走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

自分で考えろ!!

2011年02月02日 22時53分34秒 | ちょっといい話
 今夜、役所に入所した時に最初の先輩だったMさんの送別会を行った。
同期のHさんと三人きりのささやかな送別会。
なぜ、ささやかな送別会になったかというと

 M先輩は送別会を頑なに拒否し続けてきたからである。

 そこで、「前方(まえかた)に寿司を奢ってくれるといってたじゃないですか、今度行きませんか?」と偽って誘った。

主役は本気で私に寿司を奢るつもりで店にやってきた。
まず、私以外にHさんがいるのに驚いた。

 席に着くなり、「今日は何の会ぞ?」
 「あなたの送別会です」
 「そんなことはせんでええ言うたろが...」
 「まあまあ」といってとりなす。
 「ということで、これささやかな記念品です。」

 M先輩は、最近、バイク(自転車)に凝っているとのこと。
 (私は、この先輩を長年見てきたが一番まともな趣味のような気がする)
 そこで、バイク用のヘルメットを贈った。
 還暦ということもあり、赤いラインが入ったモノにした。
 いつまでも健康でありますように、いつまでも若々しくありますようにと思って贈った。

 M先輩は、昔からシャイであった。
 少し天邪鬼なところもある。
 記念品も受け取ろうが受けとらまいが、こちらの勝手で渡すしかない。
 ひとしきり話したところで今度は花束が届く。
 二度目のサプライズである。
 照れくさそうに受け取ってくれた。
 
 この先輩がいたからこそ、今の自分がある。
 よく怒られた。
 怒るときは、鬼の形相になり、まさに「烈火の如く」怒った。
 完全に感情で怒っていた。
 でも、まちがってはいなかった。
 私自身の甘えや至らぬところをついてきた。
 仕事は真剣勝負であるということを教えてくれた。
 理詰めで物事を考えるということを教えてくれた。
 時に大胆に、時に繊細に仕事をするものだということを教えてくれた。
 本質を見抜き、そこからぶれてはいけないということを教えてくれた。
 そして、怒った後の決まり文句は

 「自分で考えろ!!」であった。

 この先輩からいっぱいいっぱい盗んだ。
 だから、今の自分がある。

前例がないならつくってやる!!

2011年01月16日 21時44分49秒 | ちょっといい話
 今日、ラ・ファミリエ主催のチャリティコンサートに出かけてきました。
コンサートは、午前の映画に引き続いてあり、ラ・ファミリエの底力みたいなものを感じました。

 コンサートの方は、同団体の理事長である石井榮一さんがあいさつ、続いて愛媛県保健福祉部健康衛生局長の三木優子さんがあいさつを行いました。
驚いたのは、美紀さんのあいさつがとても心のこもったやさしい内容だったので同じ行政人として感動しました。

 そして、マネージャーさんより気管切開がどれほど大変なことかという説明とソプラノ歌手・青野浩美さんのコンサートへと続きました。

 ソプラノ歌手・青野浩美さんは、音楽家である母親の跡をたどりながら当然のように音楽家を志しました。
そして、その人生は順風満帆のようでありました。
しかし、神は残酷です。

 彼女が22歳の同志社女子大学音楽学会特別専修生の12月に原因不明の病に倒れるのです。
その病は、原因どころか病名もついていない難病でした。
そして、彼女は車椅子生活を余儀なくされるのです。
しかし、彼女は希望を捨てませんでした。

 「車椅子でも歌える」

 「立つ姿勢が綺麗だと歌がうまい」といわれていた常識を覆し、車椅子でも歌えることを実証してみせたのです。
 しかし、運命はそんな精一杯の彼女により深刻な試練を課します。

 彼女を新たな症状が襲ったのです。

 「無呼吸発作」

 この症状が続くと死に至るのだそうです。
医師の診断は、「また無呼吸になった時、気管切開をしていないと命の保障はない」というものでした。

 切開すると声を失う・・・

 彼女は絶望の淵に追いやられました。
 そんな時、ある友の電話に助けられました。
「アホか!!あんた、命と歌を天秤にかけてない。命がないなったら歌もなくなるんやで」
彼女は我に帰りました。
そして、手術を受ける決心をしたそうです。

 そして、医師に「先生、手術後、話ができますか?」と問うと、
「最近はいい器具が出ていますのでリハビリしだいでは話せるようになると思いますよ」
「じゃあ先生、歌はどうですか?」
 医師は少し顔を曇らせて
「それは無理でしょう」
「どうしてですか?」
「それは、前例がないからです」

 普通ならここで挫(くじ)けるのですが、彼女は

 「前例がないならつくってやる!!」と思ったそうです。

 そして、術後、本当に血の出るようなリハビリを行い、人の心を感動させる歌声を取り戻しました。

 諦めない生き方...

 そして、諦めざるを得ない人たちに希望の光を彼女は与えました。

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最後の曲は、佐伯素晴(スバル)ちゃん、大藤彩音ちゃんも加わっての合唱でした。


そして、ラ・ファミリエのカレンダーに載った子どもたちの絵です。



 

不死鳥ジャパン

2010年12月03日 22時58分36秒 | ちょっといい話
 今日のNHK「熱中スタジアム」のテーマは、ハンディキャップをもった選手だけの野球チーム「不死鳥ジャパン」の特集だった。

 選手一人ひとりを追いかけ、その野球にかける思いや野球によってそのハンディを乗り越えていった物語を綴る。
どの選手も、イキイキとした顔をしている。
むしろハンディのない人よりも素敵な顔をしている。

 そして、今年11月6日神戸で4年に一回のハンディキャップを持った野球チームが世界から集った。
第二のワールドカップである。

 この日本チームを率いるのが岩崎監督である。
同監督は、ハンディキャップ野球のルールを作った。
試合に臨むにあたって同監督は言う、

 「試合の勝ち負けよりも、全員を試合に出すことの方が大切なんです。」

 自身もハンディキャップを負って車椅子生活である。
だから、選手一人ひとりの思いを知っている。
一人ひとりの希望や夢を知っている。

 チームワークの原点がそこにあった。

出会い

2010年12月02日 23時38分58秒 | ちょっといい話
 友人のHさんは、最近、ある商品を開発され特許申請をされた。
そのユニークさが、なんだか最初からひかかっていた。

 これを広めるためにはどうすればいいのか、試行錯誤しながら今に至る。
私も少しばかりのチエだが、なにかとアドバイスをさせていただいていた。
でも、そんなに順風満帆にはいかない。
さまざまな局面で障害が立ちはだかる。その都度、悩まれている。

 そういう時、アドバイスというよりも相談レベルの話をする。
でも、その時々で期待以上に喜んでくれる。感謝してくれる。

 そんなHさんが、最近、こういう人に出会えたらと思っていると不思議と出会えてしまうというのである。
ビジネスにはさまざまな条件がそろわないと成就しない。
その中で一番難しいのが「タイミング(時機)」だと思う。
早くても遅くてもうまくいかない。

 そういう意味では、私も驚くような出会いにめぐりあっている。
不思議なことに私の周りの人たちにも同様の現象が起こっている。

 何か、新たなステージに進んでいく予感がする。
 



斎藤佑樹投手の真摯な姿勢

2010年11月21日 19時44分47秒 | ちょっといい話
 今朝のNHKの「スポーツ大陸」という番組は斎藤佑樹投手が主人公であった。
話の筋は、NHKのホームページを引用すると次のようなものである。

“ハンカチ王子”と戦った4年間
~早稲田・斎藤佑樹~

 50年ぶりとなった早稲田対慶応の優勝決定戦で、早稲田の斎藤佑樹投手は8回途中までヒットを1本も打たれないピッチングで勝利。
大学最後のリーグ戦を優勝という最高の形で締めくくった。しかし、斎藤投手にとって大学4年間は苦難の連続だった。
 高校3年生の夏の甲子園を制してから、斎藤投手は「斎藤佑樹」ではなく、冷静で負けない完ぺきなピッチャー“ハンカチ王子”として見られる人生が始まった。
そのイメージに応えるように、大学に進んでからも結果を残してきた。
ところが、去年、勝ち星が伸びないと、「斎藤は大学で成長していない」という声が耳に届くようになった。
なんとしても見返してやりたい。
しかし、焦りだけが先行し、思うようなピッチングができない日々が続いていた。
そうした中で迎えた優勝を決める大一番、斎藤は春のリーグ戦の覇者・慶応を全く寄せ付けなかった。
そこには、反発の気持ちではなく、これまで支えてくれた人に恩返しをしたいと、無心でバッターに立ち向かっていく斎藤投手がいた。
 番組では、“ハンカチ王子”の存在に苦しみながらも、大学での成長を実感し、プロの世界へ歩み出した斎藤投手を見つめる。

 ポーカーフェイスの斉藤投手から信じられないような苦渋の顔が見られた。
「ハンカチ王子」ともてはやされただけに、そのプレッシャーとの戦いはすさまじいものがあった。

 そして、番組の中で彼は語る。
「運があるのかどうかはわからない。でも今まで生きてきた人生の中で自分の周りには親や家族、友人などたくさんの『仲間』がいるということはわかっているし、そういう人たちに支えられてきたことだけはわかる。」
 彼が立派なのは、そういう仲間に支えられて今の自分がいるということをしっかりと受け止めているということ。
その真摯で謙虚な姿勢が、彼をさらに成長させたのである。

 「真摯」な姿勢とはこういう青年の行動や思想を言うのであろう。
 どこかの政治家先生の使われる「真摯」とは違うのではないかと、つい思ってしまった。

師匠を乗り越える弟子

2010年08月21日 23時48分28秒 | ちょっといい話
 今日の夕方、NHKで現在大ヒット中のスタジオジブリのアニメ映画「借りぐらしのアリエッティ」の製作の舞台裏を追ったドキュメンタリー「ジブリ 創作のヒミツ~宮崎駿と新人監督の400日~」が再放送されていた。

 この作品では、37歳の新人・米林宏昌監督が大抜てきされ、宮崎は脚本のみの参加となった。
その背景には宮崎がこれまで「新たな“才能”を育ててこれなかった」という強い危機感があったからだという。
ジブリ作品では、これまで何度も若手の監督が起用されてきたが、宮崎はその強いこだわりから作品作りに介入し、最後には乗っ取ってしまうことも多かった。
 そこで、この作品では、宮崎は作品作りに介入しないという強固な姿勢を決め、これまで宮崎の下でアニメーターとして活躍してきた米林監督に監督業を一任。
一方、宮崎の手助けなしで映画を作りきることを任された米林監督は、圧倒的な重圧を感じながら作品作りに挑んだ。
 そんな、師弟の心の葛藤を400日にわたって密着する作品だった。

 また、スタジオでは、CGを駆使し、“絵に命を吹き込む”といわれるジブリ映画の創作のこだわりや秘密を検証する。ナビゲーターは広末涼子が務めていた。

 この400日間の師弟間の無言のラリーは凄いものがあった。
特に、米林宏昌監督の心の葛藤が凄まじかった。
仲間も最初から好意的とはいえない。
無言の「あんたで大丈夫なの?」的なプレッシャーを受けながら、孤独とも言うべきトップの心理状態をカメラは追う。
すべての最終決定をしなければならない極限の状態。
時間との戦い。
しかし、妥協できないこだわり。
それを貫き通さなければならないトップとしてのエゴのようなもの。
凄まじかった。

 そして、それをじっと無言のまま見守り続けた宮崎駿の凄さ。

 宮崎駿は、恐らく完璧なストーリーを渡さなかったと思う。
師匠・宮崎駿の企画にあえて手を入れさすためのあいまいな部分を残したような気がする。
先輩や師匠と思っている人の文章に筆を入れることの「迷い」を勇気を振り絞って入れたときの心の葛藤。
でもそれをやらなければ、その先輩や師匠を乗り越えることはできない。
痛いくらいわかる。

 そして、最後の試写会で宮崎駿は一筋の涙を流す。

紅ショウガのスイーツ

2010年08月11日 23時10分56秒 | ちょっといい話
日曜日の「情熱大陸」を観た。
主人公は料理人・目黒浩敬(めぐろ ひろたか)。

彼は、食材の持つ本来の味を大切にする。
でも、その生き方は気負っていない。
彼が仙台でやっているお店の名前は「アル フィオーレ」。

その中で地元温泉旅館を経営するご婦人にピンク色の綺麗なスイーツを出した。
その食材は紅ショウガだった。
彼女は感動した。
なぜなら、彼女には紅ショウガにまつわるちょっと悲しい思い出があったからである。
彼女の少女時代にさかのぼる。
宿で働く母親に甘えたくとも甘えられなかったという。
そんなある日、蔵の中の蓋の開いた樽を見つけた。
その樽の中に手を突っ込むと赤い紅ショウガが出てきた。
それを口に含み、噛んでみると「カリカリ」という音ともに、なんともいえぬ味あったことのない感覚を覚えたという。
その味は、寂しかった彼女の心を忘れさせる味だったというのである。
そして、それから毎日、夕方六時頃になると蔵に忍び込み、その紅ショウガを食べたという。
気がつくと、樽の中の紅ショウガを食べつくしてしまったというのである。
その話を料理人目黒に語り、彼はその話を覚えていた。
そして、彼女は今、その母親の介護に追われていることも知っていた。

目黒はそれを覚えていて、一週間前から下ごしらえをし、彼なりの技法で彼女の食後のスイーツとして出したのである。

ナレーションは、「忘れないことは、優しさだ」と語りかける。
その優しさがデザートに注がれる。
手間隙をかけた「パンナコッタ」
その紅ショウガのほのかな酸味が50年前の思い出を呼び起こしてくれる。
彼女の感激はひとしおだった。

料理を通して人を喜ばせること。
それが料理人目黒の喜びだという。

ライバル

2010年08月02日 23時45分31秒 | ちょっといい話
 NHKのふたり「しのぎあい、果てなき絆~日本料理人・山本征治×奥田透~」という番組を見ていて、久しぶりに感動した。

 番組の内容は、世界が注目する日本料理界の雄、山本征治さんと奥田透さん。
二人は兄弟弟子で究極のライバル。
はも、鮎、大うなぎなど、初夏の食材に挑む二人のしのぎあいと絆の物語に迫るというもの。
性格が異なる二人が目指すものが同じというのがおもしろい。
その目標とは、「日本料理を進化させる」こと。
だが、その手法は異なる。

NHKのホームページを引用すると次のとおり。

世界が注目する日本料理界の雄がいる。
“世界最先端の料理の1つ”といわれ「世界のベストレストラン50」に日本料理として初めて選ばれた山本征治と、レストランガイド「ミシュランガイド」で3年連続三つ星を獲得、王道の料理で海外にも知られる奥田透だ。
ふたりは同じ料亭で修業をした兄弟弟子で究極のライバル。
日本料理の食材がもっとも豊富な初夏。はも、あゆ、大うなぎに挑むふたりの“しのぎあいときずな”の物語に迫る。

 奥田がその修行時代(徳島の料亭)、その寮に住む山本の部屋を訪ねたとき、そこに奥田が収集していた本があり、探し回っても手に入れられなかった本がそこにあったという。
そのとき奥田は、「似ている」と思った。
そして、二人は熱く語り合うのである。
今、山本は六本木で、奥田は銀座でそれぞれ店を持ち、今でも互いを切磋琢磨しあう。
でも、お互いのノウハウを隠さない。
むしろ、さらけ出す。
そのぶつかり合いは凄まじく、鬼気迫るものがある。

 世間的には、奥田が一歩リードしているかのように見える。
その奥田が、「神様は、あの(山本の)才能を私には与えてくれなかった」と涙ぐむ。
それほどに山本は天才なのだ。
 そして、山本も「(奥田を)追い続けます」と奥田の才能を認める。
互いが自己の才を知り、相手の才を知り、その上で自分らしいやり方を極めようとしている。

 こんなライバルにめぐり合えることは幸せかもしれないと思った。

学びを諦めない生き方とは

2010年07月28日 23時35分46秒 | ちょっといい話
 有吉道夫(ありよし みちお、1935年7月27日 - )将棋棋士、九段をご存知であろうか。惜しまれつつ2010年5月に、引退。
大山康晴十五世名人門下生として知られ、年齢差が12歳ほどしかない大山の一番弟子で、1951年に15歳で入門してからの奨励会の4年間、大山のもとで内弟子生活を送る。1955年、19歳でプロ入り。

棋聖のタイトル獲得1回のほか優勝9回。また、タイトル戦の舞台での大山との師弟対決は4度実現しているが、師匠の壁を打ち破ることはできなかった。

現役期間は55年を数え、2001年には史上6人目の通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成している。大山康晴、加藤一二三に次ぐ六十歳代A級棋士であり、順位戦A級在籍は21期というすごさである。同じ関西本部所属では、内藤國雄とは自他ともに認めるライバル関係で、関西将棋界を牽引してきた。

将棋に熱中したきっかけは、「矢倉囲いの美しさに感動したから」だという。

 この有吉棋士の将棋にかける執念はすごいものがあった。
そして、その戦いぶりは「最後まで気迫で打つ」ことを信条にしていた。
しかし、年齢には勝てず、自分の孫くらいの若い棋士に負けることもしばしばだった。
今の若い棋士はパソコンソフトを活用し、さまざまな戦いのシュミレーションに対応していく。
 
 一方、有吉棋士は超アナログ人間。
勝てるわけがないといえば当然なのだが、それでも果敢に若い棋士たちに挑んでいく。
ある日、奥様が、「そんなに(若い人たちに)負けるのがつらいなら引退なさってはどうですか」といったことがあるそうだ。
有吉棋士は、「自分より年下に学ぶことは恥ではない」と言って貪欲に若い棋士たちから学ぶ姿勢を変えなかったという。
きっと悔しかったのは勝負に負けることで、それが年上であろうが年下であろうが、そのことについては関係なかったのであろう。

 しかし、自分が培ってきたことが通用しないということがどういうことか、自分に置き換えると自尊心どころか、モチベーションを維持することも出来ない。

 有吉棋士は、このモチベーションを維持するために、常に頭を空っぽにし、スイッチを入れ替えていたそうである。

 そして、有吉棋士は言う。
 「学びを諦めない生き方とは、『知りたい』という探究心を常に持ち続けること」だそうである。

NPO まほろば スタート

2010年07月25日 23時41分40秒 | ちょっといい話
 「NPOまほろば(現在申請準備中)」の参加者説明会が今夜開催された。
名称からするとなんとなく宗教がかっているようなイメージなのだが、意味は古(いにしえ)の言葉で、「素晴らしい場所」という意味なのだそうだ。
代表は、お好み焼き「すみれ」の代表取締役・芳野裕士さん。

 目的は、次代を担う子どもたちに安心安全な食材を提供する地域社会システムを構築することにある。
彼は、食材に関係すること、例えば食料自給率から食育まで「食べる」というキーワードで、いま社会が抱えている職に関する問題について提起しておられる。
なんだか大言壮語のように感じるかもしれないが、本人は大真面目なのである。
そして、行き着いた先が個人の問題でなく地域社会としての問題という点。
だからこそ、名称の中にフィールド(場所)がつくことにこだわられた。
説明の中にも、企業人だと「マーケット」という言葉を使われるのが通常だが、あえて「コミュニテイ」という言葉を使われていたことが印象深い。

 特に、芳野さんは木村秋則さんと知り合ってから、自然栽培の大切さに感銘し、それを広げるのも目標の一つにおいておられる。
地元でも芳野さんは飲食サービス業の風雲児である。
その経営手法は卓越しており、本業も他の同業者が苦戦している中、頑張っておられる。
なのに、なぜ非営利活動なのか。
それは、彼なりのこだわりがある。
おそらく企業人として、社会に貢献する一員であるという自覚を持っておられるからに相違ない。
そして、何よりも子どもたちのことを心配し、そのまた次の子どもたちのことを心配しておられる。

 その彼が立ち上がった。
 会場に集まったのは、今、地元でも流行っている飲食店の経営者やホテル経営者たち、さらには若手農業者の代表の人たちや消費者代表などが多数集まってくれた。
こういう会に参加させてもらうと、自然にそのエネルギーを吸収でき、自分自身も充電できる。
参加者の人たち一人ひとりと話をさせてもらった。
みんな前向きである。
当然、それぞれの収益が上がることを前提にしているが、それだけでは足りないということを理解してくれているようである。

 これも芳野さんの人望なのだろうなと感心しつつ、この活動がゆっくりでもいいから広がってくれることを願い、私の出来る範囲でボランティアをさせていただこうと思っています。

デンマークのトマソン選手

2010年06月27日 17時05分24秒 | ちょっといい話
先週の金曜日、サッカーワールドカップで日本はデンマーク、に勝利しました。
思ってもみなかったことなので、はしゃぎたい気持ちは分かりますが、これが反対だったらどうでしょうか?
私は、あまりにもマスコミが手のひらを返し、サッカー一色になっていることを責めているわけではありません。
おそらく日本が負けていたならば、デンマークは敗者である私たちに敬意を表してくれたのではないかということが言いたいのです。
マスコミの報道の中に、どれだけデンマークに敬意を表した記事があったでしょうか。

 彼らの真摯な姿勢を皆さんは忘れてしまったのではないでしょうか。
これも林住職の受け売りですが、日韓ワールドカップのときにデンマークは和歌山県にキャンプを張りました。
そこでの彼らのスポーツマンシップは実にすがすがしいものでした。

まず、練習後には見学に来ていた地元サッカー少年たちと一緒になってミニサッカーを行ったり、全選手が少年たちに気軽にサインにも応えるというサービス精神で貢献してくれました。

 また、デンマークのキャンプ地での練習の話が凄いのです。
通常は練習といえども非公開が通例なのですが、デンマークは練習初日から全ての練習を公開したというのです。
このことについてある記者がオルセン監督にこう質問したそうです。
「他国は練習を公開しないで、試合に備えていますけどデンマークはこれでいいのですか?」と
すると、このオルセン監督は
「我々の強さは練習を秘密にしたところで変わらない。絶対的な自信をもって試合にのぞむだけだ。何より、キャンプ地を提供してくれた和歌山の人たちが喜んでくれることはどんどんするべきなんだ・・・。試合も大事だが、この交流も大事にしたいと選手全員も言っている」

 どうですか、素敵な国であり、チームだとは思いませんか。
 なのに私たちのとった行動や言動はあまりにも軽率で恥ずかしいと思いませんか。


 次にトマソン選手のエピソードについてお話しましょう。
彼は、この大会で4得点をあげ、デンマークを決勝トーナメントに進出させた立役者です。
オランダリーグのフェイエノールトで活躍した小野選手と同じチームに所属した選手です。

 そんな彼が参加したある握手会での出来事であります。
子どもたちがサインを求め長蛇の列をつくっていました。
そのような中で、トマソン選手の前にある少年が立ち、少しモジモジしていました。
後ろに立っていた母親らしき人が彼を促します。
「ほら!早くしなさい!」
トマソン選手は、通訳を通じ「どうしたの?」とその少年に尋ねました。
意を決した少年はポケットから一枚の紙切れを取り出し、トマソン選手に渡しました。
それには英語でこう書いてありました。

「ボクは小さいころに、病気にかかって口と耳が不自由です。
 耳は聞こえません、話せません。
 だけどサッカーだけはずっと見てきました、大好きです。
 デンマークのサンド選手とトマソン選手が好きです。
 頑張ってください」と

 その手紙に通訳も、その場にいた記者たちも驚き、言葉も出なかったそうです。

しかし、トマソン選手はニッコリと微笑み少年にむかって
「それなら君は手話はできますか?」と手話で語りかけたというのです。
その『言葉』に驚く少年と母親
再度、トマソン選手は聞きます。
「手話はわかりませんか?」
それを見ていたある人がトマソンに選手に英語で
「ミスタートマソン、手話は言語と同じで各国で違うんですよ」と伝えました。
多くの人が手話を万国共通と勘違いしますが、国によって違うのです。
「そうだったのか...」という顔をしたトマソン選手はすぐに通訳にこう言いました。
「ボクは彼と紙で、文字を通して話をしたいのですが手伝ってください」と
微笑んで「わかりました」と答える通訳
トマソン選手は
「後ろの人たちにも彼と話す時間をボクにくださいと言っておいてください」
このやり取りを見ていた後ろで順番を待つ人たちは、何も文句を言わなかったそうです。

そして通訳を介し、少年とトマソンの『会話』が始まりました。

「君はサッカーが好きですか?」
「はい。大好きです」
「そうですか。デンマークを応援してくださいね」
「はい。あの聞いていいですか」
「いいですよ。何でも聞いてください」
「トマソン選手はどうして手話ができるんですか?正直、ビックリしました」

この少年の質問に彼は答える

「ボクにも君と同じ試練を持っている姉がいます。
 その彼女のためにボクは手話を覚えたんですよ」と
 その彼の言葉をじっくりと読む少年。
そしてトマソン選手は少年に言いました。
「君の試練はあなたにとって辛いことだと思いますが、
 君と同じようにあなたの家族も、その試練を共有しています。
 君は一人ぼっちじゃないという事を理解していますか?」
この言葉に黙ってうなずく少年
「わかっているなら、オーケー!
 誰にも辛いことはあります。君にもボクにも
 そして君のお母さんにも辛いことはあるのです。
 それを乗り越える勇気を持ってください」

 このやり取りを見ていた母親は号泣したそうです。
この光景を見ていた周りの人たちも涙したというのです。

 そして、トマソン選手は最後に少年にこう言いました。
「ボクは今大会で1点は必ず獲ります。
 その姿を見て、君がこれからの人生を頑張れるようにボクは祈っておきます」
この言葉に、少年は初めて笑顔を浮かべながら、
「はい!応援しますから、頑張ってください」と応えました。

 そして、サインをもらい、その場をあとにする少年と母親。
その母親は目に涙を浮かべてこう言ったそうです。
「あんなことされたらデンマークを応援しないわけにはいかないですよ。
 日本と試合することになっても、私らはデンマークを応援しますよ」と


 この大会でトマソン選手は少年との約束を守り、得点を決めました。
1点どころか、彼は4得点という大活躍だったのです。

他国の一人の少年との約束を守ってくれたトマソン選手とそれを育てたデンマーク。
日本人以上に武士道の精神を持ったデンマークと浮かれるだけの日本。

これでいいのでしょうか?

なんくるないさ~

2010年06月24日 21時39分40秒 | ちょっといい話
 先日、TVを観ていてお笑いコンビ“ガレッジセール”のマネージャーの話が紹介されていました。
 その話とは、そのマネージャーのミスでガレージセールのゴリさんを予定していた沖縄行きの飛行機に乗せることができず、結果的には4時間半も空港に待たせることとなったというのです。
その間、マネージャーはゴリさんに平謝りしたそうです。
でもゴリさんは、そのことについて一言もマネージャーを責めずに、「他のルートがないか考えよう」と言ってくれたそうです。

 そして、先乗りして一人で舞台をつないでいたもう一人の川田さんに電話連絡したところマネージャーに、「なんくるないさ~(沖縄の方言で「なんとかなるよ」という意味)」と言っただけだというのです。
ガレッジセールは沖縄出身で二人は中学校のときにコンビを結成しました。
どこか沖縄の人が持つ明るさや楽天的なところが出ていて、素敵なコンビです。
でも、元来、沖縄の人が持つ気質は、単に南国だからということだけでなく、戦争という悲しい出来事を乗り越えてきた人間の本質的優しさに裏づけされたものではないでしょうか。

 人は誰でも失敗します。
その失敗を責めることは簡単です。
でも、失敗していちばん悔やんでいるのは誰でもない、失敗した当人なのです。
ですから、ガレージセールの二人のとった行動や言動はすばらしいと思います。

 
 今日、私は休みをもらって母を病院に連れて行きました。
 いつも検査の後、「どうやった?」と質問します。
 いつも返す言葉は、「なんともないよー」です。

誇りがあれば生きていける

2010年06月22日 21時51分34秒 | ちょっといい話
 法政大学大学院政策創造研究科教授の坂本光司さんの講演を聴いたことがあり、その話に吸い込まれて、あさ出版から出ている「日本でいちばん大切にしたい会社」を1巻・2巻まとめ買いしました。

 その中に、「樹研工業株式会社」の紹介がありました。
 その内容は、ある社員が重い病気にかかり三年間闘病生活を続け、結局は病院で息を引き取ったそうです。
 その間、同社はこの社員に対して病に伏せる前年の年収を16で割り、毎月、前年と同じ月給を支払い、夏と冬に二か月分のボーナスを支給したそうです。
どんなに厚遇している企業でも半分くらいしか支給されない中で、これは破格の待遇でしょう。

 また、同社が立派だったのは、この支払い方法であると坂本さんは言いいます。
そのお金を銀行振り込みや家族に取りに来させるのではなく、毎月、その社員の枕元まで現金を届けたというのです。
そして奥さんは、ご主人の枕元からありがたく家に持って帰られたそうです。

 ある時、坂本さんは、同社の松浦社長にこのことをたずねました。
松浦社長は、
「人間、誰でも運悪く交通事故にあったりします。ましてや、その人が死んでしまったとするならば、いちばん困るのはあとに残された家族です。会社で、どんな盛大な社葬を上げたとしても、その家族の生活が楽になるわけではありません。社員だけではなく、家族もわが社の仲間ですから」と応えられたといいます。

 実は、私も高校二年のときに父親が仕事中の事故で亡くなり、盛大な社葬を上げてもらいました。
そして、勤続年数にかけた見舞金が支給されました。
ただ、父親は何度か転職をしていましたから勤続年数は短いものだったため、当時の交通事故死の保険金と比べても三分の一以下だったと思います。
家族にとって一家の大黒柱を失うことで、どれほど生活が困窮するかは身を持って経験しています。
それだけに、同社の姿勢は頭が下がります。
何よりも、病床のご主人からお金をもらう奥さんの気持ちは、「うちの主人はこんなにも会社から感謝されているんだ。これほどまで主人は会社に貢献したんだ」と誇りに思います。
実は、この「誇り」こそが家族にとってのそれからの人生の糧になるのです。

 形のない「誇り」が時として生きるためのエネルギーになるということを感じた素敵な話だったのでご紹介しまた。

ゴルフがダメでも人生はダメにならない

2010年06月17日 23時27分24秒 | ちょっといい話
 Associe(日経ビジネス)の06/15号にプロゴルファーの宮里藍さんの話が出ていた。
 宮里さんのデビューは華々しかった。
それだけに2007年夏からの深刻なスランプは、彼女を長く苦しめた。

 その原因は、彼女の武器だったショットの安定性と正確性よりも海外へ出て目の当たりにしたパワーヒッターに惑わされ、飛距離を求めたスイングの改造をしたためと言われる。
そして、この試行錯誤が元来の彼女の持ち味を消し去ってしまったというのである。

 しかし、彼女は復活する。
その復活は、彼女自身の「らしさ」を取り戻したことにあるという。
まず、ピア・ニールソンとリン・マリオネットの指導を受けることから始まった。
2人の特徴は「感性重視」にあるという。
選手自身にとって心地いいスイングを追及する。
この方法論が宮里の心を開放したという。

 父の言葉も大きかった。

  「ゴルフがダメでもおまえの人生は不幸せではない」

とても素敵な言葉だと思う。
父親だからこそ、娘がどこで悩んでいるのか痛いくらいわかっていたのであろうし、傍で彼女を見続けていたからこそ出てきた言葉であろう。

 こうして、「ゴルフだけが人生じゃない」と悟った時、心に余裕が生まれたという。
そうなると、自分を支える人の顔も見えてきた。
素敵な家族、友人、マネージャー。
そうか、私は幸せなんだ...。

 人生には何度かの苦難がある。
時に人生の分岐点の時もある。
でも、苦しいからといって逃げても何の解決にもならない。
苦しいからこそ、試練なのである。
苦しいときこそ、前を向いて、胸を張って進まなければならない。
進むうちに、不思議と道は拓けてくる。

 そして、人はぜったいに一人ではない。
誰かがどこかで支えてくれている。
失敗したら、スタートラインに戻ればいい。
それでもダメなら、ちがう競技に変ればいい。
人生、やり直しができないというが、人に「感謝」の気持ちを持ち続ければ何とかなる。

 

誰でも、誰かを支えてる。

2010年06月14日 21時34分30秒 | ちょっといい話
 ある大企業の人事担当部長の話。

 その部長は、リストラ担当部長で、組織のためと思ったら非情と言われようとリストラを断行したといいます。
ときには下請け企業にもリストラについて口出しをしていたというのです。
彼は、その行動を正しいと信じ、なんの迷いもなかったというのです。

 それが、あることからリストラが会社にとって決していいことではないと経営者の幹部たちに進言し、説き伏せたというのです。
 そして、リストラから苦しくとも社員を大切にする会社に生まれ変わってから、その企業の業績は上向きになったというのです。

 その出来事とは、ある社員の話です。
彼は真面目で、確実に仕事をこなすのですが、スピードが遅い。
人事異動のシーズンになると必ずと言ってもいいほど、名前が挙がるが社内でも有名で、どの部署からも敬遠されることはあっても取り手がみつからないというタイプでした。
結局、毎年、現状維持というとになります。
思い余った部長は、リストラのリストに彼の名前を書き込んだそうです。

 そして、それを内示する直前に行われた社内運動会に出たときのことです。
お昼休みに、その社員が家族とお弁当を広げて食べていました。
彼は、部長に気づかない様子でした。
好奇心で気づかれないよう傍に近づいていき、家族の会話を盗み聞きしたそうです。
勝手に、会社で信頼されていない彼が、家庭でも同様なのだろうと思ったからです。

子どもの声が聞こえてきました。
「今日は本当に楽しいね」
すると奥さんが
「そうよ、これもパパのおかげよ。
 パパがこんな大きな会社に勤めてくれて、毎日がんばってくれているおかげよ。
 みんなで、パパにお礼を言いましょう」と言ったそうです。
子どもたちは声をそろえて
「パパ、ありがとう!!」
続けて
「そして、パパを雇ってくれている会社にもお礼を言いましょう」
「うん、パパを雇ってくれてありがとう!!」

それを聴いた部長は、思わず植木に身を隠して声を押し殺して泣いたというのです。
例え仕事場で支えられる側であったとしても、家庭では家族を支える人であるんだと。
そのことに気づいてから、その部長は人が変った様にさまざまな部署に出向き、さまざまな人に声をかけていくようになったというのです。

 私も去年、ある組織の統合を経験しました。
その中で事務事業の見直しをすることになりました。
主管課には、何割かの業務を引き取って欲しいという話が持ち込まれました。
私はこのことに頑(かたく)なに「引き取れない」と反発しました。
 何度も担当課長と担当者が足を運んでくれましたが、答えはいっしょでした。
 部下たちの中には心配して、「私たちのことを思っているなら、私たちもがんばりますから引き取りませんか」と言う者まで出てきました。
 何回目かの時、担当者のプロパー職員が「課長さんらしくありませんね。課長さんは、仕事に対して常に前向きに取り組まれるという話を聴いていましたが、矛盾していませんか?」
「はい、どう思われようが結構です」
それを聴くと彼は顔をあからさまにそむけるようになりました。

後日、その担当課長さんが一人で見えられ、「らしくないなあ~」と言うのです。
私は、憤りました。
「あなたは本当に部下のことを考えていますか?」
「考えますよ。あなたなんかよりはるかに」
「そうですか、わかりました。ではすべての仕事を引き取りましょう」
「わかってくれましたか」
「わかりましたが、そうなるとプロパー職員はどこに配置されるのですか?
 この職場には席はありませんよ。
 それよりも新しい組織で仕事がないのに、どう雇うのですか?
 すべてクビにできるんですか?
 その人たちの家族はどうなるんですか?」
私は、つい声を荒げてしまいました。
相手は、真っ赤な顔をしてうつむいたままでした。
そして、彼は前言を撤回し、自分たちで引き続いてほとんどの業務を行うことになりました。

 そのやり取りを聴いたのでしょうか。
 どのプロパー職員も、私に挨拶をしてくれるようになりました。
 私は、組織人としては失格です。

 でも人を大事にしない組織に未来があるとは、私は思わない。