「58災」と書いて「ごはちさい」と言う。過去の災害についてその発生年度を冠してこのように略して呼ぶことはよくある。とりわけ災害が発生すると仕事が忙しくなるほどそこに関わることの多いわたしの会社では、ごくふつうにこうした単語が発せられる。行政特有の略語ながら、このことは実際に災害に見舞われた地域においてもこうした単語はよく理解されている。この地域で最も典型的なものが「36災」であり、冒頭の「58災」も比較的認識度の高い災害名である。とりわけ「58災」は長野県内が広域に被災に見舞われた災害で、認識度はそれほど高くなくとも、県域で知られたものとしては、もしかしたら最も共通認識の高い災害だったかもしれない。本日記でも「台風10号」関連で「昭和58年台風10号」に記した。当時は飯山の出先で働いていたから、自分としては千曲川堤防決壊の記憶が強いが、実際に関係した仕事はまったく地域が異なる下伊那郡下條村であった。この「58災」がいかに広域的だったかを認識させてくれるのだが、わたしの生家近くでも大きな被害を被ったし、母の実家の果樹園も小さな水路が荒れて、果樹園下が流されてきた石で埋まってしまったという経験もある。
生家から父母の仲人であった家へは、子どものころよく通った。その道は鎌倉街道と言われる古い時代からの道を段丘崖下に沿って進み、十王堂沢という小さな沢を渡ると、寺坂と言われる坂を上って西岸寺というこの地域では大きな寺の前を通って歩いて行った。寺坂とは西岸寺の参道にあたる。途中に駒つなぎの松という松の木があって、これは分校時代にもよく仲間と歩いた道でもあった。十王堂沢を渡ったところには竹やぶがあって、その竹やぶの中に小さな祠があって、石のお地蔵さんが祀られている姿も、子どものころからよく記憶としてあった景色だ。この十王堂沢が荒れて、ちょうどお地蔵さんが祀られているあたりから下流の天井川が、流されてきた土砂で埋まって、溢れ出たという災害はこの「58災」にあたる。もちろん台風通過による時差はあるものの、同じ台風10号が引き起こした災害であった。十王堂沢が水害で見舞われたのは、昭和58年9月28日のことだった。
千成地蔵
この災害によってかつての十王堂沢の景色は変わった。記憶にあったお地蔵さんの祠も、改修された十王堂沢の脇に今は移転されている。このお地蔵さんは「千成(せんじょう)地蔵」と言われ、祠の前に西岸寺で掲げた説明板がある。そこには次のように書かれている。
縁起
三州ハギ村の出生にて千成と云へる比丘尼あり、この地蔵菩薩像を負ふて当地に来り金助宅にて厄介になり、その後利生庵にて堂宇を為し居り、同地蔵を背負て諸方を托鉢せり、然るに故あって偶々精神病に罹りし為、当所に穴牢を作って監禁すと。
同尼、天性温順にして正直なれば里人之を愍む、特に平常煙草、蕃椒を嗜めりしかば之を与えて慰む、時に同尼謝して云う、「吾逝ける後も供えたべ、さすれば如何なる難病も治し願望も必ず叶ふべしと」
斯くて日ならず六十四才を一期に黄泉の客となる。依て其侭此所に埋む、于時文久二年十二月九日なり、時人之を深く悼み、其上に此菩薩像を安置し、御堂を建立し以て其霊を弔う。然るに時移り星変り、遂に堂宇腐朽すること甚だし、因て有縁道俗浄財を募り茲に再建して供養を伸。于時 昭和九年九月一日
西岸寺
説明板は昭和9年に再建された当時のもののようだが、祠はわたしの記憶にあったものより新しいため、災害後に再々建されたものだろう。このお地蔵さん、台石と違ってその上の蓮華座から本体まで、青みのかかった石で彫られている。彫りもなかなかのもので、いわゆる守屋貞治の石仏にも匹敵する彫りではあるが、その作ではないよう。そもそも子どものころ何度と目にしていたお地蔵さんなるも、これほどの美品だったという記憶がまったくなかった。