盆花といわれるオミナエシやキキョウであるが、こうした花もめっきり少なくなった。オミナエシはまだけっこう姿を見るが、それでも少なくなっているともいう。そこへいくとキキョウは、栽培されて庭先に咲くものはよく見かけるが、野に咲くものは極端に見られなくなった。草丈がせいぜい1メートル程度ということで、荒れ放題の野山では姿を消しても致し方ないかもしれない。どうしても雑草は管理されないと、草丈の高いものに占有されていく。とすればこうした1メートル以下の草花は、姿を消さざるをえない。かつては野山にあるものすべてが利用された。土手草に限らず、草原の草は家畜の餌として利用されたし、里山の雑木は焚き木などとして利用された。「かつては自然が豊かであった」という言い方は果たして正しいかといえば、必ずしも適正とはいえない。かつてはそうした自然に多くの人手が入って管理されていた部分が多い。
緑が多く、自然のままなら良いというものではなく、季節ごとに草や木が適度に利用されることによって、多様な自然模様を見せてくれたわけだ。このごろは、ただひとつの種を取り上げては貴重だから、とか保護しなくては、と言うが、総合的な人々の暮らしとのかかわりには視点が及んでいないのだ。いや、自然にかかわる専門の方々もそれは十分認識していて、そういう視点で説明しているものの、捉える側には実感が伴わなくなっていて(説明する側にも実感がないかもしれないが)結局「貴重」とか「保護」という視点にだけ注目してしまっているわけだ。かつては荒れていなかった野山を、今どうすることもできないという事実もある。耕作地ですら荒れ放題なのだから。意外にもそんな荒れ放題の水田で、常に湿地となっているような場所に、ほかにはない草花が残っていたりする。人のかかわりがこれほどまでに環境を変えてしまうということは、認識しなくてはならないことであり、いっぽう、保護を訴えてはいるが視点は違うのではないか、あるいは人々がもともと管理してきた環境がなくなった以上、それはわたしたちが選択したものであって、部分的な保護がそれほど意味があることなのかと、疑問を投げかけたくもなる。
さて、そんな疑問はともかく、先日も犬の散歩をしながら気がつくのは、キキョウが家の敷地で咲いている姿をみる。そのキキョウと野山に咲くキキョウはまったく一緒で、わたしには違いはわからない。しかしながら、自生するキキョウの個体数はかなり少ないといわれ、国のレッドデータブックでは絶滅危惧Ⅱ類、長野県版RDBでも準絶滅危惧種に指定されている。写真のキキョウも株としては二株だけ、妻の実家の裏にあるため池に咲いていたものである。裏の畑に管理しているキキョウがあるが、自生しいるものは、近所ではこの二株だけであった。ため池の斜樋階段の脇に咲いているもので、近くには魚をすくう網が落ちていた。このため池を訪れる人は少ないが、メダカがいるということで、採取に来る人がときおりいる。そんな人たちの目にとまって採られないだろうかと心配ではある。黄色くユウスゲが咲き始めていたり、ピンクのナデシコが咲いていたりするが、紫色の花はとくに目立っている。この土手はわたしも草刈をしたりして管理しているが、それでもキキョウの姿は稀だ。まさしく絶滅寸前なのかもしれない。
そんなことを思っていたら、東京伊勢丹の屋上に里山の花が咲いているといってテレビで放映していた。もちろんキキョウの姿もあった。なんのことはない、これらを見た人たちは、これが「里山」と勘違いすること必至である。
撮影 2006.7.22
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