最近漢和辞典を購入し、web上で正史が漢文で公開されて居る場所も有るので、
その翻訳をちょっと挑戦してみようと思い立ちました。
これが出来れば、今後自分のwebページの更新にも役立つと考えたからです。
今回、取り敢えず翻訳(執筆)に挑戦して見るのは、事績が面白く、でも比較的短文に成って居る人物。
隋唐時代の蘇烈(蘇定方)。唐末の秦宗権。明末の楊縞。の三人です。
蘇烈は、隋末の群雄割拠で、唐の創始者、李淵の次に天下に近かった、竇建徳の部将として世に出て、
唐の配下と成ってからは、猛将として鳴らし、新羅の朝鮮半島の統一戦では、
唐の支援軍として、百済救援の日本軍とも、歴史の授業で有名な白村江の戦いで
対戦して居る人物です。
秦宗権は、初め唐の節度使(日本の大名みたいな存在)だったが、
唐の最末期に起きた、王朝滅亡を決定的にした叛乱。黄巣の乱を切っ掛けに、
王朝に叛旗を翻して、黄巣と結び、黄巣が滅んだ後も、独立勢力を保ち、
遂には皇帝を名乗った群雄です。
後に唐を滅ぼした、梁の太祖、朱温(全忠)は、黄巣の配下から王朝側へ寝返り、
王朝の地位を利用した群雄と成ったので、彼とは対照的です。
しかし、秦宗権は、その後滅ぼされますが、その配下の勢力は、周辺の、その後の五代十国の中の、
王朝と成る群雄に吸収されて、その中心勢力と成ったり、また彼の配下には、
その勢力に入るだけで無く、王朝の皇帝(王)に成る人物も居るなど、
まさに唐末~五代十国のキーマンと成る人物です。
楊稿は、明王朝末期の将軍として、慶長の役(秀吉二回目の朝鮮出兵)で、
明の救援軍として日本軍と戦い、加藤清正が篭城する蔚山城の攻城戦等に参加します。
更に後年には、明王朝と、後に中華帝国と成る清王朝の開祖ヌルハチとの、
東亜の覇権を賭けた、サルフの戦いにも参戦する等、まさに東亜の動乱を生き抜いた武将と言えます。
また彼の配下には、後に清の配下と成りながら、三藩の乱を引き起こす、呉三桂の父親も居ました。
面白そうな人達だと思いませんか?これら魅力的な人物の翻訳に挑戦します。
以上の文は、自分のweb掲示板に書いた物ですが、掲示板を縮小するので、
記録を残して置きたく思い、こちらに再掲させて頂きました。
その翻訳をちょっと挑戦してみようと思い立ちました。
これが出来れば、今後自分のwebページの更新にも役立つと考えたからです。
今回、取り敢えず翻訳(執筆)に挑戦して見るのは、事績が面白く、でも比較的短文に成って居る人物。
隋唐時代の蘇烈(蘇定方)。唐末の秦宗権。明末の楊縞。の三人です。
蘇烈は、隋末の群雄割拠で、唐の創始者、李淵の次に天下に近かった、竇建徳の部将として世に出て、
唐の配下と成ってからは、猛将として鳴らし、新羅の朝鮮半島の統一戦では、
唐の支援軍として、百済救援の日本軍とも、歴史の授業で有名な白村江の戦いで
対戦して居る人物です。
秦宗権は、初め唐の節度使(日本の大名みたいな存在)だったが、
唐の最末期に起きた、王朝滅亡を決定的にした叛乱。黄巣の乱を切っ掛けに、
王朝に叛旗を翻して、黄巣と結び、黄巣が滅んだ後も、独立勢力を保ち、
遂には皇帝を名乗った群雄です。
後に唐を滅ぼした、梁の太祖、朱温(全忠)は、黄巣の配下から王朝側へ寝返り、
王朝の地位を利用した群雄と成ったので、彼とは対照的です。
しかし、秦宗権は、その後滅ぼされますが、その配下の勢力は、周辺の、その後の五代十国の中の、
王朝と成る群雄に吸収されて、その中心勢力と成ったり、また彼の配下には、
その勢力に入るだけで無く、王朝の皇帝(王)に成る人物も居るなど、
まさに唐末~五代十国のキーマンと成る人物です。
楊稿は、明王朝末期の将軍として、慶長の役(秀吉二回目の朝鮮出兵)で、
明の救援軍として日本軍と戦い、加藤清正が篭城する蔚山城の攻城戦等に参加します。
更に後年には、明王朝と、後に中華帝国と成る清王朝の開祖ヌルハチとの、
東亜の覇権を賭けた、サルフの戦いにも参戦する等、まさに東亜の動乱を生き抜いた武将と言えます。
また彼の配下には、後に清の配下と成りながら、三藩の乱を引き起こす、呉三桂の父親も居ました。
面白そうな人達だと思いませんか?これら魅力的な人物の翻訳に挑戦します。
以上の文は、自分のweb掲示板に書いた物ですが、掲示板を縮小するので、
記録を残して置きたく思い、こちらに再掲させて頂きました。