拝む心
拝む姿は宗派に問わず美しく清らかものであります。
有情非情生きとしいけるものありとしあらゆるものを、すべての人々を分け隔てなく
神、佛の顕れてとして合掌礼拝することが人間本来の姿であります。
動物等には合掌の心、姿は見られません。合掌の生き物が人間であります。
拝み合いの生活は戦争も争いも無い、与え合いの天国極楽浄土の世界であります。
人の長所だけを讃嘆するのでなく、その人の欠点を含めて、全てを礼拝讃嘆することが愛であり、
また吾に石を投げたり、誹謗中傷し迫害する人でも軽んじないで貴方がたは佛のさとりを開く人であるから
心から、ただ礼拝讃嘆することが常不軽菩薩の教えであります。
『礼拝』は仏教辞典には恭敬・信頼の心をもって敬礼すること。
礼拝の種類として、発言慰問・俯首示敬(ふしゅしけい)・挙手高揖(きょしゅこうゆう)・合掌平拱(がっしょうへいく)。
屈膝。長踞・手膝踞地・五輪倶屈・五体投地の九種類がある。
その中の五体投地が最高の敬礼法であると説かれている。
『礼念』は佛を礼拝し、憶念すること。念じ、礼拝すること。
『合掌』は両掌の指をそろえ合わせて拝むこと。心をこめて、相手に信頼する態度の表現。
人間の中にある神聖な面と不浄な面とを合一したところに、人間の真実の姿があるという考えの現れである。
天台では右手は報身佛、左手は応身佛をあらわす。
密教では第七に当たる金剛合掌の外十二種類に分類されている。
堅実合掌・虚心合掌・如来開運合掌・初割蓮合掌・顕露合掌・持水合掌・帰命合掌
反叉合掌・反背互相著合掌・黄柱合掌・覆手向下合掌・覆手合掌。
法華経常不軽菩薩品 第二十
何の因縁を以ってか常不軽(じょうふきょう)と名づく。
是の比丘、凡そ見る所有る、若し比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を皆悉く礼拝讃嘆して是の言を作さく、
我深く汝等を敬う。敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、當に作佛することを得べしと。
而も是の比丘、もっぱら経典を読誦せずして、但だ礼拝を行ず。
乃至遠く四衆を見ても、亦復、故らに往いて礼拝讃嘆して是の言を作さく、
我敢て汝等を軽しめず、汝等皆當に作佛すべきが故に。
常不軽菩薩は乞食僧、托鉢僧の出家僧、在家の信者等のすべての人々を合掌礼拝し、誉め讃え、軽んじないで、
心から敬ったのです。
その故はあなた方は皆、佛の尊い生命を具えた人であり、人を導き救い給う菩薩の道を行じている人であるからです。
釈迦の経を読誦しないでただただ合掌礼拝を行じたのです。
遠くに見えている出家、在家の衆を分け隔てなくまたまた合掌礼拝して、
我は汝等は既に佛の悟りを開いているが故に汝等を軽んじないのです。
『注』
作佛(さぶつ)…佛のさとりを開くこと。
比丘、比丘尼(びく、びくに)…乞食、托鉢僧。出家僧。
優婆塞、優婆夷(うばそく、うばい)…在家の信者。
四衆(ししゅ)…比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四種類の信者。出家、在家の衆。
拝む姿は宗派に問わず美しく清らかものであります。
有情非情生きとしいけるものありとしあらゆるものを、すべての人々を分け隔てなく
神、佛の顕れてとして合掌礼拝することが人間本来の姿であります。
動物等には合掌の心、姿は見られません。合掌の生き物が人間であります。
拝み合いの生活は戦争も争いも無い、与え合いの天国極楽浄土の世界であります。
人の長所だけを讃嘆するのでなく、その人の欠点を含めて、全てを礼拝讃嘆することが愛であり、
また吾に石を投げたり、誹謗中傷し迫害する人でも軽んじないで貴方がたは佛のさとりを開く人であるから
心から、ただ礼拝讃嘆することが常不軽菩薩の教えであります。
『礼拝』は仏教辞典には恭敬・信頼の心をもって敬礼すること。
礼拝の種類として、発言慰問・俯首示敬(ふしゅしけい)・挙手高揖(きょしゅこうゆう)・合掌平拱(がっしょうへいく)。
屈膝。長踞・手膝踞地・五輪倶屈・五体投地の九種類がある。
その中の五体投地が最高の敬礼法であると説かれている。
『礼念』は佛を礼拝し、憶念すること。念じ、礼拝すること。
『合掌』は両掌の指をそろえ合わせて拝むこと。心をこめて、相手に信頼する態度の表現。
人間の中にある神聖な面と不浄な面とを合一したところに、人間の真実の姿があるという考えの現れである。
天台では右手は報身佛、左手は応身佛をあらわす。
密教では第七に当たる金剛合掌の外十二種類に分類されている。
堅実合掌・虚心合掌・如来開運合掌・初割蓮合掌・顕露合掌・持水合掌・帰命合掌
反叉合掌・反背互相著合掌・黄柱合掌・覆手向下合掌・覆手合掌。
法華経常不軽菩薩品 第二十
何の因縁を以ってか常不軽(じょうふきょう)と名づく。
是の比丘、凡そ見る所有る、若し比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を皆悉く礼拝讃嘆して是の言を作さく、
我深く汝等を敬う。敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、當に作佛することを得べしと。
而も是の比丘、もっぱら経典を読誦せずして、但だ礼拝を行ず。
乃至遠く四衆を見ても、亦復、故らに往いて礼拝讃嘆して是の言を作さく、
我敢て汝等を軽しめず、汝等皆當に作佛すべきが故に。
常不軽菩薩は乞食僧、托鉢僧の出家僧、在家の信者等のすべての人々を合掌礼拝し、誉め讃え、軽んじないで、
心から敬ったのです。
その故はあなた方は皆、佛の尊い生命を具えた人であり、人を導き救い給う菩薩の道を行じている人であるからです。
釈迦の経を読誦しないでただただ合掌礼拝を行じたのです。
遠くに見えている出家、在家の衆を分け隔てなくまたまた合掌礼拝して、
我は汝等は既に佛の悟りを開いているが故に汝等を軽んじないのです。
『注』
作佛(さぶつ)…佛のさとりを開くこと。
比丘、比丘尼(びく、びくに)…乞食、托鉢僧。出家僧。
優婆塞、優婆夷(うばそく、うばい)…在家の信者。
四衆(ししゅ)…比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四種類の信者。出家、在家の衆。