昭和19年、青梅の大養蚕農家を買い、およそ10年ほど、この吉野村に英治さんは家族と共に暮らしておられたそうだ。
養蚕業の盛んな頃の農家は大層羽振りもよかったようで、瀟洒な洋風建築の離れがついていた。
後付で英治さんが拵えたのかとおもいきや、当初からついていたのだそうだ。
この書斎の床の間に懸けられたあったお軸が「吾以外皆我師」英治さんの座右の銘。
そしてお床に置かれてあったのがお釈迦様の誕生仏。
英治さんがお使いになっていた当時と全く同じにしてあるのなら
この取り合わせは英治さんのお好みと言えるのでしょうが、真偽の程は、事務長さんに伺って見たけれど
定かではなかった。
後の何方かのお好みで配したものなのか、、
何かとてもアンビバレンツな取り合わせでそれがかえって面白いと言えば面白いのだけれど、、
英治さんは東京大空襲で学徒動員の養女園子さんを亡くされた。大層溺愛していた
お嬢さんだったらしい。 なんども吉野村から東京へ出向き必死の捜索をしたのだとか。
そして終戦。
その後二年間英治さんは筆を断つ。彼は自己処罰の時をおくったのだという。
当時の句
恥ずかしや昭和二十之秋の月
いくさやみぬや鶯もなきいてよ
作家の心情が伝わってくる。
奥様には「自分は忘れられてしまいたいんだ」と漏らすこともあったらしい、、
吉野村の方々とは随分と深く関わり、小学校の生徒達を庭先に呼んで
話をしたりもしたそうで当時英治さんからいただいた色紙を今も大事に
もっておられる方もおられるようだ。
しかし、年々歳々、来館者は減っているようだ。
又吉川英治その人を知らない若者層もふえてきているとか。
これまでのように、資料保存や遺品等の品々を展示しておくだけでは
もはや文学館の持続可能性は危うい。
どのような運営形態にするのかも含め、多様な角度から
もう一度その意義を問い、その意義を遂行するために
日々文学館はどのようにふるまうべきか、、熟考するとき、、のように思う。
それは何も文学館に限らず、美術館、博物館にも言えることだ。
その場しか持たない貴重なアウラをいかにして世の人々に伝えるか、、
徳田秋声という名は聞いたことはあるが、これまで何一つ読んだことが無かった。
アマゾンで検索すると、なっなっなんと一円!
信じられません!徳田秋声さんの記念館は石川県金沢市にある。
一円という価格の意味するものはなんなのだろう。
読まれていないということの証しなのか。
小説の辿る運命と文学館のそれが全く同じとは言えまいが、
かつての文豪も時代と共に忘れ去られていく。
そこでどうするかだ。
秋声の小説「新所帯」は確かにおもしろくはあった。
世代的にも気分が解る、情景も思い浮かぶ、人間模様も
リアルに伝わる。
人の描き方になんだか紫式部さんと相通ずるものを感じた。
かなり客観的に突き放して観察しながらかきわけている。
その人となりが嫌らしいほど巧みにえがかれている。
人の不条理を描いて啐がない。
胸苦しくなるほどだ。
でもなんだか目が離せない。
久々に読書を楽しんだ気にさせられた。
そう、文学は面白い、魂を強靱にしてくれる要素がありそうだ。
文学館を持続可能性のある場にしょう!
文学を読もう!
概ねの文学館の総数は2000位らしい、、
吉野村の語り部さん、、
沢山、沢山お話がありそうだったが、ゆっくりお伺いも出来ずゴメンナサイ!
現代美術家 戸谷茂雄氏のインスタレーション。
玉川兄弟の上水事業を想起させられた。