雇用の量を決定する点にあって雇用の方向性ではないのである。
*解説
当時から構造改革、労働力移動論はあったようである。今も「生産性の低い分野に労働力が滞留している」などと声高に叫ぶ人が多い。何をかいわんや。雇用水準が十分高ければ「構造改革」「労働力移動」はその結果として進むのである。
自由と平等を同時に実現するには?
ケインズの一般理論は
現経済体制の全面的崩壊を防ぐ唯一の実践的手段を提供すると同時に個人の自由の最後の砦である
かくして私はゲゼルとともに次のことに同意する。我々が古典派理論の空隙を埋めたのは「マンチェスター体系」を破棄するためではなく、生産の潜在的可能性を完全に引き出そうとするなら、経済的諸力が自由に活動に必要とされる環境がどのようなものかを指摘するためである。完全雇用達成のための中央政府によるコントロールは政府の伝統的な役割を大きく拡大することも含まれる。そのうえ現代の古典派経済学も経済的諸力が自由に活動する様々な条件には抑制や指導が必要なことに注意を促しているのだ。しかしなお、そこには民間が主体となり責任を持った広範な活動領域が残されるだろう。その領域内では個人主義の伝統的な長所は、なおも有効である。
*解説
マンチェスター体系(Manchester System)については解説が必要である。塩野谷訳では訳注の一番初めに出てくる。現代ではManchester Liberalismと言われるようだ。マンチェスターとリヴァプールの間に世界最初の鉄道が敷かれたように産業革命の中心地である。マルクスは資本家の代表として「労働者保護を自由経済の原則に反すると言っているマンチェスターの工場主ども・・・」と表現している。リカード経済学を基礎にコブデン、ブライトらが穀物法反対運動を繰り広げた地である。近代イギリス自由主義の発祥地であり、その意味では生涯自由党支持を貫いたケインズの心の故郷でもあろう。そのような自由主義、自由主義を確立せんとする運動をManchester Liberalismという。
マンチェスター学派という言い方もあるが、ふさわしくないように思える。日本語で近いのは「潮流」ないしは単に「派」ではないか。同じ思想に基づき目的を実現するための行動を共にした人たちのことである。それを支えた思想体系、理論体系をここでケインズはManchester Systemと呼んでいるのだろう。
自由主義・資本主義を守るためには一般理論が必要だ、というのがケインズの一貫した立場である。
この長所が長所たる所以はなにか少し考えてみよう。一つには効率化である。これは決定の分権の長所であり、利己心同士が相争う結果としての長所である。決定の分権化と個人の責任がもたらす利点は19世紀に考えられていたより多分大きく、利己心に訴えることへの反発は行き過ぎていたかもしれない。しかし何よりも個人主義は、他のどんなシステムよりも個人の選択の幅を大きく広げる。その意味で、その欠陥と悪用を除去することができるなら個人の自由の最良の防衛手段となるのである。人生の多様性はまさにこの個人の選択が拡張されていくからこそ生まれるものであり、等質的なあるいは全体主義的な国家が失うものの中でも最大のものである。このような多様性こそが、過去の何世代もの最も確実な成功した選択を可能とした伝統を保持してきたのであるし、現代をその想像力の多様性で特徴づけている。多様性は伝統と想像力に仕えるとともに、実験に仕えるのであり、未来をよくするための最も強力な手段なのである。
*解説
旧自由主義(この時点では「新」自由主義ではない。自由放任主義とでも呼ぶべきか)と全体主義の狭間で個人の自由を守るという課題に立ち向かっているのである。解説はいるまい。
ところで、消費性向と投資誘因を相互に調整するという課題をこなす政府機能の拡大は19世紀の時事評論家や現代アメリカの金融家には個人主義への恐るべき侵害と映るだろう。しかし逆に私は政府機能の拡大によって個人主義を擁護しようとしているのだ。政府機能の拡大は現存の経済体制の全面的破壊を防ぐ唯一の実践的手段であるばかりでなく、個人の主体性がうまく機能するための条件でもあるからだ。
有効需要が不足している下では、資源の浪費という世間の反感は堪えられないものになるばかりでなく、個々の企業者がこの資源を活用しようとするとしても不利な条件が課されるからである。個々の企業者のサイコロ賭博にはゼロが並び、もしすべてのカードを賭けようとする情熱を持っていたら全体としては負けてしまうだけからである。昔も今も世界の富の増分は個々人の有効な貯蓄の総量より少なかったのである。その差分は彼ら勇気と主体性を持ちながら特別の技量がないかありえない幸運に恵まれなかった人々の損失で埋められてきたのである。しかしもし有効需要が十分であれば、ありふれた技量とありふれた幸運で充分なのである。
*解説
不況下でも、有効需要が不足しているときでも、儲ける奴はいる。そういう人は特別な技量か、ありえない幸運に恵まれている、というわけだ。全体の富が変わらないか縮小しているときは富の分捕り合戦となる。ある人の利得はある人の損失である。「ありふれた技量とありふれた幸運」のすなわちありふれた人々は没落していくのである。
今日の権威主義国家は効率性と自由を犠牲にして失業の問題を解決しているように思える。世界は、好況でごく短い間収まることがあるにせよ、現代の資本主義的個人主義に伴う、私の意見では必然的に伴う失業問題にもはや耐えられないのは確かである。しかし問題の正しい分析によって、効率性と自由を犠牲にすることなく病を治すことは可能なのである。
*解説
愛国労働奉仕団を作って失業者を動員しアウトバーンを作るようなことであろう。効率性と自由は切っても切り離せない。また、人生の選択の幅や想像力も自由と切り離せない。
私が中国資本主義の将来を憂慮するのはこの点である。
第四節に続く