侘寂菜花筵(わさびなかふぇ)

彼岸の岸辺がうっすらと見え隠れする昨今、そこへ渡る日を分りつつ今ここを、心をこめて、大切に生きて行きたい思いを綴ります。

松庵寺最古の墓石!?

2010-05-04 20:37:28 | Weblog
丸大会イン箱根で大内家のルーツをご披露する為に兄から聞きとりを調査したのが縁で、概ね6代前の肝煎り市兵衞さん(天明4年[1784年]生まれ、安政7年[1860年]没までは
確実に辿ることが出来た。それにしても、様々なドラマが浮き彫りになってくるものだ。時代の変遷と共に家そのものも大きく変化をとげてきたことがこのご先祖を辿ることでありありと見えてきた。三代前のシマおばあさん(嘉永元年[1848年]生まれ、大正11年[1922年]は相当の女丈夫であったらしい
温厚な笑顔の遺影が仏間にかざられているが、どうして、どうして、夫である義助さんの存在がうすまるほど印象的なエピソードも多々残っているらしい。明治維新であまたの武士が浪人になり、職を求めている時代、その浪人達を束ねて、北海道に渡る。この開拓時代に人足を束ね、労働力を提供するような仕事をしてある程度の財を得て、その財を元に明治20年[1887年]まづは豆腐屋を開業し、随時納豆、あぶらげ、コンニャク、もやしというように広げていったようだ。それまでも宿屋業や高利貸し的な事も併業していたようだが、丁寧に良い食べ物を骨身を惜しまず働いて提供する仕事をこそ専業にすべきと判断したのも
シマさんだったようだ。
 シマさんと義助さんには初代栄助だけが男の子であとは4人の女の子をもうけたようだ。
 この女性達がやがて新たなファミリーをつくり、枝葉を広げていく、、
 今ならドラマや芝居になりそうな出来事がこの家族にも起こっていたことも
 調べていく内に解った。
このシマおばあさんの4人の娘の孫に当たる人も自分たちのルーツを確認しておきたいと私を訪ねてこられた。
 このようなことは共時的におこることなのだと感慨深い。
 その方とは今回初めてお目にかかったが、何故かやはり血のつながりを感じて暖かい思いがするものだ、、                                           


最期の日は盛岡のおじ様のお参りもしたいと願い、従兄弟の稔さんの新居や家督をとっている本家の孝男さんのところへも
お尋ねした。
 盛岡に近づくにつれ、岩手山が近づいてくる。

 そして岩手県庁前の石割桜にも初めて出会った。






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