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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

道祖神の獅子舞①

2018-03-25 23:49:22 | 民俗学

 先日「消えた道祖神」において、わたしの投稿記事に対して諏訪地方の事例を平出一治氏が報告していただいたことを記した。諏訪地方にも道祖神の獅子舞があり、現在も継続しているということは、平出氏の報告で知ることができた。その発端となった記事を「遙北」第74号(昭和62年5月4日発行)に掲載した。すでに30年以上前の例であり、その後獅子舞がどういう状況になっているかを確認したことはないが、当時の獅子舞は次のようなものであった。

 

道祖神の獅子舞
其の1 南相木・北相木村を中心とした道祖神祭り (「遙北」第74号 昭和62年5月4日発行) HP管理者

 南佐久郡南相木村と北相木村は、共に山をひとつ隔てた相木川流域にあたる。
 南相木村の多くの地域で、正月2日に獅子舞が行われ、一連の行事として「米かんじん」と言われる行事も行われている。
 によって行う時間に若干の違いはあるが、午前中に行われるのはどこも同じである。わたしが昭和62年に訪れたのは、加佐(かさ)という集落で、南相木村の中心である中島という集落と隣り合わせの集落である。
 ここでは午前5時半から「米かんじん」が始まる。昔はもっと早い時間に始めたというが、今は遅くなってきている。これはどこの集落でも同じようである。オンベ持ちを先頭に各家々をまわり、縁側から上り、神棚に一礼し、家の中を祓って歩くもので、はやし唄は次のようなものである。

 米かんじん 米かんじん
 年の始めの あくまっぱらい

これを繰り返して終わり、次の家へまわって行くのである。昔は男の子だけで行われていたというが、今は女の子も混ざっている。ことに加佐においては、男の子が2人しかおらず、寂しいものであった。40戸ほどまわり「米かんじん」が終わると、獅子舞が始まる。
 この「米かんじん」であるが、これをひとつの行事として呼んでいる地域は南佐久地方であるが、隣の北相木村には、オンベを持って家の中を祓っていく所作はあっても、「米かんじん 米かんじん」とはやすようなことは行わない所もあり、獅子舞との一連の関係から、とくに行事を「米かんじん」と言っている地域は少ないようである。
 「米かんじん 米かんじん」とはやして家の中をまわる折に、オンベの切れ端が落ちると、それを火の用心として大切にするという俗信がある。
 また、近くの中島や下流の地域などでは「米かんじん」がまわってくると、すぐ獅子舞もやってきて行われるという。加佐では子ども不足も手伝って、別々にまわってくるようになったのだろうか。とすると、「米かんじん」は獅子舞を行う前に、オンベでお祓いをする他所のものと同様のものであるのだろう。東信と言われる長野県東部には、このような獅子舞が多く残っているが、一般にオンベで家内をお祓いをして、次いで獅子舞に入る所作となっている。
 獅子舞は頭を持ち、太鼓ひとつでまわって来る。加佐では「米かんじん」と同じメンバーでやって来た。舞らしい舞はないが、頭の方は相撲の四股を踏むような格好をし、うしろに幌持ちがつく。大神楽獅子を原点にしたものである。はやし唄は次のようなものである。

 おししさんは
 二尺五寸のつるぎを持って
 悪魔を祓うとせ

加佐の獅子舞(昭和62年1月2日撮影)

 

 獅子舞が終わると家ではご祝儀を渡し、子供達は御符を配り、米をもらって行く。御符とともに「猿田彦命守護」と書かれた御札を配る。米は持ち帰り、宿で(今は公民館)ご飯を炊き、「おししのごはん」と言って各戸へ昼ごろ配ってくれるという。
 このご飯を配る風習も多く残っており、望月町春日本郷では、昭和20年前までおにぎりを作り、これを「ゴフー(御符)」と言って配っていたとも言う。
 また、「甘茶配り」といい、やはり一連の行事のひとつとして行われる所がある。加佐では行われないが、臼田町を中心とした地域ではあちこちで行われており、佐久地方一帯に残っている。獅子舞と同じ日に行われる所や、それに近い日に行われる所もある。
 加佐での獅子舞が終わった後、道祖神の所へ行ってみたが、「奉納道祖神」の幟が立ち、石祠型の道祖神が祀られていた。石祠の前には御符が供えられており、加佐の中島豊一さん(84歳)に聞いたところ、ここへ獅子舞が最初に訪れ、それから各家々へまわって行くのだという。

 加佐の獅子舞を見た後、南相木川を下ると、各所で獅子舞をしているところであった。北相木村へ移動し、相木川を遡ると、もう正午近くであったので、獅子舞は終わった様子であったが、山口の山野宮近くに子供達がいたので聞いてみると、箱瀬という所に2軒あり、そこへ舞に行くというので、拝見しようとついて行ってみた。
 ここでは中学1年が親方となり、その家が宿になっているという。そして今でも男の子だけで行われており、子供組としてのかたちが残っている様子がうかがわれた。やはり、子供の多い地区では、よくそのかたちが残されていることがわかる。
 まず家に行くと、「あくまっぱらい あくまっぱらい」とはやして、オンベを振りながら家の中を左回りに飛び回り、次いで獅子舞になる。

 この子は 今年はじめて
 おししの舞だ
 今日のおししのあくまっぱらい
 おはらい繁盛
 ばんばんざい

と唄って舞をするが、やはり舞というほどのかたちは残っていない。舞が終わると「奉謹請道祖神札子供中」という御札を渡し、かわりにみかんやお菓子をいただいて来るのである。申し合わせでご祝儀はやめにしている様子であった。
 すべての家をまわった後、山野宮へお参りし、オンベを奉納して終わる。
 ここでも神楽を引いてまわるということはしていない。
 以上、実際の現在の祭りの状況を見てきたが、佐久地方の獅子舞の源流はどこなのかと考えた。道祖神の祭りとしての獅子舞があっても、氏神様のまつりには獅子舞は無いという。一般的に獅子舞というものは、神社などの祭礼に行われるが、これほど多くの獅子が道祖神の祭りだけに残っている点が不思議でならない。これらについては追って調べていきたいと思っている。

「道祖神の獅子舞②」

 


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