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走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

東京は雪

2014年02月08日 19時19分48秒 | つぶやき

娘から写メが届く。

東京は大雪。

娘は写真のような雪だるまを作り、写メに撮って送ってくれた。

思わず微笑んでしまった。

東京はさぞかし寒かろう。

東京の友人たちと研究会をつくっていて、今日がその勉強会であった。

最近は便利になって、ラインというSNSの中にグループを作れるようになっていて、勉強会等のやり取りを誰かが発信するとその中のメンバー全員に伝わる仕掛けになっている。

今までにもこういった類のツールはあったが、チャット形式なのでリアルに会話しているように情報共有できる。

しかも、写真もファイルも簡単にすぐに送れる。

本当に便利になった。

そして、今日は公共交通が完全にマヒしたため全員が動けないというのである。

全員が家の周辺の雪景色の写メを送ってくる。

本当にお手上げ状態だというのがよくわかる。

一方、松山は薄日が差していた。

唯一、離れていて参加できない私もマンションから松山城を向けて撮った写メを送る。

南国でもいるような気分である。

メンバーからうらやましいといった内容のメッセージが届く。

こういう時、松山の良さを感じる(笑)

べつに偉くも何にもないのだが、やはり会議にいつも参加できない悔しさからか...


即今、当処、自己(そっこん、とうしょ、じこ)

2013年12月17日 20時33分57秒 | つぶやき

タイトルに掲げた言葉は、禅の言葉である。

意味は、「今、ここで自分が生きることを大事にする」ということだそうだ。

すなわち、先々を追いかけるのではなく、「日々の仕事にきちんと向き合うことが明日につながる」という考え方である。

私たちは、夢や理想に向かって突き進むことが大切である。

そして、それに向かっていくためには「志」というエネルギーを保ち続けることだと思う。

司馬遼太郎の言葉を借りると、その「志」ほど塩のように溶けやすいものはないと。

ただ、日々の真摯な生きざまの積み重ねが「志」を持ち続けることにつながるとも表現している。

この考え方は、タイトルの言葉と通じるところがある。

計画は作れるのにカタチにできない人をいっぱい見てきました。

さまざまな原因によって頓挫してしまう。

でも、そういう人たちをよくよく見ていくと、日々の生きざまを大切にしていなかったような気がする。

生きざまは計画、実行には直接関係ないが、それを支える基礎の部分のようなものだと思う。

例えば、人間関係を構築する上で、相手の肩書や実績というよりも人間性を重んじることの方が多いのではないか。

仮にそうでないとしたら、その人自身にも問題があると思う。

自分に合った人間性かどうかが新たな人間関係につながるものである。

そして、私はその人間性の原点を日々の生きざまに置いている。


枠にはまらない

2013年12月11日 20時11分54秒 | つぶやき

ホンダのスタンスを言い表すコピーに「枠にはまらない」というのがある。

町工場から生まれたホンダ。

今では、世界を代表する企業となった。

巨大企業が陥りやすい、閉塞感にも似た組織の限界点。

それを打破すべく内外に向けたメッセージが、「枠にはまらない」なのだろう。

そして、そのメッセージは誰よりもうちに向けた要素が強いような気がする。

そのためには、まずトップ自らが、さまざまなシーンで失敗を恐れず、果敢に挑戦し続ける姿勢を示す必要がある。

巨大企業病から脱出し、新たなステージに向かうためには、この「枠にはまらない」精神が何よりも大切なのである。

若い人たちが、この精神を持って前に進む限り、この国の未来は明るい。

そして、若い自治体職員が、この精神を持って前に進む限り、このまちの将来は希望に満ち満ちるのである。


苦手な人とは

2013年12月10日 20時52分21秒 | つぶやき

世の中には、苦手だと思う人がいっぱいいる。

私の場合は、「誰々さんを知っています」と初対面からご紹介される人。

閉口してしまう。

権威主義者は苦手である。

心のどこかで、「その人じゃなく、あなたが知りたい」と叫んでいる自分がいる。

そして、「まぁ、いいか」とつぶやいている。

こういう人は、私のネットワークに登録されない。

次に、他人の夢や活動を紹介してくれるが自分の夢や活動をまったく語ろうとしない人がいる。

結局、何がしたいのか見えてこない。

こういう人も、私のネットワークに登録されない。

そして反対に自分のことしか考えていない、身勝手な人も合わない。

「この世の中、あなただけで回っているわけではないんですよ」と心のどこかで嘯(うそぶ)く自分がいる。

これが私の「苦手な人」のものさしのようだ。


本当の絆とは

2013年12月09日 22時28分57秒 | つぶやき

人の相性が合うというのは簡単なようで難しい。

まず、初対面で9割くらい(相性が)合う人か、そうでない人かがわかってしまう。

そして、この人となら仲良くなれそうだと思い、付き合い始めても途中からおかしくなったりする。

なぜ、おかしくなるのか。

それは相手を信頼し、期待してしまうからかもしれない。

そして、信頼や期待を裏切られると、「あの人は、ああいう人だったのか」と勝手に決めつけて波風を立たせる。

よくよく考えてみると、相手は当初からそういう人だったかもしれない。

勝手に自分で過信したに過ぎないのに...

むしろ、相手のありのままを受け入れないくらいなら付き合わない方がいい。

本当の絆とは、相手の悲しみや苦しみを分かち合える、そんな関係ではないのか。

それなのに、こちらの都合で相手を解釈し、こちらの都合で関係を断ち切ってしまう。

理不尽とはこのことである。

あなたには、本当の意味での絆でつながっている友が何人いますか?


調子のいい人

2013年12月08日 19時32分24秒 | つぶやき

世の中には様々な人がいる。

こちらの調子のいい時にはじゃれるようにすり寄ってきて、調子が悪くなると踵(きびす)を返すように遠ざかる。

人の世の常だから致し方ないと諦めるようにしているが、そういう人に限って何処かで躓(つまづ)いていると風の便りに聞く。

私の周りには、さまざまな知恵やアイデアをもらいに来る人が多い。

どういうわけか、専門外の話でも相手の話を聞いているうちに不思議とアイデアが浮かぶのである。

なぜそのような才能がついたのか。

人並み外れた好奇心と、どん欲なまでの向上心、多種多様な人的ネットワークのおかげかもしれない。

そして、アイデアをもらった人たちは、それらを行動に移し、最初のうちはうまくいく。

だが、途中からおかしくなる。

当然である。

アイデアは、ブラッシュアップ(磨き上げる)しなければ、途中で頓挫(とんざ)してしまう。

言葉は悪いが、タダで得たものは身につかないのである。

出発点として、ヒントをえるのはいいが、お膳立てしてもらって、しかも軌道に乗るところまで頼った後、自分のものにする。

うまくいくわけがない。

自分の足で稼ぎ、自分で知恵を絞り、汗をかく。

当然、自己投資がともなう。

それを飛ばしたやり方は身につかない。

人が築き上げたネットワークを利用しても、自分のネットワークになることはまずありえない。

そして、いつかボロが出る。

最近、このような「調子のいい人」がよく見えるようになった。

何よりもこういった人たちは、「いける!」と思った瞬間から、離れて行ってくれる。

そんな時、黙って見送ることにしている。

 


やり残し

2013年12月07日 18時50分32秒 | つぶやき

年の瀬が来ると、どうしてもその年を振りかえてしまう。

歳を重ねてくると余計である。

そして、若い頃はやり残したことを「来年こそは」と思っていた。

だが、いつしか、そのことにこだわらなくなり始めた。

諦めたわけではない。

おそらく、振り返るだけでなく、残りの人生も見るようになったからかもしれない。

そして、できることと、できないことが見えてきた。

そして、残りの時間で何ができて、何がやりたいのかを整理する。

次に、それらに優先順位をつけてみる。

自ずと下位のテーマはやりきれない可能性が出てくる。

いわゆる「やり残し」が出てくるのである。

「いたしかたない」と諦められる自分がいる。

だからこそ、上位のテーマは何が何でもやりきろうと思うのである。

「やり残し」は、諦めの産物ではなく、やりきった証なのだと自分に言い聞かせるようになった。


うまくいかないから、人生は楽しい

2013年12月06日 21時15分12秒 | つぶやき

何をやってもうまくいかない...

そういう方は多いのではないか。

そして、もがけばもがくほど、どんどん深みにはまっていくような、そんな気がすることを経験された方も多いのではないか。

私も振り返った時、何度かそんな経験をした。

最初は、あいつのせいだ、あれが原因だ、挙句の果てには世の中が悪い等々...

そこには、自己責任のかけらすらない。

ただ、よくよく考えてみると一歩踏み出したからこそ、うまくいかないことにぶち当たったのである。

黙って首を引っ込めて丸まっていた方がよかったのかもしれないが、性分がそうはさせなかった。

「不屈の精神」という言葉があるが、ぶち当たっても亀のように何度も首をもたげ、のっそりと一歩前へ歩みだしていたような気がする。

そして、踏みつけられたり、挙句の果てに蹴飛ばされたりもした。

だが、ゆっくりと方向を変え、元の方向へ戻して歩み始めていたような気がする。

その動きはけっして早くない。

まさに愚鈍で、鈍才である。

だが、どんな時も諦めなかったような気がする。

自分で自分を鼓舞しながら、目の前のことに必死でぶつかっていたような気がする。

たとえ、それが大きかろうが小さかろうが関係なかったような気がする。

そうすることで自分のモチベーションを維持していたのかもしれない。

そして、そんなことを何度か繰り返すうちに自分の信念のようなものが出来上がった。

そして、心のどこかに、こうくり返すようになった。

「だから、人生は楽しい」

「うまくいかないから、人生は楽しい」と...

 

 


本質を見抜く力

2013年12月05日 21時24分35秒 | つぶやき

色々な方々とお話しする機会が多いのだが、要領の得ない方がおられる。

その話を聞きながら、「この方は本質を見抜く力を持っていないんだろうなあ」とつい思ってしまう。

話がとにかく回りくどいのである。

何よりも、本質がなんなのか、そのことすら追求しようともしない。

「どうなんだかな」と思ってしまう。

一方で、「結論は何?」とせかす方もおられる。

実は、「結論」と「本質」とは違うのだということに気づいておられない。

こういう口癖の方は、成果主義者にちかく、そのプロセスを無視する御仁が多い。

そうなると、やらされた方はたまったもんじゃない。

しかも、そのプロセスにおいて涙ぐましい努力をしていたとしたら、「何もわかってくれない!」、そう感じるに違いない。

私は、上司という立場で意識していることは、部下が本質を見抜く力をつけてくれるよう訓練することだと思っている。

そこで投げかける言葉は、「この事業の目的を一言でいってみて」とか、「この事業は誰のためにするのか一言でいってみて」である。

この「一言でいってみて」が曲者である。

一言で言えないときは、やり直しである。

一言で言えるということは、本質を見抜いている可能性が高いからである。

問いかける分、こちらも本質を見抜いておかないといけない。

この「一言でいってみて」を言える上司になることを意識してきたし、これからも言い続けようと思っている。


大成する人とは

2013年12月04日 23時31分25秒 | つぶやき

 さまざまな方々と知り合いになる機会が多い私にとっては、初対面のイメージはとっても大事です。

そして、知り合った人たちがずいぶんと偉くなったり、企業のトップという方々にお会いした時に共通することがあります。

それを私なりに整理すると次のようなものです。

  ・大きな目標を平気で抱いてしまうような人

  ・物事に感動し、感激できる人

  ・自分の役割に真剣に、またがむしゃらに取り組める人

  ・努力していることを努力と思わないような人

  ・悪い結果は、自分の責任であると思える人

 どうですか、皆さんもなるほどと思ったのがいくつかありましたか。

 これとは、逆にまとまりすぎて、冷静でへんに大人びた発言をする若者に出会うと、寂しくなります。

君たちの未来は、自分次第でなんとでもなる。

「どうせ...」などと言う前に行動をし、いっぱい失敗するといい。

その中から、上記のような性格が生まれてきます。

最初から、このようなことをすべて持っている人はいないのです。

まだまだ間に合いますよ!!


鈍才が世の中を変える!

2013年11月30日 00時09分04秒 | つぶやき

私たちの業界には、多くの秀才がいます。

残念ですが、私はこの秀才の中には入っていません。

落ちこぼれたわけでもありません。

最初から入っていなかったような気がします。

なぜなら、私は、鈍才だからです。

なぜこのようなことを言い出すかと言うと、仕事で何かを命じられたときに、秀才は前例があるかどうか、上司がうんと言うか、人間関係を乱さないか、現実になし得るためにはなにをしなければならないか、そして成し得た場合のメリットとデメリット、成さなかった場合のメリットとデメリットを瞬時のうち比較し少しでも成さなかった方がいいと判断すると、しないための理由付けを言い始めるのである。

恥ずかしい話だが、私にはこれが出来ない。

だから鈍才なのである。

振り返ったときに、このような時、私はどうやったら現実に成し得るための方策を考えてしまう。

よくよく考えたら、私のような鈍才を上司をもった部下たちはたまったものじゃない。

何でも受けて帰ってくるのだから、仕事のオーバーフローを起こしかねない。

どれだけ回りの人たちに迷惑をかけてきたことか。

だが、言い訳のように聞こえるかもしれないが、私の場合は命じられたときに達成したときのイメージが浮かんでしまうと、つい手がけてしまうのである。

そのイメージとは、映画のシーンのようにたくさんの人たちがハッピーエンドで終わるシーンのようなもの。

かならず、登場人物一人ひとりの笑顔で笑っている。

そして、その登場人物がはっきりとわかる。

そんなときは、「やれる!」と思ってしまうのである。

そのシーンが浮かんでこないときは、私だって丁重にお断りする。

そして、その行動がいつしか色々な分野でイノベーションを起こしていた。

こう考えると、世の中のイノベーションは秀才が起こすのではなく、鈍才が起こすことの方が多いのかもしれない。

 

 


新しい名刺

2013年11月26日 21時11分54秒 | つぶやき

どうもいきません。

何が?

名刺ですよ。

この4月から部署が変わって名刺を文字だけにしてみました。

初対面の人は違和感がないのですが、前からの知り合いの方は何か物足りなそうで、失望感がありありなのです。

前にも書かせてもらったのですが、名刺を営業戦略のツールとして使っていた私としては、どうも私のキャラの一部になっていたようであります。

そこで初心に戻り、「走る営業公務員」の生みの親である、コピーライター(?)の友人のTさんにお願いしました。

最初の名刺もそうでしたが、よくもまあ、ここまでやれると思ったのですが、私の人となり、間違っていないので一発オッケーしてしまいました。

こんなふざけた公務員もいていいだろうと、そんな思いです。

編集はTさんの奥さんがしてくれたようで、Tさんが落書きのように書いた案を起こしてくれたそうです。

奥さんの「こんなんじゃあダメですよねぇ?」という言葉が印象的でしたが、簡単にオッケーすると、「本当にいいんですか?」と聞き返されたので、つい笑ってしまいました。

この名刺がほしい方は、わたくしの職場までお越しください。

限定100名の方には無料で差し上げます。(本当はいつでも無料です。)

[補足]

 「よもだ」は、伊予弁で、「いいかげんな」、「大雑把な」という意味があり、いい意味で「小事にこだわらない」という意味でもあるかなと勝手に解釈しているので、大好きな言葉でもあります。


なんのために存在しているのか?

2013年10月16日 20時26分37秒 | つぶやき

今朝の朝勉のテーマは、そもそもこの組織は「なんのために存在しているのか」であった。

若い人たちなりに、その答えはさまざまであった。

答えは、どれも正しい。

大切なことは、このことを熱く議論することで、一人でもいいから壁にぶち当たった時に、この言葉を思い出してくれればいいのである。

そうすれば、自ずと光が見えてくる。

そして、誰を一番に考えなければならないかが改めて気づくことになる。

次に、「自分たちの仕事を格好いい」と思ったことがあるかと問うてみた。

皆、無言になった。

「私は若い時から、今まで自分の仕事は格好いいと思っている」と誇らしげに語った。

「だって、地域社会を創ったり、(その地域の)未来を創れるんやで。格好ええやん」と続けた。

こんな青いシニアがいてもいいはずである。

そして、後輩たちに笑われようと、「俺の仕事は格好ええんやぞ」と言い切れる先輩がいてもええやんと思う。


また会いたくなる人

2013年10月15日 23時13分28秒 | つぶやき

初めて会った人の印象は、当然、人によって異なってきます。

そのほとんどが一期一会になってしまうケースが多い中で、どうしてもまた会いたい人がいます。

私にとってのまた会いたい人とは、「社会のために何か役に立ちたい」と思い、行動している人。

そういう強烈な志を持っている人と接すると、なにかホッとするからかもしれません。

あまり、利益追求の話をされると、こちらとしては引き気味になります。

当然、利益を追求することは悪いことでもなく、排除する気もありませんが、その根底の部分に「社会のために」というのを持っておいてほしいものです。

私のまた会いたくなる人は、決して大きなことをしているわけではありません。

毎日、コツコツと「いいこと」を積み重ねている人なのです。

むしろ、その人の歩みは遅いと思います。

時に立ち止り、時に後退しながらも、それでも諦めず、着実に一歩一歩前へ歩みを進めています。

そして、本人も気づかないうちに、言動や立ち居振る舞いが洗練されてきています。

さらに、無視できない存在感も出てきています。

よく外見を気にする人たちがいますが、私のまた会いたい人の洗練さや存在感にはかなわないと思います。

 

 


話し合いの本当の目的

2013年10月13日 13時33分15秒 | つぶやき

「話せばわかる」、一見無責任ともとれるような表現である。

「どんなに話し合っても、分からず屋は分からず屋だ」と思われるかもしれない。

だが、この言葉を実証できる方法がある。

難しいことではない。

まず、意見がぶつかると、どうしても相手を言い負かそうとする。

時には、相手に逃げ場がないくらい追い詰める。

私もそうであった。

今、思い起こすと赤面する。

その時の私には、「皆にとって、どうなることが最善か」ということを考えていなかったような気がする。

そう考えれば、自分の意見など気持ちよく取り下げられたのではないかと反省する。

つまり、「市民のために生きる」という覚悟さえあれば、話し合いで解決するのである。