2000年から2010年まで非常勤ながら教員の立場で半分,IT業界の人間としてずっと高等教育機関に近いところにいる.
その前後でいわゆる「ゆとり教育」世代の切れ目も観てきたわけだが,私の中で世間の感覚とは少しずれがあるのを感じる.
私自身も数値で分析するし,先生方の分析も見せてもらったりもする.
その結果はそのうち世に出てくるようになるだろうが,結果からは確かに学術的な興味の低下や積極性の減少があるように見えるものが多いが,その結果から「ゆとり教育世代はダメだ」となる風潮はいかがなものかと思う.
彼らが受けてきた「ゆとり教育」は十分とはいえない検討を経て,教える側の責任逃れの馬ニンジン的な要素を残したまま実施されてきた.
だが,彼らのモチベーションや能力が低かったのかといえば,それは違うと私は言いたい.
実際に教えられたものは確かに範囲が狭い.
それゆえ,共通した苦手分野があるのを肌で感じるが,それは決して彼らの責任ではない.
そしてそのまま堕落したかといえば全く違う.
教育の現場で与えられた既存価値評価指標のための分野は以前ほど広くないが,その分,彼等は他のところにエネルギーを割いている.
情報系の技術や,資格に対する執着心にそれを感じる.
今の学生のスキルというのは,いかほどのものなのか,一般の人達はわかっているのだろうか?
将来への不安が生まれた時から根底にある状況で,彼らのひたむきさは,これまでの評価指標の外に飛び出している.
しかもそこに基準があるわけではない世界なので,それぞれの環境でまとまりのない伸びがある.
そのため,サンプリングされる機会が減り,既存価値評価指標の中では集団として良い評価が得られないが,評価指標自体を見直す必要があるし,既存価値の世界では彼らにチャンスを与えられなかった理念の抜けた「ゆとり教育」を言い訳にしてきた大人を恥じるべきだと思う.
そして指標が与えられないながらも頑張ってきた若者たちを正当に褒めるべきだろうと思う.
今の若者からはゆとりどころか焦りまで感じる.
そういう状況に追い詰めた「ゆとり教育」はどうあるべきだったのだろう?
私が考えるに,単にレベルを落とすのではなく,教える側の工夫か無駄の削減でもって時間だけを短くすればよかったのではないかと思う.
道を信じられる少しばかりの勇気と,チャンスさえ与えれば,彼等は絶対にものにしただろう.そのエネルギーを現場から感じる.
実力というものは,単に上を目指しているだけの時はなかなか伸びず,逆境を耐えきった後に気付けば伸びていた...そういうものだと体験的に知っている.
その点では彼等は多くのチャンスを得ているのかもしれない.
彼らが忌み嫌う「ゆとり世代」という言葉は,彼ら自身が今とは違う新しい良い意味をこれからつけていくことを私は結構ポジティブに信じている.
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