この書は書道をしている友人が私への心得として書いて下さった禅語、 です。
侘びの美の本質を理解する鍵と「新版一行物」の著者 芳賀幸四郎氏は
言っておられる。
花看半開 酒飲微醺 (菜根譚)
花は半開を看(み) 酒は微醺(びくん)を飲む
花は半開を看(み) 酒は微醺(びくん)を飲む。
大いに佳趣あり。若し爛漫・(もうとう)に至らば、
便ち悪境を成す。盈満(えいまん)を履(ふ)む者、宜しく、之を思うべし。・・・
茶道の理念としての侘びは、完全円満で均衡のとれた美を止揚した不完全、不均衡の美
感覚的な優艶華麗の美を止揚した精神的な簡素枯淡の美、複雑豪奢な美を止揚した
寡黙清貧の美などの複合したものである。
このことは宮沢賢治の
わたしたちは氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや
羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
わたくしは、そういうきれいなたべものや、きものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、
虹や月あかりからもらってきたのです。
後略
さらに徒然草の著者吉田兼好(1282~1350)様は
「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」
とて、未開の美、半開の美、落花の美、残花の美を暗にたたえた一段(第百三十七段)もある由。
明の時代の洪自誠の著した「菜根譚」よりも遙かに以前の1330年頃に「徒然草」は成立しておるそうだ。
私たち大和の民は、「菜根譚」以前に花の満開の美よりも半開の美を高次だとする
感受性をはぐくんでいたということであり、 それを又後代の兼好ならぬ賢治さんが
ひきついでいた、、というわけ、、
そして、その更に後の同じく賢治さんと同郷のワタクシメもひきついでおるわけで、
この屋を侘寂菜花筵というのであります、、コホン
暖房がんがんかけるよりも、重ね着して 炭火でほのかな暖かさを
楽しむのも乙なもの。
炭火に手をかざしてあたたまるのもうれしいし、今度は焼き網を載せてお餅も焼こう!っと