未知との遭遇ー「フィルム・アーカイヴの重要性」
はじめに
シラバスに記されているとおり、まさに技術的特質を学ぶ三日間であった。が折々に挟まれるエピソードは非常に興味深く、どれもが映像化されて、脳裏に刻まれた。
映像についての話にとどまらず、非常に含蓄のある深い気づきを喚起する内容であり、三日間で終了してしまうことが残念でならなかった。
「ハッタリヤ!生駒山さん」「千葉湾岸倉庫でのフィルム整理」は脳裏に映写しつつ人にも語りたいほどのヒューマン・ドラマであった。
3日目にはすっかり、フイルム・アーカイヴに関して、自分にも何か出来ることがあるのならしたい、と居ても立ってもいられない思にかられていた。
丁度、フィルムセンターが開館した頃、東京国立博物館美術書コーナーの担当をしていた関係で、月毎の映画上映会の入場券が手に入り、頻繁に通った時期があったのだが、当節は単純に美術品を展示するのと同じように、過去の映画を上映する事のみが目的だと思っていた。あの頃観た映画はすでに不燃性フィルム・アセテートに焼き直されていたものであったのだろうか。
廃棄プラスチックの問題が囂しい昨今、劣化し廃棄された夥しいまでのフィルムは果たして適切に処理・処分されたのかも気になるところではあった。産業廃棄物扱いになるのだろうから処理するのにも相当の費用がかかるわけで、持ち主によっては、それを免れるために不法投棄したものもあったのでないかといらぬ想像までしてしまった。
何事においても、一つの事を成す為には別な犠牲が払われることもあり、如何に環境への負荷低減をしていくかも、課題の一つなのではと感じた。
映画の歴史、それも日本に於ける映画史はユニークだ。
かつての日本舞踊の師、栗島すみ子 事水木紅仙先生は銀幕の大スターであったとは聞いていたが、この日本の映画創世記に大きな役割を果たしていたことに改めて刮目し在りし日の華やかな佇まいが思い起こされた。が、訳あって晩年はとても惨めに過ごされた時期もあったと聞く。たえず回りを明るく、華やかにして下さる方だっただけに、生涯を美しく華やかなまま過ごしていただきたかったと弟子ならば誰もが思った事だった。
また、日本ならではの伝統芸能である歌舞伎が大きく寄与していたことや、何よりも特筆すべきは活動辯士の存在であろう。彼らには日本のトーキーを遅らせる程の力があったというのだから驚きである。
七五調の美文を連ねる歯切れの良い口上は日本人の体質には大変心地良い響きをもたらし、ジンタが流れ、活動写真が始まる。熱狂するのは必定であったろう。
1. 創業期をになった人々
筆頭にあげられるのは「頗る非常!」を連発し、怪人活弁士の異名をとる駒田好洋氏 であろう。巡回興行の草分けとも言える彼は、北は北海道から南は九州鹿児島まで巡業して回った。その道中での出来事を「巡業奇聞」「続話巡業奇聞」として新聞掲載している。
初期の映画興行はもっぱら見世物としての位置づけにあり、興行師のもとで命脈をつないでいた。
稲畑勝太郎がリュミエール社 から買い取ったシネマトグラフが日本で初公開された明治30年。当時の人々は布に映し出された人物が動くというこれまで見たことも聞いたことも無いまさに見世物に驚き、喜びを禁じえなかったであろう。
一所に定まっての興業が難しい状況も手伝っての巡業ではあっても、交通の便もままならぬ時代に全国津々浦々を総勢8~9名で日本発の活動写真を届けたことの意味は大きい。
しかも彼は「頗る非常!」を連発する大風呂敷で見てきたように語る大天才でもあった。行く先々で多くの人々を煙に巻き、活動大写真のおもしろさをまさに「広目屋」独立後も大いに広めて歩いたことは全国津々浦々の訪問先に強い印象を残していることからも明らかである。時期を同じくして、地道な実質本意の営業をしてまわったのが横田永之助であった。彼は後に日活の社長となる人である。
活動辯士の活躍はまさに映画そのものを凌駕する勢いで、辯士がやり良いように映画すら作り替えると言うことがあったというくらいだからその人気振りが伺える。
「(前略)明治の日本映画はどこまでも演劇の代用だとしかおもわれていなかったし、
(中略)活動館の興行価値はスクリーンの中の俳優よりもその脇に立っている実在の人物の上に偏した。これは明らかに映画芸術の上での変則的な長い時期であった。」
昭和二年のデーターで、全国の辯士数は五千七百四十三人とある。「全国活動写真弁士番付(大正三年九月新版)」には合計百七十人の写真がならべられてあることからも如何に弁士が活動写真の支え手であったかがみてとれる。
日本の芸能史を振り返るに、常に語るという文化があった。文楽、歌舞伎、能、狂言、落語、浪曲、講談、どれもが語る事を抜きには語れない。物語を語る、聞くということに他民族には無い強い憧憬があるように思う。物語の始めといわれる竹取物語も源氏物語も語り聞かせる事が前提にあった。子ども時代には絵本の語り聞かせや紙芝居で心や魂を育てるように大人になっても、物語を好む傾向がある。
この体質が映画の歴史の中ではトーキーを遅らせる要因になってしまったようだ。
初期のトーキーは言葉も判然とせず、流麗な弁士の解説を聞く方がましだったことも一要因でもあろうが、活動辯士や楽隊員にとっては死活問題でもあり、ストライキ、労働争議にまで発展し、中々スムーズにトーキーへの移行が計られなかったようだ。「映画発達史」 過渡期の人々に詳しい。
大衆にささえられたものであり、一部インテリゲンチャーには眉を潜ませた現象であるにせよ、活動写真の一時代をになった弁士の存在はある意味とても大きな事だったと思う。
2. 全てが貴重
国際フィルム・アーカイブ連盟(FIAF)会長の岡島尚志氏はフィルムの多層構造を説明するときに寿司を引用する。 ベースの層はシャリ、乳化剤(感光剤)の層はネタ、接着剤はワサビ、コート剤は煮きりじょうゆ。シャリにはビネガー(酢)が含まれているから「ビネガーシンドローム」と呼ばれるフィルム劣化につながる。大変理解しやすい引用だ。
彼が代表を務めるFIAFの70周年記念マニフェストのスローガンは
「映画フィルムをすてないで!」 だ。
まさに「 映画フィルムは、わたしたちの文化遺産の欠くことのできない一部であり、また、わたしたちの歴史と生活のユニークな記録ともなっています。フィルム・アーカイブは、公的なものも私的なものも、そうしたフィルムを収集し、安全に保管し、文書化し、現在の人々と未来の世代とが、研究のためあるいは楽しみのために、それらを利用できるようにすること」 の重要性を知る事が出来る。これまで全く意に介さずにいた世界の窓が開かれた思がする。
フイルムセンター所蔵の「紅葉狩り」が2009年に、今年も引きつづき「史劇 楠公訣別」が重要文化財指定となり、映画保存ということの重要性にスポットが当てられる良い機会になったとおもう。
民族文化映像研究所を創立した姫田忠義氏 は日本列島における民族文化の基層を映像で記録してきた方だ。
沖縄映像文化研究所を設立し、神の島「久高島」を撮り続けている大重潤一郎監督が
おられる。又、六カ所村を撮った鎌仲監督など興味深い映画監督達の映像を観るにつけてもこれらの作品は今後どのように保存されていくのだろうかと気になるところだ。
殊に姫田氏の映像は多岐に渡る。一部は紀伊国屋書店からDVDにして販売はしているものの保存という視点はおありになるのだろうか、と俄に気になりだした。映画フィルムは捨ててはならないのだ、とは言え保存するにも空間的に限界があるのではないか、デジタル化も決して万能とは言えないようだ、など気になるところだ。
3.私たちに出来ることは?
収集・保存・復元のプロセスは実に気の遠くなる忍耐のいる作業であることを知るにつけただ憂慮するだけの素人には何も役に立てる事は無いのかと思っていたところ「映画保存協会」の存在を知った。小さな試写会などを入り口にして、気にかかる事へのアプローチも含め、何か出来ることを模索してゆきたい。
マツダ映画社の活動もユニークだ。残存する無声映画を復活活動弁士が語る映画鑑賞会等を開催している。日本の話芸をこのような形で継承することも貴重な事だ。紀伊国屋ホールで公開される折に行ってみようと思う。
そして何よりも、近代美術館フィルムセンターである。身近なところにある公共機関にかつてのように足繁く通ってみたいと思う。
又、若い人たちにもかつての日本の文化を知る縁にしてもらえるよう、機会を捉えて
案内したい。
おわりに
映画の世界の深さ、拡がりに実に圧倒される思がする。無限の切り口がある。そこには常に活き活きとした人間の息づかいが聞こえてくる。
映画は単に文学的に、芸術として愛されるのみならず、多層な構造をもっている。創世記からの映画史をほんのチョットかいまみただけでもものすごいボリュームだ。今に至るまでの映画史を辿る時あまたの人々のドラマティックな歴史が刻まれている。
そこには人生を知る上での貴重な事が凝縮されているようにも思えた。
これまでに無い感慨を引き起こしてくれた映画に、そしてそのように映画理解を深めてくれたことへも感謝をしたい。
はじめに
シラバスに記されているとおり、まさに技術的特質を学ぶ三日間であった。が折々に挟まれるエピソードは非常に興味深く、どれもが映像化されて、脳裏に刻まれた。
映像についての話にとどまらず、非常に含蓄のある深い気づきを喚起する内容であり、三日間で終了してしまうことが残念でならなかった。
「ハッタリヤ!生駒山さん」「千葉湾岸倉庫でのフィルム整理」は脳裏に映写しつつ人にも語りたいほどのヒューマン・ドラマであった。
3日目にはすっかり、フイルム・アーカイヴに関して、自分にも何か出来ることがあるのならしたい、と居ても立ってもいられない思にかられていた。
丁度、フィルムセンターが開館した頃、東京国立博物館美術書コーナーの担当をしていた関係で、月毎の映画上映会の入場券が手に入り、頻繁に通った時期があったのだが、当節は単純に美術品を展示するのと同じように、過去の映画を上映する事のみが目的だと思っていた。あの頃観た映画はすでに不燃性フィルム・アセテートに焼き直されていたものであったのだろうか。
廃棄プラスチックの問題が囂しい昨今、劣化し廃棄された夥しいまでのフィルムは果たして適切に処理・処分されたのかも気になるところではあった。産業廃棄物扱いになるのだろうから処理するのにも相当の費用がかかるわけで、持ち主によっては、それを免れるために不法投棄したものもあったのでないかといらぬ想像までしてしまった。
何事においても、一つの事を成す為には別な犠牲が払われることもあり、如何に環境への負荷低減をしていくかも、課題の一つなのではと感じた。
映画の歴史、それも日本に於ける映画史はユニークだ。
かつての日本舞踊の師、栗島すみ子 事水木紅仙先生は銀幕の大スターであったとは聞いていたが、この日本の映画創世記に大きな役割を果たしていたことに改めて刮目し在りし日の華やかな佇まいが思い起こされた。が、訳あって晩年はとても惨めに過ごされた時期もあったと聞く。たえず回りを明るく、華やかにして下さる方だっただけに、生涯を美しく華やかなまま過ごしていただきたかったと弟子ならば誰もが思った事だった。
また、日本ならではの伝統芸能である歌舞伎が大きく寄与していたことや、何よりも特筆すべきは活動辯士の存在であろう。彼らには日本のトーキーを遅らせる程の力があったというのだから驚きである。
七五調の美文を連ねる歯切れの良い口上は日本人の体質には大変心地良い響きをもたらし、ジンタが流れ、活動写真が始まる。熱狂するのは必定であったろう。
1. 創業期をになった人々
筆頭にあげられるのは「頗る非常!」を連発し、怪人活弁士の異名をとる駒田好洋氏 であろう。巡回興行の草分けとも言える彼は、北は北海道から南は九州鹿児島まで巡業して回った。その道中での出来事を「巡業奇聞」「続話巡業奇聞」として新聞掲載している。
初期の映画興行はもっぱら見世物としての位置づけにあり、興行師のもとで命脈をつないでいた。
稲畑勝太郎がリュミエール社 から買い取ったシネマトグラフが日本で初公開された明治30年。当時の人々は布に映し出された人物が動くというこれまで見たことも聞いたことも無いまさに見世物に驚き、喜びを禁じえなかったであろう。
一所に定まっての興業が難しい状況も手伝っての巡業ではあっても、交通の便もままならぬ時代に全国津々浦々を総勢8~9名で日本発の活動写真を届けたことの意味は大きい。
しかも彼は「頗る非常!」を連発する大風呂敷で見てきたように語る大天才でもあった。行く先々で多くの人々を煙に巻き、活動大写真のおもしろさをまさに「広目屋」独立後も大いに広めて歩いたことは全国津々浦々の訪問先に強い印象を残していることからも明らかである。時期を同じくして、地道な実質本意の営業をしてまわったのが横田永之助であった。彼は後に日活の社長となる人である。
活動辯士の活躍はまさに映画そのものを凌駕する勢いで、辯士がやり良いように映画すら作り替えると言うことがあったというくらいだからその人気振りが伺える。
「(前略)明治の日本映画はどこまでも演劇の代用だとしかおもわれていなかったし、
(中略)活動館の興行価値はスクリーンの中の俳優よりもその脇に立っている実在の人物の上に偏した。これは明らかに映画芸術の上での変則的な長い時期であった。」
昭和二年のデーターで、全国の辯士数は五千七百四十三人とある。「全国活動写真弁士番付(大正三年九月新版)」には合計百七十人の写真がならべられてあることからも如何に弁士が活動写真の支え手であったかがみてとれる。
日本の芸能史を振り返るに、常に語るという文化があった。文楽、歌舞伎、能、狂言、落語、浪曲、講談、どれもが語る事を抜きには語れない。物語を語る、聞くということに他民族には無い強い憧憬があるように思う。物語の始めといわれる竹取物語も源氏物語も語り聞かせる事が前提にあった。子ども時代には絵本の語り聞かせや紙芝居で心や魂を育てるように大人になっても、物語を好む傾向がある。
この体質が映画の歴史の中ではトーキーを遅らせる要因になってしまったようだ。
初期のトーキーは言葉も判然とせず、流麗な弁士の解説を聞く方がましだったことも一要因でもあろうが、活動辯士や楽隊員にとっては死活問題でもあり、ストライキ、労働争議にまで発展し、中々スムーズにトーキーへの移行が計られなかったようだ。「映画発達史」 過渡期の人々に詳しい。
大衆にささえられたものであり、一部インテリゲンチャーには眉を潜ませた現象であるにせよ、活動写真の一時代をになった弁士の存在はある意味とても大きな事だったと思う。
2. 全てが貴重
国際フィルム・アーカイブ連盟(FIAF)会長の岡島尚志氏はフィルムの多層構造を説明するときに寿司を引用する。 ベースの層はシャリ、乳化剤(感光剤)の層はネタ、接着剤はワサビ、コート剤は煮きりじょうゆ。シャリにはビネガー(酢)が含まれているから「ビネガーシンドローム」と呼ばれるフィルム劣化につながる。大変理解しやすい引用だ。
彼が代表を務めるFIAFの70周年記念マニフェストのスローガンは
「映画フィルムをすてないで!」 だ。
まさに「 映画フィルムは、わたしたちの文化遺産の欠くことのできない一部であり、また、わたしたちの歴史と生活のユニークな記録ともなっています。フィルム・アーカイブは、公的なものも私的なものも、そうしたフィルムを収集し、安全に保管し、文書化し、現在の人々と未来の世代とが、研究のためあるいは楽しみのために、それらを利用できるようにすること」 の重要性を知る事が出来る。これまで全く意に介さずにいた世界の窓が開かれた思がする。
フイルムセンター所蔵の「紅葉狩り」が2009年に、今年も引きつづき「史劇 楠公訣別」が重要文化財指定となり、映画保存ということの重要性にスポットが当てられる良い機会になったとおもう。
民族文化映像研究所を創立した姫田忠義氏 は日本列島における民族文化の基層を映像で記録してきた方だ。
沖縄映像文化研究所を設立し、神の島「久高島」を撮り続けている大重潤一郎監督が
おられる。又、六カ所村を撮った鎌仲監督など興味深い映画監督達の映像を観るにつけてもこれらの作品は今後どのように保存されていくのだろうかと気になるところだ。
殊に姫田氏の映像は多岐に渡る。一部は紀伊国屋書店からDVDにして販売はしているものの保存という視点はおありになるのだろうか、と俄に気になりだした。映画フィルムは捨ててはならないのだ、とは言え保存するにも空間的に限界があるのではないか、デジタル化も決して万能とは言えないようだ、など気になるところだ。
3.私たちに出来ることは?
収集・保存・復元のプロセスは実に気の遠くなる忍耐のいる作業であることを知るにつけただ憂慮するだけの素人には何も役に立てる事は無いのかと思っていたところ「映画保存協会」の存在を知った。小さな試写会などを入り口にして、気にかかる事へのアプローチも含め、何か出来ることを模索してゆきたい。
マツダ映画社の活動もユニークだ。残存する無声映画を復活活動弁士が語る映画鑑賞会等を開催している。日本の話芸をこのような形で継承することも貴重な事だ。紀伊国屋ホールで公開される折に行ってみようと思う。
そして何よりも、近代美術館フィルムセンターである。身近なところにある公共機関にかつてのように足繁く通ってみたいと思う。
又、若い人たちにもかつての日本の文化を知る縁にしてもらえるよう、機会を捉えて
案内したい。
おわりに
映画の世界の深さ、拡がりに実に圧倒される思がする。無限の切り口がある。そこには常に活き活きとした人間の息づかいが聞こえてくる。
映画は単に文学的に、芸術として愛されるのみならず、多層な構造をもっている。創世記からの映画史をほんのチョットかいまみただけでもものすごいボリュームだ。今に至るまでの映画史を辿る時あまたの人々のドラマティックな歴史が刻まれている。
そこには人生を知る上での貴重な事が凝縮されているようにも思えた。
これまでに無い感慨を引き起こしてくれた映画に、そしてそのように映画理解を深めてくれたことへも感謝をしたい。