ひと筆めぐり 【新発見・再発見・摩訶不思議・唯一無二】への楽しみ…

地域に息づく歴史のひと幕にふれ、…遥かなる往時に思いを馳せる

埴生城主屋敷跡に江戸初期の銘が…

2020-03-07 | 石仏
江戸初期の元和(げんな)二年の銘に…足がとまる。
埴生(はぶ)地区の檀那寺である最福寺(曹洞宗)。寺墓地沿いに蛇ケ谷川が流れ、鋼鉄橋を渡り右山裾沿いへ進むと埴生城主・野々口屋敷跡へ…。その昔の道は四尺道(約1.2m)、この道こそ中世の埴生城集落の中心道、要の道であった言われている。
今回は橋より左へ…少し下る。すると石造物が散乱(転がっている)しているのが目に入る。一石五輪塔や墓碑、五輪塔の笠等。往古、お墓だったと思われます。
その一基の基礎部に「造立年、戒名、月日」が刻まれている。石英閃緑岩(花崗岩)の硬い石を使っているが、風雪にさらされ風化が激しく…解読は超難解である。各部の文字が浮かび上がり…何とか解読可。江戸初期(1616)!に造られたことが分かる。五輪塔の基礎石上面の少しむくりを付けた複弁返花が印象的、木漏れ日を受け浮き上がる。丹波の山裾を歩いていると…400年前の歴史の幻想に立っことがしばしば…。
元和二年 明徳真珠大姉 九月六日
むくり付き複弁返花

この「明徳真珠大姉」は野々口西蔵坊にゆかりのある、大姉(人物)的な存在であったかは…定かでない。今後の調査課題とする。墓碑の規模からして、地域的支配権(影響力)を持った女子であったとみてよいのでは…

江戸時代の往来手形(通行手形) 

2020-03-06 | 古文書
西国三十三巡礼の『往来手形一札』
江戸時代、人の移動は厳しく制限されていました。そんな中、神社仏閣を巡る信仰目的の旅であれば概ね許されていたが、身分を証明する往来手形(通行手形)が必須であった。庶民の場合は村の檀那寺が身分の証明をしています。ここに『往来手形』の文書を解読してみましょう。
往来手形一札
『一 丹波州桑田郡春日部村 男二人 女五人〆て七人   宗旨は代々禅宗にて当寺旦那にまぎれ御座なく候 しかる処 この度心願につき西国順礼 神社順拝に罷り越申し候 所々御関所相違なくお通し遣わされくださるべく候 万一病気死等つかまつり候節は 御国村方にてもお世話なし下さるべく候 同行のもの共より願いの通りおとりはからい頼み入れ申し候 依って往来手形一札件の如し  
安政三年辰年  丹州桑田郡春日部村 三月日   曹流寺 国々 所々御関所 御役人中 村々宿々 御役人中』
(新修亀岡市史 資料編第二巻より)
<殿谷の西国三十三所巡礼碑は、死を覚悟した旅であり無事成就が出来た喜びの碑でもある>

一石五輪塔 徳生寺(曹洞宗)

2020-03-05 | 石仏
徳生寺の一石五輪塔

徳生寺の境内の植え込みの中に、五輪塔、三界萬霊碑等がある。そのところに『一石五輪塔』が四基程見ることができる。
見る限り年月を経てきたことがわかる。古いものだと…、『室町中期頃~』のものと推察されます(牽強付会にならないように、以下塔の背景を…)。

五輪塔は平安中期頃から、地域的支配権を持つ者の供養塔・墓石として造られたのが始まりで、財力のない庶民は造れませんでした。時代は室町中期に入り、一石(角柱)を削りだし簡略化され比較的安価な一石五輪塔が造られるようになる。これにより庶民層にも極楽浄土信仰が爆発的に広まっていきます。近畿(五畿内)に存在する一石五輪塔は数多ある、1尺5寸(約45センチ)、2尺(約60センチ)、2尺5寸(約75センチ)の三種類がほとんどです。この一石五輪塔の地上部を実測すると55cmでした。一部、土の中に入っています。二尺塔(60㎝)の一石五輪塔でしょう。和泉砂岩製の石を使い産石地で整形されたものとおもわれます。石の町、旧東能勢村(現大阪府豊能郡豊能町)の一石五輪塔は、ほとんど和泉砂岩製のものを使っています。数年前、一年かけ悉皆調査をした。

地蔵堂の沓脱台石 園部町殿谷

2020-03-04 | トレーニング
石の重さを…調べてみょう!!

徳生寺(曹洞宗)の地蔵堂の『沓脱台石』の重さを測ってみた。普段気にしない、どこにでもある平べったい石です。この重さを計算で出してみた。ちょっと頭のトレーニングを…


長さ×幅×厚さ×比重で石の重さがでます。
1.15 * 0.82 * 0.27 * 2.65 * 0.8 =0.539t

※(注)台石は扁平石なので?…石は正方形で1に対し、石の角が取れないため0.8として計算する。
又石により比重は違います。大谷石は約1.7ぐらい。一般的には2.65で計算すると、およその重さが分かります。
沓脱台石は約540kgとなりました。


<徳生寺(曹洞宗)の地蔵堂>

腰かけ石と観音さん 園部町 殿谷

2020-03-03 | 伝承
園部町の昔話と伝説
園部町には伝承や昔話・伝説が沢山残っています。
その昔、この地域の言い伝えを信じられ、親から子へ孫へと伝えられてきた伝承文化です。又伝統や習慣等を伝え、今に残っている所でもある。これらは地域の中で生まれ結びつき、信仰と関係するものも多くある。今も地域に残っている殿谷の『腰かけ石と観音さん』を訪ねてみた…


<石はほとんど土の中に埋まっている。縦、幅、厚さは!、道の拡幅により忘れられてしまった感じ…>


国道477に沿って流れる本梅川が流れ、本梅橋を渡り旧の殿谷へ…道沿いに伝承の石がある。
『昔、殿谷の八五郎という人が、殿谷峠の下のしる田を掘っていると、一人のお坊さんが通りかかりました。お坊さんは八五郎さんに「私は疲れて足が痛くて歩けません。若森まで送ってくれませんか」とたのまれました。八五郎さんはお坊さんをおぶって送ってあげました。大きな石のあるところまで来ると、「もうここでよい。」と、言われたので、大きな石の上に下ろしました。お坊さんは、「決して私のことを心配して、後ろを向いてはいけません。」と、かたく言いました。八五郎さんは気になるので、少し歩いては止まり、少し歩いては止まりして、そろっと後を向いてしまいました。すると、若森の観音さんの方へ白羽の矢が一本飛んでいきました。八五郎さんは、かたい約束を破ったために目が悪くなり…見えなくなりました。若くして死んでしまいました。
若森の観音さんと、神田(八木町)のお宮さんは親せきだそうです。』
旧園部町立西本梅小学校、昭和49年卒業生の昔話と伝説より。この石には、殿谷の人は大切にし、腰を掛けたり足を置いたりは絶対しない、また正月には注連縄で飾っていたそうですが、今はされていないようです。幾星霜を経ている。