夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

神は恐れを与え給はないのですから、如何なるときにも恐れることはないのです。

2016年04月15日 22時22分25秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
神は恐れを与え給はないのですから、如何なるときにも恐れることはないのです。

今回の地震のようにある日ある時間に突然運命は訪れることを知らされました。
勤務先の病院で私が取り扱っている有毒であるエチレンオキシドガス薫蒸消毒装置が稼動中であり、
安全の為地震への対応すべく、自宅から当直の施設係りへ直通の電話を入れましたが、
電話が込み合っていて、なかなか繫がらず、相当時間が経ってから連絡が取れました。
後に施設係から連絡が入り異常は無いとの事でした。
ガス漏れ警報器が装備してありますが、このような時には電話も当てには出来ない事が思い知らされ、
自らが現場へ足を運ぶことが大切であることを教えられました。




平らな地面に二十㎝幅程の線を引いて、その中からはみ出さないで、真っ直ぐ歩けと言われたら、
誰でもはみ出さないで歩く事が出来ますが、しかし同じ幅の道が断崖絶壁の高さにあり、
その上を落ちないで歩く事はなかなか困難であります。
それは下の深い谷底を見て、落ちたら大変なことになると思うと体の平均を失って落ちてしまいます。
平らな地面では体の平均を失わないのに、断崖絶壁の高さでは体の平均が失われるのは、
恐怖で『心の平均』が失われてしまうからです。
『心で落ちるかも知れない』と思うから落ちるのです。
水泳でも水に溺れると云う恐れがなくなると人間は水に浮くのであります。
恐れると云う事はどのような事でありましょうか。
例えば高いマンションから下を見ると落ちるかもしれないと恐れます。
フェンスも何も無いと足が震え本当に落ちたりします。
落ちるかもしれないと恐れたのは、実際に落ちた事よりも先に思ったのです。
実際に起こっていないときに恐れて、その恐れた通りに落ちるのです。
このように恐れるのは、まだ実際にもの事が出てきていない時に恐れるのです。
恐れを無くすには、恐れているものは、実際には、まだ来たらないものは、今、此処には無いものであることを知ることであります。
想像の恐怖であります。
自分の心で自分自身を落とし入れ、自分自身で恐怖を描き自分自身が恐れるのです。
そして恐れたものを招きいれ苦しむのです。
神は恐れを与え給はないのです。


われ歳きはまりて安養浄土に還帰すといへども和歌の浦わの片雄波、よせかけ々々還らむにおなじ、
一人居て喜ばはニ人と思ふべし、二人居て喜ばは三人と思ふべし、一人は親鸞なり。
 
                                                    親鸞上人